甲子園連覇

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甲子園連覇(こうしえんれんぱ)とは、日本の高校野球(男子硬式野球)において、阪神甲子園球場で開催され、2大全国大会である選抜高等学校野球大会および全国高等学校野球選手権大会で連続して優勝することをいう。

目次

[編集] 概要

現在、高校の男子硬式野球において1年期中の全国大会としては、

が4大大会と目されている。

  • 神宮大会はその前に各都道府県および各地区で開催され、新年度チーム最初の公式戦となる秋季大会で各地区の優勝校に出場資格が与えられる。
  • 国体に関しては、夏の全国選手権で一定の戦績をおさめた高校に出場資格が与えられる。

春のセンバツ・夏の選手権は阪神甲子園球場でのみ全試合日程が実施され、NHKが全国テレビ中継することから、全国大会のなかでも2つの甲子園大会がより注目度が高い。高校野球の全国大会といえば甲子園大会を想起させる場合もある。現在、4,000を超える高校が日本高等学校野球連盟に加盟しているため、全国大会で優勝することは非常に困難である。そんな状況下で歴史上、いくつかの高校が連続優勝を果たしている。

[編集] 連覇の形態

これまでに実現した連覇のパターンは、

  • 春夏連覇(=年間甲子園全勝)
  • 夏春連覇(あいだに学年進級・新チームへの変更あり)
  • 春連覇(春春連覇;1年越し)
  • 夏連覇(夏夏連覇;1年越し)
    • 夏3連覇(夏夏夏連覇;2年越し)

があった。春3連覇(春春春連覇;2年越し)以上と、春夏春連覇や夏春夏連覇の3季連続優勝を成し遂げた高校はない。なお、春夏連覇や夏春連覇をした場合は春の紫紺の優勝旗と夏の深紅の優勝旗の両方が連覇校に置かれることになる。

[編集] 春夏連覇

これまでに春夏連覇を達成した高校は以下の6校である。

開催年 学校
1962年 作新学院(栃木) 34回 44回
1966年 中京商(愛知) 38回 48回
1979年 箕島(和歌山) 51回 61回
1987年 PL学園(大阪) 59回 69回
1998年 横浜(神奈川) 70回 80回
2010年 興南(沖縄) 82回 92回

