坂田健史

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坂田 健史
2007年3月19日、後楽園ホールにて
基本情報
本名 坂田 健史
通称 Burning Fist
階級 フライ級, スーパーフライ級
国籍 日本
誕生日 1980年1月29日(29歳)
出身地 広島県安芸郡府中町
スタイル ボクサーファイター
プロボクシング戦績
総試合数 41
勝ち 34
KO勝ち 15
敗け 5
引き分け 2
  

坂田 健史(さかた たけふみ、男性、1980年1月29日 - )は、日本プロボクサー広島県安芸郡府中町出身。前WBA世界フライ級王者。協栄ボクシングジム所属。身長163cm。山陽高等学校卒業。愛称は“Burning Fist”。

目次

[編集] 人物

元WBA世界ミドル級王者の竹原慎二と同じ府中町出身である。総合格闘家中村和裕は坂田の卒業した府中緑ヶ丘中学校を1年先に卒業している。

高校入学と同時に入部したボクシング部は3か月で退部した[1]。高校3年生の時に竹原慎二の実父が経営する広島竹原ボクシングジムに入門し、ボクシングを再開した。引退後の竹原からは左のボディブローなどを指導された[2]。この年の夏休みに上京、関東近郊の20ものボクシングジムを見学した上で協栄ジム入門を決意した。

金平正紀前会長の最後の弟子である[3]

2006年7月に入籍、2007年7月にハワイホノルル挙式を行った。

協栄ジムのマネージャー大竹重幸指導の下、幅広くの選手達とスパーリングを行う。

坂田というボクサーの有り様について、デビュー10周年に当たる2008年、陣営は「王道」という言葉で表現した。この「王道」については、今できることを常に全力ですること[4]、自分の納得できるかたちで最高の強さを証明していくこと[5]、など詳細な解釈に各説ある。

[編集] 来歴

[編集] 新人時代

1998年12月5日、3RTKO勝利でプロデビューを果たした。

1999年1月18日、プロデビュー2戦目。金平正紀前会長がセコンドについた最後の試合となった。前会長はリングの上り下りにも困難をともなう病態でリングサイドから坂田を支えた[6]金平桂一郎会長にとっては、父親と2人でセコンドについた唯一の試合となった。坂田の勝利を見届けると前会長は入院したが、その時点で余命は2週間と医師から告げられていた。坂田は試合後に見舞っている。前会長は約2か月後の3月26日大腸癌のため65歳で亡くなった。

1999年11月6日、東日本フライ級新人王を獲得した。

全日本新人王獲得

1999年12月18日有永政幸との全日本新人王決定戦。序盤はリードされたが4Rから挽回し、最終回まで打ち合いが続いた。三者ともに58-57の判定勝利を収め、全日本フライ級新人王を獲得した。

[編集] 日本王座獲得

2001年4月9日セレス小林の世界挑戦決定にともない空位となった日本フライ級王座を同3位として、世界挑戦経験のある2位川端賢樹と争った。中盤以降は接近戦に持ち込み、最終回まで打ち合い、3-0で判定勝利を収めて無敗のまま日本王者となった。

2001年7月16日、1位内藤大助を迎えて無敗同士の日本王座初防衛戦。4Rまでは内藤が一方的な展開で試合を進め、坂田の出鼻に右ストレートを次々と合わせた。5Rから7Rは距離を詰めて手数で反撃。9R中盤、坂田がバッティングによるカットで流血。終盤は主導権を奪い合った。全体を通して坂田がぐらつく場面が目立った。96-96、96-96、95-97という0-1の判定で引き分け防衛を果たした。しかし、この判定に関し批判が起こった。詳しくは大串事件を参照。ちなみにこの試合はノーテレビであった。

