大道典嘉

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大道 典嘉 (大道 典良)
読売ジャイアンツ コーチ
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 三重県志摩郡大王町(現:志摩市
生年月日 1969年10月28日(42歳)
身長
体重
185cm
96kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手外野手指名打者
プロ入り 1987年 ドラフト4位
初出場 1989年10月14日
最終出場 2010年9月19日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (2012 - )

大道 典嘉(おおみち のりよし、本名:大道 典良(読み同じ)、1969年10月28日 - )は、三重県志摩郡大王町(現:志摩市)出身の元プロ野球選手外野手内野手)で、野球指導者。2012年より読売ジャイアンツ(巨人)の育成コーチを務める。

南海ホークスに在籍したことのある最後の現役選手であった。またホークスの球団名が「福岡ダイエーホークス」だった期間(1989年 - 2004年)に一度も途切れることなく在籍を続けたのは、選手・コーチ・監督を含めて大道のみである。

目次

[編集] 経歴

[編集] アマチュア時代

明野高校2年生の夏に甲子園出場。ただし、この時は控え投手(4番手)で試合には出場していない。センターのレギュラーになったのは2年の秋からである。当時、四番の奥野、エースの近藤と共に三羽烏と呼ばれていた。

[編集] ホークス時代

南海ホークス最後のドラフト(1987年)で4位指名を受け、入団するも、レギュラー定着には至らなかった。入団当時の体重は70キロで現在より30キロ以上痩せていた[1]。1989年10月14日の近鉄戦で8回代打で初出場し阿波野秀幸からプロ初安打を打った。 1993年、監督に根本陸夫が就任。大道は根本を一軍に固定してくれた恩人と著書に記している[2]。同年78試合に出場した。ある日根本が「この中で一番守備がうまい選手を知っているか?大道だ」と言い大道もびっくりしたという[2]。「守備がうまい」と言われたのはプロ生活23年、高校時代の3年間含めても最初で最後だった[2]。根本曰く「ショート・大道」の守備が一番だといい[2]。それから遊撃手の練習もかなりして遊撃手での試合出場はなかったが根本監督時代は、三塁手で4試合ぐらい出場している[2]。ちなみに三塁手のグラブは、当時守備走塁コーチだった藤原満からの借り物だった[2]

1994年、ドラフトで主砲候補の小久保裕紀が入団し、練習風景を見てその図抜けたパワーに驚愕。以後「これでは飯を食えない」と持ち味の長打力を捨て流し打ちの練習に取り組む。藤本博史の右打ちを参考に「大柄な体を小さく曲げ、バットを極端に短く持つ」という独自の打法を作り上げた。

1996年、当初、外野の一角だったスコット・ライディが故障がちでスタメンを外れてからチャンスを得ると、後半はレギュラーに定着し、規定打席に到達しなかったものの打率.325・10本塁打・51打点の成績を残した。1997年は前年より数字は落ちたものの3番に定着し、規定打席にも到達。1998年以降は左打ちの柴原洋村松有人との併用により打席数は減少したため、規定打席に到達したのはこの年のみであった。

1998年シーズン後に地元西日本新聞によりダイエーのスパイ疑惑が報道され、スパイを行った主犯メンバーの1人として吉永幸一郎柳田聖人と共に名前が挙げられたが、証拠不十分として処分には至らなかった。

2000年、後に在籍する巨人との日本シリーズ第6戦では敗戦に繋がる失策を犯している。

2001年、登録名を本名から「大道典嘉」に改める。この年以降、スタメン出場する際は指名打者一塁手が中心となった。この年は、新加入のトニー・ミッチェルの不振でレギュラーを奪取。夏場以降絶好調で、右投手・左投手それぞれの対戦打率はどちらも3割を超えた。

2002年、若干数字は落ちたものの、モーガン・バークハートの不振と自身の5月・6月の好調が重なり再びレギュラーに。特にこの年に行われた、プロ野球史上初の台湾遠征2連戦(対オリックス)では1戦目、2戦目でどちらも追撃の本塁打を放っている。この遠征で本塁打を2本以上放ったのは大道だけであった。

2003年、開幕から指名打者としてスタメン出場を果たしていたが、当初外野で起用するはずだったフリオ・ズレータがデビュー戦で守備のまずさを露呈し、指名打者で大道と併用されるようになる(大道・ズレータとも正一塁手の松中信彦が指名打者に入った時は一塁を守った)。この年、オールスターゲームにもファン投票で選出。