[編集] 各連覇の詳細

  • 1962年 作新学院
  • エース八木沢荘六を擁したチームは春の選抜では準々決勝(2戦目)で八幡商とセンバツ史上唯一の延長18回引分けとなった。再試合を制した後の準決勝の松山商戦も延長16回までもつれ込んだのでこの優勝は「傷だらけの栄光」といわれた。
  • そして夏の大会開幕直前、八木沢に赤痢が検出され、作新はエース抜きでの戦いを強いられたが、アンダースローの臨時エース加藤斌が大車輪の活躍。初戦の気仙沼戦が延長戦になった以外は危なげない戦いで優勝した。春夏で異なる投手で史上初の春夏連覇を達成したチームの総合力が高く評価された。
  • 1966年 中京商
戦前にすでに夏春連覇・夏三連覇などの偉業を達成し、1933夏には明石中延長25回の死闘を演じるなど、名実ともに高校球界屈指の名門となっていた中京商だが、春夏連覇はこの年が初めて且つ唯一であった。
  • 4度目の春制覇となるセンバツは、準決勝で玉国光男のいる宇部商との選抜史上最長となる4時間35分の延長戦を制した。
  • 夏は接戦の連続だったが、主戦の加藤英夫を中心に勝ち抜き春夏連覇達成。
  • 1979年 箕島
戦前に和歌山中・海草中でそれぞれ全盛期を築いた和歌山勢だが戦後はやや低調だった。そんな中、尾藤公率いる箕島は1970年センバツで甲子園初制覇して以降、70年代に全盛期を築く。79年は石井毅-嶋田宗彦のバッテリーが中心となった。
  • 春は準決勝でPL学園を延長で、決勝は牛島-香川のバッテリーを擁する浪商を接戦の末破るなど、大阪勢を立て続けに撃破して優勝。
  • 夏は3回戦で星稜(石川)との延長18回の死闘に勝利してそのまま優勝。公立高校として史上唯一の春夏連覇達成
  • 1987年 PL学園
78年の逆転のPL、83年~85年のKKコンビで一世を風靡していたPL学園は実力的にも当時最高峰の学校であった。この年は投手に野村弘橋本清岩崎充宏の3枚を使い分け、野手は主将の立浪和義を中心に片岡篤史深瀬猛桑田泉宮本慎也(当時2年)らがおり、結果的に5人がプロ野球選手になるタレント集団であった。
  • 春は準決勝の東海大甲府(山梨)戦こそ序盤にリードを許す苦しい試合だったが、その他は危なげない戦いぶりだった。
  • 夏も4番の深瀬を怪我で欠きながらも6試合全てで初回に先制点を挙げる理想的な試合運びで優勝。走攻守全てにおいてスキのないチームでKKコンビすら成しえなかった春夏連覇を達成した。
  • 1998年 横浜
73年センバツ永川英植を、80年夏には愛甲猛を擁して優勝していた横浜だったが、その後80年代・90年代前半はなかなか甲子園で勝てない時期が続いた。そんな中、98年は超高校級投手松坂大輔を中心に主将の小山良男後藤武敏小池正晃らがおり、走攻守にズバ抜けた戦力を持っていた。
  • 秋の神宮大会を制して迎えた春センバツは準決勝のPL学園戦で苦戦するも3-2で逆転勝利し、決勝でも関大一を完封して大阪勢に連続勝利しての優勝だった。ちなみに、この大会でベスト4に残ったもう一校は同じ神奈川の日大藤沢であったため、ベスト4が神奈川・大阪勢で占められた。
  • 優勝候補筆頭として迎えた夏は、2回戦の鹿児島実業戦で初戦の八戸工大一戦でノーヒットノーランを達成した杉内俊哉を攻略するなど上々の滑り出しだった。
  • 準々決勝では春に続いてPL学園と対戦したが、春の雪辱に燃えるPL学園に松坂が打ち込まれ大苦戦する。シーソーゲームで延長に入っても2度突き放したが2度とも追いつかれた。最終的には17回に常盤良太の決勝2ランHRで勝利したがエース松坂が250球を投げ抜き、まさに満身創痍の勝利だった(→PL学園対横浜延長17回)。
  • 前日の疲れを考慮して松坂が登板を回避した準決勝明徳義塾戦はともに2年生の袴塚健次・斉藤弘樹がマウンドに上がったが、打倒横浜を目標に1年間やってきた明徳義塾打線につかまり、8回表終了時点で6-0と一方的にリードされ勝利は絶望的だった。しかし8回裏に疲れの見え始めた明徳のエース寺本四郎を捉え4点を返し、9回の表には松坂が登板し三者凡退に抑えた。そして9回裏に3点をとって奇跡の逆転サヨナラ勝利をおさめた(→明徳義塾対横浜)。
  • 決勝ではこの大会ダークホース的な存在だった京都成章相手に松坂が25回大会の海草中の嶋清一以来の決勝ノーヒットノーランを達成。あまりにも劇的な優勝となった。
  • 渡辺元智監督・小倉清一郎部長のツープラトン体制下に素質の高い選手たちが集まったこの年の横浜は秋の国体にも優勝し、史上初の全国大会四冠、公式戦44連勝無敗を達成したチームであった。ゆえに「高校野球史上最強」との呼び声もあるが、渡辺自身は「史上最強?平成最強ですよ」(これから先も最強であり続けるの意)と語っている。
  • 2010年 興南
前年2年春から甲子園で注目を集めた島袋洋奨の好投で沖縄尚学に続き選抜を制した。沖縄県勢は夏は沖縄水産の2度の準優勝が最高で、優勝の経験がなかった。春の優勝で夏の優勝が有力視される中勝ち進み、準決勝で報徳学園を相手に5点差を逆転、決勝では東海大相模を圧勝で下した。なお、この決勝戦の試合には前述の渡辺元智横浜高校監督が朝日放送の解説者として参加していた。

[編集] 未達成の春夏春3季連続優勝

現在、達成した高校は現れていない。上記6校の翌年春の成績は下記の通り。

開催年 学校 翌春 戦績
1963年 作新学院 35回 出場できず
1967年 中京商 39回 出場できず
1980年 箕島 52回 出場できず
1988年 PL学園 60回 出場できず
1999年 横浜 71回 1回戦敗退(対PL学園 5-6)
2011年 興南 83回 出場できず

このように、6校のうち5校が出場できておらず、唯一出場した横浜も初戦でPL学園に屈した。横浜-PL学園戦は前年春の準決勝、前年夏の準々決勝に続いて3大会連続となり、抽選会で対戦が決まった瞬間は大きな歓声がわき起こった。PL学園としては文字通り3度目の正直での雪辱となった。なお、上記5校のうち作新学院、箕島、PL学園は春夏連覇以降1度も優勝・準優勝を経験していない(作新学院、PL学園はベスト4、箕島はベスト8が最高)。特に春78回で横浜が優勝するまでは春夏連覇以降に優勝を経験した高校は存在しなかった。また、春夏春連続優勝が達成しにくい背景として、夏優勝後の新チーム始動が他校より遅く新体制での経験が少ないまま秋季大会に挑まなくてはならないことと、連覇をしたチームは三年生が主力となっていることが多く、大幅な戦力ダウンが見込まれることが挙げられる。

