長谷川穂積

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長谷川 穂積
基本情報
本名 長谷川 穂積
階級 バンタム級
国籍 日本
誕生日 1980年12月16日(28歳)
出身地 兵庫県西脇市
スタイル サウスポー
プロボクシング戦績
総試合数 29
勝ち 27
KO勝ち 11
敗け 2
  

長谷川 穂積(はせがわ ほづみ、男性、1980年12月16日 - )は、日本プロボクサー兵庫県西脇市出身。身長167.5cm、リーチ169cm。現WBC世界バンタム級王者。真正ボクシングジム所属。

2005年4月16日に14連続防衛中だった伝説の王者ウィラポンに勝ってWBC世界バンタム級タイトルを奪取。以来4年以上に渡ってベルトを防衛し続け、9度の防衛戦のうち4度が世界ランク1位を相手にしながらも勝ち続けて3度の年間MVPを受賞しており、「日本ボクシング界のエース」「バンタム級絶対王者」と呼ばれている。

目次

[編集] 人物

  • 日本プロボクシング発祥の地の一つである神戸の名門・神戸拳闘会の流れを汲む千里馬神戸ジムから世界を獲って地元を盛り上げた。現在は真正ボクシングジム所属。
  • 2009年7月現在、6人の日本のジム出身男子世界王者の中でも、辰吉西岡らを退けてきたウィラポンから2勝(1KO)し、WBCタイトルを9回防衛し、2005年度、2006年度、2008年度MVPを獲得しているのもあり、日本のジム所属の世界王者が1人の時代(冬の時代)を支えてきた徳山昌守に代わる、事実上の日本プロボクシング界のエースである。バンタム級は多くの日本人の名王者を輩出してきたため、「黄金のバンタム」と呼ばれる日本ボクシング界伝統の階級であり、長谷川は2008年1月に5度目の防衛を果たしたことで、ファイティング原田薬師寺保栄の持つバンタム級の世界タイトル連続防衛の日本記録を更新したこともあって、日本ボクシング界のエースとしての地位をより強固なものとしている。9度の防衛戦のうち、世界ランク1位との対戦が4度、それ以外も8位、4位、9位、2位と全て一桁ランカーであり、下位ランカーのいわゆる噛ませ犬相手に防衛回数を稼ぐような事は一切せず、9度の防衛成功のうち6度のKO防衛を成し遂げている。また、日本テレビは長谷川の世界王座獲得以来、長谷川の防衛戦の放送をワールドプレミアムボクシングと銘打って大々的に中継するようになった。
  • 世界王座獲得直後から、「将来的にはボクシングの本場であるアメリカラスベガスで戦って世界的なスターになりたい」と公言している。現在の目標は「ラスベガス進出、他団体との統一王者、日本人史上初の3階級制覇」。1階級下のスーパーフライ級にはビック・ダルチニアンホルヘ・アルセ、1階級上のスーパーバンタム級にはイスラエル・バスケスラファエル・マルケスファン・マヌエル・ロペスといったラスベガスでも人気の高いスーパースターが揃っているため、彼らとの対戦が期待されている。また、2009年になってから長谷川本人はWBA世界フェザー級王者クリス・ジョンとの対戦を希望する発言が多くなった。
  • 所属する真正ボクシングジムの会長で長谷川の専属トレーナーも務めているのは、元警察官プロボクサーとしての実績を持たないという、異色の経歴の持ち主である山下正人
  • 5人兄弟の次男として生まれた。リングを離れれば、子煩悩な2児の父親でもある。
  • 現在、長谷川の母親はを患って入院して闘病生活を送っており、一度の入院で約300万円の医療費がかかるため、「母親のためにも絶対に勝ち続けて医療費を稼ぎたい」という気持ちが大きなモチベーションの一つになっている。
  • 入場テーマは、幻想的なバラードの「Once You Had GoldEnya)」。

