井岡弘樹

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井岡 弘樹
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基本情報
本名 井岡 弘樹
階級 ミニマム級
ライトフライ級
身長 172cm
リーチ 174cm
国籍 日本の旗 日本
誕生日 1969年1月8日(45歳)
出身地 大阪府堺市
スタイル 右ボクサー
プロボクシング戦績
総試合数 42
勝ち 33
KO勝ち 17
敗け 8
引き分け 1
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井岡 弘樹(いおか ひろき、1969年1月8日 - )は、日本の元プロボクサー。元ストロー級日本王者・元WBC世界ストロー級王者・元WBA世界ライトフライ級王者。大阪府堺市出身。現役時代はグリーンツダボクシングクラブ所属。エディ・タウンゼントの最後の愛弟子。井岡ボクシングジム初代会長。現在はよしもとクリエイティブ・エージェンシー所属タレント(マネジメント契約)として活動する傍ら、井岡ボクシングトレーニングジム(通称:井岡弘樹ジム)の会長も務める。右ボクサータイプ。大阪経済大学経営学部第二部在学中。

人物[編集]

元々は野球少年で南海ホークス友の会会員。赤井英和に憧れ、中学2年で赤井の属する三和ツダジム(現・グリーンツダジム)入門。入門当初から将来のチャンピオンとして津田博明会長に期待され、多くの世界王者を輩出した名伯楽、エディ・タウンゼントの指導を受ける(後に、エディの指導した最後の世界チャンピオンとなる)。エディがデビュー前の少年の指導を任されることは異例であったが、井岡は津田会長の期待通りに成長し、当時の日本チャンピオンや世界ランカークラスのボクサーを圧倒する実力を身につけた。義務教育終了と同時に三和ツダジムで合宿し17歳でプロデビュー。関西の選手としては異例の、後楽園ホールでのデビュー戦(ミニマム級第1号選手、日本プロボクシング史上初の同級の公式試合)だったが、井岡は鮮やかにKO勝利を飾り、以降、連勝街道を走る。

恵まれた体格を生かしたアウトボクシング、軽量級らしい伸びのある左ジャブ・右ストレートを武器に日本最年少の18歳9か月WBC世界ミニマム級初代王者となった。また、WBA世界ライトフライ級王座も獲得、2階級制覇を達成した。また2階級制覇達成直後に(レパード玉熊のスカウトにより)国際ボクシングスポーツジム入門が決まりかけていた函館市在住のライトフライ級アマチュアボクサー(井岡に憧れボクサーを志した)山口圭司をグリーンツダへ導いた。

また、サウスポースタイルの対戦相手を苦手としており、ナパ・キャットワンチャイ戦以降は、所属ジム会長が世界戦(飯田覚士戦)以外はマッチメイクでサウスポーの選手を避けていたというエピソードもある。

  • 1987年、日本ミニマム級王者(これも、獲得時の最年少日本王者であり、日本最年少の世界チャンピオン獲得ともに今でも破られていない)
  • 1987年、WBC世界ミニマム級王者(2度防衛)
  • 1991年、WBA世界ライトフライ級王者(2度防衛)

現役時代の入場曲はTEENA MARIEの「LEAD ME ON」。映画『トップガン』挿入歌で、井岡のボクシングスタイルを象徴するような、リズム感に溢れる曲。

2002年8月25日、兄である井岡一法とともに井岡ボクシングジムを設立。初代会長を務めた。

2007年高校を卒業し、現在は大阪経済大学に在籍中[1]

2013年2月に行われた西日本ボクシング協会会長選挙で当選を果たし、4月1日より任期3年で就任[2]

2013年6月1日付で井岡ジムの会長職を一法に禅譲し、自身は「井岡弘樹ジム」を設立(実際は井岡ジムの別施設が独立して西日本協会加盟)して会長となる[3]

天然キャラで関西ローカルTVのバラエティ番組などにも時折出演する。月亭八光とは同番組で頻繁に絡んでおり「会長」と呼ばれている。

トランポリンが嫌い。『ごきげん!ブランニュ』(ABCテレビ)でトランポリンの企画に井岡が参加することになった際、ロケ先のトランポリンジムに自ら直接「今度のロケ中止になりました」と電話をかけたことがある。しかしこの時はロケは行われた。

現役時代のライバルに大橋秀行がおり、両者の対戦がファンから熱望されていたものの、実現しなかった。甥であり愛弟子でもある井岡一翔が統一戦を戦った相手は大橋の愛弟子、八重樫東であったため「20年越しの代理戦争」と報道された。[4]

家族[編集]

井岡家は村上水軍の末裔で父の代まで周防大島で漁業を営んでいた[5]

兄・一法も元ボクサーで、フェザー級で2戦2KO勝を残すも1年足らずで引退。井岡ジムのトレーナー兼プロモーターを務めた後、2013年6月1日より会長に就任し、井岡弘樹ジムのプロモーターも兼任。

