横浜DeNAベイスターズ
| 横浜DeNAベイスターズ | |
| 会社名 | 株式会社 横浜DeNAベイスターズ |
|---|---|
| 創設年度 | 1950年 |
| 所属リーグ | |
| セントラル・リーグ | |
| 歴代チーム名 | |
| 本拠地 | |
| 横浜スタジアム(神奈川県横浜市) | |
| 収容人員 | 30,000人 |
| フランチャイズの遍歴 | |
| 永久欠番 | |
| 100:貢献著名人 | |
| 獲得タイトル | |
| 日本一(2回) | |
| 1960 | 1998 | |
| リーグ優勝(2回) | |
| 1960 | 1998 | |
| 成績(タイトル以外) | |
| 日本シリーズ出場(2回)(太字は勝利した年) | |
| 1960 | 1998 | |
| 球団組織 | |
| オーナー | 春田真(ディー・エヌ・エー取締役会長) |
| 運営母体 | ディー・エヌ・エー(DeNA) |
| 監督 | 中畑清 |
横浜DeNAベイスターズ(よこはまディー・エヌ・エーベイスターズ、Yokohama DeNA BayStars)は、日本のプロ野球球団のひとつ。セントラル・リーグ所属。神奈川県を保護地域とし、同県横浜市中区にある横浜スタジアムを専用球場(本拠地)としている。
二軍(イースタン・リーグ所属)は同県横須賀市にある横須賀スタジアムを本拠地としている他、同市内には練習場兼合宿所として横浜DeNAベイスターズ総合練習場を有する。横浜DeNAベイスターズ本拠地以外の主催試合に関しては、横浜ベイスターズ主催試合の地方球場一覧を参照。
目次 |
[編集] 球団の歴史
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 本社所在地 | 〒231-0015 神奈川県横浜市中区尾上町一丁目8番 関内新井ビル7階 |
| 設立 | 1953年12月16日 (株式会社大洋松竹球団) |
| 業種 | サービス業 |
| 事業内容 | プロ野球興行事業など |
| 代表者 | 春田真(オーナー) 池田純(代表取締役社長) |
| 資本金 | 1億円(2010年12月31日時点) |
| 売上高 | 78億2000万円(2010年12月期) |
| 営業利益 | △2000万円(2010年12月期) |
| 純利益 | 100万円(2010年12月期) |
| 純資産 | 8億3400万円(2010年12月31日時点) |
| 総資産 | 28億5900万円(2010年12月31日時点) |
| 決算期 | 12月末日 |
| 主要株主 | ディー・エヌ・エー 66.92% ニッポン放送 30.77% 東京放送ホールディングス 2.31% (2011年12月2日時点) |
| 主要子会社 | 株式会社ベイスターズサービス |
| 外部リンク | http://www.baystars.co.jp/ |
| 特記事項:1954年12月11日に商号を株式会社大洋松竹球団から株式会社大洋球団に改称。1993年4月に商号を株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズへ改称。2011年12月2日に商号を株式会社横浜ベイスターズから株式会社横浜DeNAベイスターズへ改称。 | |
林兼商店(後の大洋漁業、現・マルハニチロ水産)の実業団チームとして1929年5月に設立[1]され、翌1930年の第四回全日本都市対抗野球大会では、初挑戦ながら全国大会出場を果たした(初戦敗退)。翌年は中国大会でベスト4に入るなどの成績を残したが、世界恐慌の影響などで1932年の第六回全日本都市対抗野球大会前に休止状態となり、軟式野球部だけが太平洋戦争開始前後まで存在していた[2]。戦後、1946年6月に大洋漁業(1945年12月に改称)軟式野球部として復活、同年11月(一説には1947年3月)には硬式野球部へ変更された。その後の都市対抗野球では全国大会の常連となり、1948年には国体で優勝し一躍名をあげる[2]。
1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、大洋漁業野球部からは、戸倉勝城・河内卓司・徳網茂ら主力選手が新球団の毎日オリオンズに引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた前社長中部兼市[3]は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。