トラッシュ中沼との1度目の試合

2002年4月30日WBA14位・WBC9位の日本王者としてWBA9位・WBC7位のトラッシュ中沼を迎えて4度目の防衛戦。大竹トレーナーは足を使うように指示していたが、中沼の堅いガードにパンチをブロックされて指示を守れず、初回から足を止めての打撃戦となった[5]。7R、9Rにはクリーンヒットを受け、最後まで頭をつけあう接近戦で激しく打ち合ったが、96-97、96-98、96-96の0-2で判定負けとなり、王座を失うとともに初黒星を喫した。

トラッシュ中沼との2度目の試合

2003年4月5日、WBC14位としてWBA2位・WBC4位の日本王者トラッシュ中沼への雪辱戦。体格の差を生かすために足を使ったボクシングを心がけた。序盤は動きが硬かったが、中沼の堅いガードの上から打ち続け、9Rに中沼の左フックがクリーンヒットとなった後も丁寧に反撃した。10Rは接近しての打ち合いとなり、97-95、97-96、96-95の3-0判定勝利で王座を奪回した。中沼はこの試合後に「ガードの上を軽く当てるだけでポイントになるなんて。やってられない」とのコメントを残した。

[編集] 世界王座挑戦

ロレンソ・パーラとの1度目の試合

2004年6月4日有明コロシアムでWBA世界フライ級王者ロレンソ・パーラに同2位として挑戦した。この時点でのパーラのプロ戦績は23勝(17KO)無敗だった。試合前のハワイキャンプではWBC世界ミニマム級王者イーグル京和、日本スーパーバンタム級王者中島吉謙も参加しての合同トレーニングが行われ、試合は佐藤修との「WBAダブル世界タイトルマッチ」として開催された。序盤からプレッシャーをかけ、ボディブローでダメージを蓄積させた。2Rには右アッパーを受けての骨を2か所折ったが、4Rには手数の減ったパーラをロープ際に後退させた。パーラは6Rに左フックをカウンターで受けるとロープに掴まるなどして防戦一方になり、これ以降は下がりながらカウンターを合わせ、クリンチを繰り返して試合を運び、10R終了のゴングの後には左フックで加撃する場面もあった。111-117、113-115、114-114の0-2という判定結果がコールされると場内にはブーイングが起こった。来場した元WBA・WBC世界ミニマム級王者の大橋秀行も「あれで勝てないなら、どうやればいいのか」と話した[7]6月9日下顎骨骨折のため4時間半の手術を受け、10か月のブランクを余儀なくされた。

ロレンソ・パーラとの2度目の試合

2005年9月19日、WBA世界フライ級王者ロレンソ・パーラに同3位として再挑戦。序盤は有効打でリードされたが、低く距離を詰めて反撃し、4R終盤にはパーラの足を鈍らせた。パーラは離れ際のパンチ、執拗なクリンチ、ホールディングで攻撃をかわした。終盤は下がるパーラを何度もぐらつかせ、11Rにパーラはローブローで減点1を受けた。パーラのグローブのテーピングが解ける場面もあり、攻撃は寸断されがちだった。手数と積極性では初挑戦以上のアピールがあったが、113-115、113-114、114-114の0-2で判定負けとなった。

2006年9月18日、WBA3位・WBC8位の時点で迎えた孫京辰(韓国スーパーフライ級1位)との復帰5戦目は52.0kg契約で行われた。好調な立ち上がりで、5Rに左ボディアッパーで孫をロープ際に後退させ、追撃を仕掛けたところでタオル投入となった。再起5連勝(4KO)で通算29勝(14KO)3敗1分。金平会長は「スーパーフライ級までであればWBAでもWBCでも早々にチャンスを作りたい」と話した[8]。2005年7月18日の児玉卓郎戦はじめスーパーフライ級相当の契約体重で戦われた4試合は安定した評価を受けた。

ロベルト・バスケスとの1度目の試合

2006年9月28日東京で開催されたWBA総会では世界タイトルマッチ会議が行われ、フライ級王者ロレンソ・パーラが故障した右靭帯の治療中であることを受け、暫定王座を設けることが確認された[9]

