内藤大助

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内藤 大助
基本情報
本名 内藤 大助
通称 北の剛拳
最短男
国民の期待
リアルはじめの一歩
階級 フライ級
身長 164cm
リーチ 172cm
国籍 日本の旗 日本
誕生日 1974年8月30日(37歳)
出身地 北海道虻田郡豊浦町
スタイル 右変則ファイター
プロボクシング戦績
総試合数 42
勝ち 36
KO勝ち 23
敗け 3
引き分け 3

内藤 大助(ないとう だいすけ、1974年8月30日 - )は、日本の元プロボクサータレント北海道虻田郡豊浦町出身。元WBC世界フライ級王者(第36代[注釈 1])。元日本フライ級王者(第49代)、元OPBF東洋太平洋フライ級王者(第35代)。宮田ジム所属。血液型O型。異名は「北の剛拳」、「最短男」、「国民の期待」など(詳細は後述)。

目次

[編集] 来歴

[編集] 生い立ち

幼少期に両親が離婚。実母は民宿を営んでおり、1977年有珠山噴火による営業困難の中、貧しい母子家庭に育った。中学校時代には酷いいじめを受けていた。高校は北海道豊浦高等学校に進学しハンドボール部に所属、その傍ら、洞爺湖近くにあるホテルの厨房でアルバイトに従事する。高校卒業後にアルバイト先のホテルへの正規雇用内定していたが、些細な理由から上司と口論になり内定を取り消され、就職に失敗してしまう[1]

高卒後は定職にも就かずに漫然と日々を過ごしていたが、母親に叱咤され、半ば家から叩き出される形で上京。先に上京していた実兄の紹介で、離婚した実父の経営する会社に就職する。20歳を過ぎたある日、書店で目にしたボクシング雑誌に刺激を受け、自宅近くにあった宮田ボクシングジムに入門する[1]

[編集] プロデビュー後〜日本王座獲得

1996年10月11日、プロデビュー戦を1RKO勝ちで飾ると、1998年12月19日、全日本フライ級新人王決定戦で福山登(大阪帝拳)に1RKO勝ちし、9勝1引き分けの戦績で新人王を獲得。2001年7月16日、坂田健史協栄)の持つ日本フライ級王座に挑戦するも、引き分けで王座獲得ならず大串事件も合わせて参照)

2002年4月19日、敵地タイポンサックレック・シンワンチャー(タイ)の持つWBC世界フライ級王座に挑戦し、世界フライ級タイトルマッチ史上最短記録となる1R34秒KO負けを喫する#第1戦参照)。しかし、復帰戦でKO勝ちすると、その後も菊井徹平花形)を下すなど順調に勝ち進みランキングを上昇させる。

2004年6月6日、日本フライ級王者の中野博(畑中)に挑戦。内藤は中野から2度のダウンを奪うなど一方的に攻め続け、6Rに偶然のバッティングによる負傷判定勝ちを収め、29歳7か月にして日本王座を獲得。同年10月11日、小嶋武幸(横浜さくら)を相手に初防衛戦を行い、日本タイトルマッチ史上最短となる1R24秒KO勝ちを収めた。

2005年10月10日、WBC世界フライ級王者ポンサクレック・ウォンジョンカムに再挑戦するも、7R負傷判定で敗れる#第2戦参照)

2006年6月27日、OPBF東洋太平洋フライ級王者小松則幸エディタウンゼント)と、史上初の日本・東洋太平洋統一タイトルマッチを行い、小松を6RTKOで破り、日本・東洋太平洋王座の2冠を達成する。同年12月10日には東洋太平洋王座単独の防衛戦を行い、判定で初防衛。

2007年1月、自身の負傷および、日本・東洋王座の防衛戦の兼用が困難になったことを理由に東洋王座を返上。4月には世界王座獲得に専念するため、日本王座も返上した。

[編集] 世界王座獲得

同年、遂にポンサクレックとの3度目の世界タイトル戦が決定、地上波テレビ局での放映も決定していたが、直前になり局が放送を取り止めてしまいスポンサー集めが難航、およそ4000万円の経費を用意できず開催が危ぶまれる。内藤は会見で、「ファイトマネーはゼロでいい。リングに上げて下さい」と懇願した[2]。すると、ディスカウントストア大手のドン・キホーテがスポンサーに名乗りを上げ[3]、テレビ中継に関しても、東京都独立UHF局であるTOKYO MXテレビでの生中継が決定、事態は好転し、自身3度目となる世界タイトルマッチの開催へと漕ぎ着けた[4]

2007年7月18日、WBC世界フライ級王座3度目の挑戦で、王者ポンサクレック・ウォンジョンカムに12R判定勝ちし、32歳10か月にして悲願の世界チャンピオンとなる[5]#第3戦参照)。内藤はこの試合から白井・具志堅スポーツジム野木丈司トレーナーに師事し、綿密な作戦とスタミナの強化に努めてきた。