2004年、ズレータが指名打者に定着したこともあって出番が激減したものの、シーズン後半には一軍に昇格し主に代打や相手先発が左投手の時の右翼手で起用された。

2005年、前年と同じような起用法であったが、この年の出場は全て代打もしくは一塁手としてのものであった。この頃から一軍と二軍の往復を繰り返すようになる。

2006年、開幕を二軍で迎えたが、チーム全体が打撃不振に陥ったことから5月下旬に一軍昇格。6月までは32打数10安打、打率.313を記録していたが、7月に入ると成績が低下[3]。後半戦は代打での出番も少なくなっていた。そして、シーズン終了直後の10月15日に戦力外通告を受ける。本人は「あまりに急な出来事だった」と述べている。現役続行を決断し、3日後には監督の王貞治の計らいにより、深刻な右打者不足に悩む巨人へ無償トレードされた。シーズンが終わった10月15日、大道が妻との外出中、携帯電話に球団幹部からの戦力外通告を受けた。この事に関し、大道は「南海時代からホークスの選手として頑張った自負があったし、引退試合ぐらいはさせてもらえると思っていた。それだけに、携帯電話での戦力外通告というのはショックだった」と語っている。[要出典]

[編集] ジャイアンツ時代

2007年、開幕を二軍で迎えたが、6月9日に一軍昇格を果たすと、この日の楽天戦で代打として巨人初出場。相手投手は同じ元南海戦士で同期入団の吉田豊彦[4]だった。結果はライト前ヒットで、その後も代打で出場した。代打本塁打も記録し、ホークス時代の2005年以来2年ぶりとなる通算11本目の代打本塁打となった。打点は本塁打の際の1点のみであったが出塁率は.405、長打率.472を記録している。

2008年、右の代打の切り札的存在の他、膝に不安を抱えていた小笠原道大に代わって三番一塁手でスタメン出場することもあった。6月21日の古巣であるソフトバンクとの試合では、1点ビハインドの9回2死に代打で登場。カウント2-3から完封目前の杉内俊哉の直球をとらえて起死回生の同点本塁打を放つ[5]。その後は木村拓也がサヨナラ打を放ち、木村と共に移籍後初のお立ち台に上がった。この時の写真が、その後東京ドームの二人のロッカーに二人が巨人を去るまで飾られていた。大道は「合計74歳のお立ち台」と振り返る。また、8月27日の対横浜戦では決勝点となるシーズン2本目、通算15本目の代打本塁打を放ち、現役選手では単独トップとなった(当時)。

2009年、開幕を二軍で迎えたが、5月に初昇格。しかし調子は上がらず、シーズンのほとんどを二軍で過ごした。特に得点圏では13打数1安打と結果を残せず、出場試合数はわずか37試合にとどまった。しかし、シーズン終盤に入って徐々に調子を上げ一軍に復帰すると、クライマックスシリーズ第2戦・対中日戦でこの年セ・リーグ防御率1位のチェン・ウェインから決勝の代打2点適時打、更に日本シリーズ第5戦・対北海道日本ハム戦の8回に林昌範から代打同点適時打を放ち巨人の日本一に貢献した[5]。当初フロントは、シーズンでの不振から大道にこのシーズン限りでの引退を勧告するつもりでいたが、ポストシーズンの活躍により2010年の契約・現役続行を勝ち取った。

2010年、一軍出場はシーズン終盤の5試合のみに留まり、5打数無安打に終わる。10月29日に現役引退を表明[6]し、引退会見では同年に世を去った親友の木村拓也の名を出し「チャンスがあればタクのようにコーチになりたい」と今後の方針を語った[7]

[編集] 引退後 

2011年はニューヨーク・ヤンキースの組織で巡回コーチとしてコーチの研修を積み[8]2012年からは育成コーチとして巨人に復帰することが発表された[9]

[編集] 人物

吉田豊彦が2007年限りで引退して以降、大道は自身が引退する2010年まで「最後の現役南海ホークス戦士」だった。なお、大道と同期入団の5選手も全てプロとしてのキャリアは10年以上経験しており、総じて長期にわたって活躍している。

愛称はコンバット満が名づけた「福岡の宅麻伸」(顔がそっくりである)、友人からの愛称として「のりちゃん」がある。また、南海時代から生き残るホークスの名物男としてあぶさんこと景浦安武[10]と並び称される存在でもある。 ひょうきんな性格で知られており、オフには博多華丸やコンバット満らと漫才をすることも。巨人移籍後は一軍在籍時にはズームイン!!サタデーのコーナー「プロ野球熱ケツ情報」にたびたび登場している。(2008年は同コーナーの総出演時間が選手の中で最も長かった。[11])ただし、本人はズームイン!!サタデーを見ていないことを公言している。[12]

また、球界きっての競馬通であり、2010年1月14日に船橋競馬場で行われた第6レースで三連単をボックス購入するが、マークシートの番号を誤って(8)→(10)→(11)と塗りつぶしてしまった(上記3つのうちどの馬番を間違ったかは不明)。しかし、結果的に当たり、400円が約100万円になった事で大喜びしていた[13]。その後プロボクサーで大道と同じく競馬ファンでもある亀田大毅らとも親交を深めている。