2006年12月2日フランスパリベルシー総合体育館で行われたWBA世界フライ級暫定王座決定戦を同3位として1位ロベルト・バスケスと争った。バスケスはこの年5月にWBA世界ライトフライ級王座を返上した強打のサウスポーで、この時点でのプロ戦績は23勝(17KO)1敗だった。序盤はバスケスに攻勢をとられたが、3Rからペースアップした。5R序盤にバランスを崩したところでバスケスの左ストレートがカウンターで掠り、ダウンとされてカウント8をとられたが、6R以降は徹底的に接近してボディを攻撃した。9Rにはバスケスが距離をとって攻め、カットでドクターチェックを受けたものの、12R終盤までバスケスをロープ際に詰めては連打を放った。判定は113-114、113-115、114-113の1-2でバスケスの強打を支持し、フランスの観客からはブーイングが起こった。結果的にダウンでの失点がなければ勝利もしくは引き分けだったため、レフェリングを不運とする声が高かった[10]。バスケス側も「(バスケスが)負けたと思った」と言うほど王座に接近し、正規王者パーラも後に「あの試合では坂田が勝っていたと思う」と話した[11]

[編集] 世界王座獲得

ロレンソ・パーラとの3度目の試合

2007年3月15日、予備検診の結果では両者ともに減量の影響も特になく好調だった[12]3月17日、調印式に続き、WBAスーパーバイザー、JBC、パーラ・坂田両陣営の4者立ち会いの下で、ルールミーティングが行われた。金平会長は、前日計量で体重を超過した場合、選手は適正体重に落とす最善の努力をし、試合の公平性を期すために当日にも体重を計測するよう要請したが、パーラ陣営の賛同が得られず、計量結果次第で改めて協議することとなった[13]3月18日15時から行われた前日計量でパーラは53.5kgと上限を2.7kg上回り、2時間後の再計量でも52.9kgと2.1kg上回ったため、計量失格によって王座剥奪となった。またこれによりパーラはファイトマネーを35%カットされた。前日に続いての4者協議の結果、試合当日17時に非公式の再計量を行い、バンタム級のリミットにあたる53.5kgを下回っていることを確認した上で両選手の試合出場とタイトルマッチの開催を認めるという極めて異例の措置がとられた。予備検診の結果同様、計量直前に行われたパーラの検診結果にも減量に苦しんだ形跡は特になかった[14]

2007年3月19日、前王者ロレンソ・パーラとの3度目の対戦は同3位として通算4度目の世界挑戦となった。前日に急遽取り決められた通り、この日17時に両選手が計量を受け、パーラが53.3kg、坂田が53.2kgとの結果をもって、ようやく変則タイトルマッチとしての決行をみた[15]。距離を置こうとするパーラに初回から接近し、脇腹にボディブローを集中させた。パーラはロープ際に後退し、クリンチで回避した。2Rにはパーラのガードを崩し、低い姿勢から執拗にボディを当てた。3R開始のゴングとともに坂田はダッシュしたが、パーラはコーナーの椅子から立ち上がれずにの痛みを訴えて棄権した。3R0分14秒、TKOで坂田が勝利、協栄ジム11人目の世界王者となった。

2007年3月26日、東京・青山の梅窓院を訪れ、金平正紀前会長の墓前に勝利を報告した。この日は、同郷の恩師・金平前会長の9回忌だった[16]

ロレンソ・パーラの3Rでの棄権について

前王者 ロレンソ・パーラの失態により、一部ボクシングファンから 坂田の王座奪取に関して 王者の格式が疑問視された。その理由は何より パーラが3R開始のゴングに応じられなった事が大きい。日本ボクシングの過去前例によると 来日した外国人王者の体重超過による タイトル剥奪のケース幾度か存在したが、その後の試合で "ダメージングブロー"をもらった訳ではなく 試合をあっさり放棄した王者は パーラが初めてである。

