進ぬ!電波少年

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進ぬ!電波少年
ジャンル バラエティ
放送時間 日曜 22:30 - 22:54(24分)
放送期間 1998年1月11日 - 2002年9月29日
放送国 日本の旗 日本
制作局 日本テレビ
演出 土屋敏男(P兼務)[1]
プロデューサー 小西寛
吉川圭三(CP)
出演者 松本明子チューヤンほか
出演者を参照)
オープニング 「The Wall 〜長城〜」(BEYOND
エンディング テーマ曲を参照

特記事項:
ナレーター:木村匡也
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進ぬ!電波少年』(すすぬ でんぱしょうねん)は、1998年1月11日から2002年9月29日まで日本テレビ系列局で放送された日本テレビ製作のバラエティ番組。製作局の日本テレビでは毎週日曜22時30分 - 22時54分 (JST) に放送された。

番組タイトルの「」は、『進め!電波少年』の「」の払いの部分をのばしたものであり、同番組がリニューアルしたものであることを示している[2]

目次

概要[編集]

スタッフや企画方針などは基本的に従来どおりであるが、松村邦洋がレギュラーから外れ、また、アポなしロケが行なわれずに若手タレントの挑戦企画がほとんどを占めるようになった点において異なる。この番組の開始から3か月後の1998年4月5日には『雷波少年』という兄弟番組もスタートし、2002年3月31日まで放送された。

開始当初の司会は松本明子単独。その後、1999年1月に松本が司会をチューヤンに託して一時降板。4月からは松本とチューヤンの2人で進行した。2000年には松本が産休に入るため、代役で『雷波少年』の企画に参加したこともある女優室井滋が起用された。なお、室井初登場時、室井は電波少年お決まりの「アイマスク着用でワケもわからないまま」連れてこられた。

番組放送中の2001年5月には、Tプロデューサーこと土屋敏男が日テレの編成部長に昇進。通常であれば降板となるが、土屋はその後もT部長として関わり続けた。ただし、スタッフロールでの表記はチーフプロデューサーではなく「企画」だった。ちなみにT部長として登場の際は、美人秘書ナンシーがついてまわった。

前番組『進め!電波少年』のヒッチハイクを主とした後半の流れを受け継ぎ、この番組でもほぼ無名に近い若手タレントらを体当たりで合宿方式を用いた企画シリーズを展開した。特に「なすびの電波少年的懸賞生活」、「朋友のアフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク」、「Rマニアの電波少年的無人島脱出」、「電波少年的スワンの旅パート1 (愛媛→東京)」などの企画は好評を博し、1998年8月16日、9月13日放送分では視聴率30.4%を獲得するなど、当時の日本テレビの看板番組の一つに数えられるほどの人気を獲得した。

とはいえ、番組後半ではヒッチハイクも世界中行き尽くして行くところがなくなり、また、前述のような人気企画やなすびなどの人材も出なくなるなど、その人気にも次第に陰りが見え始めることとなる。長期に渡る看板企画が終了する一方で、新しい企画も多数作られるものの相次いで短期で終了という状況が続き、演出に対する視聴者からの風当たりも増し、それにつれて視聴率も徐々に低下していったことを受け、2002年9月29日に番組自体も終了。『電波少年』の流れは、土曜22時台で1時間枠でスタートした『電波少年に毛が生えた 最後の聖戦』へと引き継がれた。

オープニングおよびタイトル呼称について[編集]

オープニングタイトルでは、最初に『進め!電波少年』のロゴが従来どおりに表示されたあと、「め」の部分が「ぬ」に変わっていくアニメーションが使われた。そして司会の松本が登場し、「『進!電波少年』で~す!」と呼称された。なお、それ以外では告知など、番組中でも単に『電波少年』と呼称されることがほとんどだった。

主な企画[編集]

電波少年的懸賞生活[編集]

『進ぬ』第1弾の企画。都内のある部屋に若手芸人が集結。くじ引きで当たりをひいたなすびが挑戦。そのまま土屋に都内の某アパートへ連れて行かれ全裸になって「人は懸賞だけで生きていけるか?」という企画がスタート。ゴールは当選品の総額が100万円になった時で、開始から336日目(約11か月)で100万円達成。その後韓国にて「電波少年的懸賞生活 in KOREA」に挑戦する。

電波少年的アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイクの旅[編集]

猿岩石ドロンズに続く、ヒッチハイク第3弾。懸賞生活と同時期にスタートした企画。俳優を目指していた伊藤高史がTプロデューサーに連れ出され、成田空港から南アフリカ喜望峰まで移動。着いた先で当時香港でDJだったチューヤンこと謝昭仁(チェ・チューヤン)が合流、ヒッチハイクでアフリカ・ヨーロッパ大陸を縦断してスカンジナビア半島まで目指す企画だと明かされてスタート。スタジオゲストの横浜銀蠅)からの提案を受け、道中で2人のコンビ名が朋友(パンヤオ、中国語で「親友」の意味)と決まる。

初めは互いの意思疎通もままならない2人だったが、伊藤はカタコトの英語でチューヤンとコミュニケーションを取れるようになり、また英語が堪能なチューヤンのおかげで旅は順調に進むかに見えた。しかし、アフリカ大陸内では戦争や治安上の理由によるルート変更を余儀なくされ、ついには危険地帯に阻まれ、ケニアから北へ進む道が完全に絶たれる。2人はギブアップさえ考えたが、視聴者にテレゴングでアンケートした結果、「飛行機を使ってでも旅を続けるべき」という答えが最も多かったため、2人で相談し、ケニア・ナイロビからスーダンの非・危険地帯南限の町カッサラまで飛行機で移動した。

松本は久保田利伸が作った応援歌「AHHHHH!」を届けるべく、アメリカで受け取りスイス経由でタンザニアへ向かい2人を探しに行った。現地で野宿する際、野生の動物が近寄ってくるのを避けるため、Tプロデューサーを含めスタッフで交代で火の番をして大変だったと松本は回顧している。

スーダンでは砂漠をラクダで移動する隊商に同行、彼らもラクダで移動していたが、炎天下で伊藤が脱水症状で倒れ意識を失う。すぐに息を吹き返し事なきを得たが、同行ディレクターも「カメラまわしてていいんだろうか」と動揺するほどの衝撃映像だった。この件について土屋は、スタッフは伊藤とチューヤンを追いこもうとしてたわけではなく、性格の優しい伊藤が水を周囲に譲るなどの配慮を続けていたために起こった事故だったと語っている。

