NTV紅白歌のベストテン

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NTV紅白歌のベストテン
ジャンル 音楽番組
放送時間 月曜日20:00 - 20:54(54分)
放送期間 1969年10月6日 - 1981年3月30日
放送国 日本の旗 日本
制作局 日本テレビ
プロデューサー #主なスタッフを参照
出演者 徳光和夫(進行役。実質的な司会者)
堺正章(白組キャプテン)
紅組キャプテンは#歴代キャプテンを参照
音声 モノラル(番組開始 - 1978年9月25日)→ ステレオ(1978年10月2日 - 番組終了まで)
オープニング 「紅白歌のベストテンのテーマ」
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NTV紅白歌のベストテン』(エヌティーヴィーこうはくうたのベストテン)は、1969年10月6日から1981年3月30日まで、日本テレビで放送された歌謡番組

目次

[編集] 概要

1969年10月6日放送開始[1]。毎週月曜20:00 - 20:56放送[2]。「NHK紅白歌合戦」を毎週お茶の間にという発想から始まり、「紅白歌合戦」と「ベストテン」を組み合わせた当時としては画期的かつ異色とも言える音楽番組だった。

放送形式は原則として公開生放送東京渋谷公会堂。渋谷公会堂で定着するまでは、後楽園ホールを中心に、関東近辺の公会堂を持ち回りしていた。まれに名古屋大阪から公開放送を行ったこともあった)。この番組は、クロスネット局で月曜20時に日本テレビが選択される原因となった番組と言われる。本家「紅白」同様、紅組、白組に分かれて対決を行う。司会者は白組、紅組それぞれのキャプテンを務める形式。番組にオープニングテーマ曲(エンディングでも使われた)がある。

オープニングの流れは、幕が閉まった状態で双方のキャプテンが登場、その回に関するショートコントを行い、オチが着いた所でタイトルコール(下記)をして幕を開き、出場歌手がボールを投げながらテーマ曲を歌うというものであった。しかし末期(紅組キャプテンが大場久美子の頃)からはコントは廃止され、徳光和夫(当時局アナ)のアナウンスと共に幕を開け、テーマ曲も後半は歌われなくなり、提供コメントとなった。そして最末期(榊原郁恵時代)にはアナウンスは廃止され、テーマ曲は演奏のみになり、終わった所でキャプテンが登場する様になった。

白組のキャプテンは堺正章が番組終了まで務めた。紅組キャプテンについては最初は水前寺清子が勤めていたが、1970年にスタートした「ありがとう」(TBS)への出演や地方公演、TV番組出演の関係でスケジュール調整が困難となり、程なく降板。その後暫く決まったキャプテンはおかれず、毎週出場歌手から1人がキャプテンを務めていた。その後は、今陽子岡崎友紀らが紅組キャプテンを担当した。

1978年10月2日の放送分からは、音声がステレオ放送になっている。これは同年9月28日、日本テレビが日本で初めて音声多重放送の実用化試験放送を開始したことに伴うもので、テレビの歌謡番組でのステレオ化は最も早かった方である(ちなみに、フジテレビの「夜のヒットスタジオ」も、同年10月2日にステレオ化されている)。

主な出演歌手はアイドルが中心となり、演歌がそれに続いた。フォークロックニューミュージックは稀であった。白組では「新御三家」の野口五郎郷ひろみ西城秀樹が毎週交代で出演し、演歌では五木ひろしが常連であった。紅組はこれに対抗して「花の中三トリオ」の森昌子桜田淳子山口百恵が出演し、演歌では八代亜紀が常連となっていた。和田アキ子の出演も意外と多い。

出演歌手の本性を暴く『ウソ発見器』や、紅組VS白組で他の歌手に扮装しての物まね対決なども見所であった。さらに本家「紅白」同様、紅白両軍の応援合戦もあり、ダンスやバンド演奏、物真似芸などその演目は多岐に渡った 。また毎年夏には、東京サマーランドなどで『プール大会』が行われ、歌の傍ら、プール上の一本橋での「あっち向いてホイ」対決や、かつて毎日放送制作・NETテレビ系列で放送した「ダイビングクイズ」を紅白歌手の対戦で行う(クイズの内容は曲名当て)などの趣向も挟み込まれた。

