アップダウンクイズ

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アップダウンクイズ
ジャンル クイズ番組
放送時間 日曜日19:00 - 19:30(30分)
放送期間 1963年10月6日 - 1985年10月6日(1084回)
放送国 日本
制作局 毎日放送
出演者 歴代司会者
市村俊幸
小池清
西郷輝彦
歴代出題者
小池清
長田淑子
市毛毬子
佐々木美絵
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アップダウンクイズ(Up-Down Quiz)は、1963年10月6日から1985年10月6日までの毎週日曜日19:00 - 19:30(JST)に毎日放送制作、ロート製薬一社提供日本航空の協賛で放送されていたテレビクイズ番組である。

放送開始から1975年3月30日放送分まではNETテレビ(現:テレビ朝日)系列の一部で放送されていたが、同年4月6日放送分以降はネットチェンジに伴い、TBS系列で放送された。

この番組は、毎日放送がラジオ単営局・新日本放送時代の1952年から6年間放送されていた『近鉄パールクイズ』がベースになっている。

目次

[編集] 番組概要

解答者6名が解答席であるゴンドラに乗り、次々読み上げられるクイズを早押し・対抗形式で競い、10問正解(10段まで上り詰める)でハワイ旅行と賞金(初期は20万円、後に10万円)獲得になる。

クイズに正解すると解答者の乗ったゴンドラが1段上昇(アップ)、誤答すると位置に関わらず最初まで下降(ダウン)するルールだった。

1963年10月6日喜劇俳優市村俊幸の司会、当時毎日放送アナウンサーだった小池清の出題でスタートした。市村はロート製薬が当時発売していた胃腸薬「シロン」のイメージキャラクターであり、前年1月から放送していた同じロート製薬一社提供の前番組『私はナンバーワン』の司会者でもあった。

半年後の1964年3月29日放送分で市村が降板[1]、翌週4月5日(第29回)放送分より小池が司会に昇格、出題を同じく毎日放送アナウンサー長田淑子が務めることになった。その後、出題者は1971年4月11日放送分から市毛毬子、さらに1972年11月19日放送分から佐々木美絵(いずれも毎日放送アナウンサー)が担当、以後「小池司会・佐々木出題」で11年間に渡り親しまれた。

番組のカラー放送移行は、1969年10月5日放送分からである。また、最終回まで一貫して音声多重放送は行われなかった。

出題者は冒頭の挨拶と問題読みだけであって、ABCテレビパネルクイズ アタック25』のように、賞品等の紹介は一切なかった(同じロート製薬一社提供のTBSクイズダービー」も出題者は問題読みのみ)。

朝日放送から毎日放送へのTBS系列ネットチェンジに伴い、1975年4月6日放送分から、TBS系列での全国放送に移行した。折しもTBS系列放映第1回がちょうど600回となり、「600回記念・クイズ天狗タレント特集」が放送された。

1983年10月で放送20周年を迎えるのを機にリニューアルすることとなり、同年9月25日放送分(第1004回)で小池が降板した(あくまで本人の意思によるもの)。同年10月9日放送分(第1005回)[2]から俳優西郷輝彦が司会となった(出題は佐々木が引き続き担当)。番組タイトルも『新アップダウンクイズ』に変わったが、“新”は半年で消えた(但し、ゴンドラセット上の看板には「新」はついていなかった)。

番組の収録は、毎日放送千里丘放送センター第1スタジオで行われていた[3]。また、収録は隔週木曜日に2回分まとめて行われた(うち1回は3日後に放映)。なお末期は土曜日に収録された。

毎日放送が関西ローカルでプロ野球中継を放送している日は系列キー局(NET→TBS)及び番組ネット局向けに裏送りで放送していた。

同番組の最高視聴率は1969年2月2日放送回の39.2%(関西)、同年5月11日の27.1%(関東)が最高(いずれもビデオリサーチ調べ)。1967年4月21日には日本民間放送連盟賞を受賞している(他にも受賞歴あり)。

タイトルロゴは五荘千尋が手がけたものである(他の毎日放送制作番組も全国ネット・関西ローカル問わず多くの番組タイトルロゴを手がけている)。

[編集] 番組のキャッチコピー

キャッチコピーは「ハワイへのご招待。10問正解して、夢のハワイへ行きましょう!」。後に海外旅行が大衆化して「夢」で無くなった1970年代前半からは、「ハワイへのご招待。10問正解して、さあ、ハワイへ行きましょう!」に改められた。

10問正解の賞品が海外旅行であることから、日航が協賛していた[4]。「♪ロート…」のオープニングキャッチ前に、19:00の時報とともにカウキャッチャーとして、日航のCMJALPAKなど)が放映されていた。また、オープニングテーマ曲が流れているときにも「協賛 日本航空」と表示された。

[編集] 番組冒頭の挨拶など

小池が司会を務めていた時代は、 「ハワイへのご招待。10問正解して、さあ、夢の(「夢の」のフレーズは1970年ごろまでだった)ハワイへ行きましょう!ロート製薬がお送りするアップダウンクイズ、私は司会の小池清でございます。」に続き、

小池 「問題を読むのは佐々木さんです。」

佐々木 「皆さん、今晩は。佐々木美絵です、どうぞよろしくお願いします。」

(なお、後期は「問題を差し上げます、佐々木美絵です」とアナウンス)という挨拶で番組が始まった。

当初はオープニングテーマ曲が流れ終わるとゴンドラの前に立ち、上半身を画面アップ状態で挨拶をした。

1976年秋頃にゴンドラが一部変更されてからオープニング曲も変更され、司会者席に座り挨拶をするようになった。

解答者の紹介が終わると、小池時代は、 「それでは、日航機によりますハワイ旅行を目指して、大いに頑張っていただきましょう!!」という台詞で一問目に入った。(司会が西郷になってからは「日本航空で行くハワイをめざして、皆さんしっかり頑張って下さい!」と言っていた。)

西郷が司会となってから、タイトルコール・出場者紹介と結果発表のアナウンスを、当時毎日放送の新人アナウンサーだった柏木宏之が担当した(翌年に降板)。

末期は西郷の「ロート製薬提供、アップダウンクイズ!」のオープニングコール[5]に続き、テーマ曲が流れる。司会者と出題者の挨拶は普通の形になっていた。出場者の自己紹介をやったこともある。

なお、ネットチェンジ後、TBS系列での2回目の放送となった1975年4月13日[6]放送分では、番組冒頭に小池が 「それでは、先週からご覧になっている皆様に、ここで簡単にルールをご説明いたします。」と挨拶した。これはネットチェンジでネット局が増えたことから、新しく見始めた視聴者への配慮をしたためだと思われる。

また、次回の予告(ゲスト大会等がある回のみ)と番組終了時、吉田智子・MBSアナウンサー(当時)による 「アップダウンクイズ 第○○○回を終わります。提供はロート製薬でございました。」というアナウンスもおなじみだった。[7] (終了時のエンドカードは、ブルーバックに「アップダウンクイズ」の白抜きタイトルロゴが配され、画面左下に白抜き明朝体で“終”と書かれていた)
これは1984年4月頃から最終回までは、「アップダウンクイズを終わります。」に変わった。

番組のクレジットタイトルは、1970年代までは「アップダウンクイズ 終」のエンドカード前に、青地に白抜きゴシック体で「構成*堤章三 音楽*○○○○」と入るのみだったが、ゴンドラが色分けされてからは番組エンディング時にスタッフロールナールフォントで左方向に表示されるようになった。

[編集] ルール

全国各地から毎回6人の視聴者(または特集などでペア6組[8])が解答メンバーとして出場、早押しクイズに挑戦する。見事10問正解すると、日航で行くハワイ旅行と賞金10万円(放送開始当初は20万円)を獲得できた[9]

一般参加の場合、実際には「北海道・東北」・「関東」・「中部・信越」・「近畿」・「中国・四国」・「九州」の6地区から筆記クイズ・面接による厳正な予選[10]を経て各地区1人ずつ出場するケースが多かった。

1問正解のたびに解答者席のゴンドラが1段ずつ上がったが(一部の問題では2段、または3段上がった場合もある)、不正解(お手つき・誤答)の場合は正解数にかかわらず一番下まで下がってしまい(ただし、一時期あった解答者全員参加の「三択クイズ」(サービスクイズとも言っていた)については誤答でもゴンドラ降下のペナルティーはなかった)、これを2回犯したら失格(「お出」=しおれた感じのBGM音楽も流れる)となり、画面左に設けられた失格者席に座らされた。失格者は解答者全員が早押しできなかった場合(いわゆるスルー。トントンの音が10回(小池時代末期は6回)鳴った後に不正解のブザーが鳴る。西郷時代は電子音で8つの音階があがり、電子音でブザーが鳴る(不正解時のものとは別)。)、あるいは他の人が誤答した場合にのみ解答権があり[11]、正解するとゴンドラに戻ることができた(「お戻り」=明るいファンファーレBGMが流れる)。「お戻り」になるとそれまでの不正解数はリセットされた。なお『新アップダウンクイズ』初期には「お出」・「お戻り」のペナルティを設けていなかったが(西郷が「間違えれば落ちますが、失格はありませんので…」と言ってた)、タイトルから「新」が消えた1984年4月より元に戻った。

