高橋建

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高橋 建
Ken Takahashi
ニューヨーク・メッツ #36
基本情報
国籍 日本
出身地 神奈川県横浜市戸塚区
生年月日 1969年4月16日(40歳)
身長
体重
6' 0" =約182.9cm
200 lb =約90.7kg
選手情報
投球・打席 左投左打
守備位置 投手
プロ入り 1994年 ドラフト4位
初出場 NPB / 1995年4月8日
MLB / 2009年5月2日
経歴(括弧内は在籍年)

高橋 建(たかはし けん、1969年4月16日 - )は、MLBニューヨーク・メッツに所属するプロ野球選手投手)。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

横浜高校から拓殖大学へ進学、大学時代は東都大学リーグ2部において野手として通算17本塁打を放つが4年から投手として頭角を現す。

その後トヨタ自動車では主に左の中継ぎとして活躍。その後1994年のドラフト会議広島東洋カープから4位指名を受けて入団。

[編集] プロ入り後

[編集] 日本時代

1996年7月28日にはウエスタン・リーグノーヒット・ノーラン達成。その後左の先発不足もあって貴重な左腕として1軍登板の機会が多くなる。

入団当初から足を高く振り上げる独特の投球フォームが彼の特徴で、三振もとれる速球派でもあったがコントロールに難があったため、2000年から足をあまり高く上げない通常の投球フォームに変えた。このシーズンは5勝9敗と負け越したものの自己最多となる50試合に登板し、終盤はストッパーとして前年大活躍した小林幹英の不調の穴を見事に埋める活躍を見せた。

2001年は開幕から左の先発メンバーのローテーション入りを果たし、自身初の二桁勝利(10勝8敗)に加え、オールスターゲーム初出場を果たすなど、セ・リーグを代表する左投手へと成長するかと思われた。しかし、翌2002年は8月28日にその年日本一となる読売ジャイアンツ相手に173球投げて、1-0での完封勝利をするなど見せ場もあったが、結局リーグ最多の14敗を記録してしまった。

2003年前半戦は無敗の8連勝を成し遂げ、最速149キロのストレートと鋭いシュートを武器に防御率も1点台前半を記録した。前半不調だった黒田博樹佐々岡真司、扁桃腺炎を患って戦線離脱した長谷川昌幸の穴を埋める活躍をして、左腕エースと呼ばれた。後述の“#不可解な退場事件”後も完投勝利をおさめるなど連勝を続けていたが、結局後半戦は1勝止まり。投手タイトルはもとより2年連続二桁勝利の機会すら逃してしまった。

2004年FA権を取得、巨人、阪神、MLBのブルージェイズが獲得の動きを見せたが、権利を行使せず残留。

2005年シーズンは開幕から先発ローテーションの一角を担っていたが、膝の故障で思うような投球ができず、プロ入り初の1軍未勝利となる不本意なシーズンとなった。8月10日の精密検査で「左ひざ大腿骨滑車面軟骨損傷」と診断され、同月26日に左ひざを手術。一時は引退も考えたが、現役続行を希望してオフには前年の半額となる年俸で契約更改。

2006年シーズンは膝の故障も癒え、年間通して貴重な中継ぎ左腕として活躍。防御率は4点台であったものの、スタンドから何度も拍手を受けた。公式戦最終日に翌2007年は先発に復帰したいとマーティ・ブラウン監督に直訴した[要出典]

2007年シーズンは開幕一軍は逃したものの、フェルナンデス投手の故障によって先発に復帰し、5月17日の倉敷マスカットスタジアムでの阪神戦で、2004年6月以来1072日振りの先発勝利をあげた。近年の球威で押すスタイルからコントロールと変化球、特にシュートを有効に使った投球スタイルになり安定した投球を見せた。また先発として長いイニングを投げる機会が減ったことで体力の温存と蓄積する疲労の削減に繋がったのか[要出典]、長年苦手だった夏場も特に問題なく乗り越えた。

2008年4月19日、巨人戦にて完封勝利。大野豊につぐ球団史上2位の高齢完封劇はわずか102球の投球数だった。この試合で高橋は最年長で巨人戦完封という記録になった。同年5月3日の横浜ベイスターズ戦でも6回を無失点と好投し、さらには横浜のエース三浦大輔から実に7年ぶりとなる先制の2ランホームランを放ち、この流れに乗って広島が勝利した。まさに高橋の一人舞台であった。そして前半戦で6勝4敗、防御率3.03(選出時)の活躍を見せ、初めてファン投票によってオールスターゲームに選出された。監督推薦だった2003年以来4度目の選出で、39歳2ヶ月のファン投票による選出は投手の最年長記録(従来の記録はの36歳4カ月佐々木主浩)、39歳以上での初選出も史上3人目となる。