[編集] 世界王座防衛

ロベルト・バスケスとの2度目の試合

2007年7月1日、有明コロシアムで正規王者として暫定王者ロベルト・バスケスを迎え、WBA世界フライ級王座統一をかけた初防衛戦を行った。初回は動きが硬く、顎が跳ね上がる場面もあったが、打ち合いに応じるバスケスに対し、2R中盤からは接近しての速いコンビネーションで試合を支配した。9Rにはヒッティングでのカットもあったが、最終回までバスケスをロープ際、コーナーに詰めて連打を放つ展開が続き、116-112、116-113、115-113の3-0で判定勝利を収めた。

デンカオセーン・カオウィチットとの1度目の試合

2007年10月11日に行われたWBC世界フライ級タイトルマッチでの反則行為をめぐり金平会長がJBCから3か月間のクラブオーナーライセンス停止処分を受けたため詳細、2度目の防衛戦の調印式やルールミーティングでは、大竹トレーナーが会長代行を務めた[17]。JBCは、その後初めて行われる世界戦となったこの試合で反則再発防止策をとった[18]

2007年11月4日さいたまスーパーアリーナコミュニティアリーナで2位デンカオセーン・カオウィチットと対戦。この時点でのデンカオセーンのプロ戦績は41戦40勝(16KO)1敗(1KO)だった。JBCは反則再発防止策の1つとして試合開始の約30分前にリングを検査し、問題がなかったことを場内アナウンスで説明した[19]。初回にダウンを喫したが、4Rに左手親指脱臼したデンカオセーンの失速もあって後半にかけて盛り返した。7R、8Rにはバッティングでカットしながら12Rを戦い、113-113、114-112、112-115という1-1の判定で引き分け防衛を果たしたが、デンカオセーンのホールディングが12Rに減点されていなければ王座を明け渡していたという際どい試合でもあった[20]。この試合は選択試合として行われたが、後日WBAから指名試合と認定された。

2008年3月29日幕張メッセで7位[21]山口真吾を迎えて3度目の防衛戦。序盤は山口にペースを握られ、3R開始早々にダウンを喫し、5Rにはバッティングでのカットもあったが、中盤以降に盛り返し、3-0での判定勝利となった。実績差のある相手として内容が問われたが、スロースターターの性質が2試合続けて大きく現れ、課題を引き継いだ。この試合については、後に坂田自身「反省の多い試合だった」と語っている[22]

2008年7月30日国立代々木競技場第一体育館で3位久高寛之を迎えて4度目の防衛戦。3Rにバッティングによるカットで流血し、試合後には視界の半分は見えていなかったと語ったが、序盤から攻勢に出て安定した試合運びを見せ、3-0の大差判定勝利となった[23]。日本人の世界フライ級王者として4度の防衛は白井義男に並ぶ成績である。

デンカオセーン・シンワンチャーとの2度目の試合

2008年12月31日広島サンプラザホールリングネームを改めた指名挑戦者のデンカオセーン・シンワンチャーを再度迎えて5度目の防衛戦。広島開催の世界戦は1978年5月7日のWBA世界ライトフライ級王者具志堅用高以来30年ぶりで、また大晦日開催のボクシングの世界戦興行は国内初であった[24]。初回から激しい打撃戦となったが坂田の手数は少なく、デンカオセーンの強打を上下にいくつか受け、ラウンド終盤に連打を見せた。2Rには目の上を浅くカット。ボディ打ちでペースを掴みかけたが、ラウンド終盤、側頭部に右フックを受けてダウン。8カウントで立ち上がりはしたもののファイティングポーズをとれず、2R2分55秒、自身初のKO負けで王座を失った[25]

[編集] 再起

進退を保留していたが、2009年1月27日、現役続行を表明。スーパーフライ級転向も視野に入れ、世界王座復帰を目指して練習を再開した。

2009年6月14日、2年3か月ぶりの後楽園ホールでWBAフライ級5位・WBC同級9位として、WBOフライ級14位・韓国同級王者の全鎮萬とスーパーフライ級10回戦を行った。序盤は打ち合いに応じてパンチを受ける場面もあったが3R以降は優位に試合を進め、7Rには全をダウン寸前に追い込み、3-0の大差判定勝利で再起を果たした。