[編集] 夏春連覇

これまでに夏春連覇を達成した高校は以下の4校である。

開催年 学校
1930年 広島商(広島) 16回
1931年 8回
1937年 中京商(愛知) 23回
1938年 15回
1960年 法政二(神奈川) 42回
1961年 33回
1982年 池田(徳島) 64回
1983年 55回

[編集] 各連覇の詳細

  • 1930年-1931年 広島商
前年の1929年夏に全国制覇していた広島商はのちに大阪タイガース監督となる石本秀一の下、灰山元治鶴岡一人らがおり、石本のスパルタ指導の下機動力やバントを駆使した緻密な野球で史上2度目の夏連覇と史上初の夏春連覇を達成した(1930年の夏の大会が両方の連覇にかかっている)。1931年のセンバツ大会はすでに春連覇を達成していた第一神港商、この年から夏三連覇を達成する中京商と実に3つの連覇経験校が出場していた大会だった。
  • 1937年-1938年 中京商
すでに高校球界での地位を確立していた中京商のこの時期のエースは精密なコントロールと優れた投球術で「投げるサイボーグ」と称され、後にプロでも活躍する野口二郎
  • 夏の準決勝では嶋清一擁する海草中を、決勝では川上哲治擁する熊本工を退けて優勝。5試合中4試合が1失点で、残りの1試合が完封での勝利だった。
  • 翌春は準々決勝で嶋の海草中と再戦し今度はノーヒット・ノーランを達成。決勝は東邦商との愛知県勢同士の対決を制して4試合全て完封勝利での夏春連覇を果たす。結局野口はこの連覇中、1試合で2失点以上することはないという抜群の安定感を見せた。
  • 1960年-1961年 法政二
監督の田丸仁法政大出身で6大学の野球を持ち込み、さらにのちにV9時代の巨人が採用したドジャース戦法も取り入れた「都会的で洗練された先進野球」を実現し、当時「戦後最強」と賞された。主戦の柴田勲をはじめ的場祐剛是久幸彦ら2年生中心のチームで臨んだ夏は初戦の3失点以外は全て完封勝利。主力が3年生になった春も4試合で2失点というまさに他の追随を許さない連覇ぶりだった。
  • 1982年-1983年 池田
74年から導入された金属バットは高校野球の歴史を変えたが、その特性をもっとも発揮したのが蔦文也率いる池田だった。時代を先取りした筋力トレーニングと徹底した打撃練習で作り出された強力打線は同校が徳島の山間部にあることもあって「やまびこ打線」と呼ばれた。
  • エースで4番の畠山準、2年生でレギュラーの江上光治水野雄仁、「恐怖の9番バッター」山口博史らを擁して乗り込んだ夏はその攻撃力をいかんなく発揮。準々決勝の早稲田実業戦は水野の2本のホームランなどで、3年生となっていた「甲子園のアイドル」荒木大輔を打ち込んで優勝候補に対して14-2の圧勝。決勝の広島商戦も初回十数分であっという間に6点を奪うなど12-2の一方的な勝利。バントをしない攻撃的野球が緻密な広商野球に圧勝した。金属バットの導入後も高校球界ではバントや盗塁を駆使して得た少ない点を鍛え上げられた守備で守り抜くという従来の戦術が主流だった中でそれとはまったく正反対、逞しい体格から鋭いスイングでもって強烈な金属音を伴った飛距離抜群の打球を連発する、打って打って打ちまくるというダイナミックな野球でもって四国の山間部の一公立校が全国の頂点に立ったことは人々に大きな衝撃を与え、池田野球は「革命」とまで言われた。
  • 翌春もチーム力は前年以上との前評判の中でエース水野が5試合でわずか2失点と安定した戦いぶりであっさりと夏春連覇。あまりの圧倒的な勝ちっぷりに人々は舌を巻き、史上初の3季連続優勝は確実とさえ言われた。