[編集] 交友・逸話

  • 長谷川の世界タイトルマッチでは全て帝拳ボクシングジム本田明彦会長がプロモーターを務めており、真正ジムの山下会長は帝拳ジムでJBCのライセンスを取得しているため、長谷川は事実上の帝拳傘下の選手である。また、帝拳ジム所属の粟生隆寛ホルヘ・リナレスらとは仲が良く、一緒にハワイ合宿に行くなど切磋琢磨している。特に粟生は長谷川にとって弟分のような存在である。長谷川は粟生について「僕の自宅に隆寛が来た時に、彼が僕のWBCのチャンピオンベルトを触りたいと言ってきたので貸してあげたんですけど、普通の人だったら5分くらいで見飽きるのに、粟生は30分以上もベルトを触りながらジッと眺め続けてました。アイツの世界王座奪取への想いは凄いですよ!」と語っている。2008年10月16日、セミファイナルで粟生の初の世界戦、メインイベントで長谷川の7度目の世界タイトル防衛戦が行われ、長谷川は貫録の2RKO防衛を果たしたのに対して、粟生は王者オスカー・ラリオスから4Rにダウンを奪う絶好のチャンスを得たものの、その後は攻めあぐねて2-1の僅差判定負けで悲願の世界タイトル奪取はならなかった。勝利した直後の長谷川はリング上で「僕の試合が直前に控えてたんですけど、隆寛の試合のことばかり気になって仕方なかった。今日、隆寛は負けてしまったけど、凄く良い試合をしていて僕も勇気を貰ったから勝つ事が出来ました。皆さん、どうかこれからも隆寛のことを応援してやってください」とコメントし、これを控え室で聞いていた粟生は号泣していた。そして2009年3月12日、神戸で長谷川の8度目の防衛戦が、東京で粟生のラリオスへのリベンジマッチの世界再挑戦が同時間帯に行われ、長谷川は1RKO防衛、粟生も勝利して悲願の世界王座奪取を成し遂げた。試合から数時間後のNEWS ZEROに二人が生出演した際に粟生が「前回は悔しい想いをしたんだから、今回は笑おうな。チャンピオンになって、世界一同士で話をしよう!俺たちの日にしよう!」という激励のメールが試合前に長谷川から送られてきたことを明かした。
  • プロ野球選手松坂大輔とは親交が深い。松坂が埼玉西武ライオンズに在籍していた2005年2月に西武の春季キャンプに長谷川も参加し、松坂との親交を深めると同時に「世界チャンピオンになったら始球式で投げる」と西武の選手・関係者たちと約束。そして4月16日、伝説の世界王者ウィラポンに勝利を収めて世界チャンピオンになると、5月13日の西武ライオンズvs.読売ジャイアンツ戦では試合前のセレモニーで伊東勤監督から「V1」と書かれたライオンズのユニフォームをプレゼントされ、西武の選手達から胴上げされた後、約束どおり始球式に登板した。さらに翌2006年も長谷川は西武の春季キャンプに参加した。その後、松坂がメジャーリーグに移籍した際には「長谷川スーパーチャンプへ。アメリカで待ってます」というメッセージと共にサインボールを送られた。一方、長谷川も4度目の防衛戦を迎える際に、当時マスコミとアメリカの野球ファンやスカウトの間で松坂の投げる魔球としてジャイロボールが話題になっていた事もあって「ジャイロボールからヒントを得た“ジャイロパンチ”でKO防衛します」と宣言するなど、同じ一流アスリートとして互いに刺激し合っている。
  • K-1総合格闘技など、他の格闘技も好んで見ており、格闘技専門誌を定期購読するなど熱心なファンである。格闘技通信に長谷川のインタビューが載った事もある。他競技で一番好きな格闘家として五味隆典を挙げており、「キックタックル、投げ技や寝技などを警戒しながら、あれだけ思い切りパンチで勝負が出来るのは凄い」と語っていた。また、7度目の防衛戦の約2週間前に行われたK-1 WORLD MAX 2008 FINALにて、魔裟斗が準決勝と決勝戦でダウンを奪われながらも逆転勝ちで優勝を果たした事に刺激を受けたと語っており、「あれだけダウン食らってから巻き返すんだから、根性ありますね」と称賛した[1]
  • ボクシングと並行し、神戸市内の時計店でアルバイトをしていたが、その時計店が入っていたダイエーの閉鎖に伴い、閉店となった。
  • 自他共に認める大食いである。そのために一時は体重が66kgまで増え、5度目の防衛戦では直前3週間で12.6kgの減量を強いられた。その教訓から、かねてから親交のある騎手武豊に1週間単位での体重管理法を教わり、現在は常に60kg前後をキープしている。しかし、減量苦であることに変わりはなく、「早く階級を上げたい。スーパーバンタム級でもキツイくらいなので、フェザー級なら楽に戦える」と語っている。