[編集] 戦績

プロボクシング:41戦34勝(15KO)5敗(1KO)2分

日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
1 1998年12月5日 3R 1:15 TKO 福田晃徳 (角海老宝石) 日本 プロデビュー戦
2 1999年1月18日 4R 判定3-0 奥田昭司 (金子) 日本
3 1999年5月17日 4R 判定2-0 黒岩宏 (輪島スポーツ) 日本 東日本フライ級新人王トーナメント予選
4 1999年6月29日 4R 判定3-0 大村宗史 (ワタナベ) 日本
5 1999年7月30日 3R 1:55 TKO 野口哲彦 (北澤) 日本
6 1999年9月27日 4R 判定3-0 小嶋武幸 (横浜さくら) 日本 東日本フライ級新人王トーナメント準決勝
7 1999年11月6日 6R 判定3-0 萩本俊雄 (フラッシュ赤羽) 日本 東日本フライ級新人王トーナメント決勝戦
8 1999年12月18日 6R 判定3-0 有永政幸 (関博之) 日本 全日本フライ級新人王決定戦
9 2000年2月21日 4R 0:34 TKO レオ・ラミレス フィリピン
10 2000年4月17日 8R 判定3-0 ホセ・クラシダJr. フィリピン
11 2000年6月19日 3R 3:09 KO キッド・パエス フィリピン
12 2000年8月21日 10R 判定3-0 久保田隆治 (沖) 日本
13 2000年10月16日 4R 2:53 TKO ジュン・マグシポック フィリピン
14 2000年12月18日 3R 1:01 TKO 金晟浩 韓国
15 2001年4月9日 10R 判定3-0 川端賢樹 (姫路木下) 日本 日本フライ級王座決定戦
16 2001年7月16日 10R 判定0-1 内藤大助 (宮田) 日本 日本王座防衛1
17 2001年10月15日 9R 0:30 TKO 八尋史朗 (帝拳) 日本 日本王座防衛2
18 2002年1月21日 10R 判定3-0 仲田端男 (石丸) 日本 日本王座防衛3
19 2002年4月30日 10R 判定0-2 トラッシュ中沼 (国際) 日本 日本王座陥落
20 2002年7月15日 7R 負傷3-0 田中光輝 (八王子中屋) 日本
21 2002年11月18日 2R 3:10 KO 金振浩 韓国
22 2003年4月5日 10R 判定3-0 トラッシュ中沼 (国際) 日本 日本フライ級タイトルマッチ
23 2003年9月15日 7R 3:00 TKO 岡田一夫 (ロッキー) 日本 日本王座防衛1
24 2003年12月15日 10R 判定3-0 伊藤克憲 (角海老宝石) 日本 日本王座防衛2/返上
25 2004年6月4日 12R 判定0-2 ロレンソ・パーラ ベネズエラ WBA世界フライ級タイトルマッチ
26 2005年4月18日 1R 1:51 KO ゴントラニー・ゴーグーマノン タイ
27 2005年7月18日 10R 判定3-0 児玉卓郎 (岐阜ヨコゼキ) 日本 52.5kg契約
28 2005年9月19日 12R 判定0-2 ロレンソ・パーラ ベネズエラ WBA世界フライ級タイトルマッチ
29 2005年12月19日 6R 2:20 TKO 長谷部弘康 (中外) 日本 52.0kg契約
30 2006年3月20日 5R 2:44 TKO 伊波秀吉 (具志川) 日本
31 2006年5月15日 6R 負傷2-1 吉田健司 (笹崎) 日本
32 2006年7月17日 5R 1:38 TKO 裵基錫 韓国 51.5kg契約
33 2006年9月18日 5R 2:13 TKO 孫京辰 韓国 52.0kg契約
34 2006年12月2日 12R 判定1-2 ロベルト・バスケス パナマ WBA世界フライ級暫定王座決定戦
35 2007年3月19日 3R 0:14 TKO ロレンソ・パーラ ベネズエラ WBA世界フライ級タイトルマッチ
36 2007年7月1日 12R 判定3-0 ロベルト・バスケス パナマ WBA防衛1/王座統一
37 2007年11月4日 12R 判定1-1 デンカオセーン・カオウィチット タイ WBA防衛2
38 2008年3月29日 12R 判定3-0 山口真吾 (渡嘉敷) 日本 WBA防衛3
39 2008年7月30日 12R 判定3-0 久高寛之 (仲里・ATSUMI) 日本 WBA防衛4
40 2008年12月31日 2R 2:55 KO デンカオセーン・シンワンチャー タイ WBA王座陥落
41 2009年6月14日 10R 判定3-0 全鎮萬 韓国 スーパーフライ級契約