ヨーロッパではチューヤンが持ち前の絵の才能を発揮して路上で水彩画を売ったりしていたが、旅終盤のフィンランドで旅始まって以来最長の5日間絶食、それまでチューヤンの絵も全く売れない事態になった。ここで伊藤は密かに練習していたストリートパフォーマンスに挑戦、集客に成功しわずかながらお金を得ることに成功し、ハンバーガーを食べる。このハンバーガーについて、チューヤンはのちに「あのハンバーガーが僕の人生で最もおいしい食べ物」と語っている。この出来事で2人の絆は強固なものとなり、ゴールへと向かっていった。

ゴールとなったノルウェーのヨーロッパ大陸最北端・スレットネス灯台からは生中継が行われ、番組の終盤で2人を港に係留されたスワンボートに誘導するところで中継が打ち切られた。放送直後に「スワンボートで日本に帰らせるつもりか」と視聴者から抗議の電話が殺到したが、当時番組で進行中の別の企画である「電波少年的懸賞生活」(なすびの等身大パネルによる)および「電波少年的スワンの旅」を2人に説明するためのものだったことが翌週の放送で明かされた。

なお、この企画も猿岩石・ドロンズと同様に『朋友日記』として書籍化された。

電波少年的ハリウッドスターへの道[編集]

上記の「電波少年的アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイクの旅」に続く企画として、伊藤高史がハリウッド映画で台詞つきの役をもらうことを目標とするというものだった。しかし映画俳優組合に加入しなければならず、加入するにも厳しい条件があるなどあまりにもハードルが高かったため、数日で断念。スタジオとの電話中継で企画を降りることを告げ、Tプロデューサーも伊藤の功績を認め承諾。その後生放送で、伊藤が視聴者に向けて「この場でハリウッドを目指すのではなく、日本で芝居の勉強を続けたい」という心境を語った。

しかし、番組側としてはどうしてもあきらめられず、後日、日本へ帰国する飛行機の中や前述の生放送終了直後など、番組スタッフが「ハリウッドスターへの道、やるか?やらないか?」という意思確認を幾度となく行ない、そのたびに伊藤が「やりません」と固辞する様子が放映された。最終的に伊藤が自宅で寝ているところを訪れ意思確認をするが、伊藤が呆れて苦笑いを浮かべながら断るというシーンで完結した。

電波少年的無人島脱出[編集]

都内某所を歩いていたRマニアがTプロデューサーに「メシでもどうだ?」と声をかけられ、そのまま連れ去られる。着いた場所は無人島(由利島)。ゴールの条件は、「自分達で筏を作って島を脱出し、自分たち以外の人間に会うこと」というルールだった。この企画は後述のスワンの旅へと繋がる。応援歌は内田有紀 supported by チューヤン「楽園」。

スワンの旅
筏での脱出は4か月で達成したものの、その時にゴールした場所が二神島で、Tプロデューサーの「東京までの足は用意してあるから」という発言で、そこからスワンボートに乗って東京まで帰る羽目になる。
そこから2か月かけて東京まで到着し、その際生放送の電波少年スペシャルの前説をすることになっていたが、放送開始までに辿り着けず放送中にゴールしたため、今度はミヤギテレビで『OH!バンデス』の前説の仕事があると、仙台まで行かされる羽目になる。仙台にはやはり2か月かかった。当時は秋から冬にかけての天気だったため、北風で海が荒れて出航できなかった日も少なくなかった。
スワンの旅 in the World
その後東京まで戻りゴール報告する間もなく、ニセ番組のロケでインドへ飛び立つ。そして電話で「ロケの場所はインドネシアだった」と言われ、結局スワンボートでインド→インドネシア(コルカタジャカルタ間)を航路することになる。常人ならインドからインドネシアへ行くなんて無理だと考えるものだが、Rマニアは両国の位置関係をよく知らなかったのか「インドとインドネシアなんて兄弟みたいなものだろ」とあっさりと承諾した。そして結局インドネシアへは10か月後に無事ゴール。
ただし、この企画でもインドバングラデシュ・バングラデシュとミャンマーの国境地帯はスワンボートによる移動ができない地域であったため、飛行機による移動とヒッチハイクがあった。特にミャンマーへのスワンボートによる入国は認められなかったことからアンダマン・ニコバル諸島を経由する経路が検討されたがあまりにも危険であるために番組として許可できないという番組史上空前の決定により陸路によるミャンマーへの入国となった。しかし、ミャンマーでは船による移動中、船上でカメラをまわしていた所、撮影禁止地域であったため一時身柄を拘束され国外退去処分としてタイに出国した。
結果的にRマニアは一連の企画で約1年半の間番組に拘束されることとなった。その後2人は『雷波少年』の企画で競輪選手としてシドニー五輪を目指すことになる(故障で断念)。

電波少年的ハルマゲドン[編集]

来るべき「1999年7の月」の後、21世紀にお笑いを残すという目的でポプラ並木がシェルターを地中に埋めるために穴を掘るという企画(その間の生活費等は自給自足)。しかし、そのハードさから途中で脱走。その後、リタイアを申し出る。ポプラ並木は脱走したことにより『雷波少年』で「ラストコント」という企画をやらされる羽目になる。

ハルマゲドン2
お笑いを残すより先に種を残す必要があるとして、今度はお互い見知らぬ男女2人(蛭子直和真中瞳)がこの企画に挑戦。リタイアしたポプラ並木も途中から手伝い、見事穴は掘り終わってシェルターは埋められた。そのあと、2人がこのシェルターに入るかどうかをパンチDEデート風に意思確認(本家に出演していた西川きよしと桂三枝(現・六代目桂文枝)も登場した)。結局2人ともシェルターに入る意思はなかったが、最後にキスをして別れるという結末に終わった。なお真中はその後、後述の「電波少年的80日間世界一周」にチューヤンと参加した。

電波少年的浪花恋しぐれ[編集]

三原麻衣子と原田慎治(クールズ)の2人による企画。原田は芸の道を極め、三原は内職で支え、クールズの単独ライブ資金100万円を目指す。テーマは「芸のためなら女房も泣かす」。何かあるごとにこの歌詞が入った「浪花恋しぐれ」を歌うことになっていた。またスタート時点での体重が110キログラムある三原のダイエットも並行して行われ、1キログラム減量するごとに1万円のボーナスが支給される。ただし、増加した場合は返金しなくてはならない。

三原が急激なダイエットで体調不良になり、医者から「これ以上のダイエットは勧められない」と診断を受けたことや、オーストラリアにあるカジノホテルのオーナーが企画の噂を聞きつけ原田を招待したこともあり、原田はカジノに挑戦。後述の地球防衛軍のメンバーも応援に駆けつけ、ルーレットの勝負に勝利し100万円を獲得しゴール。単独ライブ終了後に原田はダイエットに見事に成功した三原と再会。最後に三原のお願いで2人でキスをして終了した。