[編集] 来歴

小学2年時から元プロボクサーの父(病気のために3戦で引退)にボクシングを教わるようになるが、その厳しさに反発し中学時代は卓球部に所属。市大会で優勝したこともある。

兵庫県立多可高等学校を2年で中退後(別の高校の定時制に編入して卒業)に千里馬神戸ジムに入門。本格的にボクシングを始める。プロテストの一度目は体調不良もあり不合格となったが、2度目の受験で合格し、1999年11月22日にプロデビュー。4回戦時代は2度の判定負けを経験。一時期スーパーバンタム級で試合した経験も有する。

[編集] 東洋太平洋王座獲得

2003年5月18日ジェス・マーカフィリピン)を12回判定に降し、OPBF東洋太平洋バンタム級王座を獲得。その後、3度の防衛に成功し、2004年12月20日に王座を返上。

2004年10月30日両国国技館にてWBAミニマム級王者新井田豊の初防衛戦の前座として、当時WBA4位の鳥海純と世界挑戦権をかけて対戦。10R判定で勝利し、当時WBC王者のウィラポンへの挑戦権を獲得した。ちなみにこの日は、この他にもスーパーバンタム級の日本王者中島吉謙と、ウィラポンと4度の世界戦を経験した西岡利晃の対戦や、後に日本王者となる木村章司と、WBCスーパーバンタム級王者オスカー・ラリオスのアゴを砕いた仲里繁の対戦と、豪華なカードが組まれていた。

[編集] 世界王座獲得

2005年4月16日、ちょうど20戦目にして世界初挑戦となる。WBC世界バンタム級王座を6年以上保持し続け、これが15度目の防衛戦となった当時バンタム級最強王者と呼ばれていたウィラポン・ナコンルアンプロモーションタイ)と日本武道館にて対戦。長谷川は序盤から有効打を的確に当て、4Rまでリードを奪っていく。しかしウィラポンも王者の意地を見せ、試合の中盤を支配した。試合終盤に長谷川はスタミナ切れを起こし始めたウィラポンに攻め立て、10Rにはウィラポンをグラつかせた。最終12Rまで壮絶な打ち合いを演じ、3-0の判定で長谷川が勝利し、およそ6年間続いたウィラポン王朝を崩壊させ、世界王者に輝いた。この試合が2005年度年間最高試合に選ばれた。

なお、新王者となった長谷川への表彰中、元WBC世界バンタム級王者辰吉丈一郎がリングに上り、長谷川を無視してウィラポンの片手をあげリングを一周し、そのままウィラポンと共に控え室へと帰った。ウィラポンが持っていたチャンピオンベルトも共に控え室へと消え、新王者の長谷川に巻くベルトがないという異常な事態となった[2]

この試合中継は関西地方では、翌日深夜の録画放送のみであった。この世界王座奪取が高く評価され、5月には鈴木啓示(プロ野球・近鉄元投手)、渡辺公二(西脇工業高校陸上競技部監督)に続く西脇市民栄誉賞を受賞した。

[編集] 初防衛戦

2005年9月25日、初防衛戦が横浜アリーナにて行われた。本来ならWBC1位のディエゴ・モラレスとの試合だったが、モラレスが練習中に負傷した為(モラレスがバンタム級のウェートを作るのが不可能であったためのドタキャンだったとの説もある<事実モラレスはその後、ずっと上の階級(ウェート)で戦っている>)、WBC8位のヘラルド・マルチネスメキシコ)へと試合1週間前に急遽変更となった。モラレスはサウスポーなので、変更まではサウスポー対策の練習をしていたが、急遽オーソドックスのマルチネスに変わった為、長谷川は少し困惑したそうである。しかし試合では序盤からペースをつかみ、2Rにはマルチネスを2度倒した(しかしダウンととられずスリップと判断された)。そして3Rには正真正銘のダウンを奪う。7R開始早々強烈な左ストレートでダウンを奪う。その後1分も経たない内に、早い連打で2度目のダウンを奪う。そして両者捨て身の打ち合いとなり、最後には長谷川の左がマルチネスを捕らえ、3度目のダウン。この時レフェリーが試合を止めた。通算4度のダウンを奪う7回2分18秒TKO勝ちで防衛に成功。

