輪島功一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

輪島 功一
基本情報
本名 輪島 公一(わじま こういち)
通称 炎の男
階級 スーパーウェルター級
国籍 日本
誕生日 1943年4月21日(66歳)
出身地 樺太(ソ連領になり北海道に移住)
スタイル オーソドックス(右変則ボクサータイプ)
プロボクシング戦績
総試合数 38
勝ち 31
KO勝ち 25
敗け 6
引き分け 1
  

輪島 功一(わじま こういち、男性、1943年4月21日 - )は、日本の元プロボクサーで現在はタレント兼団子屋経営者。本名は輪島 公一(読み同じ)。北海道士別市出身。身長170cm。血液型はB型。世界スーパーウェルター級王座を3度獲得(1度目と2度目はWBAWBC統一王座。3度目はWBAのみ)。"炎の男"の異名を持ち、"かえる跳び"等で知られる変則右ボクサー。具志堅用高ガッツ石松、輪島功一の三人でボクシング界の重鎮として共演することが多い。

目次

[編集] 来歴

生まれ故郷の樺太が3歳の時にソ連領となり、北海道に移住。士別開拓作業に彼の両親は苦労。過酷な労働を強いられるも暮らしは楽にならず、一時期久遠村(のちの大成町、現在は合併によりせたな町)に養子に出された。

養父母に養われていた中学時代は夕方から明け方まで漁師の仕事(本人曰くアルバイト的なものではなく家族で生計を立てるためのもの)もした。大人たちは明け方から寝るが、輪島少年は学校へ行く時間。寝る時間は授業中しかない生活(本人談)が続く。

放課後、漁に出るまでの時間、友達と野球をして楽しむ。その当時から超人的なスタミナや並外れたど根性が培われた。

「みんな、俺の事を苦労したんだなあと言ってくれるんだけど、当時、俺は苦労だとか思った事がなく、当然誰もがしてる事だと思ってた」(自伝より)。

いつもはケンカなどはしない輪島少年だが、友達をいじめたり暴れたりする上級生がいれば「許さん!」と立ち上がり、1対1でバスケットボールのゾーンで殴りあい、相手を負かして「正義の味方」と呼ばれた。決して乱暴者や不良ではなく、腕白だが友達思いの優しい少年であった。

のちに所属する三迫ボクシングジムの会長・三迫仁志は輪島を評し、「輪島のすごいところは苦労人に在りがちな暗い表情が全く無く底抜けに明るくてひょうきんなところだ。たくさんの友人がいて、みんなが楽しそうにしてるのを見たら輪島の人柄がわかるでしょう」と愛弟子を自慢げに語る。

士別高校中退し上京。トラックの運転手などいくつかを経て、住み込みの土木作業員として働いていた。輪島本人が後年語ったところによれば、当時は若く体力が有り余っており、一日中過酷な肉体労働をしても疲労を感じないことに奇妙なストレスを感じていたのだという。そしてある日、作業現場からの帰り道にあったことから頻繁に練習風景を眺めていた三迫ボクシングジムに入門。この時のことを輪島は「一所懸命稼いだ金を、酒や博打のような下らないことに使いたくなかった。道場に通えば、疲れてくたくたになるまで思う存分ボクシングに没頭できる。毎日見ていて面白そうだったし、丁度いいじゃないかと思った」と述懐している。その後輪島は楽しげにジム通いを続け、半年後にはプロライセンスを所得するまでに腕を上げる。そしてボクシングを始めて約1年後にあたる1968年6月15日、プロボクサーとしては極めて遅い25歳という年齢でデビュー。その後7連続KO勝ちを収め、翌1969年には全日本ウェルター級新人王に輝いた。なおこの時期輪島は勤務していた建設業社の社長からボクシングでの活躍を認められ、正社員に昇格。社員として身分を保証すると共に、プロボクサー活動に専念することを許された。

1969年9月4日、日本スーパーウェルター級王座獲得。一度は王座防衛に失敗するも、すぐさま奪回に成功。

1971年10月31日、東京・両国の日大講堂で世界初挑戦。WBAWBC世界スーパーウェルター級王者カルメロ・ボッシイタリア)に挑む。素早いダッキングで相手の視界から消え、次の瞬間跳ね上がるようにしながらパンチを繰り出す「かえる跳び」で一躍有名になる。試合は15回判定勝ち。世界王座奪取に成功。この頃から三迫会長の実兄の長男三迫将弘が輪島の付け人やスパーリングパートナーを務めていた。しかし、当の試合は郡司信夫に「あんなのはボクシングではない」と酷評されてしまった。しかし、輪島はそんな言葉をあざ笑うかのように、今度は正統派のボクシングで防衛を重ねていくことになる。