三原は企画終了後に『私はこうして松本明子一人分痩せた。』という本を出版している。

電波少年的超能力生活[編集]

「人は超能力だけで生きていけるか」をテーマに安田ユーシが挑戦。ゴールは「スプーンを曲げる」(部屋にはユリ・ゲラーの「スプーン曲がれ」と書いた毛筆書が飾ってあった)この企画で安田に「5つのカードの中から特定のカードを当てる」能力があることがわかる。食事は当たりのカードを引かないともらえないというルールだったが、安田の超能力が本当に開花し、ほとんどすべて当ててしまうようになったため「電波少年なのに太ってしまう」と悩んでいた。企画はユリ・ゲラーの助けを借りながらスプーンを曲げることに成功して終了。しかし、ユリ・ゲラーの毛筆書の下には「地球まもれ」が隠されており、後述の地球防衛軍へとつながる。

電波少年的地球防衛軍[編集]

「電波少年的超能力生活」から派生。

  • メンバー
    • 5択の安田・ブラック(安田ユーシ
    • 人間レーダーの坂井・レッド(坂井香代子
    • 人間レーダーの山内・ブルー(山内浩司)
    • 予知夢の吉田・グリーン(吉田秀一)
    • 5択の斉藤・ピンク(斉藤ゆり

世界名作文学シリーズ[編集]

電波少年的80日間世界一周[編集]

真中瞳チューヤンの2人による「世界名作文学シリーズ」第1弾。タイトルはジュール・ヴェルヌの小説『八十日間世界一周』に由来する。

サンフランシスコからスタートし、東回りで80日以内に東京に帰ることを目指す。衛星電話を利用したEメール受信専用端末で、世界のどこでもEメールを受信できるイリジウム・ページャーを使い、視聴者から提供される情報を頼りに旅をする。

1999年大晦日の「いけ年こい年」放送時間内にゴールすることとなり、ゴール地点は視聴者の自宅ということでハガキを募集していたが、日枝久フジテレビ社長(当時)のハガキをひいた(という設定)ことから、ゴールはお台場フジテレビV4スタジオとなってしまった。この時V4スタジオでは長時間特別番組『ワールドカウントダウンスーパースペシャル24時間まるごとライブLOVE LOVE2000〜世界中の子供たちに僕らが愛でできること』が行われていた。当時は他局間での番組のコラボレーションもなく、フジテレビ側もそのことを把握していなかったようで問題になった。結局ゴールは『いけ年こい年』会場の汐留へと変更された。

なおこの企画が行なわれているあいだ、『雷波少年』ではロバのロシナンテがチューヤンの代理で司会を務めた(編集者による吹き出しつき)。

電波少年的箱男[編集]

川元文太[3]ダブルブッキング)による「世界名作文学シリーズ」第2弾。タイトルは安部公房の小説『箱男』に由来する。

120cm×120cm×120cmの鉄製の箱に入り、鹿児島の佐多岬から東京までの約1500キロメートルを箱を押してもらうという、人の善意に頼った企画。その過程で出会った人々との交流を通して人の優しさに触れ、人を信じることが出来ないという川元に少しでも信じられるようにすることを狙った。ゴールまでふたは溶接され、箱から出ることはできない。また、外部とのコミュニケーションは箱にあるデジタル式のメッセージボードでしかできない。但し、簡易トイレ付き。

企画を開始して間もなく、狭い道路では自動車が箱を避けるために交通渋滞が起きるようになった。これに対して鹿児島県警察より道路交通法 第七十六条 第三項(何人も、交通の妨害となるような方法で 物件をみだりに道路に置いてはならない)に抵触すると番組スタッフが注意を受け、急遽Tプロデューサーが川元のもとへ様子を見に来たが、他人の善意を受けながら企画開始時と何も変わっていない川元を見て企画を続行。ルールを変更し、箱をトラック[4]で移動した上で私有地に設置して、私有地内を1500キロメートル分移動すればゴールとなった。

どんな援助を受けても礼を言わず、それどころか援助内容に対する不満や罵倒の言葉しか出ない川元に対する視聴者の評判は悪く、「ビタミン剤」と称して下剤を飲ませる女性や、人がいない山奥に箱を置き去りにする不良が現れるなど、心無い嫌がらせが続いた。さらにはガソリンスタンドで価格表示ボード代わりにされたこともあった。また、川元の「貢がせてやります」という発言にTプロデューサーが激怒した(同僚でCPの吉川圭三もこの失言に激怒したらしい)。一方で子供や比較的気が合う人物が相手の時には、相手を思いやる様子も時折見られた。

川元の相方である黒田俊幸もTプロデューサーに拉致されてそのまま箱に入れられて、川元が入っている箱があるところまで連れていかれた。黒田は川元と箱同士ながらも久しぶりの再会をしたものの、メッセージボードを使った罵倒合戦だけに終わり、黒田は東京へと帰って行った。

徐々に心を開き始めたころ、箱をたずねた女性が川元から買い物を頼まれ5000円を受け取るが、女性に横領され結局再び心を閉ざしてしまった。後日女性からスタッフへ郵送で返金、その後、スタッフは川元へ5000円を手紙とともに差し入れた(その際、川元は「返すくらいなら初めから盗るなよ!」と少し怒っていた)。回が進むにつれ、川元も衰弱しきっていた。しかし、TプロデューサーとCPの吉川はそれでも挑戦させた。これは、既述のような川元自身のゆがんだ心を叩き直すことや、川元に対して芸能界の厳しさ、さらには自然とのサバイバル精神を身につけさせるためでもあった。

企画の進展がほとんどないまま数か月が経ったころ、川元と交際中の女性が現れ、陸上競技場のトラックで夜中から夜明けまで数時間に渡って箱を押し続けた。これに対して、企画が始まって以来初めて「ありがとう」の言葉が出た。本来の目標とはほど遠いが、企画そのものが視聴者から離れていることに加えて、企画に対する批判が強くなったこともあってかこの時点でゴールと見なし、それまで開くことのなかった箱が遠隔リモコン操作で開き、企画は終了した[5]

企画の終了後、川元は鹿児島県で毛布を借りた老夫婦を訪ね、「この毛布だけは自分の手で返したい」と毛布の返却をした。老夫婦は箱から出ることができた川元に喜んでいた。

箱&ハコ 応援歌を捧げる旅[編集]

山崎ハコ室井滋(室井箱)による企画で、「電波少年的箱男」の川元を応援するために山崎作詞・作曲による歌をつくり、室井が歌うことになっていたが、曲が完成する前に箱男が終了したため、企画を変更。引きこもりを応援するため全国各地へ旅をすることとなった。この企画に際し、室井は頭に箱を被っている。応援歌は「希望」のタイトルで2000年10月12日に東芝EMIより発売された。