[編集] 習慣・調整

デビュー以来スパーリングはスタミナアップ効果を高めるため、室温35度、ラウンド間のインターバル30秒で行っている[26]

特に激戦の続いた2007年には胸囲が1年間で5cm大きくなった。デビュー以来、直接の筋力トレーニングらしいことはほとんどせず、この1年間はサンドバッグを打つことはやめ、ミット打ちとスパーリングで動き回ってパンチを打つ練習に徹していた[27]

2008年のハワイキャンプ中には毎日1食はステーキで多い時は1度に700gを摂った。この時期の練習では左上腕が発達した。

デビューからの10年間で胸囲・脈拍の数値が大きく向上した。

世界戦の前日計量では、信頼できる測定値のないパリ開催のバスケス戦を除き、パーラが体重超過により計量失格となった戴冠試合までの3度はいずれもリミットの50.8kgでパスしていたが、同じくリミットでパスした久高戦以外の4度の防衛戦ではいずれも200gから100gアンダーでの通過であった。

2007年7月1日の初防衛・王座統一戦以降、「あこがれのグローブだった。世界タイトルマッチでしかできないこと」[28]との希望により、米国エバーラスト製8オンスのボクシンググローブが使われた。

[編集] 獲得タイトル

受賞歴

[編集] 関連メディア

テレビ番組
書籍
  • 『激闘 リングの覇者を目指して』 岩崎大輔著 SOFTBANK Creative刊 2008年3月7日発売 ISBN 978-4-7973-4784-5
  • 『拳の真相 わが父と11人のチャンピオンたち』 金平桂一郎著 双葉社刊 2009年1月14日発売 ISBN 978-4-575-30100-7
雑誌