[編集] 未達成の夏春夏3季連続優勝

現在、達成した高校は現れていない。上記4校の2年目夏の成績は下記の通り。

開催年 学校 翌夏 戦績
1931年 広島商 17回 出場できず
1938年 中京商 24回 出場できず
1961年 法政二 43回 準決勝敗退(対浪商 2-4)
1983年 池田 65回 準決勝敗退(対PL学園 0-7)
  • 広島商は春優勝時の主力メンバーがアメリカ遠征に出ており、予選の山陽大会で敗退。
  • 中京商は予選の東海大会で春の決勝の相手である東邦商に敗れた。出場した2校はいずれも準決勝の壁を破れずに敗退した。
  • 法政二は連覇した大会いずれも大阪の浪商と対戦して勝利している。「怪童」尾崎行雄を擁しながらも2度も同じ相手に敗れた浪商は雪辱を期す思いで2年目の夏に挑んだ。9回土壇場から2点差を追いつき、延長の末法政二を退け「3度目の正直」を果たし、そのまま優勝した。
  • 「絶対的優勝候補」とされて2年目夏に臨んだ83年の池田は自慢のやまびこ打線がその力を発揮して準々決勝まで危なげなく勝ち続けた。ベスト4に進出した他の3校の前評判が池田よりも低かったことから、史上初甲子園3季連続優勝の偉業がいよいよ視野に入っての準決勝だったが、三回戦の広島商戦で頭部にデッドボールを受けていたエース水野が1年生の桑田真澄清原和博KKコンビ)が中心のPL学園に序盤から打ち込まれ、自慢の打線も桑田の落差の大きいカーブと絶妙のコントロールの前にまさかの0-7完封負け。PL学園も81年-82年と春連覇していたものの、戦前の予想では池田が圧倒的に優位とされていただけに、池田のこの敗戦は大きな話題となった。勝ったPL学園はそのまま優勝し、その後KKコンビを中心に黄金時代を迎えることになる。

[編集] 春連覇

これまでに春連覇を達成した高校は以下の2校である。

開催年 学校
1929年 第一神港商(兵庫) 6回
1930年 7回
1981年 PL学園(大阪) 53回
1982年 54回

[編集] 各連覇の詳細

  • 1929年-1930年 第一神港商
  • 1929年は後に国鉄スワローズ初代監督となる西垣徳雄がエースとして活躍して初優勝。
  • 翌年は岸本正治をエースとして出場。岸本は全4試合で2ケタ三振を奪い計54奪三振。これは後に作新学院の江川卓に破られるまで大会記録となった。
  • 1981年-1982年 PL学園
  • 中村順司が監督に就任して最初の大会となった81年は吉村禎章西川佳明若井基安らを擁し、決勝の印旛(千葉)に対して9回2死から逆転して春初優勝を飾った。
  • 翌82年は榎田健一郎-森浩之のバッテリーで戦後初のセンバツ連覇を達成。15-2と圧勝した決勝の二松学舎大付(東京)戦では初回先頭打者の佐藤公宏が試合開始のサイレンが鳴り止まないうちにホームランを放った。これで中村は監督になってから甲子園で無傷の10連勝となった、

[編集] 未達成の春3連覇

開催年 学校 翌々春 戦績
1931年 第一神港商 8回 準々決勝敗退(対中京商 0-3)
1983年 PL学園 55回 出場できず
  • 春3連覇を目指した第一神港商は準々決勝で吉田正男を擁し、この年の選手権から夏3連覇を達成することになる中京商に完封負けを喫した。春3連覇の夢は夏3連覇の序章の前に屈した。結局この大会は前年夏を制していた広島商が優勝して夏春連覇を達成した(先記)。

[編集] 夏連覇

これまでに夏連覇を達成した高校は以下の5校である(3連覇の中京商は後述)。

開催年 学校
1921年 和歌山中(和歌山) 7回
1922年 8回
1929年 広島商(広島) 15回
1930年 16回
1939年 海草中(和歌山) 25回
1940年 26回
1947年 小倉中(福岡) 29回
1948年 小倉※学制改革で名称変更 30回
2004年 駒大苫小牧(南北海道) 86回
2005年 87回

