李炳圭

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李炳圭
各種表記
ハングル 이병규
漢字 李炳圭
発音: イ・ビョンギュ
ローマ字 Yi Byeong-gyu
本人表記: Lee, Byung Kyu
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李 炳圭
LGツインズ #9
CD-Lee-Byung-Kyu.jpg
2009年3月31日(中日ドラゴンズ在籍時)
基本情報
国籍 韓国の旗 韓国
出身地 ソウル特別市
生年月日 1974年10月25日(39歳)
身長
体重
185 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
初出場 KBO / 1997年4月12日
NPB / 2007年3月30日
最終出場 NPB / 2009年9月22日
年俸 8億ウォン(2014年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 韓国の旗大韓民国
五輪 1996年2000年
WBC 2006年
オリンピック
男子 野球
2000 野球

李 炳圭イ・ビョンギュ1974年10月25日 - )は、大韓民国ソウル特別市出身のプロ野球選手外野手)。LGツインズに所属している。

来歴[編集]

韓国時代[編集]

1997年から2006年まで10年間LGツインズでプレーしていた。LGでは主将を任されていたこともあり、「エールジーエ イビョンギュ!(LGの李炳圭)」という歌詞の個人の応援歌まであった。2006年WBC韓国代表に選出され、1番左翼手(1試合のみ9番)として起用された。

広さでナゴヤドームと比べても遜色の無い蚕室総合運動場野球場をホーム球場とし、2003年に左ひざを負傷するまでは、走攻守三拍子揃ったいわゆる5ツールプレイヤーとして知られた。その後2005年に長打力を捨てたスタイルへ転換し首位打者を獲得した。

2006年オフにLGツインズからFA宣言を行い、2006年限りで退団したアレックス・オチョアの事実上の後継者として、アレックスを走・攻・守全てにおいて上回る存在として期待され同年12月10日に中日が契約を結んだと発表した。

日本時代[編集]

本人は中堅手志望で、打順にはこだわりがないと発言。シーズン序盤からは中堅手としての出場が多かったものの、終盤には右翼手のレギュラーであった福留孝介の故障により右翼手として出場することとなった。 2007年オープン戦では1番を中心に様々な打順をテストされ、その結果を踏まえ開幕戦では5番で起用された。開幕から9試合連続安打を記録したものの、その後打率が.250近辺を低迷したことで、4月下旬からは森野将彦との入れ替えで7番に降格。3番や1番を打たせた結果、8月下旬からは6番で起用された。7月18日の対ヤクルト戦では日韓通算1500安打を達成。9月4日の対巨人戦で、高橋尚成から来日初となる満塁本塁打を放つ。韓国では走攻守揃った選手という評価だったが、レギュラーシーズンでは打率.262の割に低い出塁率.295で、三振は100を越え、盗塁0、守備の方も補殺0に終わる。

しかしクライマックスシリーズに入ると豹変し、阪神との第1ステージ第2戦で上園啓史から3点本塁打を放った。巨人との第2ステージ第2戦においても西村健太朗から貴重な追加点となる2点適時三塁打を放ち、次の打席では上原浩治からダメ押しのソロ本塁打を放つ。続く日本シリーズ日本ハムとの第2戦でも押本健彦からダメ押し2点本塁打を放ち、打率は低かったがチーム最高の5打点をマークするなど短期決戦での勝負強さを見せた。アジアシリーズでは不調だったが、SKワイバーンズとの決勝戦で、金廣鉉から2点本塁打を放ち、チームのアジア一に貢献した。12月に台湾で開催された北京オリンピックアジア地区予選に韓国代表として出場。初戦の台湾戦に6番・右翼手で先発出場するも、6回に緩慢な守備で一塁走者の生還を許し、打撃でも4打数0安打2三振に終わったことから翌日の日本戦はスタメン落ち(試合途中守備で出場)となり、フィリピン戦では出場機会はなかった。

2008年シーズンは3番打者だった森野将彦の怪我もあり、開幕から3番・右翼手で起用される。その後は打率の低さから打順は7番が多くなるが、本塁打と打点は前年を上回るペースの成績であり、5月4日の対阪神戦で藤川球児から来日初のサヨナラ本塁打を放っている。5月中旬には対横浜戦で満塁本塁打を放った。しかし交流戦に入ると右手親指の故障により成績が急落し6月10日に登録抹消、6月30日に一軍復帰し7月1日からの阪神との3連戦にスタメン出場するも12打数2安打4三振と結果を残すことが出来ず三連戦終了後に再び二軍降格となった。更に北京オリンピック韓国代表からも外れてしまう。

再登録となった8月12日で第2打席に先制の3点本塁打、第5打席では勝ち越しのソロ本塁打と2本の本塁打を放ち8月は16試合の出場で3割1分3厘3本塁打16打点の数字を残した。その後しばらく開幕と同じ3番、終盤は1番として起用され約2ヶ月の離脱期間があったが規定打席には到達し、10月2日の対横浜戦では8回に三浦大輔から同点2点本塁打、延長10回には寺原隼人から勝ち越しの3点本塁打を放ち、岩瀬仁紀の10年連続50試合登板に花を添えた。2008年の月間打率は3月は3試合で3割8分5厘、4月は2割3分7厘、5月2割1分8厘、6月1割8分2厘、8月3割1分3厘、9月2割2分2厘、10月は4割と好不調の差が際立っている。