1972年5月7日の初防衛戦ではドメニコ・チベリア(イタリア)を開始109秒でKOし、その後、通算6度の防衛に成功。

1974年6月4日オスカー・"ショットガン"・アルバラード米国)を挑戦者に迎え、7度目の防衛戦を行う。しかし最終15回KO負けを喫し、王座から陥落。この試合で輪島が負ったダメージは深く、試合後病院に直行しそのまま入院するほどだった。一時は医師から引退を勧められるも、退院後間もなく再起に向けトレーニングを再開。この頃輪島はアルバラード戦で得た教訓から、現在でいうインターバルトレーニングを導入している。

そして王座陥落から7か月後の1975年1月21日、アルバラードと再戦。15回判定勝ちで雪辱し、WBA・WBC王座返り咲きに成功。しかし輪島陣営が次期挑戦者を当時WBA世界ランキング1位の柳済斗と発表したのに対し、WBCコミッション側は同団体世界ランキング1位だったミゲル・デ・オリベイラとの対戦を要求。両者話し合いを行うも解決を得ず、輪島は王座獲得からわずか2か月後の3月22日にWBC王座剥奪という憂き目をみた。

同年6月7日の初防衛戦で柳済斗(韓国)と対戦。しかし7回KO負けを喫しWBA王座から陥落、これにより両世界タイトルを失う。だが、翌1976年2月17日、柳と再戦し15回KO勝ち。2度目の世界王座返り咲きを果たす。5月18日の初防衛戦でホセ・デュランスペイン)に14回KO負けを喫し、三たび世界王座から陥落した。

1977年6月7日、3度目の世界王座返り咲きを懸け、WBA王者のエディ・ガソニカラグア)に挑むも、11回KO負けを喫し、結局この試合を最後に引退。

最終戦績は31勝(25KO)6敗1分。

現在は東京西荻窪で『輪島功一スポーツジム』を運営。後進の指導に当たる一方、だんご店『だんごの輪島』経営、『東日本ボクシング協会』前会長、さらには芸能界でのタレント活動と幅広く活躍中。大相撲の横綱・輪島として活躍した輪島大士と従兄弟と言っていたことがあるが、後に本人が語った所によれば、2人が同じ苗字でプロスポーツで頂点に立ち、タレント活動をしていた事と共通点が多いため従兄弟という設定で売り出したとの事(本人は横綱の事を「ひろし」と呼び、横綱には「こうチャン」と呼ばれていた為、交友は有った)。しかし、この説明は、輪島直幸を含む3人が従兄弟である、と横綱現役の頃から言われていたという事実と矛盾する。

2006年11月、元世界王者の渡嘉敷勝男玉熊幸人飯田覚士戸高秀樹らとともに、袴田事件の再審を求める要請書を、最高裁判所に提出。元ボクサー袴田巌の無罪獲得のため活動を続けている。

[編集] スタイル

輪島のボクシングスタイルは非常に変則的なもので、両腕を回すように動かしつつ不規則なウィービングで上体を振るファイティングポーズが最大の特徴である。この独特のリズムで相手を幻惑し、突如繰り出す強烈な左右のストレートで顔面を狙い打つという展開を好んだ。自身の代名詞ともいえる「かえる跳び」などのトリッキーな技の数々に埋もれがちだが、全盛期に見せた瞬時の突進力とピンポイントを打ち抜く正確な強打は特筆に価する。また、軽中量級の選手としては比較的ジャブを多用しない部類に入る。

[編集] テクニック

輪島は試合の中で時折繰り出す、既存のボクシングの常識ではありえない変則的なテクニックでも話題になったことが有名である。ここでは特に著名と思われる代表的なものに絞って解説する。

カエルパンチ(かえる跳びパンチ)
極端に身をかがめたダッキングで相手の視界から消え、瞬時に跳び上がるようにパンチを繰り出す技。輪島の代名詞といっても過言ではないほど有名な技だが、実戦で繰り出したのはカルメロ・ボッシ戦で試合中盤に見せた一度だけである。「カエルパンチ」「かえる跳びアッパー」とも呼ばれる。ただし「かえる跳びアッパー」という記述については、実際に輪島が繰り出したパンチはロングレンジ気味の左フックであるため適切な表現とは言い難い。なお通称の由来は当時の試合中継の解説者が「輪島がまるでカエルのように跳び上がりました」と発言したことから。
あっち向いてホイ
試合中自らあらぬ方向に視線を向けることで、釣られてそちらを見た相手の隙を突くという技。「よそ見パンチ」とも呼ばれる。輪島本人が語るところによれば、ある時タクシーのバックミラー越しに見えた運転手の視線の動きが非常に気になったことから着想を得たという。初めて使用したのは1971年のカルメロ・ボッシ戦。輪島は引退後、ボッシに仕掛けたこの奇襲戦法について「相手はオリンピックで銀メダルまで取った選手で、テクニックじゃ絶対かなうわけが無い。じゃあ駄目で元々だ、やるだけやってみようと思ってパッと横を向いたんです。そうしたら向こう(ボッシ)もそっちを見たんですよね。やってみるもんだな、と思いましたよ」と語っている。なおボクシングにおいて視線を一瞬逸らすフェイントは攻防技術としてポピュラーなものだが、「よそ見」と形容されるほど大きく視角を変えてしまう例は非常に珍しい。
猫じゃらし
おもむろに自らの眼前に片腕を掲げた後、素早くパンチやダッキングなどに移行する技。試合展開が均衡した状況で好んで使用した。