[編集] 各連覇の詳細

  • 1921年-1922年 和歌山中
  • 第1回大会から出場し、高校野球草創期を支えた和歌山中(現桐蔭)は伝統的に強打のチームであった。特に初優勝した21年のチームの攻撃力はすさまじく、初戦から決勝までの全4試合でそれぞれ20-0、21-1、18-2、16-4というにわかには信じられないようなスコアで圧勝した。この大会のチーム合計75得点は試合数が増えた現在でも破られていない。
  • 翌年夏も順当に勝ち上がり、決勝の神戸商戦では7回終わって0-4と劣勢に立たされるも、相手投手に疲れが見えた8回以降に一挙8点を挙げて逆転勝利。甲子園史上初の連覇となった。
  • 1929年-1930年 広島商
  • 石本秀一監督の下、2度目の夏制覇となった29年はエース生田規之を擁して接戦の連続をものにしての優勝。
  • 翌30年は灰山元治をエースにこれまた接戦を勝ち上がっての優勝。決勝の諏訪蚕糸戦では2-2のまま8回を終えるも、最終回に相手バッテリーのミスなどもあって一挙6点をとって試合を決めた。
  • 1939年-1940年 海草中
「打」の和歌山中に対して「投」の海草中。それまで和歌山中の前に甲子園を逃していた海草中だったが、嶋清一の登場で一気に和歌山中を凌駕、37年から3年連続の出場だった。
  • 39年、左腕から150km/hを超えていたといわれるボールを投げる嶋は決勝も含めた5試合全てを完封。しかも準決勝・決勝を2試合連続でノーヒットノーランに抑えるという史上唯一の偉業で初優勝を飾った。嶋は主将と4番も兼任し、まさに大車輪の活躍で「海草の嶋か、嶋の海草か」とまでいわれた。
  • 翌年も「嶋に負けるな、嶋に続け」と甲子園に出場。投手の真田重蔵以下手堅い守りで対戦校の攻撃を封じて優勝。和歌山中に続いて史上唯一の同一県から2校目の夏連覇となった。
  • 1947年-1948年 小倉中/小倉
  • 太平洋戦争で中止となっていた甲子園大会が久々に再開された1947年春で準優勝に輝いていた小倉中は、学制改革により中等学校野球大会としては最後となる同年の夏にサイドスローのエース福島一雄を軸に安定した戦いぶりで優勝。春の雪辱を果たし、深紅の大優勝旗が初めて関門海峡を超えた。
  • 翌春は1回戦で優勝した京都一商に延長の末1点差で敗れるも、全国の中等学校が高等学校に名称変更された夏の選手権ではエース福島が5試合全てを完封。海草中の嶋以来史上2人目の快挙で戦後初の連覇を成し遂げた。
  • 2004年-2005年 駒大苫小牧
この大会から「もっとも大会が盛り上がる時」と言われた準々決勝が1日4試合から2日で2試合ずつこなすように変更された。2004年は前年に悔しい敗戦を経験していた駒大苫小牧が制した。
  • 03年夏の1回戦で駒大苫小牧は倉敷工(岡山)に対して3回終了時点で8-0と一方的にリード、甲子園初勝利が見えてきた中で4回裏に戦前から予報されていた雨が降り始めコールドノーゲーム。仕切りなおしとなった翌日は息を吹き返した倉敷工の陶山大介に抑えられて2-5で敗退。あまりにも悲劇的な結果には同情の声も多かった。
  • 主将の佐々木孝介をはじめ糸屋義典鈴木康仁などこの時のメンバーが多く残った翌04年も出場した駒苫は初戦で佐世保実(長崎)に勝って念願の甲子園初勝利を挙げると一気に波に乗った。
  • 2戦目では初戦でPL学園を破り優勝候補にも挙げられていた日大三(東京)を接戦の末7-6で撃破。
  • さらに準々決勝では2年生の林裕也が、東北(宮城)のダルビッシュ有と並んで「大会屈指」と言われていた横浜涌井秀章からサイクルヒットを含む5安打を放つなど、チーム18安打の猛攻で優勝候補に6-1と圧勝した。
  • 準決勝でも東海大甲府(山梨)相手に10-8と打ち勝った。決勝では春のセンバツ優勝し、史上初の初出場春夏連覇にあと1勝と迫った済美(愛媛)相手に2回までに5点奪われるなど劣勢に立たされるも、この大会完全に火のついた駒苫打線は臆することなく済美の2年生エース福井優也に長短打を浴びせ続け、糸屋のHRなどで逆転。最後は鈴木が4番鵜久森淳志を打ち取って13-10でゲームセット。両チーム合わせて39安打が飛び出す空前の乱打戦を制して北海道勢悲願の初優勝をもたらした。
  • 戦前はダルビッシュ有をはじめ、多くの主力選手がレギュラーとして前年夏に準優勝を果たしていた東北が優勝候補の本命といわれ、深紅の大優勝旗が初めて白河の関を越えるかと期待されながらも東北は3回戦で松本啓二朗擁する千葉経済大学附属高等学校に破れ混戦となったが、終わってみれば優勝旗は白河の関どころか一気に津軽海峡まで越えてしまった。この大会で駒苫はそれまでの最高記録で01年に日大三がつくったチーム大会打率.427を大幅に上回る.448の新記録を樹立。さらに5試合で1失策の鉄壁の守備と常に1つ先の塁を狙う積極的な走塁など充実した戦いぶりだった。
  • 05年春も林が主将になって駒苫は出場したが、2戦目で神戸国際大付の左腕大西正樹に1安打に抑えられてあわやノーヒットノーランという完封負けだった。
  • 戦力を立て直して臨んだ夏は戦前の評価こそ高くなかったが、準々決勝での鳴門工(徳島)戦では7回に5点差をひっくり返して逆転勝ち。
  • 準決勝では平田良介辻内崇伸中田翔など大型選手を揃えて優勝候補筆頭と目されていた大阪桐蔭を延長の末破った。
  • 決勝の京都外大西戦は接戦となるも、最後は2年生の田中将大が抑えて5-3で勝利。実に57年ぶりの夏連覇を達成した。駒苫はこの年の秋に開催された岡山国体、さらに新チームで臨んだ神宮大会も制して全国大会3連覇を達成。かつては野球弱小地域とさえ言われていた北海道の高校が一躍高校球界のトップに上り詰めた。

