ロッテ・ジャイアンツ

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ロッテ・ジャイアンツ
創設年度 1982年
ロゴデザイン
Lotte Giants insignia.svg
所属リーグ
韓国野球委員会
歴代チーム名
  • ロッテジャイアンツ(1982年 - 現在)
本拠地
社稷野球場
収容人員 28,500人
縁故地 釜山広域市
永久欠番
11 崔東原
獲得タイトル
韓国チャンピオン(2回)
1984・1992
成績(タイトル以外)
アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝)
2012
韓国シリーズ出場(4回)(太字は勝利した年)
2勝2敗
19841992|1995|1999
プレーオフ(5回)(太字は勝利した年)
3勝2敗
1992199519992011|2012
準プレーオフ(7回)(太字は勝利した年)
2勝5敗
19911992|2000|2008|2009|2010|2012
Aクラス(13回)
1984-1985|1987-1988|1991-1992|1995|1999|2008-2012
Bクラス(20回)
1982-1983|1986|1989-1990|1993-1994|1996-1998|2000-2007|2013-2014
球団組織
オーナー 辛格浩(シン・キョクホ)
辛東仁(シン・ドンイン、オーナー代行)
運営母体 ロッテ
監督 金始眞(キム・シジン)
ロッテ・ジャイアンツ
各種表記
ハングル 롯데 자이언츠
漢字 -
発音 ロッテ=ジャイアンツ
ロッテ=ジャイオンツ
英語 Lotte Giants
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ロッテ・ジャイアンツ롯데 자이언츠、Lotte Giants)は大韓民国のプロ野球チーム。縁故地(ホームタウン)は釜山広域市。本拠地は同市内の社稷(サジク)球場。親会社はロッテグループ。

概要[編集]

Busan Sajik Stadium 20080706.JPG|

1980年代[編集]

ロッテグループのオーナーの辛格浩(シン・キョクホ、日本名・重光武雄)は日本で1969年に東京オリオンズの経営に参加し球団名を「ロッテ・オリオンズ」と改称、1971年に経営権を全面獲得した。その後、「将来は母国・韓国でもプロ野球が発足する」と見込んで、1975年、韓国のロッテ製菓の傘下で社会人野球チームを作った。そして、日本の球団にはつけられなかった憧れの「ジャイアンツ」の愛称を、この社会人チームにつけて、当時の韓国アマチュア球界で最強の戦力を構築、「ロッテ・ジャイアンツ」の名はプロ野球開始以前でも韓国では確実に認識された。

1982年韓国プロ野球の発足時、ロッテグループも参入を表明。チーム名はアマチュア時代の「ロッテ・ジャイアンツ」の名をそのまま維持して、重光オーナーの故郷である釜山・慶尚南道地域をフランチャイズ保護地域として、釜山を本拠地とするプロ球団として転向した。

しかしアマチュア時代にかき集めた好選手たちは、プロリーグ発足時に定められた地元高校出身の選手に対する保有権の原則によって手放さざるを得なくなり、釜山・慶尚南道地域の出身選手だけでチームが構成された。さらに追い討ちを掛けるように、釜山出身の豪腕エース崔東原(チェ・ドンウォン)の入団が、1982年秋にソウルで開かれた世界野球選手権大会参加のため1年間見送られ、プロリーグ発足前からチームの戦力は弱体化していた。結局1982年はシーズン5位で終了。翌年の1983年は崔東原が正式加入したものの、早くも球団史上初最下位を記録した。

1984年の前期リーグまではBクラスを抜け出せなかったが、後期リーグはエースの崔東原の力投をバックに優勝を達成し、韓国シリーズの出場権を獲得。年間成績では4位だったが、韓国シリーズでは一人で4勝をあげる崔東原の超人的な活躍で、巨大戦力を擁する強豪の三星ライオンズを下して初優勝を飾った。

1984年の優勝後から1988年までは崔東原を中心とする投手力を武器として、5年間でAクラス4度と比較的善戦してきた。しかしポストシーズン争いに絡んだことがなかった(すなわち、前後期を満遍なくAクラス入りできる程度の成績しかあげられなかった)ため、この時期にも強豪チームという印象はなかった。

1980年代はエースの崔東原に対する依存度が高すぎ、多投を強いられた彼のコンディションによってチーム成績が浮沈を繰り返すようになっていった。また当時は恒例行事のように繰り返された年俸闘争にかまけてシーズンオフのトレーニングに身が入らず、崔東原の力量も若くして衰えを見せ始めた。さらに追い討ちを掛けたのが崔の主導によって展開された選手会結成の動きであった。選手会は球団側のプロ野球廃業の脅しに屈して頓挫させられる形で収拾されたものの、ロッテ球団は選手たちに対する報復措置としてエースの崔東原と中心打者の金容哲(キム・ヨンチョル)を放出し、三星ライオンズから投手の金始眞(キム・シジン)と張孝祚(チャン・ヒョジョ)を受ける大型トレードに乗り出した。