一法の長男、すなわち甥にあたる井岡一翔もプロボクサーで井岡ジム所属。元WBC・WBA世界ミニマム級統一王者、WBA世界ライトフライ級王者。

2003年に結婚した妻は吹田市にある正福寺の住職の娘[6]

エピソード[編集]

  • 自宅の冷蔵庫には、ローマ教皇から渡された電話番号が書かれた紙が貼ってある。(「コバヤシケンドーのすべらない話」DVDより)

経歴[編集]

  • 1986年1月23日、17歳の誕生日を待ってプロデビューし、3回KOで勝利。
  • 1987年7月8日、小野健治を下し、日本ミニマム級王座獲得。これは日本プロボクシング史上最年少記録。
  • 1987年10月18日、9戦目にして世界初挑戦。WBC世界ミニマム級の初代王座決定戦に出場。マイ・トンブリフラム(タイ)を12回判定に降し、国内最年少新記録となる18歳9か月10日で世界王座獲得。また、日本のジムに所属する選手の9戦目での世界王座獲得は、具志堅用高と並ぶ国内最短記録(当時=現在は井岡一翔の7戦目)。
  • 1988年1月31日、初防衛戦。元IBF同級王者にしてWBC1位の指名挑戦者、李敬淵(韓国)に12回TKO勝ち。この試合が井岡の世界戦唯一のKO勝ち。病床の恩師エディ・タウンゼントに捧げる勝利で、この翌日にエディは死去。
  • 1988年6月5日、2度目の防衛戦。ナパ・キャットワンチャイタイ)と対戦し、引き分けで辛くも防衛成功。最終12回、挑戦者の強打でダウン寸前にまで追い込まれるも、終了のゴングが30秒早く鳴らされた疑惑の試合となった。
  • 1988年11月13日、3度目の防衛戦。ナパと再戦し、12回判定負け。王座から陥落した。
  • 1989年6月10日、世界再挑戦。ナパと三たび対戦したが、11回TKO負けで王座返り咲きならず。その後、村田英次郎の指導を受ける。
  • 1991年12月17日、WBA世界ライトフライ級王者柳明佑(韓国)に挑戦。17度防衛中の絶対王者をアウトボクシングで攻略。圧倒的不利の予想を覆し、12回判定勝ち。日本人3人目の世界2階級制覇達成。
  • 1992年3月31日、初防衛戦。ノエル・ツニャカオ(フィリピン、マルコム・ツニャカオの兄)と対戦し、12回判定勝ち。
  • 1992年6月15日、2度目の防衛戦。元WBAミニマム級王者金奉準(韓国)と対戦し、12回判定勝ち。
  • 1992年11月18日、3度目の防衛戦で前王者・柳と再戦したが、12回判定負けで王座陥落。
  • 1993年6月23日、日本人初の3階級制覇を目指し、フライ級で世界挑戦。WBA世界同級王者デビッド・グリマンベネズエラ)に挑むも、8回TKO負け。3階級制覇達成ならず。
  • 1995年10月17日、WBA世界フライ級王座に再挑戦。前年にグリマンを降して王者となったセーン・ソー・プルンチット(タイ)に挑むも10回TKO負け。またも3階級制覇は達成されず、その後、一時的にマック・クリハラの指導を受ける。
  • 1997年2月25日、WBA世界フライ級王座に三たび挑戦。前年にセーンを降して王者となったホセ・ボニージャベネズエラ)に挑むが、7回TKO負けでまたしても3階級制覇達成はならなかった。その後、フライ級での世界王座奪取を断念し、スーパーフライ級に転向。
  • 1998年4月29日、WBA世界スーパーフライ級王者飯田覚士に挑戦。フルラウンドにわたり一進一退の攻防を展開するも、12回判定負け。
  • 1998年12月19日、かつてのジムメイトでもある徳山昌守とノンタイトル戦を行い、5回TKO負け。世界戦以外の試合で初の敗戦を喫した。この試合後、控え室で所属ジムの津田博明会長と報道陣をシャットアウトして30分間の話し合いを持ち、井岡は引退を決意。津田会長曰く「井岡とは、普通の試合(=世界戦以外の試合)に一度でも負けたら引退すると決めていた」。

戦績[編集]

プロボクシング 戦績
42 試合 (T)KO 判定 その他 引き分け 無効試合
33 17 1
8

獲得タイトル[編集]

  • 日本ミニマム級王座(防衛0度=返上)
  • WBC世界ミニマム級王座(防衛2度)
  • WBA世界ライトフライ級王座(防衛2度)

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

前王者
階級新設
初代WBC世界ミニマム級王者

1987年10月18日 - 1988年11月13日

次王者
ナパ・キャットワンチャイ
前王者
柳明佑
第11代WBA世界ライトフライ級王者

1991年12月17日 - 1992年11月18日

次王者
柳明佑