[編集] 夏3連覇への道

開催年 学校 翌々夏 戦績
1923年 和歌山中 9回 決勝敗退(対甲陽中 2-5)
1931年 広島商 17回 出場できず
1941年 海草中 27回 日中戦争激化につき予選途中で中止
1949年 小倉北※共学化で名称変更 31回 準々決勝敗退(対倉敷工 6-7)
2006年 駒大苫小牧 88回 決勝敗退(引分再試合)(対早稲田実 1-1、3-4)
  • 充実した戦力で3連覇を狙った和歌山中は決勝で甲陽中の前に屈した。
  • 大投手嶋が卒業した翌年も優勝した海草中も3連覇を狙ったが、こちらは戦争の荒波に飲まれた。
  • 小倉北は準々決勝で倉敷工に延長の末敗退。
  • そして最も3連覇に近づいたのが06年の駒大苫小牧だった。
  • 前年の神宮大会で優勝し、春のセンバツでも優勝候補の本命とされたが不祥事で出場辞退。
  • 満を喫して挑んだ夏はエース田中が本調子でないものの逆転勝利の連続で決勝進出。73年ぶりの3連覇まであと1歩と迫ったが早稲田実のエース「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹の前に打線が沈黙。しかし田中も力投して1-1で延長15回引き分けた。翌日の再試合は終始早実ペースで試合が進み、駒苫も9回に意地を見せて1点差に迫るも最後に力尽きた。球史に残る名勝負を制した早実は第1回大会から出場し、実に88年目にして初の栄冠だった。
  • 3連覇を逃したとはいえ、3年連続の決勝進出は、3連覇達成の中京商、上記和歌山中、後述のPL学園と並んで、史上4校目の快挙である。

[編集] 夏3連覇

これまでに夏3連覇を達成したのは以下の1校のみである。

開催年 学校
1931年 中京商(愛知) 17回
1932年 18回
1933年 19回

[編集] 詳細

1923年創立の中京商業学校は開校と同時に野球部を創設。1929年には國學院大から山岡嘉次を監督に招きエース吉田正男を軸に守備を中心にした野球でチームを強化した。1931年には春のセンバツ初出場。準優勝に輝いたが、前年まで夏連覇を達成していた灰山元治擁する広島商に夏春連覇をゆるした。
  • 夏は吉田が全5試合に投げ、決勝では嘉義農林(台湾)を完封して初出場初優勝。ただしこの夏は夏3連覇と夏春夏3季連続優勝の同時達成がかかっていた広島商が春のセンバツ優勝の褒賞としてレギュラーメンバーがアメリカ旅行に渡っており、控え主体のメンバーで臨んだ山陽予選で敗退していた。
  • 1932年春では準決勝で景浦将擁する優勝した松山商(愛媛)に延長戦で2-3で敗れた。しかし夏は決勝で再び松山商と激突して春に続いての延長戦を4-3でサヨナラ勝ち。見事リベンジを果たして夏連覇。
  • 3年目の春は準決勝で剛腕楠本保擁する明石中(兵庫)に0-1「スミ1」での敗退。
  • 迎えた夏は準々決勝でのちに「ミスタータイガース」と呼ばれた藤村富美男のいた大正中(呉港中)(広島)を2-0で退けた。
  • 準決勝では春に続いてまたもや明石中と対戦。エース楠本は脚気による体調不良で登板回避したが、楠本に引けをとらない2番手の中田武雄と吉田の息を呑む投手戦となったが、延長25回に中京商がエラー絡みで1点を奪ってサヨナラ勝ち。史上最長の試合時間4時間55分という伝説の一戦をものにして2年連続で春に敗れた相手にリベンジを果たした(→中京商対明石中延長25回)。
  • 満身創痍の吉田は翌日の平安中(京都)との決勝でも登板。2-1で勝利して空前絶後の夏3連覇を完成、有終の美を飾った。この3年間の吉田の甲子園での戦績は23勝3敗。桑田真澄の20勝をも上回る甲子園史上最高の数字を残した。

[編集] 4連覇ならず

開催年 学校 戦績
1934年 中京商 20回 出場できず

翌1934年は春のセンバツこそ出場したが2回戦敗退。夏の東海代表は享栄商が初出場。中京商は予選敗退した。

[編集] 惜しくも連覇ならず

[編集] 春夏連覇にあと1歩

春のセンバツで優勝したものの夏の選手権は決勝で敗れ春夏連覇をあと1歩で逃した高校は以下の3校である。

開催年 学校 対戦校 スコア 対戦校 スコア
1932年 松山商(愛媛) 9回 明石中(兵庫) 1-0 18回 中京商(愛知) 3-4
1963年 下関商(山口) 35回 北海(北海道) 10-0 45回 明星(大阪) 1-2
2004年 済美(愛媛) 76回 愛工大名電(愛知) 6-5 86回 駒大苫小牧(南北海道) 10-13