このトレードを拒否した崔東原は半年間を三星からの任意脱退の身分で送り、またトレードに巻き込まれた他の当事者たちもショックからか軒並み不振に陥った。1989年シーズンは序盤から低迷し、ついに球団史上2度目の最下位で1980年代を終えた。

1990年代[編集]

1990年、三美スーパースターズの監督を歴任した金振栄(キム・ジニョン)を監督に迎え、また、スーパールーキーと言われた朴東熙(パク・ドンヒ)の入団で巻き返しを図った。しかし、成績は6位に終わり、1年も満たせず金振栄をシーズン途中解任、都偉彰がシーズン終了まで指揮を執った。

1991年、1984年の優勝監督である姜秉徹(カン・ビョンチョル)を再び監督に起用した。姜秉徹は思い切った世代交替に乗り出し、停滞ムードを刷新。復帰初年度にチームを公式戦4位に引き上げ、1984年以来のポストシーズンに出場させ、韓国プロ野球史上初の観客100万人動員の立役者になった。

翌年の1992年は新人の廉鍾錫(ヨム・ジョンソク)の大活躍で順位を公式戦3位に一段引き上げ、2年連続ポストシーズン出場を果たした。ポストシーズンでは前評判を覆して、強豪のヘテ・タイガースとビングレ・イーグルスを連破。準プレイオフから這い上がって韓国シリーズを制覇する最初のチームになると同時に2度目の優勝を飾った。また2年連続でシーズン100万観客を超える快挙も達成した。

しかし、戦力に合わない優勝は選手たちの慢心を誘い、1992年シーズン終了後、多くの選手が年俸闘争に突入。契約更改に気が向いた分、チームの戦力の低下を招き、もともと公式戦3位が妥当だった戦力から滑り落ちたチームは1993年、Bクラスに戻った。シーズン終了後、姜秉徹監督を解任した球団は、球団OBで1980年代の中心打者であった金用熙(キム・ヨンヒ)を監督に招いたが、1994年シーズンは2年連続Bクラスに終わった。

1995年、チームは立ち直り、公式戦3位に返り咲いた。シーズン終了まで、熾烈な争いを通じて4位のヘテ・タイガースを3.5ゲーム差で突き放し、準プレイオフを消滅させ、プレイオフ直行を決めた。プレイオフでは上位チームのLGツインズを4勝2敗で下し、韓国シリーズに進出したが、今度は第5戦で先に王手をかけながら、第7戦まで行く接戦の末、OBベアーズに敗れ、準優勝に終わった。

1996年は、故障者続出でBクラスに逆戻りして5位に止まる。金用熙は選手の自律性を重視して、一切のトレーニングを選手に任せる方針を取っていたが、時間が経つにつれ、この放任主義が選手たちの怠惰を招き、ついに1997年シーズンは1989年以来、8年ぶりの最下位に転落。

1998年も不振が続き、2年連続最下位の屈辱を味わう。しかし、2リーグ制に代わった1999年は、故障で喘いだ投手陣の復調と外国人選手のフェリックス・ホセの活躍が打線の連鎖反応を起こし、シーズン序盤から飛び出した。夏場までドリームリーグの1位の座を守っていたが、シーズン終盤、猛追を見せた斗山ベアーズにリーグ首位の座を明渡し、2位でシーズンを終了。しかし、プレイオフで1勝3敗の劣勢を覆して、三星ライオンズを下す大逆転劇を演出。4年ぶり韓国シリーズ出場を決めた。しかし、シーズン終盤の順位争いに、白熱したプレイオフで疲れきったチームは、韓国シリーズでハンファ・イーグルスに1勝4敗で敗れ、また準優勝に終わる。この年は公式戦の年間成績でも2位を記録して、公式戦の年間記録では、チーム史上最高の成績を記録した。

2000年代[編集]

2000年、成績は前年より落ちたものの、比較的に弱いチームが集まったマジックリーグに所属が変わったお陰で何とかリーグ2位の座は保つことは出来た。マジックリーグ2位の座は守ったが、ドリームリーグ3位の三星ライオンズに年間勝率で劣り、両チームが準プレイオフをする羽目になった。結局、準プレイオフで三星に敗退。これを最後に、2008年までポストシーズンに姿を現すことはなく、長い暗黒時代が到来した。