2007年10月11日、初防衛戦を行い、亀田三兄弟の次男・亀田大毅(当時:協栄)を相手に試合内容で圧倒、ほぼフルマークの3-0の判定で勝利した。なお、この試合で大毅は序盤からサミングローブローなどの反則行為を繰り返し行い、12Rでは内藤を抱えて投げ飛ばしている#次男・大毅との初防衛戦参照)

2008年3月8日に両国国技館で、前王者ポンサクレック・ウォンジョンカムと2度目の防衛戦。試合は12R判定でジャッジは内藤勝利1、ポンサクレック勝利1、ドロー1で引き分けとなったため、規定により2度目のタイトル防衛。ポンサクレックとはこれで4度目の対決となった第4戦参照)

2008年7月30日に国立代々木競技場第一体育館で、当時の日本王者清水智信(金子)と3度目の防衛戦。9Rまで清水のアウトボクシングに苦戦しポイントリードを許したが、10Rに誘いのカウンターを起点にしたラッシュでダウンを奪う。立ち上った清水に更に畳み掛けて2度目のダウンを奪い、逆転KO勝ちで世界王座3度目の防衛を果たした。なお、この日の興行ではダブルタイトルマッチとしてWBA同級王者・坂田健史の防衛戦も行われ、対立する同階級日本人世界王者の競演となった。

2008年12月23日に両国国技館で、元東洋太平洋ライトフライ級王者山口真吾(渡嘉敷)と対戦。初回から激しい打撃戦となるが、パンチの的確性で勝る内藤が序盤から主導権を握る。王者有利の展開で向かえた11R、ついに山口からダウンを奪うと、立ち上がってきたところに連打を叩き込み、レフェリーストップを呼び込んで1分11秒でTKO勝ち。世界王座4度目の防衛を果たした。

2009年5月26日、当時WBC世界フライ級10位の熊朝忠中国)を相手に5度目の防衛戦。当初は中国・上海での対戦予定であったが、現地のイベント代行業者の不手際によって、直前になり現地での開催を断念。急遽、東京のディファ有明において、前座試合無しのワンマッチ興行、試合チケットは全て当日会場で発売という異例の形で開催された。また、内藤は試合前、左足首と右の腸脛靭帯を傷めて走り込み練習が行なえないなど、コンディションは決して良くなかった。試合では、150cmの熊の再三に亘るバッティングなどでペースを掴めず、終始苦戦を強いられた。5Rに偶然のバッティングで右瞼をカット、6Rにはダウン[注釈 2]、更に11Rには口内をカットして出血し、同ラウンド終盤には熊の猛攻に防戦一方となった場面もあった。しかし、内藤は多彩なパンチを的確に当ててポイントを稼ぎ、全体的には優位に試合を進め、3-0の判定勝ちで5度目の王座防衛に成功した。

[編集] 世界王座陥落〜現役続行へ

2008年11月に開催されたWBC総会では、1位ポノムランクレック・クラティンデーンジムの他、同年5月に行われた挑戦者決定戦に勝利した2位フリオ・セサール・ミランダにも指名挑戦権を認めるとされていたが、ミランダの指名挑戦権は2009年4月に前王者ポンサクレックと暫定王座決定戦で対戦することが決まった時点で失効。この決定戦ではポンサクレックが暫定王座を獲得した。

WBCよりポンサクレックとの王座統一戦を行うことが義務付けられていたが、前述の熊戦の負傷の影響で延期が認められた。それを受け、ポンサクレックは8月28日に母国で升田貴久三迫)を相手に初防衛戦を行い、6回TKO勝ちで防衛成功。一方の内藤も統一戦の前に防衛戦を1試合行うことを認められ、11月29日、兼ねてから因縁深かった元WBA世界ライトフライ級王者亀田興毅(亀田大毅の兄)と対戦。試合は2Rに興毅の左ストレートが内藤の鼻を捉え、このパンチ以降鼻からの断続的な出血を強いられることとなる。その後も終始、パンチを当てては距離を置くアウトボクシングをする興毅を内藤が追い続ける展開となった。結局、興毅を捉えきれず0-3の判定で敗れて王座から陥落した#興毅との対戦〜王座陥落へ参照)

家族からは引退を勧める声もあり、進退に注目が集まっていたが、亀田興毅戦からちょうど2か月後の2010年1月29日、所属する宮田ジムで記者会見を行い、「打倒亀田」を掲げ現役続行を表明した[6]

同年5月9日、後楽園ホールで再起戦。リエンペット・ソー・ウィラポン(タイ)とノンタイトル10回戦を行い、5RKO勝ちしたものの、目標であった亀田興毅が階級を上げたこともあり、これ以降1年以上試合を行っていない。元世界王者であるため、JBCの規定でライセンスが失効する37歳を過ぎても再交付を申請することはできる。しかし、手続きを行っていないためライセンスを失った状態になっている[7]