電波少年的愛する二人別れる二人(やらせなし)[編集]

やらせ問題により打ち切られた『愛する二人別れる二人』(フジテレビ系)のパロディ企画。しかし内容は本編とは異なり、仲の悪くなったある夫婦と犬に扮したどーよが1か月間共同生活をし、離婚するのか否かを決定するというものだった。

のちに「番組をパクっている」とフジテレビに抗議されるが、当のフジはその後『トロイの木馬』という電波少年にそっくりな番組を放送。これを受けて電波少年はナレーターの木村匡也に「次なる企画は『電波少年的トロイの木馬』!!…あれ〜?」と語らせ、フジテレビを皮肉った[6]

電波少年的全米デビューへの道[編集]

小室哲哉との破局から復帰するも再休養に入りカナダから一時帰国中だった華原朋美が、自力だけで全米でCDデビューすることを目指し、ゼロからスタート。ちなみに、Tプロデューサーが来た時はゲストとしての出演依頼と半ば勘違いしていたらしい。

現地では「日本の有名歌手である」ことも通用せず、開始当初は絶望的ともいえる企画ではあったが、洗車場でのアルバイト、ボイストレーニング、クラブでのステージ、オーディションなどを経験し、半年後「Never Say Never」でデビューを果たし帰国した。華原自身は、「この企画がなければそのまま芸能界から消えていた」という旨の発言をしている。

電波少年的東大一直線[編集]

「大学に行きたい!」と強い思いを抱く若手芸人が東京大学合格を目指して勉強に励む企画。当初はカズマキ小倉一真が選ばれていたが、二度の脱走の末リタイアしたため、『雷波少年』プロデュースのイベントに参加していたアルカリ三世(当時)の坂本ちゃんが新たな挑戦者になった。

その後、家庭教師として東大出身のケイコ先生も加わり、日夜勉強に励んだが、センター試験での成績が振るわず、東京大学2次試験出願を断念。下記の「どこでもいいから一直線」に移行した。企画中、相方の添野豪太宰府天満宮へ自転車で合格祈願のお守りと絵馬を買いに行ったこともある。

電波少年的東大どこでもいいから一直線[編集]

東京大学を断念したものの、その成績の向上を無駄にすべきではないということで坂本ちゃんが、どこでもいいから大学に合格するという目標に切り替えて再スタート。15の大学を受験した結果、8大学に合格。その中から日本大学に入学することとなった[7]

電波少年的松本人志のアメリカ人を笑わしに行こう[編集]

「アメリカのコメディーよりも日本のお笑いのほうが面白いのではないか?」という疑問から、アメリカに通用する日本のお笑いを作るため、ダウンタウン松本人志が挑戦。ただし、これまでの企画とは異なり松本はスケジュールの都合などで[8]拘束されることはなかった。企画はまず、アメリカでコメディアンとして活動する野沢直子に会いに行き現地のコメディーショーを視察、数か月後松本の過去のコント作品(字幕版)をアメリカ人に見せて反応を伺った。ほとんど満足のいく反応を得られず、改めてアメリカ人向けのコント作品「サスケ」を制作することが決定。その後納得の行く作品に仕上がるまで推敲を重ね、ニューヨークでの上映会へと向かった。上映会に集められた観客は200人で、人種・年齢・性別は当時のアメリカ国内の比率に合わせられている。結果アメリカ人からそこそこのウケを得た。

企画は手探り状態で進められ、放送する内容が限られるためかなかなか企画が前進しなかった(松本にインタビューをしている際に土屋が音声スイッチを入れ忘れ、何を言ってたか想像する件で場を持たせたこともある)。「サスケ」の完成まで時間がかかり、半年以上放送されない時期もあった。また、松本のアメリカロケには土屋が直接同行した。

電波少年的○○人を笑わしに行こう[編集]

矢部太郎が挑戦。様々な国の言葉を学習し、その国の人々を笑わせるという企画。応援歌はTM NETWORKCASTLE IN THE CLOUDS (YABE VERSION)」。この企画では食事の前に会話テストが行われ、正解すると食事ゲットというのが基本的なルールとなっている。出題方式や食事の内容などは以下の通り異なる。

アフリカ人を笑わしに行こう
「○○人を笑わしに行こう」の最初の企画。スワヒリ語をマスターし、コントで現地の人を笑わせるのが目標。「東大一直線」で使用された坂本ちゃんの部屋で行われ、現地人が部屋に来て問題を出題という方式が取られた。この時の食事の内容は「アフリカ駄洒落飯」で、アフリカだけにアフリイカ(あぶりイカ)定食などが当初は出されていたが、後に苦しくなってきたため視聴者からもネタが募集された。なお採用されたネタの中に漫画家のつのだじろうが投稿したものがあった。
モンゴル人を笑わしに行こう
出題方式は「アフリカ人を〜」と同様。食事は現地人が作った料理が出されるが、会話テストに失敗すると出題者が矢部の料理を没収する方式となっていた。企画中は現地の家族とともに生活し、その際日本のさまざまな場所を旅し、矢部はバスガイドとして案内を行った。最後の会話テスト「共同生活で何を学んだか?」で「家族の愛を学んだ」と答え、家族を号泣させた。なお、家族が帰ってから、公演までのわずかな期間においては、アフリカ人の時と同様に「モンゴルダジャレ飯」が出された。
韓国人を笑わしに行こう
これまでと異なり、出題方式は部屋に置いてあるテレビからの出題となり、舞台もなすびの懸賞生活で使用された部屋となった。この部屋に連れてこられた際、なすびと対面している。テストの合否にかかわらず青唐辛子が食べられたが、テストに合格したときは「毎日でもいい」といったことから焼肉のみが出た。
オランウータンを笑わしに行こう
ボルネオでのロケを実施。本企画としては初の海外ロケであり、また人間以外を対象に行われた。
日本人を笑わしに行こう
雷電為右衛門』の生放送中に、スタジオ観覧者を対象にネタを考えるという極限の状況の中で実施した。
コイサンマンを笑わしに行こう
アフリカ(スワヒリ語が通じない民族)でのロケを実行し、相方の入江慎也も登場。この時は一緒に生活している現地人の食事が食べられたが、現地人の料理である草団子(草をちぎってつぶしただけの物)を食し悲鳴を上げたこともある。また3連続正解ボーナスとしてバナナが出された際、矢部が「カイジャー!!(現地語で「おいしい」)」と叫んだために、コイサンマンが集まり、バナナを奪われるという出来事があった。矢部の高い語学力ゆえに起きた悲劇だった。
現地人の祭りのときにネタを披露する予定であったが、本来の祭りの日であることに2人は気づかず、後日再び祭りを開催してもらいネタを披露した。また、現地でのロケの際、勉強中に背後をライオンが通ったこともあるが、2人は勉強に集中していたためにライオンに全く気づかなかった。

