亀田興毅

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亀田 興毅
基本情報
本名 亀田 興毅
通称 浪速乃闘拳
階級 フライ級
国籍 日本
誕生日 1986年11月17日(22歳)
出身地 大阪府大阪市
スタイル サウスポー
プロボクシング戦績
総試合数 19
勝ち 19
KO勝ち 13
敗け 0
  

亀田 興毅(かめだ こうき、男性、1986年11月17日 - )は、日本プロボクサー大阪府大阪市西成区天下茶屋出身。亀田三兄弟の長男で、亀田大毅亀田和毅は弟、亀田史郎は父にあたる。身長166cm、体重50〜52kg。平常時は60kg。血液型B型。

目次

来歴

  • 11歳の時、父・史郎からボクシングを教わるようになる。
  • 大阪市立天下茶屋中学校時代の3年間は、空手とボクシングの練習を並行して行っていた。
  • 14歳の時、井岡弘樹エキシビションマッチを行った。
  • 中学卒業後、ボクシングに専念するため高校には進学せず、社会人ボクシングで活動した。
  • 2002年全日本実業団選手権フライ級優勝(当時15歳6か月)、全日本社会人選手権フライ級ベスト4。
  • 2003年全日本実業団選手権フライ級優勝、第55回全日本社会人選手権フライ級優勝(16歳10か月)。
  • 17歳の誕生日(2003年11月17日)にプロボクサーとなる。
  • 2005年4月28日に大阪のグリーンツダジムから東京協栄ジムへ移籍。この時、3,000万円という移籍金が支払われたと報道された[1]
  • 2006年8月2日に元WBAミニマム級暫定王者ファン・ランダエタとの世界戦を行い、12R判定で勝利(2-1)、WBAライトフライ級チャンピオンとなった。
  • 2006年12月20日、東京・有明コロシアムにて、ファン・ランダエタ(ベネズエラ・同級1位)との再戦が行われ、12R判定で勝利(3-0)。
  • 2007年1月18日、協栄ジムで行った記者会見で王者返上を表明。3月24日に両国国技館で行う予定の試合はノンタイトルの10回戦で、フライ級に階級を戻して臨むことを発表した。
  • 2007年10月11日、弟・亀田大毅の世界タイトル戦のセコンドにつき、「肘でもいいから目に入れろ」と不適切な指示をしたとして日本ボクシングコミッション(JBC)より厳重戒告処分を受けた。また、10月25日に予定されていた自身の試合も「対戦相手が決まらなかった」との理由で中止となった。
    なお、行われる予定であった試合については、10月26日の記者会見で以下のことが明らかになった[2]
    • 中止になった理由については、処分待ちの時点でリングに上がれないと亀田側が一方的に判断していただけであった。
    • 対戦相手は決まっており、相手も試合に向けて調整を行っていたが、試合のキャンセルの連絡を入れていないなど主催者側にも不手際があった。
  • 反則指示に関して、初めはブログで否定していた。しかし2007年10月26日、協栄ジムで行った記者会見で10月11日の亀田大毅の世界戦において反則行為を指示したことを認め、一家を代表して謝罪した。その際、協栄ジムは興毅に「3か月間の試合自粛」の処分を下したと発表した。

パフォーマンス

  • 公共・公式の場であっても敬語を使用しないなどの態度については賛否両論がある[3]。亀田本人は「敬語は尊敬できる相手だけに使えば良い」と主張している。
  • これらを「TV用のパフォーマンスである」とする声もある。2006年8月2日のタイトルマッチの翌日の読売新聞に「個別の取材ではとても丁寧な言葉づかいで好感が持てた。もうこんなキャラを演じるのは止めたらどうか」という内容の記事が掲載されている。
  • カルロス・ファハルドが同席した世界前哨戦の記者会見において、減量に苦しんでいたとされるファハルドの目前で骨付きチキンを食べ、清涼飲料水を一気飲みするパフォーマンスを行った[4]。また同戦の前日計量においては、ファハルドの写真を貼ったフライパンを素手で折り曲げた。
  • ライトフライ級タイトルマッチとなったファン・ランダエタ戦の前日計量においては、ハンバーガーを食べながらキューピー人形(ファン・ランダエタのあだ名『ベイビー』にちなんだもの)を渡したが、ランダエタはジョークと受け取り笑って対応した。ランダエタは返礼として、試合前の計量の時に紙おむつとおしゃぶりを手渡そうとしたが、興毅はそれを見るなり受け取ることなく床に叩きつけた。その後、史郎がランダエタに興毅との握手を催促するが、ランダエタは拒否。それに対して史郎はランダエタに対し強く恫喝した[5]
  • 好物は納豆とされており[6]テレビ番組による納豆ダイエット捏造問題に関し2007年1月24日の公開練習後に「納豆がかわいそう」と発言し、愛好会の設立を宣言した。
  • 2007年10月26日での謝罪会見において、これまでの一連の挑発行為やパフォーマンスについて、興毅は「相手にプレッシャーを与えるつもりでやったが、今思うとやり過ぎた部分もあった。反省している。」とコメントしている。
  • 大阪プロレスに所属するゼウスは、興毅と顔が似ていることで知られている。実際に「亀田ゼウス」というリングネームを付けられそうになったことがある。