[編集] 現役引退

2011年11月12日、ジャンクSPORTSの番組内で現役引退を表明。

[編集] ボクシングスタイル

172cmと、フライ級ではかなり長いリーチを誇り、それを活かした戦いをすると思われがちだが、ショートレンジでのフック・アッパーおよび打ち下ろし等も得意とし、そのファイトスタイルは分類が難しい。また、肩まで入れた長い射程のジャブ・大きな踏み込みと上体の倒しからよく伸びる右ストレート、視界の外から飛んでくる強烈な両フックは、頻繁に見られるブローである。キャリアの中では、右アッパーやクロスレンジでの左右のショートフック・上下の打ち分け等も要所で見せる。フライ級屈指のハードパンチャーでもあり、KO率は2010年5月現在で7割近くに達する。

内藤のスタイルは巷ではよく変則的と称されるが、基本的な思想は「攻防一体」である。常に上体を大きく動かしながらパンチを繰り出すためカウンターをもらいにくく、パンチ力を増し、反動を活かして追撃や回避あるいはその両方を素早く行うこともできる。ちなみに元世界王者の鬼塚勝也は、「内藤は体全体を使ってボクシングをする」と評している。また、コンビネーションのリズムの変化や豊富なフェイントなども、対戦相手を困惑させる要因となっている。中でもパーリングやウィービング、あるいはスリッピングなどのパンチから逃げずにかわし即反撃に繋げる技術に秀でており、試合では相手のパンチに即座に反応してパーリングしつつ、ほぼ同時に反撃のパンチを入れるシーンを頻繁に見ることができる。さらに王座奪取後は基本的なディフェンス技術に対する深い理解に加えて、額などの頭蓋骨の中でも硬くダメージを受けにくい場所でパンチを受けるといった緊急回避的なテクニックも備えた。

上記のように攻防一体のテクニックを誇る内藤であるが、攻撃中にガードが甘くなることがあり、相手へフェイントをかける際や、自らのパンチの打ち終わりにガードが下がる傾向が見られ、そこへ相手選手からのパンチを食らうことが多い。

[編集] 戦績

プロボクシング 戦績
42 試合 (T)KO 判定 その他 引き分け 無効試合
36 23 13 0 3 0
3 1 2 0
日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
1 1996年10月11日 1R 0:55 KO 西野龍三 (レパード玉熊) 日本の旗 日本 プロデビュー戦
2 1997年4月30日 2R 0:39 KO 押金励 (角海老宝石 日本の旗 日本 1997年東日本ジュニアフライ級新人王トーナメント予選
3 1997年6月17日 1R 0:42 KO 関裕介 (高崎) 日本の旗 日本
4 1997年8月1日 4R 判定1-0 榎本信行 (三迫 日本の旗 日本
5 1998年4月23日 1R 1:45 KO 安斉治明 (F赤羽) 日本の旗 日本 1998年東日本フライ級新人王トーナメント予選
6 1998年6月30日 1R 1:24 TKO 佐藤崇 (MI花形 日本の旗 日本
7 1998年8月7日 1R 2:20 KO 伊藤克憲 (角海老宝石) 日本の旗 日本
8 1998年9月28日 4R 判定2-0 久保田隆治 (沖) 日本の旗 日本
9 1998年11月8日 6R 判定3-0 佐藤宏章 (F赤羽) 日本の旗 日本 1998年東日本フライ級新人王トーナメント決勝戦
10 1998年12月9日 1R 1:00 KO 福山登 (大阪帝拳 日本の旗 日本 1998年全日本フライ級新人王決定戦
11 1999年4月5日 2R 1:36 TKO ジュン・オルハリーサ フィリピンの旗 フィリピン
12 1999年6月14日 7R 0:25 TKO ジョビー・マンチャ フィリピンの旗 フィリピン
13 1999年9月13日 1R 1:28 KO 李明星 韓国の旗 韓国
14 1999年12月15日 8R 判定3-0 田中潤 (ワタナベ 日本の旗 日本
15 2000年7月6日 6R 判定3-0 伊波秀吉 (具志川) 日本の旗 日本
16 2000年9月19日 3R 2:12 KO ヨドペット・チュワタナ タイの旗 タイ
17 2000年10月28日 3R 1:11 TKO サックモンコン・シンマナサック タイの旗 タイ
18 2000年12月5日 10R 判定 池田政光 (渡嘉敷) 日本の旗 日本
19 2001年2月13日 5R 2:37 TKO 殿台カローラ (殿台赤城) フィリピンの旗 フィリピン
20 2001年7月16日 10R 判定1-0 坂田健史協栄 日本の旗 日本 日本フライ級タイトルマッチ
21 2001年10月18日 5R 2:16 TKO ウィン・ネイションマン タイの旗 タイ
22 2002年4月19日 1R 0:34 KO ポンサクレック・シンワンチャー タイの旗 タイ WBC世界フライ級タイトルマッチ
/世界フライ級タイトルマッチ史上最短KO記録
23 2002年9月19日 7R 1:53 TKO タオチャイ・ソーソーゴージム タイの旗 タイ
24 2002年12月11日 10R 判定3-0 菊井徹平花形 日本の旗 日本
25 2003年2月26日 2R 0:34 TKO マノップ・シットゴーソン タイの旗 タイ
26 2003年9月2日 5R 1:15 TKO ソントーン・チタラダ タイの旗 タイ
27 2004年2月25日 2R 2:46 TKO 瓜生崇大 (輪島S) 日本の旗 日本
28 2004年6月6日 6R 2:33 負傷判定3-0 中野博 (畑中) 日本の旗 日本 日本フライ級タイトルマッチ
29 2004年10月11日 1R 0:24 TKO 小嶋武幸 (横浜さくら 日本の旗 日本 日本防衛1/日本タイトルマッチ史上最短KO記録
30 2005年4月11日 10R 判定3-0 榎本信行 (三迫) 日本の旗 日本 日本防衛2
31 2005年10月10日 7R 2:38 負傷判定0-3 ポンサクレック・ウォンジョンカム タイの旗 タイ WBC世界フライ級タイトルマッチ
32 2006年2月13日 10R 判定2-1 中広大悟 (広島三栄) 日本の旗 日本 日本防衛3
33 2006年6月27日 6R 1:38 TKO 小松則幸エディタウンゼント 日本の旗 日本 日本・OPBF東洋太平洋フライ級タイトルマッチ
/日本防衛4
34 2006年12月10日 12R 判定3-0 吉山博司 (ヨシヤマ) 日本の旗 日本 OPBF防衛1
35 2007年7月18日 12R 判定3-0 ポンサクレック・ウォンジョンカム タイの旗 タイ WBC世界フライ級タイトルマッチ
36 2007年10月11日 12R 判定3-0 亀田大毅 (協栄) 日本の旗 日本 WBC防衛1
37 2008年3月8日 12R 判定1-1 ポンサクレック・ウォンジョンカム タイの旗 タイ WBC防衛2
38 2008年7月30日 10R 0:57 KO 清水智信 (金子) 日本の旗 日本 WBC防衛3
39 2008年12月23日 11R 1:11 TKO 山口真吾 (渡嘉敷) 日本の旗 日本 WBC防衛4
40 2009年5月26日 12R 判定3-0 熊朝忠(ユウ・チョウチュウ) 中華人民共和国の旗 中華人民共和国 WBC防衛5
41 2009年11月29日 12R 判定0-3 亀田興毅亀田 日本の旗 日本 WBC王座陥落
42 2010年5月9日 5R 2:12 KO リエンペット・ソー・ウィラポン タイの旗 タイ