電波少年的15少女漂流記[編集]

最末期のコーナーで、タイトルは『15少年漂流記』のパロディ。「電波少年的おニャン子だったりモー娘だったり…」で集められた以下の15人が強制参加。2000年から2001年にかけての大晦日・年越し特番『いけ年こい年世紀越えスペシャル』で、久保田利伸が作詞作曲を手がけた『Vibe,Survive』の振り付けを間違えて踊ってしまったため、とある無人島に島流しされた。

最初、土屋はチェキッ娘が卒業(解散)する際(1999年11月)に始める形で、同グループのメンバー全員を同様に無人島に連れていって『サバイバー』のようなことをやろうという企画で、当時フジテレビプロデューサーだった「チェキッ娘生みの親」こと水口昌彦[9]に打診、水口もそれに協力し、当時のメンバーの所属事務所や家族らに話をつけるなどしたうえであと少しで企画が動き出せるというところで、メンバーの誰か(誰であったかは結局不明だった)がこれを聞きつけて他のメンバーに漏らしたために企画がばれ、土屋もこの企画をボツにして改めて立て直したのがこの企画だったという[10]。なお、当初の企画対象だったチェキッ娘からは野崎恵のみが参加している。

余談であるが、チェキッ娘の看板番組だった『DAIBAッテキ!!』および『DAIBAクシン!!GOLD』の司会を、かつての電波少年の企画「南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク」を果たしたドロンズが務めていた。

この企画ではスタッフはおらず、参加者の15人が取材カメラなどを担当。いかだを作って無人島からの脱出を目指す。最終的に企画を終えた時には8人が残っていた(脱落した7人の内、1人は開始早々に高熱を発した為にドクターストップをかけられた。他の6人は企画内容や人間関係に嫌気がさしたことによるリタイヤ)。のちにその8人はグループ名を『8/15』(エイト・パー・フィフティーン)としてあらためて『Vibe,Survive』を披露、シングルをリリースした。

15カ国少女漂流記[編集]

「15少女漂流記」と同じ条件で、15カ国の少女たちが自力での無人島脱出を目指す。ただし「15少女」とは異なり、スタッフも島で一緒に生活する。日本人では「15少女」にも参加した野崎恵が再び選ばれた。無人島はカンボジア領の一無人島であることが後に判明した。ヨーロッパ出身の参加者の態度が問題視されていたが、後になって制作局が全く違う内容のテロップを流していたり、やらせを強要していた、またデング熱に罹患したという告発がなされ、番組ではこれを否定しフライデー騒動事件へと発展した。

随時伝言ゲームが実施され、成功するとほしいものを獲得できる。お題は「鈴木宗男」、「仲良し」(このときメンバーの対立が相次いだ)、「人妻温泉」(ディレクターの好きな番組)、「もうちょっと頑張れ、TBSのサバイバー」など。この企画では野崎恵(日本)の他に、ペルー、カンボジア、ケニアの3カ国の代表が脱出を果たした。

電波少年的アンコールワットへの道の舗装[編集]

カンボジアのある地点からアンコール・ワットまでの道の89kmを舗装する企画。1km舗装するたびに日本円にして1万円分の生活費が支給される。元々「日本の新成人が熱い!」ということで新成人を対象に募集していた企画で、その条件の中に「突然いなくなっても大丈夫な人」とあった。そのほか「何かひとつのことをやり遂げたい人」としても募集していた。

芸人、元ヤンキー引きこもり、元プロボクサー(「しん君」こと大和心、当時はタレント活動を行っていたが番組内でその点に触れられることはなかった)、家族の応募(実際は家族が手を焼いていた為に「追放する」形)で参加させられた者など、様々な境遇の12人[11]から始まり、目隠しでカンボジアへ到着。番組では、出演メンバーの棄権、脱走、司会者チューヤン罰ゲームで移送、リ-ダーの「コンさん」こと村松秀昭の赤痢などがあったが、「電波少年的 インターポール」(後述)のメンバー(髭男爵のピュアぞー(現:山田ルイ53世)・宴人(現:Wエンジン)の川合正悟(現:チャンカワイ)・アルカリ三世の添野豪)なども投入。悶着や喧嘩など様々事件が起こったが、見事に舗装完了した。この企画からTプロデューサーが「T部長」となった。内容はTBSの『ガチンコ!』と争っていたが、視聴率はトップクラス。

この企画に参加していた初期メンバーの一人・「ハンサム」こと荒井伸元は番組終了後再度カンボジアに渡り、日本からの有志と共に現地に小学校を建設するのに尽力した。[12]

また初期メンバーの一人で当時、大学を休学中だった「石ゴン」こと石子貴久は、番組終了直後に1年7ヶ月に渡る世界一周の旅に出かけ、旅の経験を元に現在はカンボジアの小学校などを訪問するスタディーツアー事業を立ち上げ、主催として現在も活動中である。[13]

電波少年的ペナントレース[編集]

『雷波少年』の「雷波少年系熱狂的巨人ファン」や「雷波少年系熱狂的巨人ファンvs阪神ファン」「雷波少年系熱狂的巨人ファンvs中日ファン2000」からの派生企画で、セントラル・リーグの球団ファンの芸人6人が集結し、2002年のシーズンを通してファンのチームを応援する。参加者は以下の通り。後にT部長は「パ・リーグ版もやりたかった」と語っている。