1度の不正解で1問正解だろうと9問正解だろうと即0点に戻ってしまう厳しいルールが特徴だったが、正誤の判定はかなり甘かったらしい。解答についても他の番組に比べ多少長い時間待ってもらえたり、司会者の裁量で言い直しが認められたことがあるという。また、早とちり・お手つきをしても問題内容によっては正解が出る前に司会者からその続きを読むこともあった(答えが複数ある場合など)。特に小池が司会だった時代には多く見られた。とはいえ、ダメージも大きく、特に7段階から9段階あたりで0点になると、放送時間の関係上、良い成績が残せなかった。中にはショックの余り、失神して最後まで解答できなかった人もいた。

問題は本選・予選問わずハイレベル・難問が比較的多く、間違いが許されない真剣勝負であるのも番組の特徴。それゆえに高度な知識はもちろん、的確・迅速な判断力がなければクイズを制覇できなかった。

10問正解のコツは、まず解答権を早く得るトレーニングを繰り返し練習すること、収録直前あたりの新聞に隅から隅まで目を通すこと(特に毎日放送の母体紙である毎日新聞からはスポーツ、文化関連を中心に幅広く出題されていた)、そして毎週番組を見てもらうことだと当時の某プロデューサー[誰?]が語っていた。

西郷時代後期(1984年10月〜翌年8月頃まで)は、連続(3段階)勝ち抜き方式で、1週目・10問正解すると1人でのハワイ旅行獲得と賞金10万円獲得、2週目・20問正解するとペアでのハワイ旅行と賞金20万円獲得[12]、3週目・30問正解でペアでのアメリカ西海岸と賞金30万円獲得、さらにゴールデンカップが授与された[13]。但し、西郷時代末期のゲスト特集は自動的にハワイ旅行・賞金10万円であった。

この番組(10問正解・ハワイ旅行獲得)とテレビ朝日の『クイズタイムショック』(パーフェクト達成)、フジテレビの『クイズグランプリ』(優勝)での3つのクイズ番組を制した挑戦者はいわゆる「三冠王」[14]、「クイズ荒らし」といわれた。また、「クイズマニア」と言われるきっかけも作った。

出場者募集の宛先は毎日放送[15]ではなく、ロート製薬の本社がある大阪生野局区内だった(理由は後述)。また、クイズ荒らし防止の観点から、一度番組に出場すると3年間は応募できなかった。

[編集] クイズの内容

開始当初は基本的に一般問題中心だったが、てこ入れとして次のようなコーナーも登場した。

[編集] シルエットクイズ

1967年2月26日放送分から登場。番組の目玉コーナーといわれ、最終回まで続いた。これはかつてNHKで放送された『私の秘密』、『それは私です』のコンセプトを取り入れたものといえる。なお当初は「ゲストクイズ」という名称だった。

ゲストをシルエットで見てもらい、3つのヒントから当てるもので、正解すると第1ヒントなら3段、第2ヒントなら2段、第3ヒントなら1段ゴンドラが上がった。第1ヒントはゲストの性別と職業、第2ヒントは簡単な経歴、第3ヒントは具体的なことだったが、後に第1ヒントはシルエットのみに改められた。第3ヒントではシルエットが横向きになった。

ゲストは歌手俳優タレントなどの芸能人、プロ野球選手・大相撲の力士・プロボクサーなどのプロスポーツ選手、その他政治家作家評論家芸術家漫画家など、時の話題の人たちがゲストとして呼ばれた。 但し、スポンサーがロート製薬一社だった関係から、放送当時に同業他社の広告に出ていた人は、ゲストとして呼ばれなかった。

当初は開始音楽やテロップは無かったが、TBS系全国ネット後(推定)からセットをバックに開始のジングルを流した。ゴンドラが色分けされてからはジングルを行進曲のファンファーレ調に変更すると同時に、「シルエットクイズ」とテロップが出る様になる(構成は上に「シルエット」、下に「クイズ」)。そして西郷時代には、ジングルを一新し(ファンファーレ調では無い)、シルエットをバックにテロップが出る様になった(構成は右上がり一直線に「シルエットクイズ」)。また小池時代は、ジングル→説明→問題という順番だったが、西郷時代は説明→ジングル→問題という順番になり、説明は小池時代よりも少なくなった。

[編集] ラッキークイズ

シルエットクイズと同時期に登場。ボーナスクイズの一つで、毎回ゲスト本人から出題された。正解するとゴンドラが2段上がった。

当初はシルエットクイズに続きゲストに関係する問題を3問、そしてゲストへのインタビュー後にこのクイズという流れだったが、ゴンドラが色分けされてからは最終問題となった。

[編集] 目で見るクイズ

1966年8月7日放送分から登場。画像を見ながら答えるもので、2問出題(この問題のみ問題を読み上げる出題者の顔を見ることができた)。

1問は絵を見て当てる三択、もう1問はある物の部分をスライドで5枚見てもらい、それが何かを当てた。後に、アシスタントがホワイトボードに線を描いて道府県や島の名前を当てる問題、有名人の顔写真を分解したものを見てもらいそれが誰かを当てる問題、VTRを見て都市や島、建造物の名称を当てる問題なども追加された。司会が西郷になってからは内容が一部変わった。

[編集] 音楽クイズ

3問出題で形は固定されており、1問目はジャンルを問わず曲の「題名」を、2問目は流されている歌謡曲の「歌っている人」を、3問目は「作曲者」や「歌詞の続き」を答えるものだった。

西郷時代は「サウンドクイズ」と言うタイトルで、当初はいろんな音を当てる問題だったが、後に音楽に戻っていた。 また、出題は3問まとめて行われていたが、西郷時代の末期になると番組中のどこかで出題されるようになっていた(「ではここで、〜をお聞きいただきます」で開始。直前の問題と関連した問題として出題されることもあった)。

[編集] イエス・ノークイズ

1975年から数年間あった。5問出題され、設問が本当か嘘かを当てる問題。簡単そうな問題だが「引っ掛け問題」もあり、間違えて0点になったり「お出」になる人も多かった。

[編集] テーマクイズ

小池が司会だった時代にあり、季節の事柄や行事話題などを5問出題した。そのうち2問に必ず音楽に関する問題が出された。

[編集] ご当地クイズ

1975年10月12日放送分から設けられた。出場者の居住地にまつわる話題にちなんだ問題が出されるが、解答権は全員にあった。ゴンドラが灰緑1色時代は後半に行われたが、色分けされてからは前半に出題された。小池時代の末期に新しいクイズコーナーと入れ替えで廃止。

[編集] 小学生クイズ

小池時代末期にあった、小学生視聴者からの投稿クイズ。当然ながら、クイズは小学生レベルの問題だった。投稿者には、番組特製の置時計(左に時計、右には番組セットのミニチュア)がプレゼントされた。なお問題読み上げは、初期は佐々木出題者が担当していたが、後期は投稿者の肉声で出された。1982年12月26日放送の「年忘れ・東西落語家特集」(桂歌丸三笑亭夢之助らが出場)では、信号機の赤・黄・緑の配列に関する問題が出題されたが、答えた出場者が誤答してしまい0に戻った。

[編集] この人クイズ

小池司会末期の、1982年1983年にあった。

[編集] しりとりコンピューターアニメクイズ

西郷時代から登場。「目で見るクイズ」の発展形というべきもので、1枚のイラストが、しりとりで次に続く名前の違うイラストへ段階的に変化していくので、何に変化していくのかを当てる。2問出題。

[編集] シンクロクイズ

西郷時代からスタートした、ボーナスクイズの1つであり、従来の「ラッキークイズ」をパワーアップしたもの。当初は「ラストファイブ」のタイトルになっていた。

  • 残り5問になると電子音が鳴り、ゴンドラ後方の電飾がスクロールした。
  • 解答者がボタンを押すとスクロールが止まり、解答権を得た解答者の席に電飾が止まったらボーナスチャンスでシンクロしたことになって(シンクロすると、ドアチャイムと同じ音が鳴り、ゴンドラセット後ろの壁の色が赤く染まるものに変わった[16])。この問題で正解すると2段上がった。それ以外の解答者が正解しても1段上がった。この時の最終問題は2択形式だった。

[編集] ゴンドラ

この番組に欠かせない演出の「ゴンドラ」は3代目まで存在した。

ロートアップダウンクイズ

第1回から最終回までゴンドラの上に、白地に紺色で(「ロート」の部分のみ白抜き)、右のような形で番組とスポンサー名のロゴが掲げられた(但し、司会者はABC「パネルクイズアタック25」で「東リ・パネルクイズアタック25」と言うように「ロート・アップダウンクイズ」とは言わずに、単に「アップダウンクイズ」と言っていた[つまり、冠スポンサー番組ではない])。

[編集] 初代(1963年10月から1974年12月まで)

前面に解答者の番号ランプと「横反転リーフ式(いわゆるソラリー式)賞金表示板」があった。また各解答者席の後方(画面右斜め上)には、ロート製薬の主力製品名(パンシロンVロートなど)が掲出されていた。

問題が分かった時に解答ボタンを押すと、弓矢の的のような赤と白の丸い板(別名 ペコン板)が立ち上がる。複数の解答者が押した場合、最も押すのが早かった解答者の番号ランプが点灯し、解答権を得る。段階表示(スケール)は一瞬左向きの矢印(←)になってから1から10までの数字が表示された。