[編集] 逸話

  • オスカー・アルバラートに完全KOされ、入院を余儀なくされた際に医師が輪島夫人に「あんなダメージを負った以上、今後ボクシングを続ければ命に関わる。奥様からも引退を考えるよう諭してほしい」と持ちかけた。夫人が「傷付けないよう、それとなく告げよう」と考えながら病室に戻ると、輪島はベッドの上で黙々と腕立て伏せをしており、夫人は説得するどころか呆れてしまったという。
  • 柳済斗にKO負けを喫した際にも周囲から引退を勧められたが、輪島は断固拒否している。「あなたは人気者だから金はボクシング以外でも稼げるだろう」と言われると、輪島は「無くした金は諦めてしまえばそれで済むが、意地というものは無くしたら一生手元には返ってこない」と言い返し現役続行の態度を貫いた。
  • 柳済斗との再戦時、記者会見にマスクをして現れ、風邪を引いて体調不良であるように装った。
  • 洒落っ気のある性格で、世界タイトルマッチ勝利後にファンとの約束でリング上にて歌を披露した事もあり大いに人気を集めた(後に亀田大毅も歌を披露しているが、亀田は他の歌手の歌なのに対して、輪島の場合は自らの持ち歌『炎の男』)。
  • 日本中を感動の渦に巻き込んだ柳済斗との第2戦の翌日、都内で強盗が銀行に立て籠もる事件が起こった。このとき警察官が犯人に対し「お前も昨日の輪島の試合を見ただろう。輪島を見習い人生をやり直せ」と説得したという。あまりにも劇的な輪島の王座復活は、当時の国民的関心事だったことが伺える。
  • 本名の「公一」から「功一」に改名した理由は、ある試合でリングアナウンサーに「ハム一」とコールされたためである(本人談)。
  • ちょっととぼけたキャラクターで現在もバラエティ番組などに引っ張りだこの存在であるが、実生活においても、日課の犬の散歩がてら、ゴミ拾いを欠かさない好人物である。
  • 引退後は団子屋を始め、成功を収めている。現在は東京都国分寺市国分寺駅北口に団子屋『だんごの輪島』がある。輪島本人はジムに専念するため、店舗経営を義弟に任せているが、「ファイト最中」など輪島にあやかった商品もある。1994年に『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』の「だんごバスツアー」と称した企画にも団子屋が登場したことがある。1999年には『だんご3兄弟』が流行った頃、歌にあやかった団子「だんご3姉妹」を売り出し大売れした。
  • 笑点大喜利における座布団10枚の商品として、輪島揮毫による、「花より団子」掛軸が贈呈されたことがある(獲得したのは、春風亭昇太)。
  • TBS系ドラマ『3年B組金八先生』の第1シリーズ・第2話にボクシングジムのトレーナー役で特別出演したことがある(金八の教え子と実際にリング上でスパーリングも行った)。
  • 亀田問題ではどっちつかずの曖昧な発言を繰り返していた。
  • 引退セレモニーの10カウントの時、引退することの寂しさからか輪島は両耳をふさいでしまった。
  • フジテレビボクシング中継の解説者として、技術論を語る矢尾板貞雄に対し、苦労人らしく人情論を説いた。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

前王者
カルメロ・ボッシ
第9代WBA世界スーパーウェルター級王者

1971年10月31日 - 1974年6月4日

次王者
オスカー・アルバラード
前王者
カルメロ・ボッシ
第9代WBC世界スーパーウェルター級王者

1971年10月31日 - 1974年6月4日

次王者
オスカー・アルバラード
前王者
オスカー・アルバラード
第11代WBA世界スーパーウェルター級王者

1975年1月21日 - 1975年6月7日

次王者
柳済斗
前王者
オスカー・アルバラード
第11代WBC世界スーパーウェルター級王者

1975年1月21日 - 1975年3月22日(剥奪)

空位
次タイトル獲得者
ミゲル・デ・オリベイラ
前王者
柳済斗
第13代WBA世界スーパーウェルター級王者

1976年2月17日 - 1976年5月18日

次王者
ホセ・デュラン
他の言語