2006年6月17日の対中日戦では柴原洋の代打で出場し、そのままこの年初めて外野の守備に就いた(右翼手)。この事について大道は「ヒットよりも、外野を守ったのがちびりそうだった。外野はもう5・6年守ってないんじゃないかな」と述べている(実際には2005年以外は毎年外野を守っているのだが、2001年以降は外野での出場機会が激減したため、本人が覚えていなかったと思われる)。2006年に大道が外野を守ったのは、この1試合のみである。

数多くのタイトルを獲得している松中信彦が代打での難しさを「大道さんの凄さが改めてわかりました。1打席で試合に入り込むのは難しい。それでも大道さんはしっかり成績も残してるんですからね」と語っている。

2000年・2001年にはそれぞれ10試合程度2番で起用されたことがある(この時期の大道は主に3番や6番を打っていた)。

2007年、キャンプ中の負傷で出遅れた大道が初めて一軍に昇格した際、原辰徳の待つ監督室に呼ばれ、原に「大道、分かってるな?」と昇格の意味を問われ「分かってます。左投手打ちは任せて下さい!」と答えようとしたところ、原が「ムードメーカーな」と言い出した。大道は2度・3度と聞き直したが、やはり原は「ムードメーカーだ」とキッパリ断言するというやりとりがあったと『ズームイン!!サタデー』で明かしている。事実、ベンチにいる際はその役割を全うし、後継者は脇谷亮太だとまで語っている。

投手の球種や癖を判別するのが得意であり、元同僚のソフトバンク・和田毅は「4球ですべて見破られた」と語っている(また、同発言の後に大道は「(ホークス投手の)まだ教えていない癖もありますよ」と述べている)。大道は著書で和田と杉内に「僕の癖ってなんですか?」と聞かれたという。

腹が出ていることを巨人に移籍してから自虐的に語ることがあり、「スポーツ選手で相撲以外で腹が出ている選手で現役なのは僕ぐらいじゃないですか?」「こういう体型や年齢になっても契約してもらえることを誇りに思っている」と語っているが、開き直っているわけではなく、プロ選手としてのパフォーマンスを維持するために毎日1000回の腹筋トレーニングもしてきた。

長く代打職人として生活している選手らしく、非常にプロ意識が高い。出番がなさそうな試合でも「いきなりグラウンドに出るとまぶしくてボールが見辛いから」と3回あたりから、攻守や選手交代の合間にベンチから出てウォーミングアップを兼ねて照明の明かりに目を慣らす事を欠かさない。[14]

バットをかなり短く持つ打法が特徴だが、自身が使っていたバットは、実は日本一長いもので、相手投手に得意な外角球を投げさせるためだったと語っている[15]

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1989 ダイエー
ソフトバンク
3 4 4 0 1 1 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .250 .250 .500 .750
1990 18 38 36 3 7 1 0 1 11 4 0 1 1 0 1 0 0 12 0 .194 .216 .306 .522
1991 58 116 103 13 18 5 0 5 38 14 1 0 3 0 10 0 0 19 3 .175 .248 .369 .617
1992 53 84 73 8 14 2 1 5 33 12 1 0 2 1 8 1 0 21 3 .192 .268 .452 .720
1993 78 169 153 10 31 6 0 2 43 7 0 0 5 1 9 0 1 32 5 .203 .250 .281 .531
1994 70 121 109 18 28 9 0 2 43 10 0 0 3 0 9 0 0 20 4 .257 .314 .394 .708
1995 32 92 81 9 22 6 0 0 28 4 0 0 5 2 3 0 1 10 5 .272 .299 .346 .645
1996 90 303 274 32 89 24 0 10 143 51 0 0 3 4 21 0 1 47 7 .325 .370 .522 .892
1997 130 521 441 55 129 17 2 6 168 46 1 3 9 9 60 0 2 60 13 .293 .373 .381 .754
1998 90 331 281 29 83 16 1 4 113 38 4 0 5 3 39 0 3 38 5 .295 .383 .402 .786
1999 73 155 138 14 40 9 0 4 61 22 0 0 2 1 13 1 1 21 3 .290 .353 .442 .795
2000 95 279 224 30 74 19 0 1 96 36 0 1 7 4 43 1 1 31 7 .330 .434 .429 .862
2001 104 335 302 35 98 20 0 5 133 36 0 3 6 2 24 0 1 36 4 .325 .374 .440 .814
2002 101 337 304 34 90 20 0 6 128 36 1 3 7 0 25 0 1 36 11 .296 .352 .421 .773
2003 117 403 367 37 103 24 0 4 139 51 0 1 12 3 21 0 0 44 18 .281 .317 .379 .696
2004 36 84 74 4 22 3 0 1 28 13 1 0 1 1 8 1 0 11 4 .297 .361 .378 .740
2005 20 27 25 3 7 1 0 1 11 7 0 0 0 1 1 0 0 5 2 .280 .296 .440 .736
2006 44 71 60 0 13 3 0 0 16 8 0 0 6 2 3 1 0 10 5 .217 .246 .267 .513
2007 巨人 42 43 36 5 11 3 0 1 17 1 0 0 1 0 6 0 0 7 2 .306 .405 .472 .877
2008 60 69 62 2 17 7 0 2 30 16 0 0 1 1 4 0 1 8 3 .274 .324 .484 .807
2009 37 38 35 1 9 1 0 0 10 3 0 0 1 0 2 0 0 9 1 .257 .286 .297 .583
2010 5 5 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
通算:22年 1356 3625 3187 342 906 197 4 60 1291 415 9 12 80 35 310 5 13 478 105 .284 .347 .405 .752
  • 2010年度シーズン終了時
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