再び1リーグ制に戻った2001年、チームは早くから最下位に低迷。チームを2年連続ポストシーズンに導いた金明星(キム・ミョンソン)監督が成績低下からくるストレスによる心筋梗塞でシーズン途中急逝する事態が起こってしまい、ヘッドコーチの禹龍得(ウ・ヨンドゥク)が監督代行を務めたが、チームは最下位を免れなかった。2002年は監督代行の禹龍得を正式監督に昇格させたが、チームの統率が取れず勝率2割台の惨憺な成績でシーズンの半分も消化していない62試合目で同監督を解任。日本時代からロッテ球団と縁があった白仁天を監督に迎えたが、精神力を強調する白仁天の方針は選手たちの反発を招き、2002年はシーズン100敗寸前の97敗を記録するほど情けない戦いぶりを見せた。翌シーズンも状況は変わらず、91敗で2年連続90敗で3年連続最下位。

結局、2001年から2004年まで4年間でシーズン途中監督交代4度、代行を含め6人の監督を座らせる迷走で4年連続最下位。一時は年間120万人も集まった本拠地釜山のファンにもそっぽを向かれ、1試合あたりの観客動員が2000人台を切るまでに凋落し、観客動員は全盛期の10分の1にまで縮んでいった。

このような事態に直面したチームは、整然な理論家で知られていた、球団OBの楊相(ヤン・サンムン、양상문)に2004年から指揮を取らせた。2004年も最下位を脱出できなかったが、2005年は最下位を脱出して5位に浮上。チームは夏場までポストシーズン争いをするほど健闘を見せ、チームから離れていったファンも戻り始めた。

しかし、この年の健闘ぶりについ色気を出した球団は、その年限りで同監督との契約を打ち切った。その後、2006年は周辺の厳しい見込みにもかかわらず、チームを2度の韓国シリーズ優勝に導いた姜秉徹(カン・ビョンチョル)監督を復帰させて上位進出を図ったが、結果は7位に終わった。

2007年は序盤の善戦で本拠地釜山を始め、全国的な野球人気復活の先導役になったが、中盤以降失速。前年と同じ7位に低迷した。結局、チーム史上唯一の優勝監督だった姜秉徹監督の3度目の采配は2年で幕を下ろした。

2008年からは大リーグのミルウォーキー・ブルワーズで監督経験のあるジェリー・ロイスター(Jerry Royster)が、韓国プロ野球史上初の外国人の正式監督[1]として新監督に就任し、公式戦を3位で終え、8年ぶりに悲願のポストシーズンに進出した。準プレイオフ開幕直前では前年よりチーム力が落ちていると言われた公式戦4位の三星ライオンズより優位の前評判だった。しかし、12年連続でポストシーズン出場の貫禄を誇る三星ライオンズに力を出せず、3連敗で完敗。特に、自信を持っていた先発陣が総崩れした上、得点圏での拙攻が目についた。

2009年は序盤こそ下位に低迷していたが、6月以降調子を取り戻し混戦の首位争いに顔を出し、夏場に調子を落とし4位争いに加わり、何とか公式戦4位で2年連続ポストシーズン進出に成功し、準プレーオフに出場したが、斗山に敗れた。

2010年代[編集]

2010年は2年連続公式戦4位で、球団史上初となる3年連続ポストシーズン進出を決めたが、斗山ベアーズに第1,2戦と連勝したものの、第3戦以降3連敗し3年連続準プレーオフ敗退となった。またこの年限りでロイスター監督も退任し、梁承虎監督が就任した。2011年は8球団1リーグ制となった1991年以降(2リーグ制だった1999-2000年を除く)最高となる公式戦2位の成績をおさめ、ポストシーズン連続出場を4年連続に伸ばし、12年ぶりにプレーオフへ進出した。2勝3敗でSKワイバーンズに敗れ、4年連続でポストシーズンの次のステージに進めなかった。同年オフには主砲の李大浩がFA(フリーエージェント)となり、日本プロ野球・オリックスへと移籍していった。

2012年は公式戦4位で、斗山ベアーズとの準プレーオフを勝ち抜き、ようやくポストシーズンで次のステージに進むことができたが、次のプレーオフで2年連続SKワイバーンズに敗れた。プレーオフ敗退から1週間後の10月30日、梁承虎監督が辞任し、11月、金始眞監督が就任した。韓国シリーズに出場できなかったが、本拠地の社稷野球場でシーズン終了後に開催されるアジアシリーズには「地元枠」にて参加。権斗祚首席コーチが監督代行として指揮を執ったが、予選リーグで敗退した。

2013年は公式戦5位で、2007年以来6年ぶりにポストシーズン進出に失敗した。総観客動員数も約77万人と2012年比で44%も減少してしまった。2014年は公式戦7位で2年連続ポストシーズン進出に失敗した。

備考[編集]