11月10日に、メジャーリーグへの移籍を視野に入れ、FA宣言。その後、2009年2月2日にトロント・ブルージェイズと1年間のマイナー契約を結んだ。

[編集] メジャー時代

招待選手として春季キャンプに参加したが、3月1日のオープン戦初登板で守備の際に右ふくらはぎを痛める。マイナーで調整することになったが、3月30日にブルージェイズから解雇される。同日にニューヨーク・メッツとマイナー契約。その後傘下の3Aバッファローで6試合に登板、11回2/3を投げて防御率0.77を記録。4月26日にメジャー初昇格[1]

5月2日のフィラデルフィア・フィリーズ戦、2点ビハインドの3回裏1死満塁の場面で先発のオリバー・ペレスの後を受けメジャー初登板。1球で投手ゴロ併殺に打ち取ると、最終的に2回と2/3を投げ1被安打1与四球無失点を記録。6回に味方が3点を取り勝利投手の権利を得てマウンドを降りたが、後続が打たれ初登板初勝利はならなかった。なお、40歳でのメジャーデビューは第二次世界大戦以降ではサチェル・ペイジの42歳、ディオメデス・オリーボの41歳に次いで史上3位の高齢記録となった[2]。6月22日、マイナー降格を通告された。

[編集] 人物

前述の通り大学時代は外野手だったということもあり、2003年3月29日開幕カードの対ヤクルトスワローズ2回戦では自ら均衡を破るタイムリー三塁打を放つなど打撃センスは非凡なものがある。尚、プロ初本塁打は、2001年4月8日に斎藤雅樹から放っている。

投手転向は大学4年時とあるが、小学校・中学校(以上軟式)は投手であった。

トヨタ自動車入社後は投手として日本代表に入り、社会人二年目の1993年のドラフト会議では8球団からオファーを受け、1・2位候補として名前が上がったが会社の慰留によって残留した。翌年はチームの不振から評価が下がり、「上位指名できない」との連絡を次々に受けて本人も「プロ入りできないと覚悟した時期もあった」が、1994年11月13日に広島から獲得の意向を伝えられ、「順位も金額も関係ない。素直にうれしかった」とプロ入りを決断した。(中国新聞「赤ヘルルーキー高橋建」より)

気の強い性格で知られ、広島市民球場でKOされベンチに戻る際、内野席のファンに野次られ、野次ったファンに言い返すことも珍しくない(コーチが静止するほど激高した事もある)[要出典]。2008年にオールスター出場を決めた時は、前述の野次をしたファンも喜びのコメントを残した[要出典]。また、外国人選手に死球を与えた後、威嚇されても全く怯むことはない。本人いわく「コントロールはいい方じゃないから(死球を与えても)仕方ない」とのこと[要出典]

もともと野手だったため打撃も得意にしており、二軍での通算打率は3割を超えている。また、一軍戦では通算3本塁打を放っている。

投手の場合、一般的に30歳を過ぎると球速は落ちるものだが、高橋の場合は30歳を過ぎてからの方が速くなり、30代後半になっても150キロ近い球を投げ続けている。これには、投手に転向したのが大学4年時と遅かったため「投手としての伸びしろが残っていた」「肩が擦り減ってない」などが理由とされる[要出典]

巨人相手に2000年9月(東京ドーム)に通算100号のサヨナラ本塁打、2002年6月(札幌ドーム)に球団通算7500号本塁打を喫している。また対戦打者は奇しくも高橋由伸である。

中日との相性が良く、ナゴヤドームでは良い投球をする。一方、阪神には弱く、10年目の2004年シーズンまでは甲子園で勝ったことがなかった。先発、中継ぎ、抑えと幅広いポジションをこなし、キレのある速球で三振も多くとれる。

40歳近くになってもストレートには球威があり、交流戦でソフトバンクの新垣渚投手との投げ合いの際、140キロ台の直球で打者のバットをへし折る程だった。解説者は「150キロ台中盤のストレートを投げる新垣より、140台後半のストレートを投げる高橋の方が球威・球速があるように見える」と発言した[要出典]