初防衛をTKO勝利で飾った長谷川は、この日結婚記念日であり、インタビューで、妻に対し「おめでとう。」と言った。

[編集] ウィラポンとの再戦

2006年3月25日、地元神戸で世界王者となって初の凱旋試合となったこの試合は、11か月前にベルトを奪った前王者、ウィラポンとの対戦となった。

ウィラポンは前回の長谷川戦後、再起に成功(5戦5勝4KO)し、WBC1位指名挑戦者となって再び日本に戻ってきた。前回の対戦時、ウィラポンは調整ミスと囁かれており、本当の実力を出し切れていなかったのではとも言われていた。

この試合を勝ってバンタム級最強をアピールしたい長谷川と、約1年前の屈辱を晴らしたいウィラポンの戦いは、意外に静かな立ち上がりだった。試合が進むにつれて長谷川のパンチがウィラポンを捕らえ始め、第6Rには強烈な左アッパーが炸裂、ウィラポンをダウン寸前まで追い込む。第7、8Rはウィラポンが徹底的なボディーブロー攻めで流れをつかもうとする。そして第9R開始10秒、凄まじい右フックのカウンターを入れ一撃でダウンを奪う。ウィラポンは立ち上がろうとするものの、ダメージが大きく、立ち上がれずレフェリーストップがかかった。

この試合も1年前と同じく、年間最高試合に選ばれた。

[編集] 3度目の防衛戦

2006年11月13日、長谷川が王座奪取に成功した時と同じ日本武道館で3度目の防衛戦。1位の指名挑戦者ヘナロ・ガルシア(メキシコ)を迎える。なお、この試合は当初7月に後楽園ホールで行われる予定であったが、王者が試合に向けての練習中に負傷してしまったため、延期となっていた。第1Rは、挑戦者が前に出てきて、王者がかわしながらパンチを出す展開となった。2Rから長谷川は徐々にパンチを浴びせるようになり、4Rには左アッパーでダウンを奪う。このまま楽勝ムードで試合が進むかと思ったが、ここから挑戦者のしぶとさが目立つようになり、長谷川もパンチを浴びるようになる。長谷川は第7Rには挑戦者のヒッティングにより軽くカットし、8Rにはバッティングによるカットで血まみれになりながら戦い、8R終盤にはこの日2つ目のダウンを奪う。最終12Rには、高いディフェンス能力を見せ付けた。最終的に12R判定(3-0)で勝利したものの、KO防衛出来なかった事を観客に謝罪していた。

試合後の控え室で、当時WBCスーパーフライ級王者徳山昌守から挑戦状を渡された。もしこの対戦が実現すれば、薬師寺保栄vs.辰吉丈一郎や、畑山隆則vs.坂本博之以来の国内ビッグマッチになるのだが、長谷川は海外進出を強く希望していたため実現しなかった。結果、徳山は引退を迎えることになった。

[編集] 4度目の防衛戦

2007年5月3日有明コロシアムにて、WBC世界4位のシンピウィ・ベトイェカ 南アフリカ共和国)と対戦。史上初となる日本vs.南アフリカの世界戦対決だったが、長谷川が判定勝ちして、4度目の防衛を飾った。

この日は、長谷川vs.ベトイェカの他、エドウィン・バレロWBAスーパーフェザー級王者)vs.本望信人(角海老宝石)、名城信男(六島)(WBAスーパーフライ王者)vs.アレクサンデル・ムニョスベネズエラ)、と3つの世界タイトル戦が組まれた。メインを飾った長谷川は、この日の日本人選手唯一の勝利であった。