2013年終了時点で、三星ライオンズとともに、1982年の韓国野球委員会発足時から名称変更を行っていないチームである。また、すでに解散したサンバンウル・レイダースと2008年に新規参入したネクセン・ヒーローズ、2012年に新規参入したNCダイノスを除き、韓国野球委員会発足当時から存続する球団では唯一公式戦1位または年間勝率の1位の経験がない。

2度の優勝の内、1度目はシーズン全体では4位に当る成績でありながら、後期リーグの覇者として韓国シリーズに出場し、前期優勝の三星ライオンズを下してあげたものである。2度目は公式戦で3位にあたる成績で準プレイオフから韓国シリーズに這い上がり、公式戦1位のビングレ・イーグルスを倒して成し遂げたものである。

また、SKワイバーンズが2007年韓国シリーズで初優勝したため、2008年に創設されたネクセンを除くと、1992年を最後に韓国野球委員会所属球団の中で一番優勝から遠ざかっている球団であり、2009年に起亜タイガースが韓国シリーズに出場したため、ネクセンを除き、2000年代に韓国シリーズの出場のない唯一の球団となった。

2010年まで、本拠地・釜山広域市の近隣である慶尚南道昌原市馬山総合運動場野球場を準本拠地として年間何試合か主催試合を行っていたが、同球場を本拠地とするNCダイノスの創設により行わなくなった。2014年より、同じく近隣の蔚山広域市に開場した蔚山文殊野球場を準本拠地とし、時折主催試合を開催することになった。

歴代監督[編集]

前任監督の辞任や解任の後、空席の状況で就任した監督代行まで含む

  • 朴永吉(パク・ヨンギル)1982-1983.7.5.
    1983年シーズン途中、成績不振で解任。
  • 姜秉徹(カン・ビョンチョル)1983.7.6.-1986
    1983シーズンは監督代行。
  • 成基泳(ソン・ギヨン)1987
  • 魚友洪(オ・ウホン)1988-1989
  • 金振栄(キム・ジニョン)1990開幕-1990.8.28.
  • 土居章助、1990.8.29-1990シーズン終了
    監督代行。韓国での登録名は都偉彰(ト・ウィチャン、ハングル:도위창)。代行を含めると韓国プロ野球で初めて監督として指揮を執った外国人である。
  • 姜秉徹【第2期】1991-1993
  • 金用熙(キム・ヨンヒ)1994-1998.6.16.
    1998シーズン途中、成績不振で解任。
  • 金明星(キム・ミョンソン)1998.6.17.-2001.7.24.
    1998年は監督代行。2001年7月24日、心筋梗塞で急逝。
  • 禹龍得(ウ・ヨンドゥク)2001.7.24.-2002.6.21.
    2001年は監督代行。2002年シーズン途中成績不振で解任。
  • 金用熙、2002.6.22.-2002.6.24.
    監督代行
  • 白仁天(ペク・インチョン)2002.6.25.-2003.8.5.
    2002年シーズン途中、監督代行の金用熙の後をついで正式監督として就任。2003年シーズン途中、成績不振で解任。
  • 金容哲(キム・ヨンチョル)2003.8.6.-2003シーズン終了
    監督代行
  • 楊相(ヤン・サンムン)2004-2005
  • 姜秉徹【第3期】2006-2007
  • ジェリー・ロイスター(Jerry Royster)2008-2010
  • 梁承虎(ヤン・スンホ)2011-2012
  • 権斗祚(クォン・ドゥジョ)2012アジアシリーズ
    監督代行
  • 金始眞(キム・シジン)2013-2014

チームの特徴[編集]

熱烈なファンサポート[編集]

2000年以降長い間、球団は低迷したが、ファンのポストシーズンへの願望は衰えることなく、ファンの間では「(プレイオフが行われる)秋にも野球をしよう(가을에도 야구하자!)」というのが非公式的なチームのスローガンとして定着し、「優勝はともかく、(準プレイオフ出場が可能な)4位さえすれば毎試合社稷球場を満員にさせてやる」とまで豪語してきた。そして2008年以降2011年まで4年連続ポストシーズンに進出し、そういったキャッチフレーズは過去のものとなりつつある。チームが好調だった1990年代前半は韓国プロ野球では初めて年間観客動員100万人突破を達成し、2008年もチームは公式戦3位に終わったが、1チームとしては韓国プロ野球史上最多の年間観客動員数である137万9735人を記録した。2009年も終盤まで激しい4位争いをしたことや、全国的なプロ野球人気の高まりと主催試合数の増加(63試合から67試合)により、前年の記録を更新する138万18人の年間観客動員数を達成した。

しかし、低迷期には球団側がチーム復活の手答えを見せなかったため、本拠地釜山のファンは「神はなぜ釜山に最高のファンと最悪のチームを同時にもたらしたのか(신은 어찌하여 부산에 최고의 팬과 최악의 팀을 주셨나이까?)」とインターネット掲示板などで嘆くのもよく見られた。

