袴田事件

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袴田事件(はかまだじけん)は、1966年静岡県清水市(現静岡市清水区)で発生した強盗殺人放火事件、およびその裁判で死刑が確定した袴田 巖(はかまだ いわお)死刑囚が冤罪を訴え再審を請求している事件である。2009年5月現在最高裁判所に出した再審請求は棄却されている。

目次

[編集] 事件および裁判経過

袴田死刑囚は30歳で逮捕されて以来40年以上にわたって拘束され(現在東京拘置所に収監中)、死刑確定後は精神に異常を来しはじめ、親族・弁護団との面会にも応じない期間が長く続いた。現在は面会には応じるものの、拘禁反応の影響による不可解な発言が多く、特に事件や再審準備などの裁判の話題については全くコミュニケーションが取れなくなっている。このため、2009年3月2日より姉が保佐人となっている。

[編集] 裁判の主な争点

  • 自白は強要されたものか。
    • 任意性に関する争点 : 自白調書全45通のうち、裁判所は44通を強制的・威圧的な影響下での取調べによるもの等の理由で任意性を認めず証拠から排除したが、そのうちの2通の調書と同日に取られ、唯一証拠採用された検察官調書には任意性があるのかなど。
    • 信用性に関する争点 : 自白によれば犯行着衣はパジャマだったが、1年後に現場付近で発見され、裁判所が犯行着衣と認定した「5点の衣類」については自白では全く触れられていない点など。
  • 凶器とされている栗小刀で犯行は可能か。
  • 逃走ルートとされた裏木戸からの逃走は可能か。
  • 犯行着衣とされた「5点の衣類」は警察の捏造か。弁護側は「サイズから見て被告人の着用は不可能」など、多数の疑問点を指摘している。

[編集] 拷問

袴田容疑者への取調べは過酷をきわめ、炎天下の中、平均12時間、最長17時間にも及んだ。さらに取調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で排泄させるなどした。

睡眠時も精神異常者のとなりの部屋にわざと配置させ、一切の安眠もさせなかった。そして勾留期限がせまってくると取調べはさらに過酷をきわめ、朝、昼、深夜問わず、2、3人がかりで棍棒で殴る蹴るの取調べになっていき、袴田容疑者は勾留期限3日前に自供した。

[編集] 支援の動き

  • 1979年、ルポライターの高杉晋吾が事件の冤罪性を指摘した記事を『現代の眼』に掲載し、死刑確定後に支援組織「無実のプロボクサー袴田巌を救う会」を設立する。
  • 1981年から日本弁護士連合会が人権擁護委員会内に「袴田事件委員会」を設置し弁護団を支援する。
  • 1991年3月11日、日本プロボクシング協会会長の原田政彦(ファイティング原田)が、後楽園ホールのリング上から再審開始を訴え、正式に袴田の支援を表明する。
  • 2006年5月、東日本ボクシング協会が会長輪島功一を委員長、理事新田渉世を実行委員長とする「袴田巌再審支援委員会」を設立する。同委員会はボクシングの試合会場(後楽園ホールなど)で袴田の親族、弁護団所属の弁護士や救援会関係者らとともにリング上から早期再審開始を訴えているほか、東京拘置所への面会やボクシング雑誌の差入れなどを行っている。
  • 2006年11月20日、輪島を始め5名の元ボクシング世界チャンピオンらが、早期再審開始を訴える約500筆の要請書を最高裁に提出する。
  • 2007年2月、一審静岡地裁で死刑判決に関わった元裁判官熊本典道(判決言渡しの7か月後に辞職)が「彼は無罪だと確信したが裁判長ともう一人の陪席判事が有罪と判断、合議の結果1対2で死刑判決が決まった(下級審は形式上は全会一致)。しかも判決文執筆の当番は慣例により自分だった」と告白。袴田の姉に謝罪し再審請求支援を表明する。
  • 2007年6月25日、元裁判官熊本は、袴田の再審を求める上申書を最高裁に提出。
  • 2008年1月24日、日本プロボクシング協会が、後楽園ホールで支援チャリティーイベント「Free Hakamada Now!」を開催。日本ボクシングコミッションが袴田に対し名誉ライセンスを贈呈する。
  • 2008年、拷問の廃止を目指して行動するキリスト者(Aktion der Christen fuer die Abschaffung der Folter = 略称 ACAF)という名称の人権団体が、袴田巌のための署名活動を国際的に展開する。また死刑制度そのものに反対する国際アムネスティ協会も彼の釈放を求めている。ただし袴田巌が世界にその名を知られているなどということはない。袴田巌がカトリックの洗礼を獄中で受けたために、日本ではカトリックの司教などが再審の署名集めに尽力してきた。

[編集] ボクサーとしての袴田巌

袴田巖は中学卒業後にボクシングを始め、アマチュアでの戦績は15戦8勝(7K0)7敗。1957年 静岡国体に出場。その後プロに転向し、戦績は29戦16勝(1KO)10敗3分。最高位は日本フェザー級6位。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク

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