1949年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セ・リーグに加盟。山口県下関市をフランチャイズ、下関市営球場(下関球場とは別)を本拠地球場とした。当時は福岡県に西鉄クリッパーズと西日本パイレーツ、山口県に大洋ホエールズ、広島県に広島カープと、3県連続で球団が存在した(さらに大阪府には近鉄パールズと南海ホークス、兵庫県には大阪タイガースと阪急ブレーブス(阪急)があったため、岡山県を飛ばした形で球団が存在したことになる)。本来、社章と同じの「(は)=はを丸囲みしてマルハと読ませる」とすべきだが、新聞の活字にそれがないため、「まるは」と表記していたといわれている[4]。
社会人野球としての大洋漁業野球部は、まるは球団設立によって1949年11月30日をもって解散したが、社会人野球時代の選手には拘らないという中部兼市の方針でまるは球団に移籍出来なかった選手のために、大洋漁業が呼びかける形で「全下関」チームが結成され、1951年まで活動している[2]。
[編集] 下関・大阪・京都時代
1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいよう-)に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、9月には事務所を下関市から東京都千代田区に移転。読売ジャイアンツ(巨人)からベテランの中島治康と平山菊二、大陽ロビンスから藤井勇と林直明を譲り受け、宇高勲のスカウト活動により、東急フライヤーズから大沢清や長持栄吉、片山博らを、阪急からは宮崎剛や今西練太郎らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さは如何ともし難く1年目は5位に終わり、1951年は6位、1952年は4位と伸び悩んだ。
1951年、不採算から経営悪化した広島カープを吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって広島との合併の話は立ち消えになった。
1953年1月10日、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決め[5]の該当球団となった松竹ロビンス[6]と対等合併に合意し、大洋松竹ロビンス(たいようしょうちく-)、翌1954年には通称名の洋松ロビンス(ようしょう-)に改名。
1953年度は球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つのチームを運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属チームから支給された。主催試合は興行面の利点から大阪球場で行われた。1年目のシーズン終了後(12月16日)に球団運営会社が新設合併で正式統合され(当時の会社名は株式会社大洋松竹球団)、事務所も大阪球場内に置かれた。
[編集] 川崎時代
1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退し、中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県へ移転した。川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして再スタートしたが、成績は松竹との合併前よりもさらに低迷した。明大五人衆の筆頭、エース秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、巨人から獲得した青田昇が三度の本塁打王を獲得するも、チームは1954年から1959年まで6年連続最下位に沈んだ。
1960年、前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。三原は新人の近藤昭仁と、シーズン中に近鉄パールスから獲得した鈴木武で二遊間を固め、秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出して水原茂監督率いる巨人と優勝争いを演じ、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも毎日大映(大毎)オリオンズ相手に全て1点差勝利でストレート勝ちし、日本一に輝いた。