ファン球団 所属事務所 ファン名(そのファンが所属するお笑いユニット名)
読売ジャイアンツ 松竹芸能 松井成行(シンデレラエキスプレス
阪神タイガース ホリプロ 菊池保博(007)
ヤクルトスワローズ ホリプロ 山本洋兵(こてんぱん
中日ドラゴンズ 人力舎 大津つよし
広島東洋カープ サンミュージック うめ(楽天)
横浜ベイスターズ 浅井企画 モンモン
部屋
各部屋にはそのチームのプレートが張ってあり、試合が始まるとそのプレート部分が下に下がり、テレビが現れる。音声はヘルメットに付いたヘッドフォンから流れる。応援するチームの試合のテレビ放送がない場合は、別の部屋と同じ試合が流され、途中経過が流れるのを待つというルールだった。また順位に合わせ、参加者が生活する部屋や服装が以下の通り変動する。これは『人気者でいこう!』の「芸能人格付けチェック」を基にしたもので、同率の場合は得失点差で決まる。各部屋の名称は携帯サイトによる。
順位 部屋名 照明 寝具・家具 服装
1位 ゴージャスな部屋 カーペット シャンデリア ベッド
いす
テーブル
フルのユニフォーム
2位 控えめな和室 蛍光灯 布団
和机
1位の服装から
ズボンを脱ぐ
3位 ワイルドな空間 フローリング 裸電球 寝袋
ちゃぶ台
2位の服装から
さらに上着を脱ぐ
4位 床一面すのこ!これは贅沢… すのこ ランプ 座布団
みかん箱
3位の服装から
さらにブリーフを脱ぐ
(ここが最大のポイント。これによりBクラスは常にフルチンとなる)
5位 斬新な部屋 むしろ ろうそく ダンボール 4位の服装からさらに
アンダーシャツを脱ぐ
6位 何もない部屋 土間 なし 新聞紙(寝具) 5位の服装からさらに
ソックスを脱ぐ
(要するに全裸)
ルール
試合に勝てば1日3食ゲット(近所の定食屋からの出前が取れる)。負ければ勝つまで食事抜きとなる。翌日が移動日・中止により試合が無い場合、その日の勝敗に引き続き食事の有無が決まる(勿論、前試合で負けていれば、そのまま食事抜き)。
また3連勝すると「ボーナス箱」、3連敗すると「ドクロ箱」を引き、指示に従う。ボーナス箱特典の「負けた翌日の特別定食」として、阪神には「かち割り定食」(かち割り10袋とライス)、ヤクルトには「ヤクルト定食」(ヤクルト10本)があった。またボーナス箱の特典の1つである「1位部屋に1泊」を引くと、1位部屋の人はボーナス箱を引いた人の部屋に1泊移動しなければならない。これとは逆に、ボーナス箱でありながら「6位部屋に1泊」というものがあった。これを1位部屋にいた阪神ファンの菊池が引いてしまい、開幕からずっと6位部屋であった横浜ファンのモンモンが1位部屋に1泊移動することになった。しかし、モンモンは6位部屋の生活に慣れてしまったので、1位部屋で寝ることが出来なかった。
勝敗に関係なく、その日のチームが打ったホームラン1本につき「ホームランバー」獲得。負け続けたチームのファンはホームランバーが命綱となった。
オールスターゲームのときは全員がセリーグを応援する。負けると1位の人が「敗戦ドクロ箱」を引く。そのとき1位だった巨人ファンの松井が引き、全員が6位部屋へ移動となった。また阪神ファンの菊池がボーナスで引き当てたサッカー日韓ワールドカップの試合がある日は全員が日本を応援し、日本が勝てば、相手国の名物料理が食べられるというルールになっていた。ただし、チュニジア戦で勝利した際は、駄洒落でチャンジャが振舞われた。
1位と2位が10ゲーム差以上になった場合、2位以下のチームが1位のチームの試合を見る。1位のチームが勝つと2位以下のチームは食事抜きとなり、1位のチームが負けると2位以下のチームが食事獲得。1位にマジックが出た場合、2位以下のチームが全裸になり6位部屋で1位のチームの試合を見る。マジックが減ると2位以下のチームは食事抜きとなり、マジックが減らないと2位以下のチームが食事獲得。マジックが消えたら全チーム元に戻る。
企画の経過
当初は6人6様の応援が見られたが、横浜ベイスターズファンのモンモンが5月の長期連敗によって11日間食事抜きとなり、全裸で尚且つ新聞紙を使って土間で寝ると言う環境の悪さから体調不良を訴え診察を受ける羽目に陥り、事の次第を聞いた医師は怒りを通り越して呆れ果てたという。結局、モンモンは医師からの「無理」の一言でドクターストップを宣告されリタイア。その後、チアガールオーディションを開くも、「(公共放送で)全裸になりたくない」との至極当然な理由から女性応募者ゼロ。その際女装したモンモンが応募しようとオーディション会場に現れるが、その後二度と現れなかった。次にモンモンが電波少年シリーズに登場したのは、シリーズ末期の後継番組での企画であった。
残りのシーズンは5人での応援となったが、阪神ファンの菊池保博が6月の阪神の長期連敗によりモンモンを越える14日間食事抜きとなり、やはりドクターストップを宣言された。この時、「これ以上仲間が消えるのは嫌だ」と、巨人ファンの松井が食事を譲るなど全員が阪神を応援した。そして、阪神は「負ければ本当にリタイア決定」となるラストチャンスの試合に勝利し、菊池はかろうじてリタイアを免れた。
2002年は読売ジャイアンツがリーグ優勝(同年は日本一も果たした)し、巨人ファンの松井成行が「巨人とビールかけ(巨人とはもちろん背の高い人のこと)」、の胴上げ→カヤック紅海(契約更改)→カイロ(帰ろ)とV旅行を味わった。また優勝直後、他の芸人に胴上げされた。V旅行の模様は『電波少年に毛が生えた 最後の聖戦』内で放送された。

電波少年的放送局[編集]

室井滋が部屋の中でシーエス日本で開設した放送局のテレビ番組を行う。部屋のドアは溶接されているため天井からのブランコを使わないと出られない。さらに室井が出られないときの代役として唐木恵子羽田実加が出演した。また矢部太郎FOMAを使って面白いことをレポートしていた。

ちなみに試験放送中は「たぶん世界で一番難しいクイズ番組」であった。出題から回答までの時間が72時間あり、その間、ずっと無言でスタジオにいなければならない。当然、食事は出ず、水が3時間ごとに支給される。

電波少年的インターポール[編集]

インターポール荘に入った髭男爵のピュアぞー(現・山田ルイ53世)、宴人の川合正悟(現・Wエンジン・チャンカワイ)、アルカリ三世添野豪第3別館の村山匠の4人のうち1人が海外(イタリアインドハワイ)へ派遣される。そして派遣された人がその場所で遭う犯罪を見て被害にあわないように勉強しようという企画である。4人には偽企画「電波少年的あぁ美しき人生」ということにしておき、世界の名作文学の読書感想文を書かせる[14]

日本で待機中は食事が無条件で支給されるという、電波少年では極めて異例の企画だった。しかし、そのメニューは取調室で出されるものに由来してかカツ丼のみだったため、村山がそれに耐えられずリタイヤ[15]。そのため、新たにカツライスがメニューに加わった。残りの3人はその後脱出をかけて「巨乳ジャンケン」(後述)をしたが、その後「そっくりさんジャンケン」も失敗に終わり、終には「アンコールワットへの道の舗装」に投入されることとなった。この企画終了後、帰りの車とは別に添野のみが別の車で拉致された。