[編集] 詳細

  • 1932年 松山商
春は準決勝で中京商の吉田正男、決勝で明石中の楠本保といった好投手を共に1点差で下して春2度目の優勝。しかし夏は決勝で中京商に雪辱を果たされて夏連覇を許した。
  • 1963年 下関商
完成度の高い2年生投手池永正明を擁した下関商。春は初戦で真田重蔵監督が率い、和田徹擁する優勝候補の明星を完封。決勝では強打の北海をこれまた完封し初優勝。迎えた夏は決勝までコマを進めるものの、春に破っていた明星にエラー絡みで1-2で惜敗、前年の作新学院に続いての2年連続春夏連覇はならなかった。
  • 2004年 済美
宇和島東監督の上甲正典を監督に高橋勇丞鵜久森淳志らを中心とした強力打線と2年生投手福井優也を擁して創部3年目という史上最速で初出場したセンバツでは準々決勝でダルビッシュ有擁する東北(宮城)を9回に4点差を大逆転して勝利するなど快進撃を見せ、決勝でも愛工大名電を接戦の末6-5で破り初出場初優勝。同じく初出場となった夏も決勝に進出するが駒大苫小牧に10-13という史上稀に見る乱打戦の末破れて史上初の春夏初出場初優勝の偉業をあと1歩で逃した。

[編集] 夏春連覇にあと1歩

夏の選手権で優勝したものの翌年春のセンバツは決勝で敗れ夏春連覇をあと1歩で逃した高校は以下の1校である。

開催年 学校 対戦校 スコア 対戦校 スコア
1983年 PL学園(大阪) 65回 横浜商(神奈川) 3-0
1984年 56回 岩倉(東京) 0-1

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83年夏は1年生の桑田真澄・清原和博を中心として準決勝で優勝候補の池田(徳島)を破る波乱を見せ優勝し、一躍高校球界の盟主となったPL学園は翌84年春も1回戦の砂川北(北海道)戦で6本塁打を放つなど実力通りの戦いぶりを見せたが、決勝で岩倉のエース山口重幸に1安打完封され敗退、夏春連覇を逃した。この敗戦は中村順司監督にとって甲子園初黒星であり、連続勝利は20でストップした。

[編集] 春連覇にあと1歩

春のセンバツで優勝したものの翌年春のセンバツは決勝で敗れ春連覇をあと1歩で逃した高校は以下の6校である。

開催年 学校 対戦校 スコア 翌春 対戦校 スコア
1924年-1925年 高松商(四国) 1回 早稲田実(東京) 2-0 2回 松山商(四国) 2-3
1926年-1927年 広陵中(中国) 3回 松本商(北信越) 7-0 4回 和歌山中(近畿) 3-8
1927年-1928年 和歌山中(近畿) 4回 広陵中(中国) 8-3 5回 関西学院中(近畿) 1-2
1951年-1952年 鳴門(四国) 23回 鳴尾(近畿) 3-2 24回 静岡商(東海) 0-2
1960年-1961年 高松商(四国) 32回 米子東(中国) 2-1 33回 法政二(関東) 0-4
1971年-1972年 日大三(関東) 43回 大鉄(近畿) 2-0 44回 日大桜丘(関東) 0-5

[編集] 夏連覇にあと1歩

夏の選手権で優勝したものの翌年夏の選手権は決勝で敗れ夏連覇をあと1歩で逃した高校は以下の1校である。

開催年 学校 対戦校 スコア 翌夏 対戦校 スコア
1983年-1984年 PL学園(大阪) 65回 横浜商(神奈川) 3-0 66回 取手二(茨城) 4-8

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春のセンバツでは岩倉に不覚をとり準優勝となったPLだが夏も絶対的優勝候補として甲子園に乗り込んだ。対する取手二はのちに常総学院でも夏の優勝を経験している木内幸男監督の下で主将で1番遊撃手の吉田剛、エースで4番の石田文樹らを擁し「西のPL、東の取手二」といわれる実力だったがセンバツの敗退後チーム状態がおもわしくなく練習試合ではPLに大差で敗れていた。その後チームを立て直して夏は決勝に進出。降雨で試合開始が遅れた決勝戦は石田の力投もあり取手二がリード。PLも終盤に追いつき延長戦となるが試合途中から右手の爪が剥がれ出して本来のピッチングができない桑田が10回表に4失点、まさかのエース降板となった。10回裏のPLの攻撃を石田が抑えて取手二は初優勝。PL学園OBの間では「KKコンビ3年間の中で最も戦力的に充実していた」という評価もあった84年のチームだったが、春に続いて夏も決勝で敗れて夏連覇を逃した。