[編集] 獲得タイトル

  • 東日本フライ級新人王
  • 全日本フライ級新人王
  • 日本フライ級王座(防衛4=返上)
  • OPBF東洋太平洋フライ級王座(防衛1=返上、日本・東洋の現役2冠を達成)
  • WBC世界フライ級王座(防衛5)
受賞歴

[編集] プロボクサーとして

現在のトレーナーは白井・具志堅スポーツジム野木丈司

異名は、古くから用いられていた「北の剛拳」の他に、自身が持つ世界フライ級タイトル戦の史上最短KO負け、並びに日本タイトル戦の史上最短KO勝ちの記録に由来する「最短男」、2007年10月に対戦が決定していた亀田三兄弟の次男・大毅と試合前から繰り広げていた舌戦の中で発した「国民の期待を背負うつもりで頑張りたい[9]」という言葉に由来する「国民の期待」、元いじめられっ子がボクシングを始め、全日本新人王を経て日本王者になる、という経歴が、森川ジョージ作の漫画『はじめの一歩』の主人公・幕之内一歩の設定と似通っていることに由来する「リアルはじめの一歩」などがある。中でも「最短男」に関しては、試合時に着用するボクサートランクスにも刺繍されており、内藤自身も代名詞にしている。また、「リアルはじめの一歩」については、内藤自身も『はじめの一歩』の大ファンで、連載中の週刊少年マガジン誌上において何度か取材や作者との対談に応じており、同作品への熱い思いも語っている[10]。なお、現在の内藤のサインは森川が考案したもので、当時の対談でその様子が確認できる。

入場曲は、C-C-Bが1985年にリリースした『Romanticが止まらない』。これは内藤がいじめに遭っていた中学時代、C-C-Bのラジオ番組にいじめについて相談する投書をし、それが採用されたことが嬉しかったからだという。

2008年に内藤が行った世界タイトルマッチ3試合の中継は、この年のTBSの年間視聴率トップ3を独占し、話題となった[11]

[編集] 各種記録

  • 世界フライ級タイトルマッチ史上最短KO記録(2002年4月19日、vs ポンサクレック・シンワンチャー、1R 0:34)
  • 日本タイトルマッチ史上最短KO記録(2004年10月11日、vs 小嶋武幸、1R 0:24[注釈 4]
  • 世界王座(JBC認定団体のみ)日本ジム所属選手最年長防衛記録(34歳8か月、2009年5月26日の熊朝忠戦で達成)