最終成績は2割5分4厘16本塁打65打点の成績に終わった。本塁打と打点は前年度より上昇したものの、打率は低下、前年に匹敵する三振を喫し併殺打も増加、また四球も少なかった。結局打率・出塁率はそれぞれリーグワースト3位・2位という結果となった。

阪神とのクライマックスシリーズ第1ステージ第3戦の第1打席で岩田稔から死球を受け退場したが、巨人との第2ステージの出場には間に合い初戦ではセス・グライシンガーから先頭打者本塁打を放った。しかしこの試合から12打数連続無安打を記録、結局第2ステージでは2割1分1厘1本塁打1打点6三振という結果に終わりチームも敗退。誕生日であった10月25日の第2ステージ第4戦ではレフトスタンドの中日ファン(応援団は来場せず)からハッピーバースデーが歌われ、第1戦以来の安打を打ったが、チームの敗戦により日本シリーズ出場を逃し悔しい誕生日となりシーズンを終えた。

2009年は来日早々「3割20本」の目標を掲げるものの、オープン戦で打撃不振となりさらに藤井淳志や新人の野本圭が台頭し、外国人枠からも漏れてしまい開幕を二軍で迎えることになった。5月25日に一軍登録されるも、それ以降は一軍と二軍を行き来している。平田良介や野本の不調により出場機会を得たが、得点圏打率は1割台にまで割り込み、打率も2割1分8厘と結果を出す事が出来なかった。同年のファーム日本選手権に5番・指名打者として先発出場したのを最後にシーズン終了後、3年契約の満了を持って解雇通告を受け、10月26日をもってウエーバー公示の手続きがとられ、11月2日付けで自由契約となった。

韓国球界復帰[編集]

2010年1月8日、2年総額9億ウォン(約8900万円)の契約で、4年ぶりに古巣LGツインズに復帰することが決まり、背番号も9に決定。このシーズンは打率.290、9本塁打の成績でシーズンを終え、韓国通算1500安打も達成した。

2011年シーズンでは16本のホームランを放つ活躍を見せ、打率も.338と首位打者ランキングで3位となった。

2012年シーズンでは本塁打数こそ5本と昨季より減少したものの日韓通算2000本安打を達成し、打率.300フラットという堅調な成績を残した。

2013年7月5日、ネクセン戦で韓国プロ野球史上最年長(38歳8ヶ月)となるサイクルヒットを達成。同年7月10日、NCダイノス戦で韓国プロ野球新記録となる10打席連続安打を達成。同年はNCダイノスが一軍リーグに新規加入したため各チームの試合数が128に減少したこともあり、シーズン終盤の10月初旬に規定打席へ到達することに成功した。最終成績は打率.348で韓国プロ野球では8年ぶり2度目となる首位打者のタイトルを獲得し、DH部門でのゴールデングラブ賞(2013年現在、指名打者制を採用する一つのリーグで運営される韓国野球界では、DHも独立したポジションと見なされることが多い)を受賞した。

2014年5月6日、ハンファ戦で韓国プロ野球史上4人目となる韓国通算2000本安打を達成。

プレースタイル[編集]

打撃[編集]

基本的に四球が少ない早打ちのスタイルで、初球打ちの打率は他のカウントに比較するとかなり高い。反面、韓国リーグでは落ちる変化球を使う投手が少ないこともあり、低めの変化球には弱い。打席に立つ際、首を横に振る癖がある。それなりに長打力はあるものの選球眼が悪く中日時代は1度も出塁率3割に満たない上、三振も多くバントなどの小技も苦手であった。

ヤクルト戦を得意とし、2007年シーズンは対戦打率.352という好成績を残している。特に韓国時代から対戦経験のあるセス・グライシンガーとは対戦成績が5割近くで相性がいいとされる。一方リーグ優勝を争った巨人・阪神相手にはそれぞれ.202、.184という数字しか残せなかった。

2007年シーズンの併殺打数は平均以下となっているほか、セーフティバントを成功させたり三遊間へのゴロをセーフにしたりと内野安打も少なくない。そして安打数に占める二塁打の割合も高いことが示すように決して足が遅いわけではないが、故障の影響からか盗塁数は0だった。

守備[編集]

2007年のクライマックスシリーズおよび日本シリーズでは、レギュラーシーズンで主に守っていたセンターからライトに守備位置が変更された。落合監督はこの理由を「ライトならそこそこ守れるとわかったため」であると語った。高代延博は守備時の李について「一歩目は福留よりも速い」「下手だからライトに回したわけではない」「守備固めを出すつもりは無い」と中日スポーツ紙上で答えている。しかし弱肩であり外野3ポジションそれぞれでランナーの進塁を度々許していた。また打球の方向を誤ったり打球処理や送球に雑なプレーが目立ちしばしば批判を浴びた。