ファンの声援の熱さは韓国で随一と言われている。本拠地の社稷球場を訪れるファンは、他球場では見られない、周辺でよく手に入れられる日常用品を用いた独特な応援でも有名である。たとえば、ナイターの試合でライターに火をつけながら点滅効果を見せる「ライター応援」(2000年代からは見られなくなった)、新聞紙を細かく裂いてポンポンを作って振らす「新聞紙応援」、試合終盤にゴミ回収用に観客に配られるオレンジ色のビニルバッグを膨らませて振らす「ビニルバッグ応援」などがある。これらの応援は誰が始めたのは確かではないが、今は本拠地社稷球場の名物として定着していて、一部の応援は他球団のファンも真似たりする。また、3万を超える観衆が球場を囲んで全方位からホームチームへの一方的な声援を送る球場は社稷球場しかないため、ビジターチームの選手は相当なプレッシャーを感じているという。ちなみに、同じ3万人受容のソウルの蚕室球場や仁川の文鶴球場は他地域出身者が少なくない土地柄の影響で、ビジターチームの応援団の数も相当存在する。たまに、この熱烈な応援が度を越して、観客がグラウンドに乱入して試合進行に支障を来たすこともある。年一回のプロ野球オールスター戦もロッテの選手がもっとも選ばれやすく、2012年のオールスター戦(7月21日開催予定)はロッテが属するイースタンリーグ(その他は斗山SK三星)の指名打者を含めたファン投票選出選手10名全員がロッテの選手となった。(韓国プロ野球オールスター戦のファン投票で同一チームの選手がすべてのポジションで選ばれるのは史上初) しかし2013年、相次ぐスター選手の流出や5位に終わったチームの成績不振もあり、年間観客動員数は770681人と最盛期だった4年前の約55%にまで減少した。

ちなみにファンの間では、韓国歌謡の「釜山港へ帰れ」と「釜山カルメギ(※カルメギは韓国語で「カモメ」の意)」がコンバットマーチとして定着しており、試合前などによく歌われている。

千葉ロッテマリーンズとの関係[編集]

日本の千葉ロッテマリーンズとは、同じ重光武雄オーナーの下にあるため、姉妹球団として社会人球団時代から緊密な関係を持っている。2000年代序盤までは、ロッテオリオンズおよび千葉ロッテマリーンズと同じデザインのユニフォームを着用していて、マリーンズ側がユニフォームの変更に乗り出すとその2、3年後にジャイアンツもそのユニフォームデザインを受け入れていた。

この名残りで、独自のデザインのユニフォームを着用している今もペットマークは千葉ロッテマリーンズのロゴを一部変更(CHIBAをBUSANに、MARINESをGIANTSに変更)して使っているほか、マリーンズのチームマスコット「マーくん」と同じデザインのカモメのチームマスコットに現行のユニフォームを着せたキャラクターを使用している。なお2014年現在、右胸スポンサーはマリーンズと同じくNEXONが務めている。またユニフォームサプライヤーはアディダスで、これはマリーンズ(デサント)と異なる。

昔のユニフォームの一つにはロッテオリオンズの水色地のビジターユニフォームを彷彿させるデザインがある。このデザインは社会人球団時代から始まって、プロとして発足した1982年から1995年にかけて着用したユニフォームのデザインであり、「LOTTE」のロゴもオリオンズのものと同じであった。キャップのマークはロッテの「L」とジャイアンツの「G」の組み合わせだがこれもオリオンズのものにそっくりであった。前述のとおり、ロッテ・ジャイアンツは姉妹球団であるロッテオリオンズのユニフォームと同じデザインのユニフォームを着用してきた。この水色のユニフォームは、現在はサードユニフォームとして、オールド・ユニフォーム・デーの時、着用してプレイしている。

日本プロ野球との関係[編集]

古くは社会人球団時代からロッテオリオンズを通じて日本のプロ野球と緊密な関係をもっていた。ロッテオリオンズのコーチを歴任した土居章介は社会人球団時代からコーチングスタッフとして貢献して、1990年は監督代行でありながら、韓国プロ野球で史上初めてチームの指揮を執った外国人コーチングスタッフとして記録されている。

時折日本人指導者も在籍している。2003年には石井丈裕が投手コーチ、2006年は柳田聖人が作戦コーチ、2012年は勝崎耕世がコンディショニングコーチとして在籍していた。2014年から本西厚博が作戦走塁コーチとなった。

主な在籍選手[編集]

投手[編集]


捕手[編集]


内野手[編集]

  •   1 張盛好(チャン・ソンホ)
  •   6 文奎現(ムン・ギュヒョン)


外野手[編集]


主な退団・引退選手[編集]