[編集] 好敵手・ポンサクレック

タイ国が誇る名ボクサー・ポンサクレック・ウォンジョンカムとは実に4度に亘り対戦をしている。内藤は彼を「礼儀正しく偉大な王者」と評し、一方のポンサクレックも内藤を「兄のような存在」と慕っており、リング外ではお互いを尊敬し合う間柄と言える。

[編集] 第1戦

2002年4月19日、無敗で世界初挑戦。敵地タイに渡り、WBC世界フライ級王者ポンサックレック・シンワンチャーに挑んだ(ポンサクレックは5度目の防衛戦)。初回、内藤は序盤から積極的に仕掛けるが、開始20秒付近で内藤が右アッパーを出した矢先、ポンサクレックが左フックを被せた。結果、強烈なカウンターとなり内藤はリング上で大の字になりながら失神。そのままKO負けとなった。KOタイムは34秒、世界フライ級タイトルマッチ史上最短のKO劇となってしまった。内藤は試合後、「何も覚えていません。すいません」とコメント、この敗戦で内藤は周囲からの厳しい批判と中傷に晒され、「日本の恥」とまで言われた[12]

[編集] 第2戦

3年半後の2005年10月10日、ポンサクレックに再挑戦[注釈 5]。初対戦時以降、ポンサクレックはさらに防衛を重ね、この試合が12度目の防衛戦となる。一方の内藤は前年6月6日に日本フライ級王座を獲得。初防衛戦では日本タイトル戦史上最短となる24秒でのKO勝ちを収め、2005年4月には2度目の防衛にも成功し、勢いに乗っていた。初回は内藤が前戦と同様にポンサクレックに対して積極的に攻撃を仕掛けた。右ストレートを好打し、ジャッジ三者とも内藤を支持(10-9)。しかし、続く2R、偶然のバッティングで内藤が大量の出血。これを境に内藤はみるみる動きが落ちていった。結果、ポンサクレックの攻勢が目立ち、7Rに試合がストップ。負傷判定で内藤の世界再挑戦は失敗に終わる。

[編集] 第3戦

2007年7月18日、三たびポンサクレックに挑戦。ポンサクレックの王座防衛回数はミゲル・カントメキシコ)の「14」を上回るフライ級史上最多の「17」にまで伸びていた。一方の内藤は、前年6月27日に小松則幸との日本・東洋太平洋フライ級ダブルタイトル戦に勝利。日本王座4度目の防衛を果たすと同時に東洋太平洋王座獲得を果たし、12月には東洋太平洋王座初防衛に成功していたが、内藤は引退を懸けてこの試合に臨んだという。第1戦・第2戦と違い、内藤は序盤から距離をとり、長いリーチと変則的なアウトボクシングで右ストレートと左フックで有効打を重ねていった。しかし、長期政権を築いていたポンサクレックも要所でコンビネーションブローを決め内藤を追いつめた。内藤は9Rに疲労とダメージによりストップ寸前(防戦一方)に陥ったが、そのラウンド内に逆襲に転じポンサクレックを劣勢に立たせる底力も見せている。試合は判定に縺れ込み、結果、3・3・2差の3-0判定で内藤の勝利。内藤は32歳10か月にして悲願の世界チャンピオンとなった。判定結果を聞いた内藤は自分の右の頬をつねり、「夢ではない」ことを確かめる素振りを見せ[12]、勝利者インタビューでも「夢じゃないかと…。勝っているかどうかは分からなかった。夢中でした」とコメントした。なお、この試合は2007年度の年間最高試合に選出された。

[編集] 第4戦

亀田大毅との初防衛戦を制した内藤は、WBCの規定により、2008年3月8日に前王者ポンサクレックと2度目の防衛戦を行った。試合は、前回対戦とは体の切れが違うポンサクレック、そして、さらに進化を遂げた内藤の、ハイレベルな技術戦となった。序盤から中盤に掛けては、お互い手の内を知り尽くしているため、中々とパンチが当たらない展開だったが、中盤以降にお互いのパンチが当たり出しヒートアップ。そして一進一退のまま判定となり、結果1-1の三者三様で引き分け。内藤が2度目の防衛に成功した。なお、当時はポンサクレック側がオプション(興行権)を握っていたが、この勝利により、興行権は宮田ジムに移った。

[編集] 亀田家との因縁

[編集] 長男・興毅への対戦要求

事の発端は2005年1月、当時日本王者だった内藤に対し、同時期にそのビッグマウスと派手なパフォーマンスで、良くも悪くもボクシング界の話題の中心にいた亀田三兄弟の長男・興毅が週刊誌のインタビューで「あんなの弱い。パンチもないしな」と評したのを受け、内藤が興毅に対戦を呼び掛けたことに始まる。しかし亀田陣営は、「誰やそれ? 興味無いわ」「6回戦レベル」などと歯牙にもかけない態度を貫いていた[13][14]。これに対し内藤も負けじと、当時流行していたお笑い芸人波田陽区の持ちネタ「ギター侍」に扮し、「結局逃げられて…残念! 亀田君、たまには日本人とやろうよ…斬り!!」というキャッチコピーを載せたポスターを作製するなどして亀田陣営を挑発した[注釈 6]