解答ボタンは丸型で、ゴンドラ左側(解答者からは右側)に設けられていた。

金額表示は5桁で、10問正解時は9問正解時の金額がそのまま表示された。表示する時「バシャバシャ…」という独特な音がした。

不正解の時は、"×"(罰点)を立体にした物をアシスタントが持ってきて表示した。

放送開始当時、ゴンドラ一式の製作に600万円も掛かった。ゴンドラメーカーの関係者は、製作はもちろん放送局やスポンサーを説得するために苦労したそうである。

番組のカラー放送移行時(推定)にゴンドラの一部変更が行われ、解答者席の後方部分がこれまでの長四角から半円形になり、併せて段階表示もなくなった。ゴンドラの色はパープル、後方部分がグレーで、ゴンドラレールも淡いパープルに塗られていた[17]

[編集] 2代目(1975年1月から1983年9月まで)

従来のゴンドラに改良を加えたもので(以前、大相撲の力士の特集で、元大関・三根山=当時・高島親方の乗ったゴンドラが1段も上昇しないハプニングが起き[18]、それを契機にした改良となり、250kgまで耐えられ、なおかつ2人乗りも可能になった)次のようになった。 このゴンドラでも当初は解答者席後方にロート製薬の製品名(例:「キャシロン」「V・ロートクール」他)が付いていたが、1976年秋頃から付かなくなった。

  • 段階表示の電光掲示板(横5ドット・縦7ドット)が(画面から見て)賞金表示の左に設置された。
    • 最下段の時は無表示、そして"1"から"10"が表示される。設置当初から1980年代初めまで、10問正解の時は数字が"9"か無表示だったが、後に"10"まで表示されるようになった(10問正解した際"10"の表示が太くなる)。数字の切り替わりは左から1列ずつ流れるようになっていた。
  • 賞金表示板の右上に解答者の名札が付いた。
    • ゲスト特集を除き、氏名に加えて解答者の住所地(○○県(都道府)○○市。但し、北海道内の各支庁所在地や各府県庁所在地の場合、道府県名は無表示)も併記された。東京都特別区在住者は「東京都○○区」と表記されていたが、これは特別区が市町村とほぼ同等の権限があるものを考慮したものである。なお、当初は、解答者の名札はゲスト特集のみであった。その際、早押しボタンを押して解答権を得られた際、一般出場者には小池が「はい、1番」と言う風に呼んでいたが、ゲスト特集や、後期に一般出場者に名札がつけられた時は「はい、○○さん」と言う。
  • 賞金表示は当初 "¥80,000" のように"¥マーク+5桁"だったが、1980年代に"¥マーク"が無くなり6桁表示となり、10問正解時も "100,000" と表示できるようになった。またゴンドラが最下段に居て賞金ゼロのときは "¥ 0,000" と表示されていた。
  • ゴンドラ背面のレールの色は、ゴンドラに製品名が付いていたときは明るい茶系だったが、付かなくなってからはターコイズ色となり、後に明るい紺色となった。

1979年12月から、各ゴンドラがそれまでの灰緑一色から、の6色に色分けされたうえ、解答者席後方に電飾が付いた。解答者の紹介及び1段階上昇するごとに1秒間だけ点灯し、10問正解時には点滅した(点灯色は白)。

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小池司会の末期(1982年1月?〜83年9月)では、ゴンドラが大きくマイナーチェンジされた。

  • 賞金と段階表示が黒色に変わり、賞金表示が白抜き文字に変わった。なお、1000の位はフラップの表記が0と5しかなかったが、0から5に表示を変えるときは、従来どおり5コマ分回転していた。
  • ゴンドラの色の描かれ方が、解答権ランプの周りだけになり、両端は銀色になった。
  • 解答者席後方の電飾がゴンドラと同様に色分けされた。
  • ×マークは当初は2問不正解で2つ置かれるパターンが継承(アシスタントが設置・回収)されていたが、後に新しく黒地に白く「×」の書かれた板がゴンドラに搭載され、誤答ブザーと同時に自動で立ち上がる構造に変更された。解答者が失格者席から復活するときには、×板も自動的にリセットされた。
  • ゴンドラ背面のレールの色はグレーとなり、枠の上部のみ茶系の色となった。
  • 9問正解者がボタンを押し10問正解・ハワイ旅行獲得にリーチが懸かると、途端にスタジオ内が暗転して解答者にスポットライトが当たり、不調和で緊迫感のあるドラムロールが流れ、小池が「さあ、〇〇さんいいですか。落ち着いて、さあ、いきましょう!」としゃべり、正解の場合ファンファーレと共にくす玉が割れて紙吹雪と風船だが、不正解なら0へ逆戻りしてスタジオ内が再び明るくなる演出技法がなされていた。

このゴンドラを最後に、『新アップダウンクイズ』以降に使用される新しいゴンドラへとバトンタッチされた。

[編集] 3代目(1983年10月から最終回まで)

司会者の交代とともに、セットやゴンドラについてもこれまでとは180度の転換になり、豪華で近未来的なものになった。

  • セットそのもののうち、ゴンドラがセットされている部分が開放され、各ゴンドラの両脇に電飾が付いた。これが「新アップダウンクイズ」から登場した「シンクロクイズ」の際に使用された(シンクロクイズ以外でもクイズを行っている間はゴンドラの上昇分だけ点灯した。ただし下降中はだんだん短くなるように点滅。さらに☓マークが番号にも表示される)。
  • ゴンドラの段階表示はデジタル数字に変わり、名札は少し大きくなった。段階表示は以前のものと違い、“0”が表示された(但し、10問正解の際は"10"の数字は太くはならない)。
  • 賞金が「1段階につき1万円」と判りやすくなったため、賞金表示は廃止され、解答者の名札は、かつての賞金表示機のあった場所(段階表示の右)に付けられた。
  • 解答権ランプはゴンドラ一杯に大きく四角く表示され、数字も大きくなった。また、ボタンを押した時と解答権を得たときの表示を全てこのランプで行うようになったため、以前までボタンを押したときに立ち上がる丸い板は廃止された。
    • このランプは解答ボタンを押すと、数字の周りのみが光る。さらに解答権を得た人は全て光り、番号の部分のみ点滅する。不正解の場合は×を表示した。
  • 以前と同様に、解答者席後方に電飾が付いていた。
  • ×マークは1回目はゴンドラに内蔵され、ブザーと同時に下から飛び出す。2回目には×マークが閉じる代わりに「お出」となった解答者のゴンドラを開けるとき、新しくなった番組のロゴマークに白の×マークを重ねた表示板をアシスタントが持ってきて表示した。無論復活の際には表示板は回収される。
  • 効果音はゴンドラ上昇時(正解チャイムとほぼ同じ音)や下降時(しおれた感じのBGMと同じ音)に電子的な音が加わる形になり、当初は以前のものを引き継いでいたシンキングタイムの効果音も、放送数回で電子音に差し替えられた。それに対して早押し時のチャイムや誤答時のブザーはそのまま引き継がれた。
  • このセットは番組終了後も千里丘放送センターに保管していたが、2007年7月下旬で放送センターは廃止された。道具倉庫は後継施設である千里丘ミリカセンターに設けられ、同所にて保管されている(非公開)。
  • 小池時代のゴンドラはワイヤーロープでゴンドラを上昇させていた(エレベーターと同じ原理)が、西郷時代はチェーンでゴンドラを上昇させる方式に変わった[19]

[編集] 10問正解及びくす玉の演出

  • 10問正解してゴンドラが頂点に上がるとファンファーレが鳴り、解答者席上(天井)に吊るされていたくす玉が割られて、大量の紙吹雪風船(西郷時代は大量の銀色の紙吹雪のみ)が降り、賞金10万円と日航で行く「夢のハワイ旅行」が贈呈された。なお、全ての解答者席上にくす玉が設置された1973年12月以降のくす玉割りは、同じロート製薬提供でTBSの『クイズダービー』同様、スタッフの機械操作で行われていた。
  • クイズ番組で最初にくす玉・紙吹雪・風船・紙テープの演出を始めたのがこの番組である。ちなみにテレビ番組全体はNHK紅白歌合戦がさきがけである。
  • 放送開始当初はまだ海外旅行が自由化(または「為替自由化」ともいっていた)されておらず、ハワイ旅行は文字通り夢であった。番組開始の半年後である1964年4月から海外旅行が自由化された。また開始当初の賞金は20万円だったが、その後製薬業界においても宣伝・景品に関する自主規制(紳士協定)が制定され、賞金上限が10万円と定められた。
  • 紙吹雪が降った後、10段目に上がったゴンドラに飛行機のタラップに相当する階段を寄せ、当初は日航のスチュワーデスが解答者にフラワーレイをかけて、エスコートした。その際、その階段をスチュワーデスが上がり、ゴンドラの扉を開けて、10問正解者を出迎え、専用席でシルエットゲストから副賞の賞金10万円の目録が手渡された。ゴンドラが色分けされてからは、テニスウェアを着たアシスタントがレイを掛けにいくようになり、専用席で日航のスチュワーデスが目録と航空バッグを渡す形になった。
  • 10問正解・ハワイ旅行獲得者の栄誉を称え、BGMに、ハワイアン曲の「ブルーハワイ」が流れた。ただし1979年3月11月はオープニングテーマのアレンジ(宇崎竜童作曲)が用いられ、西郷が司会をしてからは「アロハ・オエ」をベースにした独自の曲となった。
  • ハワイ旅行を獲得した解答者のゴンドラには「10問正解・ハワイ旅行」のプレートが掲げられた。但し、初期はその解答者席の上に吊るされている割られたくす玉が下ろされた。小池末期のゴンドラ以降は、「新Vロート」のパッケージに準じたデザインに変更され、西郷が司会になってからも継承された。
  • ゴンドラから降りてきた人は専用席に座るが、この椅子はソファーになっていて横に花が飾られていた。ゴンドラが色分けされてからは、背景にワイキキビーチの写真が描かれたものに変更された。
  • 10問正解者が出ても、時間が余っていれば出題は続行。1回の放送で複数のハワイ旅行獲得者が出たこともある。また最終問題で10問正解者が出たり時間がない場合には、タラップに相当する階段を使わず、そのままゴンドラに乗ったままエンディングを迎えた解答者もいた。その時には「そのままハワイへ飛んでいって下さい」という台詞もあった。
  • 小池時代と西郷時代の前期では、10問正解の瞬間、画面には全くスーパーは出なかったが、西郷時代の後期になって出た。「おめでとう!(ペアでの)ハワイ旅行獲得!!」、3週連続10問正解があった時は「おめでとう!ペアでのアメリカ西海岸旅行獲得!!」という字幕スーパーが出た。