1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うもあと一歩及ばず、その後は優勝から遠ざかることとなる。メガトン打線と呼ばれる強力打線や、近藤和彦、クリート・ボイヤー、桑田武、松原誠、平松政次、ジョン・シピンといった名選手を擁したものの、チームとしての総合的な戦力が低く、1965年以降チームの勝率は1969年-1971年の3年間を除いて本拠地移転まで5割を超えなかった。
巨人の9連覇中、大洋ホエールズは強力打線で巨人の投手陣を粉砕するが、貧弱な投手陣が同様に打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時の巨人に打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋だった。それも両翼89m、中堅118mという川崎球場の狭さと無縁では無い。しかし、桑田武やジョン・シピン、松原誠など主軸打者の多くが後に巨人にトレードされていった。
1976年、川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は、横浜での新球場建設の資金を捻出するため飛鳥田一雄横浜市長の斡旋で国土計画(現プリンスホテル)の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の株式保有率は、大洋漁業55%、国土計画45%となる。
1977年、オーナーだった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎が、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎がそれぞれ継承した。 松原や米田慶三郎といった守備の名手に加え、ボイヤー、シピン、ミヤーンら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。1980代に入っても山下大輔、基満男のち高木豊に鉄壁の二遊間は受け継がれてゆく。この頃「セカンドが逆シングル捕球からショートにトス、クィックにワンバウンド送球でランナーアウト」といったプレイを実際に行っていた。
[編集] 横浜移転以降
[編集] 横浜大洋ホエールズ時代
1978年、国土計画の主導で横浜市中区[7]に建設した横浜スタジアムに移転[8][9]、都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいよう-)に改称。横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置[10]など営業体制の改革を伴った改変によりファンが増加した。この年、国土計画が福岡野球株式会社(クラウンライターライオンズ)を買収したため、野球協約に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式はニッポン放送とTBS(東京放送)へ2:1の割合で売却された。これより先2002年初めまで、球団株式保有率は大洋漁業(のちにマルハ)55%、ニッポン放送30%、TBS15%となった。
移転初年度は4位。翌1979年は2位に躍進。この年をもって別当監督は退任。翌年、大洋球団の常務取締役・球団代表に就任した。1980年、この年のドラフト会議では地元東海大学の原辰徳を1位指名したが交渉権を獲得できなかった。また、同じ年に土井淳が監督就任。しかし初年度は4位、翌1981年も低迷し結局9月24日をもって休養、6位に終わる。1982年、長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎え、長嶋の長男一茂をドラフト1位指名したがヤクルトに交渉権を奪われ、長嶋招聘は失敗した。ジュニアと呼ばれた関根浩史投手の入団について日産野球部との交渉が破談した。1982年10月18日の田尾五打席敬遠を中継したフジテレビジョン『月曜ナイター 大洋×中日』が球団主催試合歴代トップ[11][12]となる番組平均世帯視聴率36.5%を記録した。
1985年、近藤貞雄が監督に就任。スーパーカートリオを売り出し注目された。遠藤、斉藤明夫頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は振るわず近藤貞雄監督は2年で退任。
1987年には、広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎えるが、5位→4位→6位と3年間で1度もAクラス入り出来ないなど成績は振るわず、1989年にシーズン最下位の責任をとり監督を辞任した。しかしこの間、1998年の優勝時の主力選手を多数獲得するなど、スカウティングの面では成功したといえる。