崔東原(チェ・ドンウォン、在籍年度1983-1988)
ロッテ草創期のエース。球威とコントロールを併せ持った彼はアマチュア時代から『鋼鉄の豪腕』と呼ばれた。
1984年、公式戦で27勝、韓国シリーズで一人で4勝を挙げる大活躍で、チームを優勝に導く。この年、打撃三冠王の李萬洙(イ・マンス)を押し退けてシーズンMVPを受賞。韓国シリーズでの4勝は2010年まで唯一の記録である。
しかし戦力を彼に大きく依存したチーム事情のために多投を強いられ続けたこと、さらに毎年のように契約更改で球団と揉めたためシーズンオフのトレーニングに専念できなかった事情が重なった結果、やがて実力を落とすこととなる。
1988年シーズンオフ、選手会創設に向けて主導的役割を果たしたが、プロ野球興行を廃業するという球団側の脅しに屈して頓挫。半ば報復的な措置として1989年シーズン前、三星ライオンズにトレードされる。三星ライオンズ移籍後は精彩を欠き、1990年シーズン後に32歳という若さで現役を引退した。
ハンファ・イーグルスの二軍監督を経て、韓国野球委員会で個別試合の開始・中止の決定、審判団の監督などを務める試合監督役に就いていたが、癌により2011年に逝去(享年53歳)。彼の死後ロッテは現役時代の背番号11を、2012年シーズンより永久欠番に指定した。
尹學吉(ユン・ハッキル、在籍年度1986-1997)
崔東原に続いて、1980年代後半から1990年代前半に掛けて活躍したロッテのエース。打線の援護にも恵まれず、崩壊した投手陣を一人で支えた活躍は、チームの屋台骨を支え続けた(皇帝にたとえられた)崔東原の後継者という意味で「孤独の皇太子」という別名がつけられた。
韓国プロ野球の通算最多完投(100試合)および完投勝利(74完投勝利)の記録を持っているタフネスが目立った。
引退後は指導者となり、ロッテのみならず尚武、ヒーローズLGツインズの投手コーチを歴任し、2011年シーズンから1軍首席コーチとしてロッテに復帰。2012年より二軍監督となったが同年限りでロッテを退団。
朴東煕(パク・ドンヒ、在籍年度1990-1996)
高麗大学時代から時速150km/hを超える速球で鳴らし、1989年オフ地域優先ドラフトで入団。
入団当時、崔東原の後を継ぐ将来のエースとして注目された。デビュー戦で当時の韓国プロ野球最速の時速153km/hの速球を披露し、6者連続三振を奪う。しかしストレート中心の単調な投球術と制球難で伸び悩み、当初の期待には応えられなかった。
新人の年は10勝7セーブ、翌年14勝を挙げたが、内容的に物足りなく、闘争心の不足を指摘されたりした。結局2ケタ勝利を挙げたのは2年目が最後で、3年目の1992年は7勝に留まった。しかしその年の韓国シリーズでは優勝に貢献し、シリーズMVPにも選ばれた。
持ち味の速球を生かすため1993年からはリリーフに転向し、1994年まで抑えを務めたが、これも制球難がネックとなった。その後は度重なる故障で思ったような活躍はできなくなり、現役時代の終盤は崔東原と同様、三星ライオンズにトレードされた。2002年に現役引退。
引退後は野球界から離れ、個人事業を営んでいたが、2007年シーズン開幕直前、交通事故により死去。
朴正泰(パク・チョンテ、在籍年度1991-2004)
バットを片手だけで握るバッティングフォームで知られた。1990年代後半、チームのリーダーを務めた。
1993年シーズン、スライディング途中負った両足首の複合骨折という大怪我を克服。
1999年プレイオフの最終戦で後述の「大邱大乱闘」でプレーが再開された際、敵地観客の罵声が飛び交わる中でナインに向け「今日は何が何でも勝つのみ」と鼓舞激励したと言われる。そして、チームは延長戦の末、1勝3敗の劣勢を覆しプレイオフを制し、韓国シリーズ進出を果たした。
2009年11月から2年間ロッテの二軍監督を務め、2011年11月1軍打撃コーチに就任した。
田埈昊(チョン・ジュンホ、在籍年度1991-1995)
朴正泰と入団同期で1992年の優勝の主役の1人。アマチュア時代は無名だったが俊足巧打を生かして1年目からレギュラーの座を奪い取った。 文東煥(ムン・ドンファン)の社会人野球チームの現代フェニックスとの契約の解除の条件に現代ユニコーンズへ無償トレードされ、4度の韓国シリーズ優勝に貢献した。
現代解散後2008年から、現代の選手が大半移籍した新球団ヒーローズでプレーし、同年史上初の2000試合出場、史上2人目の2000本安打の記録を達成。2009年自由契約となりそのまま現役引退し、すぐにSKワイバーンズの走塁コーチに就任。2010年シーズン終了時点で、韓国プロ野球史上最多盗塁(550)、最多三塁打(100)の記録保持者。
廉鍾錫(ヨム・ジョンソク、在籍年度1992-2008)
高卒ルーキーだった1992年17勝で新人王を獲得してチームの優勝に貢献したが、以後は故障に悩まされ思うような成績をあげられなかった。100勝を目前にした2008年シーズン終了後、球団の勧告を受けて引退。2009年に日本の千葉ロッテマリーンズでコーチ研修を受け、帰国後は韓国ロッテの二軍コーチに就任。
馬海泳(マ・ヘヨン、在籍年度1995-2000、2008)
1999年に首位打者になるなど、1990年代後半にチームの主砲として活躍した。しかしFA制度導入を求める選手協会の急先鋒だったこともあり、球団と対立し2001年開幕前に三星ライオンズへトレードに出される。三星でも主砲として活躍し、2003年オフにFAで起亜タイガースに移籍。
しかし2004年以降、成績が急激に下降線をたどり始めた。05年オフにLGツインズにトレードされたが、ここでも活躍できず2007年オフに解雇された。