毎年12月の最終週には「あなたが選ぶ紅白歌合戦」という企画を行った。やはり本家「紅白」を多分に意識して「NHKの紅白はヒット曲もない人を選んでいますが合点行きませんね。こちらはあくまで今年活躍した歌手をそろえました」と、制作側が「紅白に対する造反番組」とまで言い切った企画であった[3]

1975年頃から毎年7月頃に、上半期にデビューした新人歌手が集合し、点数で評価され、合格点に満たないと歌えない企画があった。点数はネット局の地区別に集計され3度のチャンスがあり、1巡目で合格する歌手もいれば、最後まで歌えずじまいになる歌手も出る残酷さで、日本テレビ音楽祭の前哨戦でもあった。

また中学校高等学校修学旅行の定番コースになったりもした。その際はオープニングでキャプテンが観覧に来た学校を紹介し、その学校の生徒がリアクションをとるのが定番だった(これについては次番組の「ザ・トップテン」や「歌のトップテン」でも行っていた)。

ただ、既に同じ月曜日に人気歌謡番組「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)があり、当代の人気歌手や大物は「夜ヒット」の出演を優先させることが多かった事や、1973年の「ナベプロ事件」(後述)のために、出場歌手の調達に相当苦労しており、このことについては後年、堺正章は「出演者ががら空きになってしまい、3曲歌ったことも時折あった」と回顧している。

番組の最後で日テレスタジオのいわゆる「ベストテン本部」から発表される得点発表は系列局ごとに電話で行われ(いわゆる「電話審査員」)、支持する系列局が多いチームが優勝となり、くす玉が割られて、紙吹雪風船紙テープが降り、キャプテンに優勝カップが手渡される。そのベストテン本部には、徳光和夫(この番組以降バラエティ路線に転向する)、福留功男などが担当していた。なお系列局は、時期によってその数が異なっており、時によっては引き分けになる数(偶数)になる時も有った。また、毎回の系列局代表の電話審査員全員には番組スポンサー(花王石鹸江崎グリコ三菱鉛筆などから1社)から賞品が贈られた。この流れは後番組の「ザ・トップテン」でも視聴者プレゼントに受け継がれた。

その他、小林完吾が「ウソ発見器」コーナーのナレーターを担当していた(番組内では、小林アナを「Mr.コンピュータ」と呼称)。また、初期には作曲家・山本直純が審査判定役として出演していた。これは、山本が前述のオープニングテーマの作曲を担当したためと思われる。

なお番組末期の1980年10月13日は、特別番組として『山口百恵スペシャル ザ・ラスト・ソング』が放送された。山口の他、ゲスト出演者は「花の中三トリオ」の森・桜田、「新御三家」の野口・郷・西城、さらに当番組の司会者だった徳光・堺・榊原らも登場。この特別番組が、山口百恵の現役歌手として最後のテレビ生出演となり、山口は2日後の10月15日をもって芸能界を引退した。

[編集] セリフ

冒頭

(紅組キャプテン&堺)「皆さーん、こんばんはーっ!!」(観客)「こんばんはーっ!!

タイトルコール

(紅)「それではそろそろまいりましょうかー!」(堺)「NTV(エヌティーヴィー)」(紅)「紅白歌の」(紅&堺&観客)「ベストテーン!!

1回目のCM明け

(堺)「あっ、さてぇ~

※ このセリフは、小林完吾アナの名ゼリフとして知られているが、時期だけで言えば堺の方が早かった。最初の頃は堺が単独で言っていたが、後に観客も唱和して言うようになった。

これら3セリフは、末期(1978年頃)は言わなくなった。尚、この3セリフは「今夜復活!!」の時も使われた。

[編集] 歴代キャプテン(司会者)

[編集] 渡辺プロ事件

1973年、番組史を揺るがす一つの事件が起きた。この番組の同時間帯に渡辺プロダクションNETテレビ(現・テレビ朝日)とタッグを組み、新規に裏番組(『スター・オン・ステージ あなたならOK!』)を水面下で計画し、それをぶつけてきた(これは、渡辺プロ以外の芸能プロダクションへも人気スターを供給し、芸能界におけるテレビ局優位の端緒となった日本テレビ制作『スター誕生!』に対抗する意図もあった)。