1990年、須藤豊が監督に就任。この年、チームを3位とAクラスへ導くも、翌1991年は5位に転落。1992年開幕早々に辞任し、江尻亮チーフコーチが監督代行。のちに監督昇格し、閉幕まで采配を振る。江尻政権下で盛田幸妃と佐々木主浩のダブルストッパーを確立。
1992年11月11日、親会社の大洋漁業がコーポレートアイデンティティ実施によりマルハに改称することに伴い、横浜大洋ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。翌年4月に会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使った「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。
しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「ベイスターズ」となった(「捕鯨をしている会社が球団名に鯨を使っているから祟られて優勝できない」という迷信もあった)。また、ベイスターズの選手がマルハのCMには一切出演しないことが確約された[13]。翌年訪米した宮澤喜一首相が、捕鯨の規制強化を求めるビル・クリントン大統領に対して「かつての日本の商業捕鯨の中心だった大洋漁業もホエールズという球団名を捨てました」と、この大洋の球団名変更を話の種にしていたエピソードがある。
[編集] 横浜ベイスターズ時代
1993年、近藤昭仁が監督に就任。この年から始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に巨人の駒田徳広を獲得。高木豊や屋鋪要、市川和正ら主力選手が大量解雇された。駒田獲得資金捻出の影響などと言われる。1994年、獲得した駒田の他、佐伯貴弘や波留敏夫などを起用して若返りを図るが、混戦のシーズンの中最下位に終わる。1995年、4位ながらも12年ぶりのシーズン勝率5割台を果たす。フロントでの近藤監督の評価は芳しくなく、この年限りで任期満了退任となった。鈴木尚典が3番レフトに定着。
1996年、大矢明彦が監督に就任。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも5月以降失速、5位に終わる。1997年、権藤博をバッテリーチーフコーチに迎える。シーズン後半に首位のヤクルトを脅かす急追を見せたもののあと一歩及ばず、2位で終わる。大矢監督は2年契約を終えてオフに辞任。
1998年、権藤博が監督に就任。抑えの佐々木主浩を不動の中心とする投手陣と一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」が噛み合い、10月8日に38年ぶりのリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは西武ライオンズと戦い、第5戦では17対5で圧勝するなど、マシンガン打線が機能し4勝2敗で西武を下して日本一となっている。ドラフトでは地元横浜高校の松坂大輔を1位指名したが獲得できず、外れ1位で古木克明を指名している。
1999年、この年もマシンガン打線が絶好調でチームはシーズン通算打率.294(2003年のホークス.297に抜かれるまで当時の日本球界記録、現セ・リーグ記録)、ローズが153打点を記録してチーム最高打率を叩き出すものの、投手陣が三浦大輔の不調や野村弘樹・佐々木主浩の故障などで揃わず、3位に終わる。
2000年、金城龍彦が新人王と首位打者の二冠に輝くものの、優勝争いには届かず2年連続の3位。ファーム組織を湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。
2001年、森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、5年連続のAクラス(3位)となった(この年の順位に関しては後述)。
