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車範根 |
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| 名前 |
| 愛称 |
ベルクカイザー |
| カタカナ |
チャ・ボムグン |
| ラテン文字 |
Cha Bum-Kun(Cha Beomgeun) |
| ハングル |
차범근 |
| 基本情報 |
| 国籍 |
韓国 |
| 生年月日 |
1953年5月22日(58歳) |
| 出身地 |
京畿道華城市 |
| 身長 |
179cm |
| 体重 |
79kg |
| 選手情報 |
| ポジション |
FW |
| 代表歴 |
| 1972-1986 |
韓国 |
121 (55) |
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車 範根(チャ・ボムグン、チャ・ブングン、チャ・ボンクンとも。차범근、1953年5月22日 - )は、大韓民国・京畿道華城市出身の元サッカー選手、および指導者。息子の車ドゥリ(チャ・ドゥリ、차두리)もスコティッシュ・プレミアリーグのセルティックに所属するサッカー選手。
[編集] 人物
1980年代を代表する名ストライカー。 ドイツの名門アイントラハト・フランクフルト、バイエル・レバークーゼンなどで長きに渡って活躍。UEFAカップ2度優勝(1988年決勝ではゴールを決めている)などの栄冠を手にした。ドイツ・ブンデスリーガ通算98ゴールは外国人選手としては歴代3位。IFFHSから「20世紀アジア最優秀選手」として表彰されている。
FIFAワールドカップには1986年メキシコ大会に出場した。この時、韓国代表から長く離れ海外で長くプレイする車を呼び寄せるのに対し、ひとかたならぬ外交的措置が必要であったという。[1]
現役引退後は指導者の道に進む。1997年からは韓国代表を率い、フランスワールドカップ本大会出場権を得るものの、代表チームが2連敗して1次リーグ敗退が決定した直後の大会期間中に解任された。その直後、月刊朝鮮でKリーグにはびこる八百長を暴露した[2]ために、大韓サッカー協会から5年間の懲戒処分を受けて韓国国内に居場所がなくなり、中国リーグの深圳平安に監督として就任した。なお、この懲戒処分は2000年1月に解除されているが、結局国内リーグには当初の懲戒期間の5年間、雇われることはなかった。
2002 FIFAワールドカップ決勝トーナメント1回戦の対イタリア戦、韓国放送局の解説者として自国内の試合中継に参加し、ゴールデンゴールで韓国が勝利した際には、放送中にもかかわらず号泣した。これを隣の放送ブースでみていたセルジオ越後は、「自国のサッカーに関わる者として、また(当日出場した車ドゥリの)父親として、嬉し泣きは当然のことです。」と擁護した。
深圳平安を1999年に辞したあとは、韓国でテレビのサッカー解説者として働いていたが2004年からはKリーグの水原三星ブルーウィングスの監督に就任し、初年度でクラブをリーグ優勝へ導く。2005年、済州島で開催されたA3チャンピオンズカップも制した。2008年には日韓オールスター戦のKオールスターを監督として率いてもいる。2010年にリーグ低迷の責任を取り、6月6日付で辞任することを発表した。
2010年6月14日、2010 FIFAワールドカップ1回戦の日本-カメルーン代表戦のSBS放送の解説委員を担当したが、車の解説は反日感情を含んでいたとされ、日本と韓国内のネチズンを中心に賛否両論の波紋を起こした。車は、試合後半でカメルーンがゴールのチャンスを逃すたびに「入れなきゃいけないのに」、「入れることができたゴールだった」など、露骨に残念そうな口調で解説しカメルーン寄りの発言を連発。韓国メディアも同問題に注目し、「カメルーンを韓国代表と錯覚したかのように、悔しさを隠さなかった」、「(偏った姿勢に)日本でも怒りの声が上がった」などと指摘した。車はネットユーザーの質問に対し「反日解説」との指摘を一蹴したが、「哨戒艦沈没事件」で緊張関係が続く北朝鮮の代表チームについて「北朝鮮の選手に愛情を感じる」と発言したため、韓国国内でさらに大きな波紋を巻き起こした[3][4][5]。
[編集] プレイスタイル
圧倒的な身体能力を武器に、相手DFを弾き飛ばし、爆発的な加速でゴールを強襲するスタイルは、屈強な選手が揃った旧西ドイツ・ブンデスリーガでも異彩を放った。左右両足からの強烈なシュートと打点の高いヘディングで多くのゴールを奪った。
[編集] 所属クラブ
- 選手
- 監督
[編集] 個人成績
| チーム |
シーズン |
リーグ戦 |
DFBポカール |
リーグ杯 |
UEFA |
期間通算 |
| 出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
| ダルムシュタット |
1978–79 |
1 |
0 |
0 |
0 |
- |
- |
1 |
0 |
| フランクフルト |
1979–80 |
31 |
12 |
4 |
0 |
- |
11 |
3 |
46 |
15 |
| 1980–81 |
27 |
8 |
6 |
6 |
- |
5 |
2 |
38 |
16 |
| 1981–82 |
31 |
11 |
1 |
0 |
- |
6 |
1 |
38 |
12 |
| 1982–83 |
33 |
15 |
1 |
0 |
- |
- |
34 |
15 |
| レバークーゼン |
1983–84 |
34 |
12 |
|
|
- |
- |
|
|
| 1984–85 |
29 |
10 |
|
|
- |
- |
|
|
| 1985–86 |
34 |
17 |
|
|
- |
- |
|
|
| 1986–87 |
33 |
6 |
|
|
- |
3 |
2 |
|
|
| 1987–88 |
25 |
4 |
|
|
- |
10 |
2 |
|
|
| 1988–89 |
30 |
3 |
|
|
- |
2 |
0 |
|
|
| 総通算 |
308 |
98 |
12 |
6 |
- |
37 |
10 |
357 |
114 |
[編集] タイトル
- 選手時代
アイントラハト・フランクフルト
バイエル・レバークーゼン
ナショナルチーム
- 監督時代
水原三星ブルーウィングス
[編集] 脚注