これを知った日テレの井原高忠制作局次長(当時の同局の音楽・バラエティ番組制作部門の責任者)は渡辺プロと話し合いをしたが、渡辺プロ側は「それじゃあ、お宅の番組を打ち切るか時間を移動させればいいじゃないか。」と主張し、さらに日テレサイドに対して、「放送時間をずらさないのであれば今後、ベストテンにうちのタレントは出演させない。」と通告してきた。日テレは、渡辺プロ側の要求を受け入れて『ベストテン』の放送時間帯を移動するか、この挑戦を受けて立つかの選択を迫られた。井原は後者を選択し、真っ向からこの挑戦を受けた。

日テレは渡辺プロとの共同制作の金曜日午後10時からの新番組の予定を白紙にし、その時間帯を使い『金曜10時!うわさのチャンネル!!』を開始した。この番組には渡辺プロのタレントを一切出演させなかったが、視聴率30%台を記録することもあった(また、裏番組であるTBSの『水戸黄門 第4部』も高視聴率をたたき出していた)。これに対し『あなたならOK!』は惨憺たる低視聴率で、番組そのものも半年で終了してしまった[4]

この結果、井原は見事に渡辺プロに勝利した。

なお、この間も『TVジョッキー』や『特ダネ登場!?』など井原が関わっていなかったバラエティ番組、読売テレビなどの系列局が制作した番組には、引き続き渡辺プロのタレントが出演していた他、渡辺プロのニューミュージック部門『NON STOPプロジェクト』所属歌手も引き続き出演していた。また、渡辺プロ傘下の渡辺企画と日本テレビは『前略おふくろ様』等のテレビドラマを共同制作していた。

日本テレビが「日本歌謡大賞」を担当した1977年に沢田研二(渡辺プロ所属)が「勝手にしやがれ」で大賞を受賞したときは、日本歌謡大賞直後の『ベストテン』に例外的に出演した。

[編集] 番組の終焉とその後

10年以上にわたって放送され人気を博したが、1977年頃からテレビ朝日『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』やTBSナショナル劇場(現:パナソニック ドラマシアター)』に視聴率を奪われ、マンネリ化となってテコ入れを余儀なくされたが回復せず、1981年3月に放送を終了、『ザ・トップテン』に引き継がれた。

キャプテンとして約12年出演した堺と、最後の1年間紅組キャプテンを担当した榊原は、そのまま『ザ・トップテン』の司会として残ることになる。進行担当の徳光も『ザ・トップテン』のコーナー出演者で残り、その後は『歌のトップテン』『歌のワイド90分!』『速報!歌の大辞テン』といった日本テレビの歌番組の司会を務めた。

番組終了から13年後の1994年3月31日には『木曜スペシャル』の最終回で今夜復活・紅白歌のベストテンと銘打ち、一夜限りの復活を遂げた。その事に関しては、

また、その前年の1993年12月31日放送の『スーパー電波バザール 年越しジャンボ同窓会』では、「ウソ発見器」がダウンタウンのコーナー司会で1回だけの復活を果たした(なお質問は、小林完吾のナレーションでなく、ダウンタウンが担当)。

1992年の『24時間テレビ「愛は地球を救う」』番宣CMでは、同年のテーマが「愛の歌声は地球を救う」であったことから番組パーソナリティのダウンタウン・松本人志が『ベストテン』のテーマ曲を口ずさみ、相方の浜田雅功に「最高!」と投げやりな口調でツッコミを入れられていた。