2002年、開幕から記録的な低迷を続け[14]森監督がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされる(最終勝率.363)。3年契約の2年目だったが、この年限りで事実上の解任となる。1月26日に親会社(筆頭株主)がマルハからニッポン放送に変更する予定だったが、当時ニッポン放送の関連会社だったフジテレビジョン(現・フジ・メディア・ホールディングス)がヤクルト球団株を20%強保有していたため、一転してTBS(東京放送[15])への移行がプロ野球オーナー会議で承認され、球団オーナーが当時のTBS社長砂原幸雄となった(詳細は筆頭株主交代の節を参照)。TBSがスポーツ団体の経営をするのは国際プロレス以来である。これに際し、1978年以降ニッポン放送に独占中継権を押さえられていたため喪失していたTBSラジオの中継権が復活。横浜スタジアムからのナイター中継の他、巨人戦以外の週末のデーゲームを「THEベースボール・ベイスターズ」と題して放送を開始した。同時間帯のレギュラー番組『サタデー大人天国!宮川賢のパカパカ90分!!』(現在の『パカパカ行進曲!!』)ならびに『伊集院光 日曜日の秘密基地』の好調により1シーズンで終了。 2つあった応援団が統合し、全国星覇会が発足。
2003年、大洋時代からの生え抜きである山下大輔が監督に就任。若手重視・攻撃重視の起用がことごとく空回りし、勝率も前年を下回る.324を記録。5位・広島からも22.5ゲーム以上離され(この年の1位・阪神と5位・広島のゲーム差は20)、45勝94敗1分という惨憺たる成績で、シーズン90敗到達は日本プロ野球では1970年のヤクルト以来実に33年ぶりだった。
2004年は4月終了時点で首位に立つが、その後投手陣の不振により徐々に失速し、シーズン終了目前まで5位争いを続けるが、最終戦に敗れてカープと勝率0.00092(9毛2糸)差という超僅差で45年ぶりの3年連続最下位が確定。シーズンオフに一場靖弘への金銭授受の問題からオーナーが砂原幸雄からTBS副社長の若林貴世志に交代。
2005年は牛島和彦が監督に就任。不調だった投手陣が復活、4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。エグゼクティブ・アドバイザーとして石橋貴明(とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせる等新しいファンサービスを試みた。
2006年、投手陣の先発駒不足や二段モーション禁止の影響、主力野手陣の相次ぐ不調・故障などで4・5月に低迷。6月以降は村田修一と吉村裕基ら若手野手の台頭や、牛田成樹など若手投手の起用もあったが、負け越して最下位に終わる。球団側は続投を希望したものの、牛島は最下位の責任を取り、シーズン途中の9月3日にこの年限りの退任を発表。森・山下に続き、2年で監督が交代することとなった。
4月3日、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指すNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティを設立し、活動を開始した。理事長はOBの平松政次、副理事長は畠山準が就任した。7月1日、子会社の株式会社ベイスターズソフトを吸収合併する。 12月1日、資本金を6億5,000万円から1億円へ減資する。「チーム運営統括」というゼネラルマネージャー的ポジションの幹部として日産自動車硬式野球部で監督を務めた村上忠則が就任。
シーズンオフには福岡ソフトバンクホークスの寺原隼人を多村仁とのトレードで獲得、また巨人の仁志敏久を小田嶋正邦プラス金銭のトレードで獲得する。この年チーム唯一の2桁勝利の門倉健が年俸査定に不満を持ち、FA宣言をして巨人に移籍、門倉の人的保障として工藤公康を獲得。
2007年は大矢明彦が10年ぶりに監督に復帰。移籍組やベテラン勢の活躍で、前半戦は一時首位に立つなど上位を猛追し3位で折り返す。後半戦は連敗もあり借金を作るが、最終戦前で返済。最終戦に敗れ、勝ち越しを逃して4位に終わるが、村田修一の球団日本人選手桑田武以来31年ぶりの本塁打王と球団初の2年連続100打点や三浦大輔の35イニング連続無失点、寺原隼人の2試合連続完封など主力選手の活躍が目立った。1月15日、産業能率大学と業務提携することになり、調印する。ファームの湘南シーレックスをスポーツビジネスの授業に取り入れていくことに決まった。
2008年、開幕投手最有力で阪神キラーの三浦が出遅れ、開幕カードの阪神戦を3連敗する。その後も低迷を続け、2年ぶりの最下位に終わり、貯金もなかった。この年に飛躍した内川に加えて村田、吉村の強力クリーンアップをもってしても、投手陣の崩壊により最下位に沈み、2003年以来5年ぶりの90敗も記録した。内川聖一の打率(.378)がチーム勝率(.338)を上回るという2リーグ分裂後では初となる珍記録も記録された。ヘッド兼打撃コーチの弘田澄男など4コーチを解任した。正捕手の相川亮二がFA権を行使してヤクルトに移籍した。CS放送の本拠地での中継権利をJsportsからTBS運営のTBSニュースバードに移行。