[編集] くす玉・紙吹雪に関するハプニング等

  • 10問正解・ハワイ旅行獲得時に割られるくす玉は当初1つだけで、10問正解しそうな解答者のゴンドラ上に来るよう後ろでスタッフが操っていた。しかし、収録中スタッフが誤ってセット上にぶつけて割り、紙吹雪と風船を降らせてしまったため、収録が一時中止となったことがあったことから、その後は2つ設置された。しかしながら、1973年11月25日放送の「ヤングレディ特集」の大会で初めて10問正解者が3人も出たために、3人目にはくす玉が用意されなかったというハプニングがあった。これを機会にすべてのゴンドラ上に設置されるようになった。
  • 小池時代に放送中、問題を読んでいる時に何かの拍子で誤って全てのくす玉が割れてしまい、紙吹雪と風船を降らせるハプニングもあって、小池がお詫びをしたこともあった。
  • 1978年8月28日放送の「15周年記念全国大会・中部甲信越地区大会」(第768回)でも、このようなハプニングがあった。
    • ゴンドラが上がる際に風船が割れたこと。これは先に10問正解・ハワイ旅行を獲得した⑤の解答者(女性)の頭上で割れたくす玉から降ってきた風船が、前半に2問誤答で失格・退場していた左隣④の解答者(男性)のゴンドラに引っかかったため。スルーの問題を答えてゴンドラに戻った④が、1問正解後に風船が割れて驚いたのを見て、小池は慌てて「ごめんなさい」と謝罪した。

[編集] 賞金

[編集] 第1期

(番組スタートから1979年12月16日放送分まで)

  1. ¥1,000
  2. ¥2,000
  3. ¥3,000
  4. ¥4,000
  5. ¥5,000
  6. ¥10,000
  7. ¥20,000
  8. ¥40,000
  9. ¥80,000
  10. ¥100,000

[編集] 第2期

1979年12月23日放送分から1983年9月25日の小池最終日まで)

  1. ¥5,000
  2. ¥10,000
  3. ¥15,000
  4. ¥20,000
  5. ¥25,000
  6. ¥30,000
  7. ¥40,000
  8. ¥60,000
  9. ¥80,000
  10. ¥100,000

[編集] 第3期

1983年10月放送分から最終回まで)

  • 1万円×○段階(○問正解)となり、10段階(10問正解)で10万円獲得。

[編集] 10問正解を達成した芸能人・著名人

[編集] 小池時代


[編集] 西郷時代

[編集] 15・20周年記念全国大会

番組開始15周年の1978年、及び20周年の1983年には、それぞれ『アップダウンクイズ○○周年記念全国大会』が行われた。

[編集] 放送期間

「15周年記念全国大会」は、1978年8月20日から9月24日にかけて全国6地区ごとに予選大会、10月1日に決勝大会(第773回)が行われ、関東地区代表の早大生宮内博之がアップダウンクイズ日本一となった。「20周年記念全国大会」は、1983年7月24日から9月4日8月21日日曜ナイターのため休止)にかけて全国6地区ごとに予選大会、9月11日に決勝大会(第1003回)が行われ、関東地区代表の東京学芸大生道蔦岳史[23]がアップダウンクイズ日本一となった。また8月14日放送の近畿地区大会で記念すべき1000回を迎えている。

15・20周年記念とも、アップダウンクイズ日本一になった宮内・道蔦にはそれぞれ副賞として「ハワイ旅行4名分」が贈られた。

[編集] ルール

  • 15・20周年記念とも、一般参加者の他に、この大会に限っては番組出場後3年以内の者も参加できた。
  • ブロック毎の出場者は通常と同様、6地区に分けられ、関東及び近畿地区は都府県を問わず筆記問題等を上位で通過した6名が出場、その他の地区はネット局の県ごとに1人ずつ(北海道は北・南から1人ずつ)出場した。
  • 地区大会では、10問正解が1人だけの場合は自動的に決勝大会出場となり、2人以上10問正解が出た場合はプレーオフをして1人に絞った(15周年の中国・四国・北九州地区大会と20周年の中部・甲信越地区大会が該当)。また放送(収録)時間内に10問正解が1人もいなかった場合は最高得点者(段数)が決勝大会出場となった。
  • また決勝大会も上記のルールで行われた。
    • 20周年記念の場合、例によって10問正解にリーチをかけたときのスポットライト、ドラムのロール、並びに10問正解時の紙吹雪とハワイ旅行の演出はあった。

[編集] 大会の概要

  • 15周年記念全国大会の地区大会では、最初にオープニングテーマ曲が流れ、小池が「アップダウンクイズ15周年記念全国大会!」と宣言した後に番組タイトルロゴ+15周年記念全国大会○○大会の看板がズームアップされて、日本列島を模したパネルを背景に小池が登場し挨拶した。
  • 20周年記念全国大会では、最初に小池が「アップダウンクイズ20周年記念全国大会○○大会!」と宣言した後にオープニングテーマ曲が流れた。決勝大会では、この後にアシスタント(ゴンドラギャルズ)が地区ごとのプラカードを持って出場者を誘導した。
  • 地区大会では、過去の10問正解者はもちろん(中でも20周年記念の関東地区大会は、出場した6名全員が過去に同番組で10問正解の実績を持っていた)、第3回ウルトラクイズ優勝の宗田利八郎(20周年、北海道・東北地区代表で決勝進出)ら、他のクイズ番組で優勝実績を持つ者も多く参加し、決勝出場をめぐって熾烈な争いが繰り広げられた。
  • 15周年記念全国大会のシルエットゲストは、予選では北海道・東北が藤山一郎、中部・甲信越が小沢栄太郎、関東がボクサーの工藤政志、近畿が玉置宏、中国・四国・北九州がいずみたく、中/南九州・沖縄が植村直己で、決勝大会は当時、同じロート提供の日本テレビほんものは誰だ?!』のレギュラーをしていた遠藤周作だった。
  • 20周年記念全国大会のシルエットゲストは、関東地区大会では後に司会となる西郷、近畿地区では15周年の中/南九州・沖縄地区大会に出場した宮崎美子だった(他に北海道・東北は叶和貴子、中部は渡辺美佐子、中国・四国・沖縄は谷川浩司、九州は朝潮がそれぞれ務めた)。そして決勝大会は島倉千代子だった。
  • 全国決勝大会で10問正解を決めた問題は、15周年記念では15年前の出来事として当てはまるものを答える3択問題、20周年記念では紅白歌合戦の白組で最多出場記録(1983年当時)を持っていた歌手名を答える問題[24]だった。
  • 全国決勝大会で、宮内・道蔦以外には10問正解を達成した出場者はいなかった。宮内の場合は、序盤で1問誤答したもののその後は順調に進み、後半のラッキークイズで2段階上がり、15年前をテーマにしたクイズの1問目で10問正解を達成した。道蔦の場合は、前半で早々と7問まで進み、シルエットクイズの第2ヒント正解で2段上がり、それから3問後に10問正解を決めた。だがその後にお出・お戻りが相次ぎ、そして「ラッキークイズ」のチャイムが鳴った時点で他の出場者の10問正解達成は不可能となってしまい、道蔦が日本一となった。
  • 決勝大会での音楽クイズは、優勝した宮内、道蔦それぞれが出題された3問すべて[25]を答えた。
  • 地区大会から決勝に勝ち進んだ各ブロックごとの出場者には、ゴールデンカップが贈呈された[26](出場時はゴンドラの右側に置かれていた)。また優勝した宮内(佐々木から花束の贈呈もあった)、道蔦には専用の優勝カップが贈呈された。贈呈はいずれもシルエットゲストが行った。

これらの大会とコンセプトが類似したものとして、最終回の一つ前(1985年9月29日放送)に「投げたらイカン!!チャンピオン大会」が行われ、今までの10問正解・ハワイ旅行達成者の中から、さらなる成績を収めた者が出場した。