プロ戦績・試合内容

  • 1戦目:デンナロン・シスソバ(タイ 0勝2敗)
  • 2戦目:プラカルン・ツインズジム(タイ 0勝3敗)
  • 3戦目:サミン・ツインズジム(タイ 0勝4敗)
  • 4戦目:ダオチャイ・KTジム(タイ 0勝5敗)
  • 5戦目:ノパデッチレック・チュワタナ(タイ 確認できる戦績なし/当時タイ国フライ級2位)
  • 6戦目:ヨードゲン・シンワンチャー(タイ 0勝4敗)
    • 6戦目までの対戦相手の戦績は、海外の好事家によって運営されているWeb上のボクシングデータベース“BoxRec”で確認可能な試合分のみで公式記録ではない。
  • 7戦目:(2005年6月20日):サマン・ソーチャトロン(タイ 46勝7敗1分/元世界王者だが、長期ブランクと戦績低迷により当時はノーランカー[7]
  • 8戦目(2005年8月21日):ワンミーチョーク・シンワンチャー(タイ 12勝2敗/当時OPBF東洋太平洋フライ級王者&WBC同級世界ランカー)
    • テレビ中継の視聴率:10.6%(関東地区)
    • タイトル獲得。この後防衛戦を行わず王座返上。
  • 9戦目(2005年11月26日):ノエル・アランブレットベネズエラ 21勝4敗1分1無効/元WBAミニマム級王者&当時WBAライトフライ級世界ランカー)
    • 視聴率:8.5%(関東地区)
  • 10戦目(2006年3月8日):カルロス・ボウチャン(メキシコ 21戦16勝5敗/当時WBC傘下地域団体のフライ級ラテン王者&WBC同級世界ランカー)
    • 視聴率:24.8%(関東地区。以下はゴールデンタイムの放送)
    • 当初、対戦相手として予定されていたのは、後にWBC世界ライトフライ級王者となるエドガル・ソーサだったが、直前でキャンセルされたため、ボウチャンに代わった。
    • この試合中、亀田が放ったボディブローが下腹部への反則打撃(ローブロー)ではないかという意見が寄せられた。しかしこの試合のレフェリーを担当した試合役員・浅尾和信は亀田に対して注意・警告を行わなかった。またこの試合ではVTRが流されなかった。
  • 11戦目(2006年5月5日):カルロス・ファハルド(ニカラグア 24戦15勝6敗1分2無効/当時IBFライトフライ級世界ランカー&WBCフライ級世界ランカー)
    • 視聴率:33.0%(関東地区)
    • ファハルドは、2005年の試合(KO負け)以来の試合。試合後、ファハルドは練習期間が1週間しかもらえなかったと発言している[要出典]
  • 12戦目(2006年8月2日):ファン・ランダエタ(ベネズエラ 24戦20勝3敗1分/元WBAミニマム級暫定王者&当時WBAライトフライ級1位)
    • 視聴率:42.4%(関東地区)、42.9%(関西地区)
    • WBAライトフライ級タイトル獲得。10代で世界王者となった日本人選手は、ファイティング原田(19歳6か月)、井岡弘樹(18歳9か月)に次ぎ3人目であり、日本人選手との対戦が一切ない戦績での達成は初。この試合後から、その判定結果について業界内外から多数の賛否意見が寄せられた(「ファン・ランダエタとの対戦」参照)。
  • 13戦目(2006年12月20日):ファン・ランダエタ(ベネズエラ 25戦20勝4敗1分/元WBAミニマム級暫定王者&当時WBAライトフライ級1位 再戦)
    • 視聴率:30.1%(関東地区)、32.8%(関西地区)
  • 14戦目(2007年3月24日):エベラルド・モラレス(メキシコ 42戦28勝12敗2分/当時WBCフライ級13位)
    • 視聴率:16.2%(関東地区)
    • この試合後、レフェリングに関し父史郎がレフェリーを務めた浦谷信彰にした発言が問題となった[8]
  • 15戦目(2007年5月23日):イルファン・オガー(インドネシア 22戦16勝2敗4分/当時東洋太平洋ライトフライ級2位&インドネシア・ライトフライ級チャンピオン)
    • 視聴率:14.1%(関東地区)
    • 地元大阪で2年半振りの試合。1年ぶりのKO勝利。
    • ゲストの赤井英和はレフェリーストップのタイミングが早いと指摘した。
  • 16戦目(2007年7月28日):セサール・ロペス(アメリカ 24戦20勝4敗)
  • 17戦目(2008年3月22日):レクソン・フローレス(フィリピン 25戦18勝3敗4分/当時WBOライトフライ級2位&WBAライトフライ級13位)
  • 18戦目(2008年7月12日):マリノ・モンティエル(メキシコ 43戦30勝12敗1分)
    • 初の海外(メキシコ)での試合。
  • 19戦目(2009年3月4日):ドローレス・ビダル(メキシコ 7戦1勝6敗/当時WBCフライ級20位)