2009年はWBCでの村田の離脱や、開幕6連敗など成績面で不振が相次ぎ、5月18日に大矢監督の無期限休養を発表(事実上の解任)。二軍監督の田代富雄が翌日から監督代行を務めたが、落ち切ったチームを浮上させることができず、2年連続の最下位となった。前年同様1度も貯金はなく、田代は一軍の監督代行の職が解かれ、シーズン終了後に二軍監督に再任した。 11月11日、後任監督としてこの年まで巨人の投手コーチを務めていた尾花高夫を迎え入れ、横浜港を周遊する「マリーンルージュ」で就任記者会見を行った(船上での監督就任会見はプロ野球史上初)。ヘッドコーチには島田誠が就任。オフには、ロッテのエース清水直行を斉藤俊雄と那須野巧とのトレードで獲得、同じくFA宣言をしたロッテの橋本将を獲得、日本ハムを自由契約となったターメル・スレッジを獲得するなど大規模な補強を行っている。
2010年、前年まで4年間巨人の投手チーフコーチを務めていた尾花高夫を監督に迎えた。3月31日、対巨人戦の勝利で順位を3位タイとする。同時に広島が単独最下位となったが、横浜の「最下位からの脱出」は2008年4月5日以来284試合目(725日ぶり)となり、これまでの記録(楽天、2005年4月9日-2007年3月24日、262試合)を更新してこの日ストップした。しかし、交流戦以降は低迷し、最下位に転落。一度も浮上することもなく9月7日の対巨人戦の敗戦で5年連続のBクラスが確定し、9月25日の対中日戦の敗戦で3年連続の最下位が確定。9月28日の対ヤクルト戦で敗れてプロ野球史上初の3年連続90敗、10月6日の対阪神戦の敗戦で130試合制だった1955年以来55年ぶりのシーズン95敗を喫した。このオフにはFAで日本ハムの森本稀哲を獲得するが、内川聖一がFAでソフトバンクに移籍している。8月、2010年シーズン終了をもって、二軍の「湘南シーレックス」の名称を一軍と同じ「横浜ベイスターズ」に戻すことがプロ野球実行委員会で承認された。
9月30日、TBSHDが保有している横浜ベイスターズの株式を住生活グループとの間で売却交渉を進めている旨がメディアで報じられ[16]、10月5日になって住生活グループ幹部がTBSHDとの交渉の事実を認めた。球団も10月4日に若林オーナー(東京放送副社長)が交渉に関し“大筋で合意しており10月中に正式決定”とコメントしていた[17]が、実際の交渉は難航。結局10月下旬、TBSHDは住生活グループとの交渉を打ち切り[18]、同月27日TBSHDが2011年度も球団を保有することを発表するに至った[19]。交渉決裂の理由としてはTBSHDおよび住生活グループそれぞれが「条件面での不一致」としている[20]ものの、同月28日加地隆雄球団社長は、秋季練習中の選手らへの事情説明に際して「一番大きな問題はフランチャイズ。横浜から出て、新潟、草薙(静岡)、京都と違うところでやりたいと(住生活側は)主張し続けていた」と明らかにした[21]。又同日潮田洋一郎住生活グループ会長も「それを含めていろいろあった。(球団運営など)すべてをゼロからやりたかったが、ゼロからできなかった」と理由を述べた[22]。
2011年は当初3月25日の公式戦開幕予定が、11日に発生した東日本大震災の影響により4月12日に延期され、4年ぶりに本拠地での開幕となり、中日と対戦し3連戦を勝ち越し、2000年以来11年ぶりに開幕カードを勝ち越した。シーズン途中、中村紀洋が入団。5月以降低迷状態に陥り、10月9日に4年連続の最下位が決定している。チーム防御率は6年ぶりに3点台だったが2年連続で最下位、勝率も1957年~1961年の近鉄以来50年ぶりの4年連続で3割台と低迷した。
10月19日、TBSHDがディー・エヌ・エー(DeNA)へ譲渡することで大筋において合意[23]。10月22日、最終戦終了後に監督の尾花と一軍コーチ陣の休養が発表された[24]。11月4日、TBSHDが所有する株式の一部(TBSHDの保有する640,000 株(議決権割合 49.23%)、BS-TBSの保有する230,000 株(議決権割合 17.69%))を12月2日付で、日本プロフェッショナル野球機構の実行委員会およびオーナー会議の承認を得ることを条件として、DeNAへ譲渡することで、両社の間で正式合意(取得価格1株あたり7,471円、総額65億円)[25]。また、球団名は「横浜DeNAベイスターズ」として申請される。11月22日、監督の尾花をはじめ6人のコーチの解任が発表された。