[編集] エピソード

[編集] 小池清のエピソード

  • 番組のルーツである『近鉄パールクイズ』で1955年10月に入局2年目(1954年入社)の小池が司会を担当することになり、同時に10問正解で賞金5万円となる一方、3問誤答で失格・退場となるルールに変更された。小池はこの『パールクイズ』にて臨機応変でスピード感あふれる進行ぶりを発揮し、全国区の知名度になった。その後、『パールクイズ』の当時のスタッフが「これをテレビで放送したらもっと面白いだろう」と言ったのが番組立ち上げの発端だった。
  • 『パールクイズ』、『アップダウンクイズ』ともに、番組構成と放送時間と編集の関係上、解答者へのインタビューはほとんど行わないほど慌しかった。
  • 不正解になっても、解答者に対し、「これは意地悪な問題でしたね」等の毒舌的なことは一切言わず、「これは〇〇ですよ!」や「がっかりしないで下さいね!」と言う感じで語りかけていた。
  • 当時「自分は不器用だから」と言ってたのに対し、当時のプロデューサーは「そんなことはない。結構勉強家で、記憶力もあり、昔出た問題や出場者、シルエットゲストまでよく覚えていて、驚きだった」と語った。
  • 司会者とは言え「あくまでも主役は解答者の皆さんで、私は裏方みたいなもの」(TVガイドでのインタビューより)や「良い意味でのマンネリが定着している。シンプルで内容の多様性が受けていると思う。司会者の人柄をおっしゃってくれる方もいるが、司会者が目立つような番組ではいけない。目立たない司会者ということを最初から心掛けてきた。アップダウンのルールやシステムはもう完成品で、われわれとしては繰り返してきただけ。それを長持ちさせたのは結局、解答者だ。解答者は画面そのものが明るくなるような見ていて楽しくなるような方でないといけない。スタッフだけで出来るものではなく、出場者の個性で持っていると思う」(週刊誌のインタビューより)と語っていた。
  • スポンサーがロート製薬であり、製薬会社提供番組の司会者が病気で番組を休むと洒落にもならない、という経緯から健康に留意し、出題者時代から20年間・1004回の間一度も休むことなく続けた。
  • 解答者が問題の途中で早押しボタンを押すと「いいんですか?」と発言することが多かった。
  • クイズ終盤で、必ず「残り時間〇分少々!」とコールし、そのあとは不正解がない限りリアクションなく次々と問題が出され、最終問題になると「あ〜っ、時間なくなっちゃった!!これが最後の問題!」とアナウンスしていた。ただし、末期では最終問題になると電子合成音のチャイム(このチャイムは西郷時代も数か月使われた)が流れ、「あ〜っ、チャイムが鳴ってしまいました。ここでラッキークイズです」とアナウンスしていた。
  • 解答者で現役時代の輪島大士が出た時のエピソードでは、ボタンを押したものの答えが出て来ず「えーと…」と呟いたところ「はい正解!」とゴンドラがアップ。きょとんとする輪島。実は問題の正解が「江戸」で聴き間違いと解り、後から聞いた小池が「えー?」と驚いたとの逸話がある。
  • 小池の司会の最終日となった1983年9月25日放送回は、放送が開始された1963年生まれの者を解答メンバーにした。サブタイトルは「二十歳の青春」。同回のシルエットゲストは、1967年2月のシルエットクイズ第1号ゲスト・ファイティング原田だった。また、本番で使われた問題の多くは第1回のものが流用され、音楽クイズも小池の好きな曲で揃えられていた。長崎県の男性が、小池時代最後の10問正解達成・ハワイ旅行獲得者となった。エンディングは10月からの新しいゴンドラの前[27]で、小池と西郷ががっちりと握手を交わすシーンだった。また、小池のお別れの挨拶時と花束贈呈時に佐々木が涙ぐんでいた。