[編集] 不可解な退場事件

2003年6月5日、高橋は対読売ジャイアンツ10回戦に先発した。それまで2失点に抑えていた8回表、突如乱調に陥り江藤智に3ランを浴びて交代を告げられる。

このとき高橋はボールをボールボーイに返球しただけとしているが、後ろ向きに立っていた球審谷博のいる方向へ速い球を投げたとされる。谷球審が、状況を見ていた三塁塁審の吉本文弘に確認したところ吉本三塁塁審は「高橋が谷球審に向かって投げた」と報告したため、谷球審は侮辱行為として高橋に退場を宣告した。これに山本浩二監督が抗議したが退場宣告は覆らなかった。

8回裏、奮起した広島打線が爆発し同点に追いつく。直後の9回表、阿部慎之助の右翼前安打を処理した木村拓也が三塁へ好返球、三塁手新井貴浩が捕球し、一塁走者斉藤宜之へのタッグプレイとなったが、三塁塁審吉本はセーフと判定した(ただし、このとき斉藤は新井のグラブの上をスライディングしており、グラブにスパイクの傷も付いていたとされる[要出典])。新井は激高し、吉本三塁塁審の胸を突いた為退場となった。この件で、広島ファンのみならず、選手会のホームページに寄せられたメールなどでも審判陣に対する批判の声が上がった。

6月11日、選手会が高橋・新井両選手への退場処分に関する抗議文書をコミッショナー及びセ・パ両連盟会長宛に提出。退場処分は覆らず、高橋は罰金を支払った模様だが、コミッショナー及びセ・パ両連盟は谷球審の言い分を却下。また審判への公式な処分はなかったが、吉本塁審はこのあと規定日数いっぱいの二軍落ちをしている。 [1]

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績



































W
H
I
P





1995 広島 39 0 8 6 0 0 4 4 0 .500 393 90.0 85 12 45 0 54 1 1 44 30 1.44 5.40 3.90
1996 24 0 5 4 0 0 2 1 1 .667 233 52.2 57 4 20 1 40 4 0 33 29 1.49 6.90 4.96
1997 34 0 4 4 0 0 3 4 0 .429 282 62.0 69 8 34 0 35 3 0 37 33 1.66 5.08 4.79
1998 41 0 9 9 0 0 3 8 0 .273 431 101.0 92 10 46 2 76 5 1 45 43 1.39 6.77 3.83
1999 36 2 4 11 1 0 3 7 0 .300 448 102.0 102 21 40 2 90 9 0 64 53 1.41 7.94 4.68
2000 50 2 15 8 1 0 5 9 4 .357 482 112.1 89 13 57 3 88 6 0 56 49 1.30 7.07 3.93
2001 30 5 3 20 1 0 10 8 0 .556 736 173.0 165 23 60 8 132 6 0 89 82 1.35 6.87 4.27
2002 26 6 0 19 3 0 9 14 0 .391 758 173.1 197 22 38 3 142 2 0 92 74 1.37 7.38 3.84
2003 24 6 0 18 1 3 9 8 0 .529 706 167.0 174 26 36 8 127 2 0 76 68 1.31 6.84 3.66
2004 18 0 0 17 0 0 3 10 0 .231 428 96.0 122 24 24 2 66 0 1 66 59 1.54 6.19 5.53
2005 14 0 3 4 0 0 0 2 0 .000 133 26.2 43 7 9 1 14 1 0 28 28 2.02 4.81 9.45
2006 54 0 13 0 0 0 2 3 0 .400 201 46.0 46 9 16 1 40 0 0 27 24 1.37 7.83 4.70
2007 22 0 1 20 0 0 5 4 0 .556 481 112.0 116 18 36 5 74 3 0 54 46 1.40 5.95 3.70
2008 21 1 0 19 1 0 8 5 0 .615 503 115.2 124 11 42 5 71 1 0 50 45 1.38 5.52 3.50
通算:14年 433 22 65 159 8 3 66 87 5 .431 6215 1429.2 1481 208 503 41 1049 43 3 761 672 1.41 6.60 4.23
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 背番号

  • 22(1995年 - 2008年)
  • 36(2009年 - )

[編集] 個人記録

投手記録
打撃記録
  • 初本塁打:2001年4月8日、対読売ジャイアンツ3回戦(広島市民球場)、3回裏に斎藤雅樹から

[編集] 脚注

  1. ^ "Mets add Takahashi to their bullpen Fossum designated for assignment after finale loss". MLB.com. 2009年5月4日 閲覧。
  2. ^ "The Mets’ 40-Year-Old Rookie". NYTimes.com. 2009年5月4日 閲覧。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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