内藤はポンサクレックへの3度目の挑戦を前に「世界王者になれたら亀田を挑戦者に指名する」と宣言し、有言実行を果たした。試合後、内藤は「これで立場が逆になった。チャンピオンになったのだから、どっしりと構えますよ。あっちが(戦いたいと)言ってくるまで待つ」とコメントし、これを受け興毅も「いつでもやってやる。別に逃げてないで」と挑戦者に名乗りを上げたが、実際には興毅ではなく次兄の大毅(当時WBCフライ級14位)との初防衛戦となった[15]

[編集] 次男・大毅との初防衛戦

両者はここでも舌戦を繰り広げ、内藤は「前に自分をゴキブリ呼ばわりしたけど[注釈 7]、ゴキブリはしぶといよ。地球が滅亡しても生き残るんだからね。ゴキブリが1番強いことを証明しますよ」、「亀田兄弟は何で日本人と戦わないのかと、みんなが思っている。ここで僕と戦わないと亀田の人気は下がるんじゃない」などと先制、すると大毅も「(取材記者から対策を聞かれ)ゴキブリに分析もクソもあるか。ゴキブリホイホイや」[9]、「あいつ、昔いじめられとったんやろ? 俺がリングでいじめたるよ。俺はいじめっ子や!」などと反撃した。

当の試合は、序盤から内藤の圧倒的な展開が最終Rまで続き、判定3-0で圧勝、初防衛を果たした。内藤は勝利者インタビューで「思った以上にやりにくかった。ただ、ポンサクレックより全然弱かったです」、「亀田に初黒星をつけて国民の期待に少しは応えられたと思います」とコメントし、観客から喝采を浴びた。(勝利がコールされた瞬間、内藤はコーナーポストに立ち「亀田なんて弱ええよ!!」と絶叫し拳を突き上げ、観客から歓声が上がったシーンが中継されている)その一方、大毅はこの試合で様々な反則行為を行い、更に亀田陣営がそれを指示していた事実も明らかになり[注釈 8]、日本中からの批判に晒された。内藤もこの反則について試合後の会見において、「レフェリーから見えない所でサミングしたり、太ももを叩いてきたりと反則が多かった」「(腫れ上がった両眼周辺を指して)これは全部サミング。試合中はずっと目ばかり狙ってきた」と怒りを露わにし、特に危険性が高い目を狙った反則を繰り返す行為を痛烈に批判した。「ボクシングは喧嘩ではなくスポーツ。(亀田側が)反省しないのなら、もう亀田兄弟とはやらない」と宣言するまでに至った。

しかし、同年10月17日に亀田父子が会見で謝罪したのを受け、「ああいう態度の亀田父子を見るのは初めて。僕はもう終わったことだからと割り切っている。いがみ合って終わりになったので『お疲れさま』と讃え合いたい」と述べ、和解に前向きな姿勢を見せた。大毅は会見の翌日に内藤宅を訪問し直接謝罪、また父・史郎も電話にて謝罪をしたとのことで、「気持ちは伝わりました。この問題はこれで本当に終わりです」とコメントし、内藤の対戦要求以来続いた遺恨は終息した[16]

この試合の後、『ジャンクSPORTS』で内藤は大毅戦とその後について触れ、反則行為を繰り返されたことに関して「どうしてこんなに反則上手いの、と正直びっくりした」と述べる一方で「(大毅は)ちゃんとしたボクシングを習っていない。才能や体力は十分なのに勿体無いなと思った」と語っている。内藤の弁によれば、試合中に視線を一瞬逸らすフェイントを仕掛けたところ大毅は全く反応せず、それを幾度となく繰り返した数ラウンド後に「視線でパンチを読むテクニックを元々知らないから引っかからないのか」と気付き、内心呆れてしまったという。

[編集] 興毅との対戦〜王座陥落へ

翌2008年7月30日に行われた3度目の防衛戦終了直後、内藤が勝利者インタビューを受ける中、突如長男・興毅がリングに上がり「次に試合をしよう」などと持ちかけるパフォーマンスを行う。興毅のこの行動に対し観客席からは歓声混じりの野次も飛び、試合を中継したTBSには視聴者からの抗議が寄せられたが、TBS側は「ハプニングで、設定しておいた訳ではない」と釈明している[17]

この出来事から更に年を経た2009年11月29日、興毅とWBCフライ級王座5度目の防衛戦を行う。前述の対戦呼び掛けから実に5年近い歳月を経て実現した試合であった。結果は、アウトボクシングに徹した興毅の作戦が功を奏し、0-3の判定で敗れ王座防衛に失敗した。