[編集] その他のエピソード

  • 番組の第1回の新聞広告は、関東地区では朝日新聞夕刊1963年当時は日曜日にも夕刊が設定されていた)に掲載された。またロート製薬の広告(胃腸と肝臓にパンシロン)も兼ねていた。ここには新番組のPRとして次のキャッチフレーズが使われたが、それは「スピードとスリルの新型番組 動くクイズ!!」だった。さらに「ハワイへのご招待!」の旨と、10問正解の副賞は20万円とハワイ旅行(為替自由化後)と書かれている。このことから、当時は公正取引委員会の命令によるクイズ賞金の制限は無かったと思われる。なお、初代司会者である市村の顔写真が載っていたが名前は書かれていなかった。
  • 毎日新聞にも広告が掲載された。「製作費600万円、豪華クイズ番組登場!」と書かれている。タイトルロゴは公式のものと異なっていた。
  • 名古屋テレビ(メ〜テレ)1973年4月に放送を再開した時、中日新聞にも広告が掲載されていた。「ひねった問題がいっぱい!豪華クイズ番組!!」のキャッチフレーズだった。
  • 構成を担当した堤章三は、第1回から最終回まで担当し、他にも『パネルクイズ アタック25』、『三枝の国盗りゲーム』(いずれも朝日放送系)等、数々の人気クイズ番組を手がけてきた。最初に手掛けたテレビクイズ番組が『私はナンバーワン』だった。
  • スポンサーがロート製薬1社だったことから、セットの各所には同社の主力製品((V・ロート、なみだロート、V・ロートクール、新V・ロート、パンシロン、パンシロンG、キャシロン、新パンシロンなど)のロゴが掲げられていた。開始当初から1976年までは、司会者席と出題者席の前、ゴンドラすべてと観客席だった。1976年秋頃に、ゴンドラから製品名のロゴが消えた。なおこの表示は、後に同じロート1社提供番組だった日本テレビ底ぬけ脱線ゲーム』『ほんものは誰だ?!』、TBS『お笑い頭の体操』『クイズダービー』、フジテレビ万国びっくりショー』などその他の番組でも行われていた。現在はKTVフジテレビの共同制作による『SMAP×SMAP』の前半に提供しており(前半提供のため看板表示は無し)、現在に至っている[28]。番組に出場した6名(チーム)にも参加賞としてロートの製品詰め合わせと番組セットの時計付き写真(額縁)が贈呈された。
  • オープニングタイトルは、1979年3月頃(使用開始時期は不詳)までは、虹色のパターンに『アップダウンクイズ』の公式タイトルロゴを配したものが長く使われていたが、宇崎竜童がテーマ音楽を担当してからはスキャニメイトによるアニメーションが使われた。ゴンドラが色分けされてからは、出場者がアシスタントの誘導のもと、ゴンドラに着席していくシーンとなった。
  • 正解の時鳴らされるチャイム・電子音は、『新アップダウンクイズ』以降に登場した。それ以前は正解すると小池が「よろしいです!!」(発音では「よろしいです〜」を語尾を延ばしている。このフレーズは独特のものだった)とか「その通り!!」などと大絶叫するように言って、正解チャイム代わりをしていた。但し、誤答のブザーは最初から機械を使っていた。また現在、これと同じ方法で正解を司会者が電子音代わりに告げる番組として、児玉清司会の朝日放送『パネルクイズ アタック25』やみのもんた司会のフジテレビ『クイズ$ミリオネア』(但し、ファンファーレの効果音は流れる)、高島忠夫司会のフジテレビクイズ・ドレミファドン!』などがある。
  • シルエットクイズのセットが、思わぬハプニングを呼んだことが2回あった。一つ目は、ゲストが俳優の上原謙だった時、第1ヒントが出される前に幕を開けてしまった。二つ目は、東京(NET)での収録時、ゲストが1970年当時の都知事だった美濃部亮吉だった時、正解と同時に幕を開けた途端、勢い余って幕を美濃部の頭上に落下させてしまった。幸い大事に至らなかったが、収録後スタッフは関係者からお叱りを受けたという。
  • 10問正解・ハワイ旅行獲得の最短記録は1967年9月17日放送分で、出題12問目で達成。次いで1978年12月17日放送分で、出題14問目で達成された。ゲスト大会での10問正解最短記録は1980年11月16日放送の元プロスポーツマン特集で、龍虎が出題13問目で10問正解を達成した。
  • 日航のスチュワーデスが(10問正解でハワイ旅行獲得の解答者を迎えるためのタラップの階段を)上がってゴンドラの扉を開けるまでの間、そのスチュワーデスのパンチラ(必ずと言っていいほど見えた)を目的に番組の後半だけ見る人も多かった。
  • 「落語家大会」に出場していた笑福亭松鶴は、早々に「お出」になった挙げ句、「お出」の方に解答権が移った際に「何だぁ!はっきり言うとくなはれ!!」と答えた。
  • ガッツ石松がゲスト解答者として出演した回では、小池が「そして、問題を出すのは…」と言った時点で早押しボタンを押し「佐々木美絵」と答えたという(しかし、小池は2007年12月にTBSラジオで放送された『こちら山中デスクです』内の「放送で言えなかった現場の話」にゲスト出演した際、否定している)。ガッツ石松とアップダウンクイズの逸話はこれだけではない。
  • 笑福亭鶴瓶がゲスト解答者として出演した回では、トイレでシルエットクイズの出演者とばったり会ってしまい、第1ヒントで正解したという。
  • 小池時代は元日日曜日だった場合は通常と同様に放送されていた。NET系列時代の1967年(新春夫婦特集=大島渚小山明子夫妻らが出場)とTBS系移行後の1978年(新春俳優特集=江守徹横内正らが出場)が当てはまる。1983年は本来放送されるはずの1月2日が特別番組編成だったため、翌3日の17:00〜17:30に「亥年タレントペア特集」として放送、西郷時代の84年も同日・同時間に「新春スペシャル・ね年タレントペア特集」として放送された(ちなみに1984年元日は同じロート1社提供の『クイズダービー・お正月スペシャル』が放送されていた)。
  • 小池時代には2回、新春特番として1時間拡大スペシャルが放映されていた。一つは1979年1月2日14時からで、同年の干支に因み、同じ未年である1967年生まれの少年少女が父母とペアを組み、予選クイズと本番の二部構成で「3人ハワイ旅行獲得」をかけて臨んだ。もう一つは1981年1月4日15時30分からで、プロ野球12球団の選手2人(計24人)が出演。○×と3択クイズの2部構成でポイントの高い6球団がゴンドラに搭乗するものだった。ただし9問正解が最高記録となってしまい、ハワイ旅行獲得にはならなかった。
  • 1980年1月13日放送回では最終問題後、6つのゴンドラに誰も搭乗していなかった。これは10問正解が3人出た上、「お出」も3人いたための珍事だった(その前の1月6日の「サル年特集」では10問正解者が3人出た)。
  • 1980年12月14日放送回では、当時の週刊サンケイ(現・週刊SPA!)の記者が出場した。前半はトップで独走していたが、シルエットクイズ(ゲストは木田勇)以降はペースが減速してしまい、7問正解・賞金4万円に終わった。この時の様子が、同誌連載企画の「本誌記者・突撃体験シリーズ」(同誌12月25日号)に掲載された。
  • 1980年12月28日の「年忘れ・東西漫才特集」では、ツービートゆうとぴあダブルコミック、のりお・よしお、コメディNo.1海原さおり・しおりが出場した(「落語家特集」と同じ、1〜3が東軍、4〜6が西軍)。ツービートは9段目まで順調にいくものの誤答して0に転落した[29]。後から上昇したのりお・よしおが10問正解・ハワイ旅行獲得となった。
  • 1981年4月19日放送の「新高校生特集」では、後に『第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』(1989年)で優勝する長戸勇人が初めてクイズ番組に出場し、10問正解を達成した。
  • 1981年5月24日放送回で、北川宣浩[30]1978年第2回アメリカ横断ウルトラクイズ優勝)は、前半で2回「お出」となったが、後半で挽回して10問正解を達成した。この時小池は「出たり入ったり忙しかったですねぇ…」とインタビューされたという。
  • 1983年4月17日に放送された「TBS系列人気番組対抗」では、『八木治郎ショー・いい朝8時』の司会をしていた八木治郎[31]野村啓司毎日放送アナウンサー(当時)とペアで出場した(他には『料理天国』の龍虎芳村真理らも出場。最終結果は八木・野村ペアがトップだったが、10問正解達成ペアはいなかった)。だが、放送日に八木は講演先の福岡で倒れ、翌日急逝した。翌週の放送内で、小池が八木の訃報をコメントしていた。
  • 1984年1月3日の新春スペシャルでは「お年玉・敗者復活企画」として、「U」「P」「D」「O」「W」「N」のパネルでハワイ旅行をかけた。東八郎夫妻がハワイ旅行を獲得した。収録時間の関係でタラップは省略され「そのまま飛んで行きます…」と東はコメントした。
  • 1984年6月24日放送では、4年半ぶりに10問正解・ハワイ行きが3人[32]出た。
  • 当時女性クイズ王だった石野まゆみは通算4回出場して、すべて10問正解・ハワイ旅行(1980年8月17日放送の「夏休み中学生大会」にて)とアメリカ西海岸旅行(西郷時代の1985年1月放送の「3週連続」ルールにて)を獲得した。
  • 1985年6月[33]TBS『ザ・ベストテン』のJNN各局追っかけマン6名を集めて、「ザ・ベストテン 追っかけマン特集」というのを行ったことがある。参加局は、HBC・TBS・CBC・RCC・RKB・MRT[34]の6局[35]の男女アナウンサーだった。ザ・ベストテン制作局のTBSからは、松宮一彦アナウンサー(当時)[36]が参加している。
  • 10問正解・ハワイ旅行獲得が複数出た最後の大会は1985年9月8日放送の「大学生大会」で、このうちの1人が、後に『史上最強のクイズ王決定戦』、『オールスター激突クイズ 当たってくだけろ!』で活躍することになる、早大西村顕治だった(2人目のハワイ行きだった西村は9問正解の状態でシンクロ、3人目のハワイ行きは8問正解の解答者が最終問題(2択)をシンクロ、正解した)。なお画面には「この番組は8月10日に録画したものです」という事前収録の旨のテロップが出ていた。この措置は収録から2日後に日航機墜落事故が発生したため、これに配慮したものである。
  • 最終回の一つ前の「チャンピオン大会」のシルエットゲストは山下泰裕で、最終回のゲストは江夏豊だった。
  • 小池時代の番組エンディングは、ハワイ旅行獲得者がいた場合は小池の挨拶後、ロートの製品名が掲げられた観客席が映し出された。放送(収録)時間内にハワイ旅行獲得者が1人もいなかった場合は、優勝者待合席とゴンドラを映した。小池末期の時期は、スタッフロールの表示とともに、アシスタント(ゴンドラギャルズ)6名がゴンドラの前に一列に起立していた。
  • 番組の出場者募集・宣伝は、ロート製薬戦前から取引があった関西地盤の老舗広告代理店萬年社が一貫して担当していた(生みの親であるも一時期勤務していた)。葉書の応募先が「ロート製薬 アップダウンクイズ係」となっていたのはそのためである。同社はロートが創業100年を迎えた1999年2月下旬に倒産した。
  • 2008年現在も横浜市放送ライブラリーでは1作も保存・公開されていない上、全国ネットでの復活も行われていない(ただし、関西ローカルでの復活は行われている)。

[編集] 番組の終焉

小池司会の末期である1980年代に入ると、視聴者参加によらない新趣向のクイズ番組が大ヒットして、当番組をはじめとした視聴者参加クイズ番組そのものが衰退し始めたこと、さらに裏番組も視聴率を上げ始めたことで人気に陰りが見え始め、20周年を迎えた1983年改編で番組内容のリニューアルを行った。

まず、出題者→司会で20年担当した小池が勇退して西郷に交代(ただし、降板は小池自身の意思だった)。次いでゴンドラをはじめセットを豪華に変え、番組名も『新アップダウンクイズ』に改めるとともに、一部のルールを変更して対抗したがリニューアルも功を奏さなかった。翌1984年4月以降はルールを「シンクロクイズ」を除いて元に戻したが依然として視聴率は回復しなかった。

そんな中、番組開始からハワイ旅行の協賛スポンサーだった日本航空が、1985年8月12日に国内で墜落事故を発生させたことで打ち切りが決定的となった(実際、事故の翌週から3週間はプロ野球中継に差し替えられていた)。

そして、アップダウンクイズは1985年10月6日放送の「22年間ありがとう!!シルエット大会」[37]をもって、22年・1084回で終了した。(すなわち、西郷時代はわずか2年・80回で終了したこととなる)よって終了の原因は、視聴率低迷というよりも、500人余りの犠牲者を出してしまった日航機墜落事故の余波によるものといえる。

『アップダウンクイズ』で22年間に出題された問題は50000問以上にのぼり、総出場者数延べ6500人、そして680人のハワイ旅行獲得者を出した。またシルエットゲストを務めた人は840名にのぼった(最終回エンディングでは誰もいなくなったスタジオを背景に、「22年の記録」と称した字幕スーパーが上向き・横文字ロールにて表示された)。

後継番組として、10月13日からは、この番組と同じくロート製薬1社提供『クイズ!!ひらめきパスワード』がスタートしている。開始から翌年3月23日放送分までは「視聴者参加・勝利チームへのハワイ旅行挑戦」が継承されていたが、4月の春改編以降[38]、視聴者参加は廃止された。

[編集] 同番組のクイズ形式を行っていた番組・CM等

テレビ朝日クイズタイムショック」と共に特徴的な番組であるためか、放送終了後20年以上経った現在でも比較的頻繁にパロディオマージュが見受けられる。以下番組として制作局の毎日放送並びにTBS系列で放送されたものに限って記載する。