※ここまで全て勝利。 ※視聴率はビデオリサーチ調べ。

  • デビュー以来日本人選手との対戦が一度もなく、その知名度からしばしば日本人からの対戦要求を受けてはいるが、現在に至るまで日本人対決は一度も実現していない。特にWBC世界フライ級チャンピオンの内藤大助は、かつて興毅に「6回戦レベルの選手」などと挑発され、現在に至るまで数度にわたり公の場で対戦を希望していた。だが内藤は、亀田大毅との世界タイトルマッチにおいて目潰しや投げ技などの、選手生命にも影響を及ぼしかねない程の度重なる反則行為を受けた事から「自分の身体の方が大事。あんな反則を受ける位なら、もう二度と亀田家とは試合をするつもりはない」と現在では対戦拒否を表明している。その後、大毅が内藤に謝罪をして和解が成立したが、亀田一家との試合に関しては内藤は「現時点ではありえない」とコメントしている。
  • 興毅のデビューから8戦目まで対戦相手は全てタイ選手である。こればかりというわけではないが、JBCは2007年7月24日にタイ選手の出場を制限する処置をとっている。[9]

メディアの反応・評価

2000年前後から「大阪から世界を狙うボクシング一家」として、TBSが亀田親子に密着取材を続けており、特集を組んだ番組も何本か放映されていた。その後興毅がプロボクサーとしてデビューし、協栄ジムに移籍、それに伴って上京をしてからメディアに多く取り扱われるようになった。

だがその一方で、これはボクシングそのものにはまるで興味の無いファン層を開拓しただけの“ミーハー人気”であり、日本ランカーを観るために足繁く後楽園ホールに通うような熱心なボクシングファン層の獲得、またはボクシングジムの入門者を増やすといった底辺拡大には至っていないという声もある。事実、興毅が初の世界戦に臨んだ2006年8月当初の時点で、日本国内のボクシングジムには新井田豊(WBAミニマム級)、徳山昌守(WBCスーパーフライ級)、イーグル・デーン・ジュンラパン(WBCミニマム級)、長谷川穂積(WBCバンタム級)、名城信男(WBAスーパーフライ級)ら5人もの世界王者がおり、また、2006年7月に初防衛戦に失敗して引退したが同時期の世界王者として2006年1月に日本人最年長世界王座奪取を達成した越本隆志が在籍し、日本のボクシング界は何度目かの黄金時代を迎えていたにもかかわらず、テレビのボクシング中継で高視聴率を獲得するのは亀田兄弟関連の試合のみであった。その他の世界タイトルマッチは低視聴率に終わったり、時には地上波で全国中継されない試合もまま見受けられ、世界タイトルが絡まない試合が地上波で放送される事は稀になってしまっていた。

こうした中で起こった“亀田ブーム”に関し、亀田三兄弟の実力には業界内外で賛否の声が上げられている。週刊ポストは、この亀田人気やマッチメイクへの疑問を記事として掲載し、亀田のことを揶揄する記事を掲載していた。また、かつてWBAジュニアフライ級世界王座を13回防衛した具志堅用高は、毎日新聞のインタビュー記事で「金をかければ、そんなに簡単に世界挑戦できるのか」と厳しく批判していた。亀田側はこれら批判について「真面目にただボクシングをやっていってるだけ」と反論している。