企画終了後、添野は帰国後に松屋のアルバイトに戻っていた(別の企画は辞退したものと思われる)。

派遣された国では、インドに派遣された添野はパスポートが盗難に遭い帰国のための渡航書発行の為に現地の日本大使館へ駆け込む羽目になったり、ハワイへ派遣されたピュアぞーはマリファナの売人が寄ってきて買わされそうになるなど過酷さを極めた。そのため企画の中には、VTRを収めたテープが犯罪の証拠品として現地の警察に押収されてしまい、放送されなかったものがあり、特にピュアぞーが出演した回については警察から返還されたテープに収録されていた部分のみ、「巨乳ジャンケン」→「そっくりさんジャンケン」終了後に後日放送された。

電波少年的巨乳ジャンケン[編集]

「電波少年的インターポール」終了後に行われた企画。ピュアぞー、川合、添野の3人が海外(行先はアメリカフランスペルー。これは、3人がそれぞれ巨乳美女が多そうな国を挙げて決定した)へ行き、巨乳美女を探し出して対決する。所持品として「私は巨乳を探しています」と現地の言語(英語・フランス語・スペイン語)で書かれたメッセージボードとビデオカメラを持ち、女性に直接交渉・実際に巨乳を見せてもらう(その際、トップの部分は星のテロップで隠される)。こういうロケのため女性を怒らせるなど苦労が絶えなかったが、3人は何とか見つけ出して女性を日本へ連れて行く。

2002年元日に放送されたスペシャルで対決。優勝はアメリカであったが、後のレギュラー放送において胸にシリコンが入っていたという不正が発覚してノーカウントとなり、「そっくりさんジャンケン」で再対決することになった。

電波少年的人は占いを信じて旅をすると幸せになれるのか?[編集]

占いは絶対に信じているという天城純子本多彩子が、占いを信じて世界中を旅するという企画。100万円が旅費として渡され、これが200万円になったところで終了、のはずだったが、番組スタッフが事前に中国にあるゲリラ地帯に行かないように占い師に頼むという不正を働いたことから、さらに100万円が追加され、ゴールも400万円に増加した。

天城はイスタンブールで好きな人が現れたため途中で辞退したものの、本人も日記に書いた通り「幸せになる」という目的は達成された。その後は本多単独での旅になり、占いによりカジノで所持金を増やそうとしたが失敗し、無一文になってしまった。そのためT部長がさらに100万円を支給し、ゴールも600万円に増加しようとしたが、本多はリタイヤしそのまま日本に帰国した。

後に、本多が当時の所属事務所であるイトーカンパニーのファンクラブ会報で語ったところによると、拉致された当日は風邪を引いていたらしく、家のチャイムが鳴りスタッフの「じゃあ行こうか!」という一声からそのまま連れ出されてしまったという。ちなみに本多にとってこれが初めての海外だったという。

電波少年的飛んでイスタンブール[編集]

上記の企画から派生した企画で、イスタンブールで恋愛をするために旅をする。天城は最終的にトルコの恋人と別れ日本に戻る決意をするが、この企画の趣旨は、トルコにはもっといい男がたくさんいるので、誰か他の女性がトルコ人と付き合いませんかというものだった。しかし日本から参加した女性は、多くのトルコ人と集団見合いをした結果、誰も選ばなかったため、トルコ国内で「日本のテレビ番組はトルコ人を馬鹿にするためにやってきたのか」という声が上がり、国際問題になりかけた[16]

電波少年的模倣犯[編集]

電波少年の名を騙り秋田県無銭飲食をした男の行方を、捜査員である電波少年的地球防衛軍のブラックとブルーが追う企画。一度目の放送は通常の時間帯の放送ではなく、昼間の特別番組として放送された。当時公開中の映画『模倣犯』の宣伝も兼ねており、このときは中居正広木村佳乃がゲスト出演した。その後通常放送内で続編が放送され事件の顛末が語られている。

同番組出身のタレント[編集]

  • 朋友(パンヤオ)(チューヤン伊藤高史のコンビ) - 「アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク」
  • 坂本ちゃん唐木恵子 - 「電波少年的東大どこでもいいから一直線」
  • なすび - 「電波少年的懸賞生活」
  • 真中瞳(現・東風万智子) - 「電波少年的ハルマゲドン2」、「電波少年的80日間世界一周」
  • Rマニア(ロッコツマニア) - 「電波少年的スワンの旅」シリーズ
  • 矢部太郎カラテカ) - 「電波少年的XX人を笑わしにいこう」シリーズ
  • 川元文太ダブルブッキング) - 「電波少年的箱男」
  • 黒沢かずこ(当時は「黒沢宗子」の本名で出演、森三中) - 「電波少年的15少女漂流記 → 8少女漂流記」
  • いとうあさこ(当時は「伊藤麻子」の本名で出演) - 「電波少年的15少女漂流記 → 8少女漂流記」
  • 斉藤ゆり(地球防衛軍ピンク) - 「電波少年的地球防衛軍」「電波少年的15少女漂流記 → 8少女漂流記」

エピソード[編集]

  • Tプロデューサーによる拉致のお決まりスタイルであるアイマスクとヘッドホン着用は、初期の頃から決まっていたわけではなく、現に猿岩石やドロンズ、朋友は着用していない。なすびの企画で、移動先の部屋が実は近い場所(部屋のうちひとつは四ツ谷)だということが本人に分からないようにするため、アイマスクを着けさせ車でグルグルまわったことがきっかけで、以降アイマスクヘッドホン着用が定着していった。
  • 朋友のゴール後、新企画がなかなか始まらず何週か朋友の未公開VTRを放送したがついに流すVTRがなくなり、『進め!-』時代に行ったアポなしロケの未放送VTRを流すも1回で終了[17] 。その後はアルプスの美しい風景を穴埋めとして放送し出演者を呆然とさせていた。なすびの電波少年的懸賞生活のゴールが決まり、ゴール特番『電波少年はだかまつり』が急遽企画されるまでは『電波少年ヨーデル祭り』というタイトルで放送する予定だった。なお、『電波少年ヨーデル祭り』はその日の深夜に15分間放送された。
  • 電波少年を主体とした2000年から2001年へのカウントダウン『いけ年こい年』で、カウントダウンを意図的に2分早めるという演出を行い、非難を浴びた。2001年最初の放送で15秒ほど黒バックに白文字でお詫びを放送した。この件について土屋は「やっちゃいけないことをやってしまったのが電波少年」と、これが電波スピリッツだと釈明している。ちなみに翌年のカウントダウンは任されずスペシャルは元日に放送され、『わけあって今年はカウントダウンやらせてもらえないのね~んスペシャル』と題し最後までおどけてみせた。
  • 2002年7月、『電波少年』は10周年を迎えたとして、アポ無しロケが1回限り復活した。
  • 番組最終回の放送は、通常オープニングで流れるCG映像の逆再生バージョンが流された。空が青→夕焼け→その後夜になり電波少年の空想上の建物自体が壊れて終了となった。