敗戦後は引退も匂わせる発言もしていた内藤だったが、王座陥落から2か月後の2010年1月29日、宮田ジムで記者会見を行い、興毅との再戦を目指し現役続行を表明したものの、当の興毅は3階級制覇を目指していたこともあってか、「俺の中では終わったことだし、正直興味が無い。ごめんやけど」と再戦には消極的であった[18]。しかし、興行権は当時内藤側が保持しており、興毅が同年2月に行う初防衛戦(対ポンサクレック)を制した場合には、2度目の防衛戦となる亀田側の指名試合を経て、3度目の防衛戦で再戦は実現可能であった[6]。だが、興毅がポンサクレックに敗れ、防衛に失敗したことにより、内藤側が描いていた“チャンピオン・亀田興毅から王座を奪取する”という青写真が崩れてしまった。2011年5月現在、興毅はWBA世界バンタム級王者であるため、今後内藤が階級を上げない限り興毅との再戦は困難である。

[編集] 人物像・エピソード

柔和な喋り方が特徴。母親は非常に厳しい人らしく、これまでに一度も母親から褒められたことが無い。日本チャンピオンになった時も「世界戦を制して初めて褒める価値がある、日本王者になったくらいで偉そうにするな」と言われ、逆に怒られたという[19]。夫人は1歳年上で、2000年に結婚、2人の男児を儲けている[20]。宮田ジムのボクササイズコースに通っているのを見掛け一目惚れしアタックを開始するが、当時夫人には交際相手がいたそうで、困惑していたとのこと(内藤本人は「ストーカー」と自嘲)。しかし、内藤の熱意に押され、その恋人と別れて内藤との交際を開始したという[21]。夫人の両親は都内で惣菜店を営んでおり、ボクシングだけで食えない頃はよく惣菜を分けてくれ、助けられたという。また、収入が不安定だったにもかかわらず、夫人との結婚を許してくれた義理の両親をとても敬愛しており、これまでの感謝の気持ちとして、テレビ朝日系列の人気番組『大改造!!劇的ビフォーアフター』を通じて店舗兼自宅のリフォームを「プレゼント」している。なお、本番組での著名人からのリフォーム依頼は内藤が初めてであり、後に「有名人の実家 リフォーム相談スペシャル」が企画される契機にもなった[22]

顔がお笑い芸人波田陽区に似ており、前述の亀田興毅へ対戦要求した際には、波田に扮してパフォーマンスを行っている。

本人によれば元々運動神経は良いとのことで、小学生時代には剣道の経験があり、三級を持っている[23]。また、高校時代にはハンドボール部で活躍した。

ボクシング及びタレント業で生計を立てられるようになる以前は、自動車整備会社やレンタカー店などでアルバイトをしていた。また、夫人も喫茶店で働いていたが、2人の収入を合わせても月収は12万円ほどにしかならなかったという[2]

トレーニングの一環として大相撲宮城野部屋に出稽古で訪れたのがきっかけとなり、同部屋所属の第69代横綱白鵬と親しくなる。その後、2008年6月2日に放送された『関口宏の東京フレンドパークII』へ共に出演。

[編集] タレント活動

2007年10月の亀田大毅戦での勝利を境にメディアへの露出が急増、実質的なタレント活動を行っている。なお、マネジメント業務は、内藤と同じプロボクサーの井岡一翔プロ野球選手岩村明憲らも担当するスポーツエージェント『エーケー・グローバル・エージェント(AK Global Agent)』が請け負っている。

[編集] テレビ

単発出演の番組は除く。

[編集] ラジオ

  • 内藤大助ラジオパンチドランカー(TBSラジオ
    • Kakiiin内(2007年12月5日 - 2008年3月28日・同年10月1日 - 2009年3月18日、毎週水曜日) - 10月1日放送分より『グリグリ』から移動
    • グリグリ 〜goody goody〜内(2008年4月21日 - 2008年9月1日、毎週月曜日)

[編集] CM

[編集] CD

[編集] 著書

[編集] 脚注

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[編集] 注釈

  1. ^ これは公式サイト上での表記で、元暫定王者ホルヘ・アルセを第35代王者と数えた場合。アルセを除いた場合は内藤が第35代王者となる。
  2. ^ ダウンを喫したのは対ポンサクレック戦の初戦KO負け以来、生涯で2度目。
  3. ^ 日本人ボクサーとしては辰吉丈一郎以来の快挙。
  4. ^ 全階級を通じての最短記録。
  5. ^ ポンサクレックはリングネームを「シンワンチャー」から「ウォンジョンカム」に改名。
  6. ^ 2005年4月11日開催・日本フライ級タイトルマッチの対榎本信行戦のポスター。
  7. ^ 内藤のトリッキーなファイトスタイルを揶揄したもの。
  8. ^ 父・史郎の「タマ(急所)打ったらええねん」や兄・興毅の「ヒジでもええから目に入れろ」などの発言。
  9. ^ パートナーは、6月2日の放送が白鵬、12月22日の放送が武蔵、2009年7月9日の放送が上原美優ガッツ石松、2010年5月31日が放送は天童よしみ
  10. ^ レスキューフォース応援団長も務めている。
  11. ^ iTunes Storeなどでのオーディオブック(朗読)版のダウンロード販売もあり。