[編集] 主なスタッフ

[編集] ネット局

系列は放送終了時のもの。
放送対象地域 放送局 系列 備考
関東広域圏 日本テレビ 日本テレビ系列 制作局
北海道 札幌テレビ 1972年3月まではフジテレビ系列とのクロスネット局
青森県 青森放送 日本テレビ系列
テレビ朝日系列
1975年3月までは日本テレビ系単独加盟局
岩手県 テレビ岩手 日本テレビ系列 1969年12月開局から
1980年3月まではテレビ朝日系列とのクロスネット局
宮城県 ミヤギテレビ 1975年10月から[5]
秋田県 秋田放送
山形県 山形放送 日本テレビ系列
テレビ朝日系列
1980年3月までは日本テレビ系単独加盟局
福島県 福島中央テレビ 1971年10月からネット開始[6]
山梨県 山梨放送 日本テレビ系列
長野県 テレビ信州 テレビ朝日系列
日本テレビ系列
1980年10月開局から
静岡県 静岡県民放送 テレビ朝日系列
日本テレビ系列
現・静岡朝日テレビ
1978年7月開局から1979年6月まで
静岡第一テレビ 日本テレビ系列 1979年7月開局から
富山県 北日本放送 日本テレビ系列
福井県 福井放送
中京広域圏 名古屋放送 日本テレビ系列
テレビ朝日系列
現・名古屋テレビ放送
1973年3月まで
中京テレビ 日本テレビ系列 1973年4月から
近畿広域圏 読売テレビ 日本テレビ系列
鳥取県
鳥取県・島根県
日本海テレビ 日本テレビ系列
テレビ朝日系列
1972年9月18日放送分までの放送エリアは鳥取県のみ
1972年9月25日放送分から相互乗り入れに伴い島根県でも放送
広島県 広島テレビ 日本テレビ系列 1975年10月からネット開始[7]
山口県 山口放送 日本テレビ系列
テレビ朝日系列
1978年9月までは日本テレビ系単独加盟局
徳島県 四国放送 日本テレビ系列
香川県 西日本放送 当時の放送対象地域は香川県のみ[8]
愛媛県 南海放送
高知県 高知放送
福岡県 福岡放送
大分県 テレビ大分 フジテレビ系列
日本テレビ系列
テレビ朝日系列
1973年4月からネット開始
宮崎県 テレビ宮崎 ネット開始時期不明[9]

[編集] 脚注

  1. ^ ただしこの回は前夜祭で、様々な歌手が応援に駆け付けて放送した(10組以上)。内容は不明。
  2. ^ 1972年10月から1975年9月までは20:00 - 20:55、1975年10月以降は20:00 - 20:54。いずれも「NNNニューススポット」拡大のため。
  3. ^ ただし1973年は、12月17日に前倒ししてこの企画を行い、さらに最終週となった12月31日には「ヤング紅白歌合戦!」という企画を放送。1979年にはやはり12月24日に前倒しして行った。
  4. ^ ただし次番組『ビッグスペシャル』では、前期までワンコーナーとして不定期に行い、決勝大会は同番組で行われた。
  5. ^ 1975年9月まではNETテレビ系列とのクロスネット局だったため、この時間は「ワールドプロレスリング」を遅れネット(1975年3月まで)→「ビッグワイド60分」を同時ネット(1975年4月~9月)していた。
  6. ^ 福島テレビ (TBS系『ナショナル劇場』を同時ネットのため未放送) とのNNS・FNSネット交換による。
  7. ^ 1975年9月まではフジテレビ系列とのクロスネット局だったため、それまではこの時間はフジテレビ系水曜21時枠のドラマを遅れネットしていた。
  8. ^ しかし岡山県ではその西日本放送、讀賣テレビ放送、日本海テレビジョン放送、広島テレビ放送のいずれかを受信できれば視聴可能であった。
  9. ^ それまでは時差ネット番組 (フジテレビの番組等) が途切れ途切れに放送されていた。1979年4月にNNNにも加盟。

[編集] 関連項目

日本テレビ 月曜20時枠
【本番組よりトップテンシリーズ
前番組 番組名 次番組
NTV紅白歌のベストテン
日本テレビ 月曜20:55 - 20:56枠
おーい幸福!
(20:00 - 20:56)
NTV紅白歌のベストテン
(1969.10 - 1972.9)
【1分縮小して継続】
NNNニューススポット
(20:55 - 21:00)
【1分拡大して継続】
日本テレビ 月曜20:54 - 20:55枠
NTV紅白歌のベストテン
(20:00 - 20:56)
NTV紅白歌のベストテン
(1972.10 - 1975.9)
【更に1分縮小して継続】
NNNニューススポット
(20:54 - 21:00)
【更に1分拡大して継続】
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