  • TBS「8時だョ!全員集合」:後半コントで、「アップダウンクイズ」のコントが放送された。ゴンドラは2代目初期の物で、コントの関係から4台しかゴンドラが無かった。このコントは、全員が2問ずつ間違えて、「お出」になるのが落ちだった。なお、このコントを演じたザ・ドリフターズは、毎日放送がネットチェンジする時のPRキャラクターだった。
  • TBS「タモリのスター対抗クイズ番組大集合」:タモリ司会。佐々木が出題。1983年10月2日、文字通り当時のTBS系列のクイズ番組が集結した2時間特番で、本番組も織り込まれた。小池最後の回と西郷最初の回のちょうど間にあたり、ゴンドラは2代目最末期のものに準じていたが4チームだったため4台しかなかった。テーマ音楽も小池時代のものを流用。当然「ロート」の表示は無かった。このコーナーの問題で「タモリ、ヤモリ、イモリ、果たして人間は誰でしょう?」の珍問が出題された。
  • TBS「クイズまるごと大集合」:番組自体が終了後、番組改編時特別番組で一度だけ織り込まれたことがある。番組自体が終了してから折り込まれたため、ゴンドラは模して造られた。
  • MBS「新・たかじんが来るぞ」(関西ローカル):番組終了から8年後の1993年やしきたかじん司会で西郷時代に使われたセットを使って復刻版が行われた。この時のシルエットクイズのゲスト(正解)は、当時MBSを定年退職して関連会社・MBS企画の社長を務めていた小池であり、番組誕生や秘話などのエピソードを語った。
  • MBS「毎日放送開局50周年記念特番『激動の半世紀!復活あどランでOH!OH!』」(関西ローカル・2001年9月9日放送)
    ヤングおー!おー!とあどりぶランドの特番ともいえる。一企画として、司会・小池、出題・佐々木のアップダウンクイズが復活。放送はMBSスタジオ in USJからだったが、ゴンドラなどのセットは西郷時代のものを使用していた。このとき出演者は、セットに「ロート」の文字がないことへの違和感を語っていた。 解答者は次の通り。
    1. 桂三枝松井愛
    2. 月亭八方西村麻子
    3. 赤井英和石田敦子
    4. 藤本永治松川浩子
    5. 吉田智子上泉雄一
    6. 野村啓司武川智美
    約20問足らずで終了し、月亭八方・西村麻子ペアが4問正解という低調な記録を作った。
  • その他、番組ではなかったが、西日本電信電話(NTT西日本)のフレッツで、天海祐希がCMキャラクターを勤めていた頃にアップダウンクイズをパロディ化したものが放送された。順調に正解を重ねて優勝間近というところの最後の問題で不正解で1段目まで「お戻り」になるが、月額利用料が安くなるということで驚きながら喜ぶというオチがあった。

[編集] 歴代テーマ音楽担当

  • 田中正史(開始〜1976?)…当初はブラス系だったが、後に(時期は不詳)オーケストラに近い曲調となった。
  • 南安雄(1976?〜1979)…ゴンドラ背後のロート製品名が無くなってから使われ始めた。オープニング/エンディングテーマはブラス系、シルエットクイズ開始のジングル音や10問正解時のファンファーレはオーケストラ調。「目で見るクイズ」のシンギング時のBGMや、「お戻り」のジングル音にもオープニングのアレンジが使われた。
  • 宇崎竜童(1979.3〜11)…シンセ系。
  • 田中正史(1979.12〜1983.9)…ゴンドラの色分けと同時に変更され、小池司会の最終日まで使用。初代テーマのリニューアル版でオーケストラ調。オープニングでは冒頭にティンパニのロールがある。小池の出場者紹介後の「ハワイ旅行めざして…」と述べた後にもジングル音が入った。シルエットクイズ開始のジングル音は行進曲のファンファーレに近い。
  • 中川昌(1983.10〜最終回)ブラス系。後に「お出・お戻り」ルールの復活に伴い、オープニングテーマのみ変更された。(シンセ+ブラス系)

[編集] スタッフ

1980年頃から最終回まで

[編集] 放映ネット局

1963年10月6日1975年3月30日(太字は、制作局)

テレビ朝日系列(当時は、NET系列)がメインの局であっても、以下の局にはネットされなかった。(時差ネットもなし)

この結果、秋田県では腸捻転時代に一応のANN系列局だった秋田テレビ(AKT)はFNN・FNS系列優位で、ANNには番組販売扱いでの参加(ANN協定正式調印は1981年[42]1987年に脱退し、現在はFNN・FNS単独加盟)で、当時は宮城県東日本放送(KHB)静岡県静岡けんみんテレビ(SKT)→静岡朝日テレビ(SATV)は未開局、また、腸捻転解消後も秋田県には、JNN系列局が存在しないため[43]一度も放送されなかったし、この他、山形県[44]富山県[45]福井県[46]徳島県[47]愛媛県[48]佐賀県[49]では、一度も放送されなかった。太字の地域は、現在もJNN系列局(TBS系列局)が存在しない地域である。

※これらの地区では腸捻転解消後に当該地域のTBS系列局(下記参照)でネットを開始した。

1975年4月6日以降、太字は、制作局。★の局は同一地域内のANN系列局からの移転した地域。☆の局はANN系列局で放送がなかった地域。)

[編集] 関連書籍

  • 『アップダウンクイズ』 (二見書房発行・サラブレッドブックスシリーズ)1978年11月発行・新書判。番組放送15周年を記念しての出版で、表紙には当時のゴンドラを背景に小池・佐々木コンビの写真があり、サブタイトルとして「35000題から選び抜いたハイレベルの2000題…」と書かれている。問題集本編は、番組担当者のアドバイスから始まって、予選問題、放送された15年間の出来事を背景にした問題、番組の各クイズコーナーを元にした「トレーニング編」、そして繰り返し挑戦して実戦力を身につけられる「チャレンジ編」で構成されている。現在は絶版で古書店にもほとんど出回らず、入手は難しくなっている。
  • 社史『毎日放送の40年』1991年発行、『毎日放送50年史』2002年発行(いずれもA4判・非売品)前者は開局40周年、後者は50周年を記念して発行された社史で、全国の都道府県立図書館で閲覧可能。『毎日放送50年史』の付録であるDVD-ROMには、1975年4月6日(第600回)放送分のハイライトシーンが収められている。