LGを解雇された後、現役引退の危機に直面したが、テストを経て2008年は8年ぶりに古巣へと復帰。しかし年齢による衰えもあり結果を残すことができず、1年で自由契約となった。精彩を欠いた技量は復調の気配を見せず、シーズン開幕直後に二軍落ち。この年オールスター戦に指名打者でファン投票選出され、3打点をあげる活躍を見せたのが唯一の見せ場だった。
文東煥(ムン・ドンファン、在籍年度1997-2003)
社会人の現代フェニックスを経て、1997年に入団。翌年からローテーションの一角を担ったが、以後で故障で出場機会が減少した。
鄭守根がFAで移籍してきた時、補償選手として斗山ベアーズにトレードされ、すかさずハンファ・イーグルスに再トレードされた。FA移籍に伴うトレードでFA選手の元所属チームではなく、別チームに再トレードされたのはこれが初めてである。
フェリックス・ホセ(在籍年度1999、2001、2006-2007)
1999年、2001年、2006年から2007年の計4年間在籍した外国人打者。
1999年、三星ライオンズとのプレーオフ第7戦の6回表に反撃の口火を切る本塁打を打った際、観客から物を投げつけられバットを投げ返し、後述の「大邱大乱闘」の引き金となった。その他暴言や乱闘などによる退場を何度も繰り返した。
また2002年には大リーグのモントリオール・エクスポズとの二重契約問題が発覚し、ロッテからの契約を打ち切られ、韓国野球委員会から永久除名選手の処分を受けた。
その後永久除名は解除され、何度かロッテへの復帰の話が持ち上がっては消えていたが、2006年5年ぶりに復帰した。2007年シーズンはキャンプ中の故障で出遅れ活躍できず、5月に成績不振で退団した。
盧長震(ノ・ジャンジン、在籍年度2004-2006)
剛速球を放る抑え投手であるが、私生活でトラブルが多く見られる。
三星ライオンズ在籍時、韓国シリーズ出場をかけたプレーオフ最終戦でロッテのフェリックス・ホセから反撃ののろしとなるアーチを被弾、「大邱大乱闘」(試合の流れを変えられる一打で逆転への不安を感じて暴徒化した観客とロッテの選手が乱闘を起こした事件)を引き起こした原因となる。この乱闘劇は鎮圧のために警官隊が出動し、米国のCNNでも報道された。
2004年シーズン途中にロッテへ移籍し、抑えとして活躍したがチームから無断離脱するなど、トラブルメーカーぶりは相変わらずだった。
2006年オフFAを行使したが、ロッテを含むどの球団とも契約できず、2007年以降プロ野球選手としてどの球団にも所属していない。
鄭守根(チョン・スグン、在籍年度2004-2008、2009)
斗山ベアーズ在籍時の1998年から2001年まで、4年連続盗塁王に輝く快足の外野手として活躍した。
2003年オフ、FAで6年総額40億ウォンの大型契約でロッテに移籍した。パフォーマンスが派手で斗山時代から人気選手だったが、2004年に釜山市内で一般市民相手に暴行を働き、出場停止処分や罰金を課されるなど、問題の多い選手でもあった。
2008年7月、再び釜山市内で一般市民相手に暴行を働き、警察に身柄を拘束されたため韓国プロ野球史上初の無期限失格選手となり、プロ野球選手としての資格を剥奪された。2009年6月、十分に事件を反省したとして、ロッテがKBOに無期限失格選手の処分を解除するように要請し、これが承認されロッテへの復帰が決まり、8月には一軍に昇格し試合に出場した。
ところが同年8月末、釜山市内の飲食店で酒によって暴れていると警察に通報されたが、チームがし烈な4位争いをしている最中に鄭守根が外で酒を飲んでいることを憎く思った従業員の嘘であったこともあり、前回のように身柄を拘束されず大事件には発展せず、本人もこの事件を事実無根だと主張した。
しかし度重なるトラブルにあきれ果てたロッテは、9月1日鄭守根を退団させた。9月3日にはKBOにより再び無期限失格選手の処分が下され、鄭守根は後日現役引退を発表した。
引退後の2010年6月にも、ソウルで飲酒運転による追突事故を起こしている。
孫敏漢(ソン・ミンハン、在籍年度1997-2011)
高い制球力と機敏な守備技術とを武器とし2001年には最多勝、2005年には最優秀防御率、シーズンMVPを獲得。
ロッテは慢性的に低迷する中、孤軍奮闘しチームを支えた。国際大会にも縁があり、シドニー五輪2006 ワールド・ベースボール・クラシック2009 ワールド・ベースボール・クラシックに代表選手に選出されるもいずれの大会も際立った活躍はなかった。
2009年ごろから怪我に悩まされ、2010年・2011年とも登板機会がなく生え抜きの若い選手に押される形にもなり、オフに自由契約。2013年4月、NCダイノスと契約し4年ぶりの1軍登板を果たした。
李大浩(イ・デホ、在籍年度2001-2011)
2006、2010年と二度の打撃三冠王に輝くなど、ロッテの主砲のみならず、韓国球界を代表する強打者として活躍した。
2012年より日本へ進出し、オリックスを経て2014年からはソフトバンクに所属。
金周燦(キム・ジュチャン、在籍年度2001-2012)
2001年馬海泳とのトレードで三星より移籍。俊足を生かし外野のレギュラーとなり、2012年には通算300盗塁を達成。同年オフ、FA(フリーエージェント)で起亜へ移籍。
洪性炘(ホン・ソンフン、在籍年度2009-2012)
斗山ベアーズからFA(フリーエージェント)で移籍し、2009年から2012年までクリーンアップを任され活躍した。2013年より2度目のFAで斗山へ復帰。
趙晟桓(チョ・ソンファン、在籍年度1999-2014)
詳しくは本人の項を参照。