[編集] 出典

  1. ^ a b テレビ朝日系列『国分太一・美輪明宏・江原啓之のオーラの泉』2008年11月29日放送分より
  2. ^ a b —内藤語録”. 日刊スポーツ. 2011年3月9日閲覧。
  3. ^ ドンキホーテ 応援' ファンの皆さまへ (PDF)”. ドン・キホーテ. 2011年3月9日閲覧。
  4. ^ —WBC世界フライ級タイトルマッチ— ポンサクレック vs 内藤大助”. TOKYO MX. 2011年3月9日閲覧。
  5. ^ “内藤奇跡!王座奪取”. 日刊スポーツ. (2007年7月18日). http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20070718-229142.html 2011年2月13日閲覧。 [リンク切れ]
  6. ^ a b “内藤大助 現役続行を表明”. スポーツニッポン. (2010年1月29日). http://www.sponichi.co.jp/battle/flash/KFullFlash20100129061.html 2011年2月28日閲覧。 [リンク切れ]
  7. ^ 内藤のライセンス失効状態=満37歳、復帰の予定なし-ボクシング”. 時事通信 (2011年8月30日). 2011年8月30日閲覧。
  8. ^ “長谷川が2年連続MVP 最高試合は西岡×ゴンサレス戦”. ボクシングニュース「Box-on!」. (2010年1月6日). http://boxingnewsboxon.blogspot.com/2010/01/blog-post_06.html 2011年2月28日閲覧。 
  9. ^ a b “新キーワード「ゴキブリ」(07年7〜8月)”. 日刊スポーツ. http://hokkaido.nikkansports.com/news/naito/road/road05.html 2011年2月28日閲覧。 
  10. ^ 2008年8号『はじめの一歩』第800回記念、同年14号(森川ジョージとの対談記事掲載)、同年16号「週刊少年マガジン創刊50周年記念特別企画」など。
  11. ^ 2008年 年間高世帯視聴率番組30(関東地区)”. ビデオリサーチ. 2011年2月13日閲覧。
  12. ^ a b TBS系列中居正広の金曜日のスマたちへ』2009年11月27日放送分より
  13. ^ “因縁勃発!(05年1月)”. 日刊スポーツ. http://hokkaido.nikkansports.com/news/naito/road/road01.html 2011年2月28日閲覧。 
  14. ^ “内藤陣営が挑発も亀田家「6回戦レベル」と逆襲(05年10月)”. 日刊スポーツ. http://hokkaido.nikkansports.com/news/naito/road/road03.html 2011年2月28日閲覧。 
  15. ^ “内藤が王座奪取!反撃開始(07年7月)”. 日刊スポーツ. http://hokkaido.nikkansports.com/news/naito/road/road04.html 2011年2月28日閲覧。 
  16. ^ “大毅との試合後も因縁が続き…最終章へ(07年10月)”. 日刊スポーツ. http://hokkaido.nikkansports.com/news/naito/road/road08.html 2011年2月28日閲覧。 
  17. ^ “亀田興毅登場に視聴者抗議 内藤世界戦中継のTBSに”. 47NEWS. (2008年7月30日). http://www.47news.jp/CN/200807/CN2008073001000925.html 2011年2月28日閲覧。 
  18. ^ “興毅、内藤との再戦に否定的「興味ない」”. デイリースポーツ. (2010年1月29日). http://www.daily.co.jp/ring/kameda/2010/01/30/0002676849.shtml 2011年2月28日閲覧。 
  19. ^ スタジオパークからこんにちは、2012年1月19日放送分にて自らコメント
  20. ^ TBS系列はなまるマーケット』2011年2月2日放送分「はなまるカフェ」より
  21. ^ 中部日本放送・TBS系列『ホンネ日和』2011年5月1日放送分より
  22. ^ 有名人の実家 リフォーム相談スペシャル”. 大改造!!劇的ビフォーアフター SEASONII(ABCテレビ). 2011年3月9日閲覧。
  23. ^ フジテレビ系列芸能界特技王決定戦 TEPPEN』2011年1月4日放送分での本人談
  24. ^ 一度は登りたい! にっぽん名山紀行(金時山・内藤大助親子)”. テレビ東京. 2011年5月28日閲覧。

[編集] 関連項目

スポンサー関連

[編集] 外部リンク

前王者
中野博
第49代日本フライ級王者

2004年6月6日 - 2007年4月25日(返上)

空位
次タイトル獲得者
吉田拳畤
前王者
小松則幸
第35代OPBF東洋太平洋フライ級王者

2006年6月27日 - 2007年1月20日(返上)

空位
次タイトル獲得者
ジョジョ・バルドン
前王者
ポンサクレック・ウォンジョンカム
第35代WBC世界フライ級王者

2007年7月18日 - 2009年11月29日

次王者
亀田興毅
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