[編集] ジム移籍

2007年9月20日、専属トレーナーだった山下正人千里馬神戸ジムから独立し、新しく真正ジムを旗揚げしたことに伴い、長谷川自身も千里馬神戸ジムから真正ジムへ移籍することが発表された。日本のプロボクシング史上、現役世界王者が所属ジムを国内間で移籍する事は初めてのケースとなった。

[編集] 5度目の防衛戦

2008年1月10日大阪府立体育会館第一競技場に於いて、欧州バンタム王者でありWBC世界同級1位のシモーネ・マルドロット イタリア)を挑戦者に迎え5度目の防衛戦に臨んだ。前述のジム移籍問題があった為、8か月ぶりの試合となった。試合は序盤、長谷川が右目上を大きくカットし流血するというアクシデントに見舞われた。中盤以降は王者、挑戦者の両者共に譲らず激しい打撃戦を繰り広げた。右目上をカットした長谷川は、要所で的確に有効打を決め、確実にポイントを集めた。最終12ラウンドでは両者が真っ向から打ち合い、世界戦に相応しい好試合となった。試合は長谷川が大差の判定勝ちを収め、日本人ボクサーで初めて世界バンタム級王座を5度防衛する偉業を成し遂げた。

[編集] 6度目の防衛戦

2008年6月12日日本武道館に於いて、WBC世界同級9位のクリスチャン・ファッシオ ウルグアイ)を挑戦者に迎え6度目の防衛戦に臨んだ。第1Rのゴングから長谷川が積極的にパンチを当て、ファッシオを圧倒すると、続く第2R、カウンターの左ストレートがヒットし、ファッシオからダウンを奪う。ファッシオは何とか立ち上がったものの、長谷川の猛攻は止まらず、2度目のダウンを奪ったところでレフェリーが試合を止めた。長谷川の世界戦ノックアウト勝ちは、2006年3月の2度目の防衛戦以来。連続防衛記録を6と伸ばすと共に、試合終了後、「次はラスベガスで防衛戦をやりたい」と長谷川はかねてから希望している海外進出への意欲を滲ませた。

その後、7月4日に東京都内で顔に美容整形手術を受けた。ただし、美容整形とはいっても、その内容は右目上に存在し、違和感を伴っていたしこりを除去したものである。また、この部位が原因となって過去にも起きた事がある出血のリスクを下げる事などを期待してのものであり、通り一般に言う美容整形とは目的が大きく異なるものである[3]

[編集] 7度目の防衛戦

前述のように念願のアメリカラスベガスへの進出を実現するべく、7度目の防衛戦の相手としてアメリカでも知名度の高いホルヘ・アルセアレクサンデル・ムニョスといった強豪選手にラスベガスでのタイトル戦のオファーを出していたが、アルセは母国メキシコでの対戦に固執し、ムニョスは「長谷川には勝てない」と対戦を拒否したため、念願のラスベガス進出は持ち越しとなった[4]

2008年10月16日国立代々木第一体育館に於いて、WBC世界同級2位のアレハンドロ・バルデス( メキシコ)を挑戦者に迎え7度目の防衛戦に臨んだ。長谷川は常々「サウスポーは苦手」と公言しており、プロボクサー生活において公式戦でのサウスポーとの対戦経験がわずか1度という事もあって、リーチに勝るサウスポーの挑戦者に苦戦も予想されたが、2回2分41秒、レフェリーストップによるTKO勝ち。前回のファッシオ戦に続き二試合連続のKO勝利となった。また、世界王座7度連続防衛は日本人選手としては具志堅用高(元WBA世界ジュニアフライ級チャンピオン/協栄ボクシングジム)の13度、新井田豊(元WBA世界ミニマム級チャンピオン/横浜光ボクシングジム)の7度に続く2位タイの快挙である[5]

  • また、この興行のセミファイナルでは長谷川の弟分である粟生隆寛が、WBC世界フェザー級王者オスカー・ラリオスに挑戦し、粟生は4回にダウンを奪ったものの、その後は攻めあぐねて、1-2の判定負け。長谷川は試合後にリング上で「隆寛が凄く良い試合をしたので勇気を貰った。皆さん、これからも隆寛を応援してやってください」とコメントし、控え室でそれを聞いていた粟生は号泣した。