[編集] その他

[編集] 「結果的に」連覇まであと1歩だったケース

優勝したものの、前年(もしくはその前の季)に準決勝・決勝戦に進出しており、「前の大会で優勝していたら連覇だった」というケースもある。「春の屈辱を夏に晴らした」「前年の雪辱を果たした」などという表現もある。

  • 「結果的に」春夏連覇にあと1歩
開催年 学校 対戦校 スコア 対戦校 スコア
1925年 高松商(香川) 2回 松山商(四国) 2-3 11回 早稲田実(東京) 5-3
1931年 中京商(愛知) 9回 広島商(中国) 0-2 17回 嘉義農林(台湾) 4-0
1937年 中京商(愛知) 14回 浪華商(近畿) 1-2 23回 熊本工(熊本) 3-1
1947年 小倉中(福岡) 19回 徳島商(四国) 1-3 29回 岐阜商(岐阜) 6-3
1973年 広島商(中国) 45回 横浜(関東) 1-3 55回 静岡(静岡) 3-2
2000年 智弁和歌山(和歌山) 72回 東海大相模(関東) 2-4 82回 東海大浦安(千葉) 11-6
2011年 日大三(東京) 83回 九州国際大付(九州) 2-9 93回 光星学院(青森) 11-0

このうち、1937年の中京商は春の準優勝の後、同年の夏と翌1938年の春を連覇しており結果的には春夏春の3期連覇に後1歩だったということになる。

  • 「結果的に」夏春連覇にあと1歩
開催年 学校 対戦校 スコア 対戦校 スコア
1950年 鳴門(徳島) 32回 松山東(愛媛) 8-12
1951年 23回 鳴尾(近畿) 3-2
2010年 東海大相模(神奈川) 92回 興南(沖縄) 1-13
2011年 83回 九州国際大付(九州) 6-1
  • 「結果的に」春連覇にあと1歩
開催年 学校 対戦校 スコア 翌春 対戦校 スコア
1937年-1938年 中京商(東海) 14回 浪商(近畿) 0-2 15回 東邦商(東海) 1-0
1938年-1939年 東邦商(東海) 15回 中京商(東海) 0-1 16回 岐阜商(東海) 7-2
1939年-1940年 岐阜商(東海) 16回 東邦商(東海) 2-7 17回 京都商(近畿) 2-0
1958年-1959年 中京商(東海) 30回 済々黌(九州) 1-7 31回 岐阜商(東海) 3-2
1988年-1989年 東邦(東海) 60回 宇和島東(四国) 0-6 61回 上宮(近畿) 3-2
2004年-2005年 愛工大名電(東海) 76回 済美(四国) 5-6 77回 神村学園(九州) 9-2
  • 「結果的に」夏連覇にあと1歩
開催年 学校 対戦校 スコア 翌夏 対戦校 スコア
1984年-1985年 PL学園(大阪) 66回 取手二(茨城) 4-8 67回 宇部商(山口) 4-3

前項のとおり「夏連覇にあと1歩」と迫りながら1984年夏の選手権決勝で敗れたPL学園は、翌1985年選手権では優勝しており、結果的には夏の3連覇に後1歩だったということになる。

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  • 2000年 智弁和歌山
武内晋一(現ヤクルト)・池辺啓二(現JX-ENEOS野球部)・後藤仁(現箕島球友会)のクリーンアップを中心とする強力打線は春初戦の丸亀(四国)戦でいきなりの24安打20得点。準々決勝では好投手香月良太擁する柳川(九州)に1-0という接戦で勝利。決勝では東海大相模の筑川利希也に敗れるもののチーム大会101塁打の新記録を樹立。センバツ選考時に参考とされる前年秋の近畿大会で初戦敗退しながらもポテンシャルを評価されて出場した力を見せつけた。「優勝しかない」と臨んだ夏は投手陣が万全ではなかったものの自慢の打線が春にもまして真価を発揮、PL学園の朝井秀樹柳川香月良太光星学院根市寛貴らの好投手を次々と攻略して見事優勝。チーム打率.414、チーム安打数100、チーム本塁打11、チーム塁打数157など大会記録を次々と更新して「史上最強打線」「智弁和歌山だけバットが違う」とまで言われた。

[編集] 雨に負けた春夏連覇

連覇を目指す高校が初戦敗退することは珍しくないが、試合中の降雨による再試合で初戦敗退した高校がある。

1965年の選抜を制した岡山東商は、春夏連覇を懸けて夏の甲子園に進出した。初戦の日大二(東京)に4-1と勝っていたが、5回表に降雨ノーゲームとなった。岡山東商のエースで、のちに「カミソリシュート」でプロ野球:大洋ホエールズのエースとなる平松政次は右肩痛に悩んでいたものの再試合にも登板したが、日大二が平松を攻略し5-2で岡山東商を下した。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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