エピソード[編集]

韓国でのニックネームは「赤兎馬」(적토마、チョクトマ)。しばしばイ・「ヒョン」ギュと呼ばれることもあるが誤りで、正しくはイ・「ビョン」ギュである。日本でのニックネームは「ビョン吉」「ビョン様」など。

韓国での成績、面長の顔をした左投左打の外野手というところが佐々木誠を髣髴とさせ、WBCの中継で島村俊治アナウンサーがそのような指摘をしている。韓国野球を取材しているジャーナリストの室井昌也も同様の見解[1]中日スポーツなどからは韓国のイチローと例えられたが、もともと「韓国のイチロー」は同じく中日に在籍していた李鍾範の愛称である。

若手時代は夏場に強く、シーズンごとに調子を上げてスターの地位を獲得していった。中日に移籍してからは夏場よりも後半戦やポストシーズンに活躍する傾向にある。

2007年9月3日中日スポーツ紙上にて、野球解説者木俣達彦が記した評論が発端となり、ネット上の一部では李炳圭が凡退することを「案の定である」と表現されたり、一試合で複数安打が少なかったため「一日一善」と表現されたりしている。同9月18日のヤクルト戦最終打席で一塁線際のゴロをファールとセルフジャッジし(実際はフェア)、走塁をしなかった。このプレーで解説者から「プロ野球選手と名乗る資格が無い」と言われるなど各所から非難を浴びた。

2008年頃からヒーローインタビューで日本語を披露する事もあった。また、何度もサインをもらいに来たファンに対し「またおまえか」、英語で喋りかけてきたファンに「日本語でいいよ」と話したというエピソードもある。

韓国球界復帰後の2014年4月24日の試合では、前日に突如としてLGツインズの監督を辞任した金杞泰の背番号91を書き込んだ打撃用ヘルメットで登場した。そのヘルメットには自身の家族のイニシャルや、直前に起こった国内でのフェリー事故に巻き込まれた人々へのメッセージ(희망(希望) 기적(奇跡))が刻まれていたこともあり、国内外で話題となった[2]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1997 LG 126 550 495 82 151 31 8 7 219 69 23 5 1 3 43 3 8 50 6 .305 .368 .442 .810
1998 124 544 499 75 139 31 5 9 207 67 11 6 3 3 36 1 3 47 13 .279 .329 .415 .744
1999 131 599 550 117 192 43 8 30 341 99 31 3 2 4 34 6 9 65 11 .349 .394 .620 1.014
2000 129 595 527 99 170 28 1 18 254 99 14 8 2 9 52 4 5 91 15 .323 .383 .482 .865
2001 133 607 542 107 167 30 4 12 241 83 24 8 4 3 54 6 4 69 10 .308 .373 .445 .818
2002 109 444 389 54 114 25 0 12 175 43 9 6 1 2 50 12 2 57 6 .293 .375 .450 .825
2003 44 178 154 20 43 9 2 5 71 30 1 3 0 2 21 4 1 23 0 .279 .365 .461 .826
2004 129 562 496 95 160 26 2 14 232 64 8 4 3 1 50 1 12 72 14 .323 .397 .468 .865
2005 119 517 466 62 157 24 2 9 212 75 10 6 1 7 34 1 9 62 10 .337 .388 .455 .843
2006 120 515 478 51 142 29 1 7 194 55 3 2 1 1 31 5 4 65 8 .297 .344 .406 .750
2007 中日 132 508 478 43 125 23 1 9 177 46 0 2 3 3 23 3 1 108 8 .262 .295 .370 .665
2008 105 448 418 40 106 16 2 16 174 65 1 2 5 1 23 0 1 93 13 .254 .293 .416 .709
2009 28 107 101 14 22 3 0 3 34 8 0 0 1 0 5 0 0 33 4 .218 .255 .337 .592
2010 LG 117 451 404 49 117 14 1 9 160 65 3 4 4 6 36 5 1 53 11 .290 .345 .396 .741
2011 127 485 64 164 24 0 16 236 75 2 1 28 1 2 47 10 .338 .375 .487 .862
2012 118 420 52 126 25 1 5 168 41 5 7 22 1 2 58 18 .300 .333 .400 .733
2013 98 401 374 39 130 19 3 5 170 74 2 2 0 3 22 2 2 40 10 .348 .384 .455 .839
KBO:13年 1624 6279 966 1972 358 38 158 2880 938 146 65 513 64 799 142 .314
NPB:3年 265 1063 997 97 253 42 3 28 385 119 1 4 9 4 51 3 2 234 25 .254 .290 .386 .676
  • 2010年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

KBO
  • 最多安打:4回 - 1999年(192本)、2000年(170本)、2001年(167本)、2005年(157本)
  • 最多得点:1回 - 2001年(107得点)
  • 首位打者:2回(2005年、2013年)

表彰[編集]

KBO

記録[編集]

NPB

背番号[編集]

  • 9 (1997年 - 2006年、2010年 - )
  • 7 (2007年 - 2009年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]