12月1日、日本プロ野球オーナー会議並びに実行委員会にてDeNAによる横浜ベイスターズ買収とオーナー会社変更が承認された[26]。翌2日球団株式が譲渡され、商号変更により「横浜DeNAベイスターズ」として新たにスタートを切った。球団GMには巨人OBの高田繁が就任したが、一方で監督人事は難航し、横浜在籍経験もある工藤公康に正式に要請したものの合意にはいたらず、12月9日に巨人OBで日本テレビ野球解説者の中畑清が監督に就任した。
[編集] 横浜DeNAベイスターズ時代
2011年オフに村田修一がFAで巨人に移籍し、更にターメル・スレッジやブレット・ハーパーを解雇、一方で、巨人から自由契約になったアレックス・ラミレスを獲得、同じく巨人からFAで鶴岡一成、中日からFAで小池正晃がそれぞれ古巣の横浜へ移籍し、村田の人的補償で巨人から藤井秀悟を獲得した。
2月、春季キャンプ中に中畑監督や主力のラミレスがインフルエンザA型に感染。
[編集] チーム成績・記録
「横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の年度別成績一覧」を参照
(2011年終了時)
- リーグ優勝 2回
- (1960年、1998年)
- 日本一 2回
- (1960年、1998年)
- Aクラス 15回
- (1960年、1962年、1964年、1969年 - 1971年、1979年、1983年、1990年、1997年 - 2001年、2005年)※1
- Bクラス 47回
- (1950年 - 1959年、1961年、1963年、1965年 - 1968年、1972年 - 1978年、1980年 - 1982年、1984年 - 1989年、1991年 - 1996年、2002年 - 2004年、2006年 - )
- 最多勝 80勝(1964年)
- 最多敗 99敗(1955年)
- 最多引分 17分(1979年)
- 最高勝率 .585(1998年)
- 最低勝率 .238(1955年)
- 最多連勝 10 (過去5度記録、直近のは1999年)
- 最多連敗 14 (1955年、2008年)※2008年のものは1引き分け挟む。
- 最長試合時間 6時間13分(1998年8月9日対広島戦)
- 連続Aクラス入り最長記録 5年(1997年 - 2001年)
- 連続Bクラス最長記録 10年(1950年 - 1959年)
- 通算4000敗 (2007年4月4日の対広島戦で、2リーグ制発足後最速の記録)
- ※1 2001年のセ・リーグの順位は、勝率順ではなく、勝利数順のため、勝率の場合はBクラス(4位)になっていた。
[編集] その他の記録
- 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1964年)
- 最大ゲーム差 61.5ゲーム(1955年)
- 最多本塁打 194本(2004年)
- 最小本塁打 51本(1955年)
- 最高打率 .294(1999年)
- 最低打率 .208(1956年)
- 最高防御率 2.31(1971年)
- 最低防御率 4.94(1977年)
[編集] チームの特徴
[編集] 球団名
1993年から2011年までの間、12球団では唯一の正式名称に企業名を冠しない球団であった。1949年末の2リーグ分裂以降では他に広島カープ(1950年 - 1967年、現・広島東洋カープ)[27]、東京オリオンズ(1964年 - 1968年、現・千葉ロッテマリーンズ)の事例が存在する。
第二次世界大戦中に存在した大洋軍とは名前が同じだけで、繋がりは全くない。以前の愛称「ホエールズ」は親会社・大洋漁業(当時)が捕鯨を主要業務にしていたことに由来する。現在の愛称「ベイスターズ」は「横浜ベイブリッジ」と「星」とを組み合わせた造語である。日本人が発案した造語であるため、英語の母語話者には通じないらしく『ジャパンタイムズ』等の国内発行の英字新聞ではしばしば「'Stars」と略して表記される。アメリカのプロスポーツチームの本拠地ではタンパベイ(フロリダ州)やグリーンベイ(ウィスコンシン州)のように湾を意味する“ベイ”が入っている地名があるため、一部のアメリカのメディアではチーム名が「ヨコハマ・ベイスターズ」ではなく「ヨコハマベイ・スターズ」として認識されることもしばしばある。
大洋・洋松時代は略称をパ・リーグの大映スターズや後身の大毎オリオンズとの重複を避けるため「大」でなく「洋」とし、大毎が東京オリオンズとなって以降も1992年まで引き続き使用していた。2012年以降は通称が「横浜」から「DeNA」に変更されるが、略称については「D」では中日ドラゴンズのアルファベット略称と紛らわしくなるため、従来通り「横」が使用される[28]。