2006年8月の世界戦前にはWBA首脳は「全階級を通じて最強の世界王者になれる」「3階級制覇もできるほどのグッドファイター」「元WBC世界ウェルター級王者リカルド・マヨルガと、無敗で4階級制覇したフロイド・メイウェザー・ジュニアの二人を足したような選手だ」などと発言していた。「まだまだ世界レベルじゃない」との評価もあったが、指導方法を変えれば伸びるとの意見は皆一貫していた。

同じく幼少時から父の手でボクシングの英才教育を施されてきた粟生隆寛帝拳ボクシングジム)とは、一部マスコミを中心に「西の亀田、東の粟生」と称され、互いに比較されることがある。

ファン・ランダエタとの対戦

初対戦

カルロス・ファハルドをフライ級の試合で下した後、階級を1つ下のライトフライ級に落とし、WBAライトフライ級2位にランキングされる。そして2006年8月2日、同級王者だったロベルト・バスケスの王座返上に伴って行われたタイトルマッチにて、同級ランキング1位で元ミニマム級世界暫定王者のファン・ランダエタと対戦し、2-1で判定勝利し、WBAライトフライ級王座を獲得した。試合前に興毅が「(勝ったら)ベルトはおやじに渡したい」と発言していたことを受けて、WBAは本来のチャンピオンベルト以外に父・史郎に対するベルトを事前に用意し、試合後にそれを贈呈した。また、インタビューでは泣きながら「ありがとうございます」と発言した。

判定結果に対するメディア・関係者からの反応

(※ボクシングの採点方法に関しては、ボクシングの採点方法も参照のこと)

この試合について毎日新聞読売新聞などのメディアは、最終ラウンドで一人のジャッジだけが興毅の方を高く採点していたこと等に言及し、試合の判定結果について疑問を呈する記事を掲載した。ボクシングマガジン2006年9月号では、表紙に大きな文字で「判定に疑義沸騰」と記され、試合レポートでも記者が「明確な差をもってランダエタが勝利していた」と述べた。試合を放映したTBSに視聴者から5万件を超える抗議電話の他、JBCにも多くの抗議が電話・メール等で寄せられた[10]

ボクシング関係者の反応は様々であり、元ボクシング世界王者の畑山隆則渡嘉敷勝男らは興毅の健闘をたたえ、渡嘉敷は公式判定の内容を支持する旨の発言をした。一方ガッツ石松薬師寺保栄平仲明信らは、5〜7点差でランダエタ優勢となった独自の採点結果をもとに、判定結果を批判した。また、今後のボクシング界に与える悪影響を懸念する旨の発言をした。井岡弘樹は、興毅の小差劣勢であるとしながらも、判定結果への批判はせず興毅の健闘を称えた。浜田剛史は「このままでは世界では通用しない」と指摘した。ファイティング原田や具志堅用高のように、試合に対して明言を避けた者も多い。

ボクシング関係者以外でも賛否は分かれ、朝青龍星野仙一橋下徹清原和博らからは擁護意見、やくみつる立川談志安部譲二やしきたかじん二宮清純らからは批判的な意見が寄せられた。このうち二宮清純は、8月2日はボクシングが死んだ日と話す一方で、判定についての抗議が多数発生した事に関して「日本人はフェアプレイを愛する」と評価した。

在ベネズエラ日本大使館には、ランダエタに宛てて2500通以上の応援の手紙やメールが寄せられた[11]。また在日ベネズエラ大使館には「こんな試合で日本人として申し訳ない」「国として抗議したらどうだろうか」という、ランダエタを激励する電話が100件単位で寄せられており、ベネズエラ大使館側も「こんなことは前例が無い」と話している。

協栄ジムの公式サイト掲示板は、判定に対する批判的な書き込みが集中的に行われたために閉鎖された。

再戦

WBAはこの試合の後に発表した2006年8月期の世界ランキングにおいて、ランダエタの世界ランキングを1位に据え置いた[12]。 WBAの規定では、王座決定戦で戴冠した新王者の初防衛戦は、ランキング1位の者と行う指名試合とするよう定められており、2006年8月31日、協栄ジムは、同年10月18日に東京有明コロシアムで初防衛戦を行い、ランダエタと再戦すると発表した。 しかし10月2日、興毅が9月29日のスパーリング中に目にけがをしたとして再戦を延期することが協栄ジムから発表された[13]。その後、再戦は12月20日に行われることになった。この会見の場に興毅本人は姿を現さず、治療に当たったとされる医師の診断書がジム側から提示されるにとどまったこと等に言及し、一部からはけがの信憑性について疑問の声が挙がった。 10月7日付のデイリースポーツ紙上にて「初公開!これが興毅抜糸写真だ」として、抜糸直後とされる興毅の顔写真が発表された[14]。また10月10日にも本人が記者の前で負傷箇所を公開している。2006年12月20日、興毅はファン・ランダエタと対戦、この試合ではヒットアンドアウェー戦法でポイントを稼ぎ、判定勝ちを収めた。

