木元教子

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木元 教子きもと のりこ1932年12月19日 - )は、評論家ジャーナリスト北海道苫小牧市生まれ。中国(旧満州)で育つ。都立豊島高校立教大学文学部英文科立教大学法学部卒。

目次

[編集] 来歴・人物

TBSアナウンサーとして1956年に入社。ワイドショー報道番組、社会情報番組等の司会ニュースキャスターを務める。

1962年に退社し、フリーのジャーナリストとしてデビュー。ニュースショー、ワイドショーの司会を歴任。その間、エネルギー、食料(農業)、環境、教育、女性、政治、高齢社会等に関わる海外・国内のレポートを通し、問題提起を行っている。

その後、フジテレビと契約、初のメイン女性ニュースキャスターとなる。キャスター引退後、評論活動を中心とし、報道番組、社会情報番組等のコメンテーターをはじめ、フリーランスの立場で講演、執筆、シンポジウム等の総合企画・プロデュースを手がけ現在にいたる。

2007年の春、今までの功績から旭日中綬章を受章。

[編集] 主な公職

  • 内閣府 原子力委員会委員(1998年1月~2006年12月)
  • 経済産業省 総合資源エネルギー調査会・委員(1989年1月~)
  • 文部科学省 中央教育審議会・スポーツ振興特別委員会委員(1998年8月~)
  • 農林水産省 21世紀村づくり塾 100人委員会委員(1989年10月~)
  • (財)社会経済生産性本部・評議員(1994年4月~)
  • ETT『フォーラム・エネルギーを考える』運営企画委員(1990年7月~)
  • 生活構造改革フォーラム・代表(1994年3月~)
  • 食の教育推進協議会 共同創設者・実行委員(1993年11月~)
  • NPO法人『21世紀の食は私達が作る会』代表(2005年12月~)

ほか

[編集] 家族

  • 夫(TBSを経て、現在青森テレビ監査役)、息子二人(内の一人は、お笑いサイエンスライターの植木不等式

[編集] 著書

  • 「結婚も仕事もしたいあなたに」(大和出版、1980年7月)
  • 「子離れ親離れのすすめ」(経済界、1981年11月)
  • 「キャンパスへの旅」(サンケイ出版、1982年5月)
  • 「結婚・こども、どう考えますか」(三笠書房、1985年5月)
  • 「姑ばなれ、嫁ばなれ」(海竜社、1988年2月)
  • 「わたしの人生、今が一番」(海竜社、1993年10月)
  • 「ちょっと待って!暮らしとエネルギーを考える」(株式会社エネルギーフォーラム、2001年12月)
  •  絵本「100年後の地球」(株式会社エネルギーフォーラム、2003年11月)

ほか

[編集] 資格

など

[編集] その他

  • 4歳の時、父の仕事で中国(旧満州吉林省敦化)に移住。終戦の1年前に、父が南方に出征したため、北朝鮮の羅津から新潟港へ最後の貨客船で帰国している。そのため同年代の中国残留日本人や、北朝鮮による日本人拉致問題に対しては深い思い入れがある。
  • TBS時代のスタートは、1957年、TBS朝の情報・報道番組として、生のニュース番組のはしりとなった「ニュースレーダー」を、時の政治評論家細川隆元とともに出演、話題となる。細川は、今日の木元教子を育てた一人でもある。
  • その後フリーとなり、二人の子どもを育てながら、フジテレビ「小川宏ショー」(1965年5月~)、その後、同じくフジテレビ「3時のあなた」(1968年4月~1969年3月)の、各初代司会者となった。
  • 以後、フジテレビニュースキャスターを3年務めた後、生活者の視点での、幅広い活動に入り、今日に至っている。
  • 近年は、エネルギー、特に原子力にウエイトを置き発言。一般国民とのパイプ役としての役割を意識し、原子力委員会に「市民参加懇談会」(2001年~)を立ち上げた。
  • 木元の原子力へのかかわりは、「小川宏ショー」特番で毎年「原爆の日」に広島、長崎から生レポートを担当したことや、その後のニュースキャスターで、被爆国なのに「なぜ原子力か」との疑問から始まっている。だがその前の1963年~1964年に当時のNET(現在のテレビ朝日)で、「マンガのおじさん」という生番組の司会を木元が担当、手塚治虫と週一回の共演をしていた。木元が、エネルギー、原子力に取り組む原点には手塚治虫と『鉄腕アトム』が存在し、原子力委員になった木元の「原子力の平和利用」の主張に、大きな影響を与えている。
  • 2002年6月5日朝日新聞の朝刊2面。当時の福田康夫官房長官、また安倍晋三代議士が早稲田大学で、核兵器の保有は憲法に違反しないとか、非核三原則の見直し発言を行ったことにつき、6/4日の原子力委員会で、木元委員が「原子力の平和利用に限っている原子力基本法にもそぐわない」と発言、抗議表明を求めた。しかし委員長は継続して検討するに留まった。その後、6月18日の朝日新聞「私の視点」に、木元の「核論議『平和利用限定』を忘れるな」の原稿が載っており、平和利用の番人とされる原子力委員会でただ一人、その立場を明確にしていた。
  • また、1978年、当時小学5年の次男が学校から社会科の参考として「こわい原子力発電」 というガリ版刷りの資料を持ち帰ってきた事に関心を抱き、自分の目で勉強し、確かめようと考え行動を起こしたと、原子力委員就任(1998年1月5日)の際に語った。またその時に、「見える」「逃げない」「行動する」原子力を委員のモットーとすると言明している。
  • 2008年1月24日(木)のTBS「みのもんたの朝ズバッ!」に出演中に、95歳の女性が11の病院から受入困難といわれ、その後死亡した問題を討論。その中で「病院にはインターンがいるでしょ! 医者が足りないなら、インターンにみさせればいいじゃないの!」と発言。医療問題については素人以下であることを暴露した。

[編集] トーク番組