タイトルを7度連続防衛したことにより、これまで長く日本国内を戦場としていた長谷川が、ラスベガスに進出する計画が持ち上がっている。しかし、長谷川はアメリカでは人気の低い軽量級の選手のため、ハードルは高いと言われている[6]

[編集] 8度目の防衛戦

2009年3月12日神戸ワールド記念ホールで1位の指名挑戦者ブシ・マリンガ 南アフリカ共和国)を相手に8度目の防衛戦を行った。長谷川が苦手とするサウスポー、リーチで長谷川を19cmも上回り、なおかつ世界ランク1位の指名挑戦者が相手とあって、苦戦を危惧する声も挙がっていた。しかし、いざ試合が始まってみると、初回1分30秒過ぎに左ストレートで最初のダウンを奪う。この左ストレートはマリンガの左アッパーを右手でパーリングした直後に放たれており、長谷川の超絶技巧が垣間見える。マリンガが立ち上がった後、長谷川は冷静に左フックをマリンガの右ジャブに被せぐらつかせる。この直後長谷川は急激に手数を増やし、挑戦者を滅多打ち。程なくして2度目のダウンを奪った後、2分37秒に芸術的なレフトクロスカウンターで3度目のダウン。ここでレフェリーストップが掛かり、鮮やかな初回TKO勝ち。王座防衛に成功した。日本のジムに所属する世界王者の3戦連続KO防衛は、具志堅用高の6戦連続、渡辺二郎の3戦連続に次ぐ2位タイ記録で、26年ぶりの快挙を達成した。

[編集] 9度目の防衛戦

2009年7月14日、前回防衛戦と同じ神戸ワールド記念ホールで4位ネストール・ロチャ( アメリカ合衆国/21勝(7KO)1敗)を相手に9度目の防衛戦を行い、第1ラウンド2分過ぎ、左右のコンビネーションから右フックで最初のダウンを奪うと、何とか立ち上がった相手に更に連打を浴びせ、程なくして2度目のダウン。ここでも立ち上がったものの、レフェリーストップが掛かり、2分28秒TKO勝ちを収めた。これにより長谷川は勇利アルバチャコフロシア ロシア)と並び、世界王座連続防衛・国内記録2位タイを記録すると同時に、具志堅用高以来となる世界王座4連続ノックアウト防衛(ちなみに具志堅用高は6連続ノックアウト防衛を記録している)という日本人世界王者として2人目の快挙を達成。さらに、2戦連続1ラウンドKO防衛はバンタム級世界戦史上初の快挙。