過去に在籍した日本球界出身選手[編集]

徳山文宗(在籍1984-1988)
クラウン・西武ロッテ登録名洪文宗(ホン・ムンジョン、홍문종)。
菊村徳用(在籍1984)
ロッテ西武近鉄登録名朴徳用(バク・ドクヨン、박덕용)。徳山文宗とともに入団したが、1勝2敗、防御率5.04の成績を残して1年で解雇。
鴻野淳基(在籍1994)
元西武、巨人大洋・横浜登録名洪淳基(ホン・スンギ、홍순기)。
オジー・カンセコ(在籍2001)
近鉄バファローズMLB通算462HRのホセ・カンセコの双子の兄。韓国では一軍の公式戦に1試合も出場できないまま解雇された。
森一馬(在籍2003)
社会人野球一光出身。2002年オフ、テストを経て契約。プロの経歴のない非韓国系日本人選手として初めての選手として注目されたが、オープン戦で期待以下の投球で2003年シーズン開幕前に解雇され、韓国プロ野球公式戦での出場はなかった。
光山英和(在籍2003)
近鉄中日、巨人、ロッテ、横浜。登録名は金英和(キム・ヨンファ、김영화
ボイ・ロドリゲス(在籍2003)
横浜ベイスターズ
ロベルト・ペレス(在籍2003-2004、2007)
オリックス・ブルーウェーブ、2003年シーズン途中入団し、主軸打者として2004年まで活躍したが、2005年に負傷のため公式戦に1試合も出場せずに退団した。2007年7月に復帰したが目立った成績を残せず、同年限りで退団。
天野勇剛(在籍2006)
千葉ロッテマリーンズ登録名金勇剛(キム・ヨンガン、김용강)。韓国で二軍暮らしが続き、一軍の公式戦出場は1度もないまま、1年で解雇。
カリーム・ガルシア(在籍2008-2010)
オリックス・バファローズ。2008年の韓国1年目で打点王のタイトルを獲得し、チームの3位進出に貢献。その後も主軸として活躍したが、成績が下降してきたこともあって2010年限りで退団。球団史上初めて3年連続で在籍した外国人選手となった。
ブライアン・コーリー(在籍2011)
元千葉ロッテマリーンズ
クリス・ブーチェック(在籍2011)
元横浜ベイスターズ

脚注[編集]

  1. ^ 監督代行を含めると1990年シーズン、途中で解任された金振栄(キム・ジニョン)の代行として土居章助がシーズン終了まで指揮を執ったことがある。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]