[編集] 年度別守備成績

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一塁 三塁 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1989 - - 2
1990 - - 12
1991 - - 39
1992 2 3 0 0 0 1.000 - 32 30 1 0 0 1.000
1993 29 155 8 2 11 .988 5 1 5 2 0 .750 27 26 4 0 0 1.000
1994 13 17 1 0 1 1.000 - 49 55 1 1 0 .982
1995 - - 27 49 1 0 0 1.000
1996 - - 61 115 0 1 0 .991
1997 2 3 0 0 0 1.000 - 124 223 6 2 2 .991
1998 10 51 2 0 4 1.000 - 73 102 4 1 0 .991
1999 2 1 0 1 0 .500 - 21 31 1 0 1 1.000
2000 9 50 11 0 4 1.000 - 24 21 2 0 0 1.000
2001 23 174 8 2 11 .989 - 14 18 1 0 0 1.000
2002 10 71 4 0 7 1.000 - 9 6 0 0 0 1.000
2003 18 109 4 0 8 1.000 - -
2004 - - 13 19 0 0 0 1.000
2005 4 24 0 0 0 1.000 - -
2006 8 51 5 0 1 1.000 - 1 0 0 0 0 ----
2007 5 8 0 0 0 1.000 - -
2008 4 24 1 0 1 1.000 - -
2009 2 6 0 0 0 1.000 - -
通算 141 747 44 5 48 .994 5 1 5 2 0 .750 528 689 21 5 3

[編集] 記録

[編集] 背番号

  • 55 (1988年 - 2006年)
  • 44 (2007年 - 2010年)
  • 107 (2012年 - )

[編集] 登録名

  • 大道 典良(おおみち のりよし)(1988年 - 2001年6月12日)
  • 大道 典嘉(おおみち のりよし)(2001年6月13日 - )

[編集] 関連情報

[編集] 著書

[編集] 脚注・出典

  1. ^ 大道典嘉 『仕事人-バット短く、息長く-』中央公論新社、2011、21頁。
  2. ^ a b c d e f 大道典嘉 『仕事人 バット短く、息長く』中央公論新社、2011年、34頁
  3. ^ 7月以降の成績は28打数3安打、打率.107であった。
  4. ^ 吉田はドラフト1位入団、大道は4位入団。なお、吉田はこの年限りで現役を引退したため、結果的にこれが元南海戦士同士の最後の対決となった
  5. ^ a b 大道は引退会見の席で、この2打を「思い出の一打」として挙げている。【読売新聞】代打の切り札、巨人の大道が引退…涙の会見
  6. ^ 【プロ野球】巨人・大道が現役引退を表明 産経新聞 2010年10月29日閲覧
  7. ^ 4球団23年…引退の大道「タクのように」 スポニチ 2010年10月30日閲覧
  8. ^ 【プロ野球】最後の南海、ロッテオリオンズ戦士が引退 消えゆく「昭和球団」経験者 MSN産経ニュース 2010年12月4日閲覧
  9. ^ OBの大道氏、田畑氏、阿波野氏がコーチ就任へ 読売ジャイアンツ公式ホームページ 2011年11月4日閲覧
  10. ^ ただし、景浦は2009年で引退している。
  11. ^ 2008年12月20放送 『熱ケツ総集編2008』の回 より。
  12. ^ 2009年8月1日放送 『テーマ・ズムサタ』の回 より。
  13. ^ G大道やった万券的中!野球でもいい事ある?(サンケイスポーツ)
  14. ^ 2008年 NEWS ZERO内放送 「巨人逆転V支えた リストラからの復活組」インタビューより。
  15. ^ 2011年2月12日のNHK総合(東海北陸地域)ウィークエンド中部より。なお、ここでは本名で登場していた。[出典無効]

[編集] 関連項目

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