メディア出演

CM

  • 明治製菓 - XYLISH SHOW!(世界タイトル獲得後、特設サイトから動画が削除された)

脚注

  1. ^ "亀田が協栄ジムへ 移籍金3000万円". 読売新聞 (2005-04-29). 2007年11年11日 閲覧。
  2. ^ "亀田史郎辞任 興毅が丸刈り謝罪、反則指示認める". 産経新聞 (2007-10-26). 2007年11年11日 閲覧。
  3. ^ やくみつるは、テレビ番組内において、亀田に敬語を使うよう促した。
  4. ^ "亀田興毅、計量前日でも食べ放題!「5月5日やから5R以内に倒すよ」". スポーツナビ (2006-05-03). 2007年11年11日 閲覧。
  5. ^ "興毅、前日計量でランダエタの挑発に“マジギレ”". スポーツニッポン新聞社 (2006-08-02). 2007年11年11日 閲覧。
  6. ^ 乳幼児期に離乳食として母親に与えられたのがきっかけで好物となり、自宅には納豆専用のミニ冷蔵庫を備え、現在では一日3パックを食べているという。なお、母親は以前から納豆を食べる習慣があったが、父親の史郎は納豆が全く食べられない。
  7. ^ サマンは1990年代八尋史朗らを相手にライトフライ級王座を10度防衛したが、王座転落後、2002年4月12日の試合を最後に現役を引退。その後、約3年のブランクを経て35歳で現役復帰(復帰後の戦績は亀田興毅戦も含め3戦3敗2KO)。亀田戦の後に現役を退いている。
  8. ^ "亀田父が審判を脅迫 ライセンス停止のピンチ". J-CASTニュース (2007-04-12). 2007年11年11日 閲覧。
  9. ^ "パンチ当たらず倒れるタイ選手 9勝266敗5分驚愕の裏事情". J-CASTニュース (2007-07-25). 2007年11年11日 閲覧。
  10. ^ "亀田世界戦中継TBSに5万5000件の抗議". nikkansports.com. 日刊スポーツ新聞社 (2006-08-04). 2007年11月11日 閲覧。
  11. ^ "大使館にメール殺到「ランダエタ、君こそ王者だ」". 読売新聞 (2006-08-05). 2007年11月11日 閲覧。
  12. ^ 通常、直近の世界タイトルマッチに敗れた選手はランキングが2位ないし5位程度まで下がるものであるが、このランキングは単純に試合結果や担当ジャッジの判断だけで動くのではなく、試合内容やWBAによる試合の査定を元に判断する。そのため、試合の判定では負けとされても、WBAの裁量によっては、ランキングが下降しない場合がある。また、WBAには試合結果と別に試合を査定する権利があるため、試合の当事者が試合結果を不服とした場合、その不服申し立てが正当であれば再試合を命令するなどして、試合結果を改めさせることもできる。
  13. ^ 協栄ジム側の発表では、怪我の程度は左眼瞼挫創(がんけんざそう)で、八針縫うものだったとしている。
  14. ^ "初公開! これが興毅抜糸写真だ". デイリースポーツ (2006-10-07). 2007年11年11日 閲覧。

獲得タイトル

アマチュアボクシング

プロボクシング

  • 第33代OPBF東洋太平洋フライ級王座(0度防衛)
  • 第4代WBAインターコンチネンタルフライ級王座(0度防衛)
  • 第22代WBA世界ライトフライ級王座(1度防衛)

関連項目

外部リンク

前王者
ワンミーチョーク・シンワンチャー
第33代OPBFフライ級王者

2005年8月21日 - 2005年9月30日(返上)

空位
次タイトル獲得者
小松則幸
空位
前タイトル保持者
ロベルト・バスケス
第21代WBA世界ライトフライ級王者

2006年8月2日 - 2007年1月18日(返上)

空位
次タイトル獲得者
ファン・カルロス・レベコ
空位
前タイトル保持者
ブライム・アスロウム
第4代WBAインターコンチネンタルフライ級王者

2008年8月30日 - 現在

次王者
N/A