[編集] 関連グッズ

[編集] 脚注

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  1. ^ 市村の降板理由は、後年(1980年?)TBS『奥さま8時半です』に小池が出演した時、市村の仕事(俳優)が多忙を極めたためだと、小池の口から語られた。なおこの時は、市村がゲスト出演し、久し振りに小池と顔を合わせた。
  2. ^ 10月2日は本番組が内包された秋の改編期特番『タモリのスター対抗クイズ大集合』が放送された。このときも佐々木が出題者として出演している。
  3. ^ 但し、1970年3月から9月に開催された日本万国博覧会に伴う関連番組制作の都合上、同年5月3日から10月18日放送分は東京都港区六本木にあったテレビ朝日(当時の日本教育テレビ。NET)本社と全く同じ場所)での収録となっている(この時期の映像はすべて現存せず)。
  4. ^ 但し、1985年8月12日墜落事故で協賛を降板。カウキャッチャーも事故以降は放映されず、時報とともに「♪ロート…」のオープニングキャッチとなった。
  5. ^ロート製薬提供、(番組名)」のオープニングコールは、後継番組『クイズ!!ひらめきパスワード』でロート製薬一社提供を取り止める1991年9月下旬まで使われた。
  6. ^ 逆にNET系列での最終放送日となった1975年3月30日は、番組最後に小池が「東京地区でご覧の皆様は、来週からは6チャンネル・TBSテレビでご覧下さい」とアナウンスしていた。
  7. ^ 他にもロート製薬単独提供であるTBS「クイズダービー」等でも言う。
  8. ^ ペア大会の時は、中期までは2人一緒にゴンドラに乗っていたが、後に1名が前半・後半(シルエットクイズ以降)に分けて乗る様になった。
  9. ^ 1964年4月からの海外旅行自由化を見据えて企画された。
  10. ^ 葉書での応募から厳正な抽選を行うが、1人で2枚以上出すことは一切認められない。そのために抽選前に1枚ずつ必ず記入漏れや偽りがないか、1人で2枚以上出していないか厳正にチェックする。そして抽選の上、筆記クイズの受験許可者を1地区200名ずつに絞り込む。
  11. ^ 一部のVTR問題では誤答した場合(この時点で「お出」とならない場合)でも問題VTRの続きがあるため、誤答した本人を含め、全員に解答権がある。
  12. ^ 勝ち抜きの解答者が2週目、3週目の時は解答者の胸に花が付けられる
  13. ^ このルールになってから、勝ち抜きの解答者を「チャレンジ1・2・3」と呼び、1週目の10問正解者をV1と呼び、2週目の10問正解者をV2と呼び、さらに3週連続10問正解してペアでのアメリカ西海岸旅行と賞金30万円獲得者をV3と呼び、なおかつ「V3チャンピオン」と呼んでいた(この辺りから、アップダウンクイズで「チャンピオン」と表現するようになった。それまでは長いこと「チャンピオン」(但し、20周年記念特集の際に小池が「チャンピオン」と言っていたことがある)や「優勝」とも一切言わず「10問正解・ハワイ旅行」と表現していただけだった)。
  14. ^ ただし1980年クイズグランプリが終了し、代わりにパネルクイズアタック25(優勝)が加わった。
  15. ^ 毎日放送が制作・放送していた番組の多くは、大阪吹田千里局区内、大阪中央郵便局(『突然ガバチョ!』)、東京都芝郵便局(『世界まるごとHOWマッチ』、『世界まるごと2001年』)だった。
  16. ^ 通常は青。また、暗転で始まっていた頃はOPテーマ曲に合わせて青→赤→黄と変化し、スタジオが明るくなると青に戻った。
  17. ^ 新井たかしの著書『クイズで儲けろ』(1972年刊・廣済堂)の表紙カバーに当時のゴンドラ写真あり。
  18. ^毎日放送の40年』174〜175ページに記載。当時のゴンドラは150kgが限度だった。
  19. ^ 両者の相違点はゴンドラが上下する際の音が、小池時代のワイヤーロープ式は動く時に“ゴン”と強く響くのに対し、西郷時代のチェーン式は“カチャ”っと弱い音が動く時と動きが止まるときに発するのが特徴
  20. ^ 後に1967年8月6日の「200回記念・夏休み中学生特集」ではシルエットゲストを務めている。
  21. ^ 最終回の問題で「次のうち、有名人で初めて10問正解したのは誰でしょう? 野球の王貞治・映画監督の大島渚・作家の野坂昭如」と出題されていた。
  22. ^ 過去にも出場していたが、このときは9問目で誤答、0に転落した。
  23. ^ 1982年5月23日放送回でも、シルエットクイズ(ゲストは小松左京)の第1ヒントで正解し、一気に10問正解を達成している。
  24. ^ ウィニングアンサーはそれぞれ「「地下鉄京橋駅で草加次郎の爆弾爆発」」「フランク永井」だった。
  25. ^ 20周年記念全国決勝大会での音楽クイズは、日本レコード大賞受賞曲名、歌手名、作曲者名を当てる問題だった。
  26. ^ なお、ゴールデンカップの贈呈は西郷時代の後期(3週勝ち抜き制)に復活し、3週連続10問正解・アメリカ西海岸旅行・賞金30万円の達成時に贈呈された。
  27. ^ その際、この時に限って『アップダウンクイズ』の看板のタイトルロゴが丸みを帯びていたが、結局は元のロゴが継続使用された。『毎日放送の40年』にもこのシーンの写真が掲載されている。
  28. ^ また1976年頃までは、スタジオ内で女性アシスタントがロートのCMを行っていた(その際、スルーになった時、観客1人に解答してもらい、正解の際はロートからのプレゼントがあり、その後にCMが行われていた)。
  29. ^ 後に、同じ堤構成の 『三枝の国盗りゲーム』にて優勝を果たした。この大会では他に紳助竜介ザ・ぼんち(クイズ賞を獲得したものの「坊主めくり」にて敗退)、星セント・ルイスが出場)。海外旅行は坊主を引いたため獲得できなかった。また『クイズダービー』(賭ける側の席。他にラッキー7B&Bも出場)、『クイズタイムショック』の「漫才師大会」に出場していた。
  30. ^ ウルトラクイズ以前の1978年2月にも出場したが9問止まりで終わる。2年後に北川は「20周年記念全国大会・関東地区」に出場したが決勝進出はならなかった。
  31. ^ 1980年1月20日放送回ではシルエットゲストとして出演していた。
  32. ^ 他の回ではハワイ旅行が獲得者2人までは出るが、3人目となる予定の挑戦者がが8、9段目で終了したり、9段目で誤答し0に転落するケースが度々あった。
  33. ^ 放送日は不明だが、同月日曜日の放送時間帯は野球のナイター中継(巨人戦)が盛んに組まれていて、中止時の雨傘番組扱いで収録・放送された可能性が高いと考えられる。
  34. ^ MRTが参加した詳しい理由については不明だが、おそらく番組が基幹局以外のローカル局の参加を募り、推薦か立候補を獲て参加したものだと思われる。
  35. ^ なお、アップダウンクイズ制作局・MBSの「ザ・ベストテン」追っかけ担当だった青木和雄アナウンサー(当時)は、観客席の応援に回った。
  36. ^ 松宮アナはテレビ朝日クイズタイムショック』の「民放各局アナウンサー大会」(放送時期は不詳)にも出演の経験があった。余談だが、問題出題番号「1〜10」のうち、TBSのチャンネル番号「6」は選択せず、この番号の選択権は、かつてのJNNネット局で現ANN系列、同じ「6」のチャンネル番号を持つ植草貞夫朝日放送アナウンサー(当時)に譲った。
  37. ^ この大会では、ファイティング原田、マッハ文朱、鳳蘭、沖田浩之、立川談志、横山ノックら、番組の歴史を飾ったシルエット経験者がペアでクイズに臨んだ。だが10問正解ペアは1チームも出なかった。フィナーレでは出場チーム全員が西郷・佐々木・アシスタントと共にゴンドラ前に並び、西郷が終了に当たって「小池清さんに敬意を表します」とメッセージを述べていた。
  38. ^ エンドカードでのチャイム音と後続番組のワイプ映像が追加された。
  39. ^ 1983年から最終回まで担当。2008年現在、毎日放送が大株主のFM802取締役。
  40. ^ 金子は後継番組『クイズ!!ひらめきパスワード』の構成、柳川は同番組のプロデューサーを1989年頃まで担当。
  41. ^ 小泉は現在、毎日放送の常務取締役を務めている。
  42. ^テレビ朝日25年史』より。
  43. ^ ただ、秋田県でも青森テレビ(ATV)岩手放送→アイビーシー岩手放送(IBC)を受信できていれば秋田県でもこの『アップダウンクイズ』を視聴可能であった。
  44. ^ 山形テレビ(YTS)は、1975年3月までは、FNN・FNS系列が単独加盟であったし、腸捻転解消後もこの番組の放送期間中には、JNN系列局のテレビユー山形(TUY)は、まだ非開局であった。ただ、山形県内でも東北放送(TBC)福島テレビ(FTV)テレビユー福島(TUF)新潟放送(BSN)のいずれかを受信できていればこの『アップダウンクイズ』を視聴できていた。
  45. ^ 腸捻転時代にANN系列局が存在しなかったし、腸捻転解消後もこの番組の放送期間中は、JNN系列局のテレビユー富山→チューリップテレビ(TUT)は、まだ非開局であった。ただ、富山県内でも新潟放送(BSN)北陸放送(MRO)のいずれかを受信できていればこの『アップダウンクイズ』を視聴可能であった。
  46. ^ 福井放送(FBC)は、この番組の放送期間中は、NNN・NNS単独加盟であった。ただ、福井県でも北陸放送(MRO)中部日本放送(CBC)腸捻転時代は、名古屋放送→名古屋テレビ→メ〜テレ(NBN))、毎日放送(MBS)をのいずれかを受信できていればこの『アップダウンクイズ』を視聴できていた。
  47. ^ この番組の放送期間中はもちろん、現在でも民放一局地域。ただ、徳島県では、多くの地域で毎日放送が受信でき、また同県西部地方では、山陽放送(RSK)(腸捻転時代は、瀬戸内海放送(KSB))を受信できるので徳島県でもこの『アップダウンクイズ』を実質視聴可能であった。
  48. ^ 伊予テレビ→あいテレビ(ITV)愛媛朝日テレビ(EAT)はこの番組の放送期間中は、まだ非開局であった。ただ、愛媛県内でも山陽放送(RSK)腸捻転時代は、瀬戸内海放送(KSB))、中国放送(RCC)テレビ山口(TYS→tys)大分放送(OBS)のいずれかを視聴できていればこの『アップダウンクイズ』を視聴可能であった。
  49. ^ この番組の放送期間中は、もちろん、現在も民放一局地域。ただ、佐賀県では、多くの地域でアール・ケー・ビー毎日放送(RKB→+rkb)(腸捻転時代は、九州朝日放送(KBC))を受信できていたから佐賀県でも視聴可能であったし、また、佐賀県でも地域によっては、長崎放送(NBC)熊本放送(RKK)のいずれかを受信できていたので佐賀県でもこの『アップダウンクイズ』を実質視聴可能であった。
  50. ^ JNN加盟と同時に放送開始。
  51. ^ 福島テレビは、1983年3月まではTBS系列とフジテレビ系列(FNSのみ)のクロスネット局であったが、同年4月にフジテレビ系列(FNN系列)にネットチェンジした。FNN系列にネットチェンジ後も視聴者保護等の関係で1983年9月まで同局で放送されていた。9月25日放送分でネットは一時休止となり、同年10月11月福島県内では放送されなかった。ただし福島県内でも地域によって異なるものの東北放送新潟放送東京放送のいずれかを受信できていれば、1983年10月11月でも視聴できていた。
  52. ^ 1983年12月から最終回まで。
  53. ^ キー局。
  54. ^ テレビ山口は、放送開始当時TBS系列メインのフジテレビ系列(FNSのみ。さらに1978年9月までは、NET系列→テレビ朝日系列)とのクロスネットであったため、TBS系列番組(腸捻転解消後)になってからネットを開始した。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 番組の入れ替わり

NET(現・テレビ朝日)系列 日曜19時台前半
(本番組までMBS制作、ロート製薬一社提供枠)
前番組 番組名 次番組
私はナンバーワン
(1962年1月 - 1963年9月)
アップダウンクイズ
(1963年10月 - 1975年3月)
二郎さんのOh!マイおやじ
(1975年4月 - 1976年3月)
※ここからABCテレビ制作枠、
この番組からABCテレビは、NETテレビ系列
TBS系列 日曜19時台前半
(本番組よりMBS制作、ロート製薬一社提供枠)
学校そば屋テレビ局
(1974年10月 - 1975年3月)
※ここまでTBS制作枠、
関西地区は、ABCテレビ。
この番組までABCテレビは、TBS系列
アップダウンクイズ
(1975年4月 - 1985年10月)
クイズ!!ひらめきパスワード
(1985年10月 - 1992年3月)
※1991年10月から最終回までは
同社を含む複数社提供となる