ネット局[編集]

放送対象地域 放送局名 系列 ネット形態 本来の時間帯に放送していた番組
関東広域圏 日本テレビ 日本テレビ系列 (キー局) -
北海道 札幌テレビ 同時ネット
青森県 青森放送
岩手県 テレビ岩手 遅れネット
→2000年4月から同時ネット
夢・見る・ピノキオ
(2000年3月まで)[18]
宮城県 ミヤギテレビ 同時ネット -
秋田県 秋田放送 遅れネット ナショナル劇場
山形県 山形放送 同時ネット -
福島県 福島中央テレビ
山梨県 山梨放送
新潟県 テレビ新潟
長野県 テレビ信州 遅れネット
→1999年1月から同時ネット
信州2230TV
(1998年12月まで)
静岡県 静岡第一テレビ 同時ネット -
富山県 北日本放送
石川県 テレビ金沢
福井県 福井放送 日本テレビ系列
テレビ朝日系列
遅れネット 『ナショナル劇場』
中京広域圏 中京テレビ 日本テレビ系列 P.S.愛してる![19]
近畿広域圏 読売テレビ 大阪ほんわかテレビ
鳥取県島根県 日本海テレビ 同時ネット -
広島県 広島テレビ 遅れネット 進め!スポーツ元気丸
山口県 山口放送 同時ネット -
徳島県 四国放送 遅れネット 『ナショナル劇場』
香川県・岡山県 西日本放送 同時ネット -
愛媛県 南海放送
高知県 高知放送
福岡県 福岡放送 遅れネット ナイトシャッフル
長崎県 長崎国際テレビ 同時ネット -
熊本県 くまもと県民テレビ
大分県 テレビ大分 フジテレビ系列
日本テレビ系列
遅れネット
→1999年4月から同時ネット
フジテレビ系の遅れネット番組
(1999年3月まで)
宮崎県 テレビ宮崎 フジテレビ系列
日本テレビ系列
テレビ朝日系列
同時ネット -
鹿児島県 鹿児島読売テレビ 日本テレビ系列
沖縄県 琉球放送 TBS系列 遅れネット (TBS系の番組)

ネット局に関する備考[編集]

日本テレビでの放送時間は前述の通り日曜22時30分 - 23時00分だったが、一部の系列地方局は元々同時間帯に放送していたローカル番組を優先させて、この番組を別の時間帯に遅れネットで放送していた。

読売テレビは当初、この番組を日曜11時台後半に放送していたが、『スーパージョッキー』の終了後の1999年4月からは日曜13時05分へ移動させている。同時期に『雷波少年』も土曜深夜から日曜12時台後半へ移動させたので、同局では電波少年シリーズ2番組が連続で放送されることになった。また、中京テレビもこの2番組を土曜17時台にまとめて放送していた。

また、福井放送は2002年頃、『雷波少年』と『電波少年』をセットで13時から放送していた。スペシャル版が近づくと、『雷波少年』と『電波少年』を特集として2回分をまとめて放送していたが、スペシャル前は未放送になることが多かった[20]

特番を除いて最後まで同時ネットされなかったのは、『進め!電波少年』と同様。なお、2000年9月まではスカイパーフェクTV!CS★日テレでも放送されていたため、先に挙げた遅れネット局の地域でもリアルタイムで見ることができた。

歴代エンディングテーマ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 2001年5月まで演出とプロデューサーを兼任。
  2. ^ なお、「進ぬ」としての初日の新聞番組欄では新番組扱いとされておらず、[新]マークはついていなかった。
  3. ^ ちなみに川元は鹿児島県枕崎市出身である。
  4. ^ トラックには「精密機器輸送中」とカモフラージュしていた。
  5. ^ 企画終了の際に通過ルートが初めて明かされ、鹿児島→宮崎→大分→福岡→山口→島根→鳥取→兵庫→京都→滋賀→岐阜→長野→静岡→神奈川の13府県(福岡・山口・兵庫の3県は陸路では必ず通過しなければならない)を通過し、なおかつ福岡・広島・神戸・大阪・名古屋の大都市圏を避けるルートをとった。
  6. ^ 皮肉にも『愛する二人別れる二人』よりも、『トロイの木馬』の方が早く終了するという結果になった。
  7. ^ ちなみに坂本は日大の系列校日本大学明誠高校の出身である。
  8. ^ それまでは、企画開始当初無名であるタレントや芸人が挑戦したため、部屋に拘束させて企画を進めることができたが、この企画は大物タレントである松本を起用したためレギュラー番組などのスケジュールを優先したためだと思われる。
  9. ^ 現在は、系列ポニーキャニオンにて常務取締役映画事業本部長を務めている。
  10. ^ スコラ』2009年9月号「チェキッ娘生みの親 プロデューサー水口昌彦かく語りき」(90P)より。これによると、水口は土屋のことを「ツッチー」と呼んでおり、それほどの仲であることがうかがえる。
  11. ^ 当初は、オーディションで決定した15人程度が参加予定だったが、参加当日に現れなかった者や家族の猛反対で参加前に辞退せざるを得なかった者がいた。
  12. ^ カンボジア学校建設2003
  13. ^ サンダルツアーズ
  14. ^ オーディションにはどーよケンキや、箱男こと川元文太なども参加していた。
  15. ^ リタイヤ後は村山の顔を×マークで隠していた他、テロップもリタイヤと表示していた。
  16. ^ 本来は「電波少年的インターポール」企画終了後に放送される予定だった。お蔵入りも検討されたものの、最終的には「巨乳ジャンケン」・「そっくりさんジャンケン」の企画終了後に放送された。
  17. ^ そのロケは松本がメインで行ったもので、松村が行った未放送分のロケは一切流さなかった。
  18. ^ 2000年4月から日曜22:56 - 23:26に移動。
  19. ^ 現:『PS三世』。
  20. ^ 秋田放送・四国放送・福井放送は当番組終了と同時に日曜22時30分枠の時差ネットを打ち切った。但し、秋田放送・四国放送は『中井正広のブラックバラエティ』で日曜22時30分枠の時差ネットを再開し(秋田放送は『有吉反省会』から同時ネットに変更)、福井放送は『有吉反省会』(同時ネット)で日曜22時30分枠のネットを再開した。

参考文献[編集]

  • 「電波少年 最終回」 土屋敏男著、日テレより2001年10月発売

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

日本テレビ 日曜22時台後半
前番組 番組名 次番組
進め!電波少年
(1992.7.5 - 1998.1.4)
進ぬ!電波少年
(1998.1.11 - 2002.9.29)
別れてもチュキな人
(2002.10.13 - 2003.4.13)