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 引用・参考資料/脚注

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  1. ^ Divers eye 全力で生きるために p.1 坂田健史 WebマガジンDI-VE 2008年12月1日閲覧
  2. ^ 広島・安芸郡府中町出身には竹原慎二さんも スポーツ報知大阪版 2008年11月30日閲覧
  3. ^ 協栄ボクシングジム 坂田健史プロフィール 「キングメイカー・最後の愛弟子」
  4. ^ Divers eye 王道の誇り p.1 坂田健史 WebマガジンDI-VE 2008年12月15日閲覧
  5. ^ a b 『実話ナックルズ』 2009年2月号 「決戦直前独占インタビュー 偽りなき王者のプライド 坂田健史」ミリオン出版刊 2008年12月29日閲覧
  6. ^ 坂田、後半勝負で戴冠だ/「救世主? なりますよ」 スポーツナビ 2004年3月10日閲覧
  7. ^ 佐藤、2階級制覇ならず/坂田は大善戦も実らず 会長は判定に不満 スポーツナビ 2004年6月16日閲覧
  8. ^ 坂田5回TKO勝ち 世界へゴーサイン月刊ボクシングワールド」オフィシャルサイト 2006年9月18日閲覧
  9. ^ 坂田、暫定王座決定戦へ アスロウムが有力 「月刊ボクシングワールド」オフィシャルサイト 2006年9月28日閲覧
  10. ^ 坂田不運な1-2判定負け パリのWBA暫定戦「月刊ボクシングワールド」オフィシャルサイト 2006年12月3日閲覧
  11. ^ 世界王者パーラ、坂田戦へ順調な仕上がり/3.19WBA世界フライ級タイトルマッチ スポーツナビ 2007年3月13日閲覧
  12. ^ 両者好調-WBAフライ級戦予備検診 「月刊ボクシングワールド」オフィシャルサイト 2007年3月15日閲覧
  13. ^ WBA世界戦調印式で坂田とパーラが火花/プロモーター金平会長は体重厳守を強く要請 スポーツナビ 2007年3月17日閲覧
    3度目対戦に必勝宣言 パーラに挑む坂田 共同通信 2007年3月17日閲覧
  14. ^ パーラが世界戦の前日計量で失格! 王座はく奪/両選手53.5kgでタイトルマッチを実施 スポーツナビ 2007年3月18日閲覧
    パーラ2.1キロ超過で王座剥奪 「月刊ボクシングワールド」オフィシャルサイト 2007年3月19日閲覧
  15. ^ パーラ53.3キロ-WBAフライ級午後9時ゴング 「月刊ボクシングワールド」オフィシャルサイト 2007年3月19日閲覧
  16. ^ 金平先代会長墓前に勝利報告 新王者坂田 「月刊ボクシングワールド」オフィシャルサイト 2007年3月26日閲覧
  17. ^ 金平会長が坂田の世界戦調印式会見を自粛 日刊スポーツ 2007年10月30日閲覧
  18. ^ 試合前ミーティングを敢行、レフェリー・ジャッジに経緯説明の上で反則取り締まりを厳格化した。他に公開リングチェック、試合後グローブチェックの3つの点で防止策を敷いた。
    JBCが坂田防衛戦で超厳戒態勢 日刊スポーツ 2007年11月4日閲覧
  19. ^ JBCがリング検査を公開 日刊スポーツ 2007年11月5日閲覧
  20. ^ 坂田王座死守!-WBA世界フライ級戦 「月刊ボクシングワールド」オフィシャルサイト 2007年11月5日閲覧
  21. ^ 坂田への挑戦決定にともない、WBAのランキング委員会により、ライトフライ級8位から移された。
  22. ^ 【Design Studio】プロボクシングWBA世界フライ級チャンピオン 坂田健史氏 Vol.03-1 世界戦での激闘を振り返って SOFTBANK LIBRA 2008年6月閲覧
  23. ^ 坂田完勝!大差の判定勝ち 日刊スポーツ 2008年7月31日閲覧
  24. ^ 坂田、新兵器左アッパーで速攻V5だ デイリースポーツ 2008年12月30日閲覧
  25. ^ 坂田、2回KO負け 防衛失敗 中国新聞 2009年1月1日閲覧
  26. ^ 坂田が内藤の挑戦者清水をスパーで圧倒 日刊スポーツ 2008年7月8日閲覧
  27. ^ 坂田が2度目防衛へ7cmUP胸囲を自慢 日刊スポーツ 2007年11月2日閲覧
  28. ^ 坂田とバスケス、世界王座統一戦の調印式で火花/手の内を知り尽くした者同士の頂上決戦 スポーツナビ 2007年6月29日閲覧
空位
前タイトル保持者
セレス小林
第45代日本フライ級王者

2001年4月9日 - 2002年4月30日

次王者
トラッシュ中沼
前王者
トラッシュ中沼
第47代日本フライ級王者

2003年4月5日 - 2003年12月(返上)

空位
次タイトル獲得者
中野博
空位
前タイトル保持者
ロレンソ・パーラ
第69代WBA世界フライ級王者

2007年3月19日 - 2008年12月31日

次王者
デンカオセーン・シンワンチャー