[編集] 戦績

プロボクシング:29戦27勝(11KO)2敗

日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
1 1999年11月12日 4R 判定3-0 黒岩修一 日本
(尼崎亀谷)
プロデビュー戦
2 2000年4月28日 2R 1:59 KO 石塚英樹 日本
(守口東郷)
2000年西日本バンタム級新人王トーナメント予選
3 2000年7月30日 4R 判定0-3 竹田津孝 日本
(森岡)
4 2001年1月28日 4R 判定3-0 寺田吉徳 日本
(京都拳闘会)
2001年西日本バンタム級新人王トーナメント予選
5 2001年5月20日 4R 判定1-2 荒川正光 日本
(京都拳闘会)
6 2001年7月7日 1R 2:13 KO 吉岡義広 日本
(風間)
7 2001年8月17日 6R 判定3-0 竹田津孝 日本
(森岡)
8 2001年10月21日 6R 判定3-0 北原久己 日本
(進光)
9 2002年2月8日 2R 1:16 KO ガムウォンワム・シスソバ タイ
10 2002年4月21日 6R 0:50 TKO ポーンチャイ・シスラプロム タイ
11 2002年8月24日 10R 判定3-0 中谷年伸 日本
(八尾)
12 2002年10月27日 10R 判定3-0 熟山竜一 日本
(JM加古川)
13 2003年3月2日 10R 判定3-0 パデット・スーンキラノーイナイ タイ
14 2003年5月18日 12R 判定2-1 ジェス・マーカ フィリピン OPBF東洋太平洋バンタム級タイトルマッチ
15 2003年7月20日 12R 判定2-1 宇野スナオ 日本
(岐阜ヨコゼキ)
OPBF防衛1
16 2003年11月9日 10R 1:20 TKO アルビン・フェリシルダ フィリピン OPBF防衛2
17 2004年2月15日 10R 判定3-0 デッチチャム・シスフォーダム タイ
18 2004年5月23日 12R 判定3-0 ノラシン・ギャットプラサンチャイ タイ OPBF防衛3
19 2004年10月30日 10R 判定3-0 鳥海純 日本
(ワタナベ)
20 2005年4月16日 12R 判定3-0 ウィラポン・ナコンルアンプロモーション タイ WBC世界バンタム級タイトルマッチ
21 2005年9月25日 7R 2:18 TKO ヘラルド・マルチネス メキシコ WBC防衛1
22 2006年3月25日 9R 0:19 TKO ウィラポン・ナコンルアンプロモーション タイ WBC防衛2
23 2006年11月13日 12R 判定3-0 ヘナロ・ガルシア メキシコ WBC防衛3
24 2007年5月3日 12R 判定3-0 シンピウィ・ベトイェカ 南アフリカ共和国 WBC防衛4
25 2008年1月10日 12R 判定3-0 シモーネ・マルドロット イタリア 真正ボクシングジムへの移籍初戦/WBC防衛5
26 2008年6月12日 2R 2:18 TKO クリスチャン・ファッシオ ウルグアイ WBC防衛6
27 2008年10月16日 2R 2:41 TKO アレハンドロ・バルデス メキシコ WBC防衛7
28 2009年3月12日 1R 2:37 TKO ブシ・マリンガ 南アフリカ共和国 WBC防衛8
29 2009年7月14日 1R 2:28 TKO ネストール・ロチャ アメリカ合衆国 WBC防衛9


[編集] 獲得タイトル

  • 第35代OPBF東洋太平洋バンタム級王座(3度防衛)
  • 第26代WBC世界バンタム級王座(9度防衛)

[編集] 受賞歴

  • 西脇市民栄誉賞(西脇市、2005年5月29日)
  • 2005年度最優秀選手賞(=MVP、JBC、2006年1月20日)
  • 2006年度最優秀選手賞(=MVP、JBC、2007年1月23日)
  • 2008年度最優秀選手賞(=MVP、JBC、2009年1月23日)
  • 2005年度年間最高試合賞(=2005年4月16日 WBC世界バンタム級タイトルマッチ 長谷川穂積 vs. ウィラポン・ナコンルアンプロモーション、JBC、2006年1月20日)
  • 2006年度年間最高試合賞(=2006年3月25日 WBC世界バンタム級タイトルマッチ 長谷川穂積 vs. ウィラポン・ナコンルアンプロモーション、JBC、2007年1月23日)
  • 2008年度KO賞(JBC、2009年1月23日)
  • 第51回関西スポーツ賞特別賞(関西運動記者クラブ、2008年1月21日)
  • 神戸市スポーツ特別賞(神戸市、2008年6月25日)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

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  1. ^ 長谷川が魔裟斗の魂を刺激に16日V7戦 日刊スポーツ 2008年10月7日閲覧
  2. ^ 泰国偏愛
  3. ^ 長谷川、顔を手術 サンケイスポーツ 2008年7月14日閲覧
  4. ^ "“絶対王者”長谷川V8で米進出を". 2008-10-18 閲覧。
  5. ^ 日本のボクシングジム所属の選手としては、勇利アルバチャコフ(元WBC世界フライ級チャンピオン/協栄/ロシア ロシア)が9回連続、徳山昌守(元WBC世界スーパーフライ級チャンピオン/金沢/朝鮮)が8回連続防衛を記録している。
  6. ^ "ボクシング V7達成の長谷川穂積にラスベガス進出計画?". livedoor スポーツ. 2008-10-17 閲覧。
    長谷川「今年が一番ええ」…報知プロスポーツ大賞 スポーツ報知 2008年12月9日閲覧
  7. ^ テレビ中継に異例の“長谷川シフト”で短期決戦OK スポーツニッポン 2009年1月24日閲覧
前王者
ウィラポン・ナコンルアンプロモーション
第26代WBC世界バンタム級王者

2005年4月16日 - 現在

次王者
N/A