1993年シーズンに「ベイスターズ」へ改称した時点でアルファベットの略称が「B」で始まる球団が既にオリックス・ブルーウェーブ(略称・BW)と近鉄バファローズ(略称・Bu)の2球団存在していたため「Yokohama BayStars」の「YB」を略称としていたが、2012年シーズン以降は「Yokohama DeNA BayStars」を略した「DB」へ変更される[28]。オリックスと近鉄は2005年シーズンより合併しオリックス・バファローズ(略称・Bs)となっているため、アルファベットの略称が「B」で始まる球団の重複状態は現在も続いている。
[編集] マスコット
| 横浜DeNAベイスターズ マスコット #1993 | |
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 選手情報 | |
| ポジション | マスコット |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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[編集] 2010年開幕時点で現役活動中のマスコット
- 球団マスコットは頭が星形のキャラクターたちである。かつてはホッシーが父親、ホッシーナとホッシーゾがその子どもたちであるとの設定が述べられていることもあったが、昨今は3兄弟(ホッシーナ、ホッシーゾは双子)という設定で固められている。2010年シーズン開幕より、湘南のマスコット「レック」と同時に日本プロ野球球団のマスコットキャラクターとしては2番目に公式twitterアカウントの運用を開始した(日本初は1日早かった福岡ソフトバンクホークスのハリーホークだった)[29]。12球団で唯一、生物をモチーフにしていない。3兄弟ともユニフォームの背番号は「1993」。
- ホッシー (hosshey) - 三兄弟の長兄でリーダー的存在。ペットマークを含め球団のシンボルとして数多くの場所で採用されている。
- 優しげな口調で喋る良い子キャラ。
- ホッシーナ (hossiena) - ホッシーの妹で三兄弟の真ん中。
- 明るい口調で喋る元気な女の子。
- ホッシーゾ (hossiezo) - ホッシーの弟で三兄弟の末っ子。
- 語尾に「YO!!」(あるいは本人の名前に引っ掛けて「ZO!!」)を付けた言葉を多様するヒップホップ系キャラ。
- 2009年秋から横浜ベイスターズの献血支援運動の大使として活動しており、神奈川県内の複数の献血ルームで配られる進呈品のキャラクターにも採用された。以来、献血に対するこだわりは強いらしく度々献血について言及している。血液型は☆(星)型。
- ホッシー (hosshey) - 三兄弟の長兄でリーダー的存在。ペットマークを含め球団のシンボルとして数多くの場所で採用されている。
- 球団のマスコットではないが、横浜スタジアムと交流戦のビジター球場ではTBSのマスコットである「BooBo(ブーブ)」とTBSラジオ『エキサイトベースボール』のマスコットである「エキベ〜」が登場する。
[編集] 以前に存在したマスコット
- ブラックホッシー - 黒いユニフォームの背中に「マスコット命」、サングラスの下に充血した目という謎のキャラクター。TBSの野球番組『好プレー珍プレー』の番組内企画で生まれたジョークマスコット。中の人(スーツアクター)は以前に阪神タイガースマスコットの「トラッキー」のアクターとして派手なパフォーマンスが人気を集めており、「流星ジャンプ」に代表されるハチャメチャなアクションで絶大な人気を得た。球団としてもグッズ製作に乗り出そうとした矢先の2004年オフ、「中の人」が楽天の「非公認」マスコットMr.カラスコの「中の人」として引き抜かれたことで消えた。この時「ブラックホッシー獲られちゃったよ…」と肩を落とした横浜の峰岸球団社長だけでなく、佐伯貴弘(トラッキー時代から交流があり、解任直後の中の人に横浜入りを勧めたとも言われている)や三浦大輔、若林オーナーまでもが失意のコメントを残している。その後、横浜スタジアムで開催された2008年のオールスター第2戦、公式戦では2010年3月30日の本拠地開幕戦(対巨人)、4月18日の対阪神戦や6月12日の対オリックス戦(京セラドーム大阪)で復活を果たしている。また横浜スタジアム開門直後に流れる球場マナーについてのお願いのVTRにはマナーの悪いファンとして出演している。
- ニューホッシー - 正式名称は「2001年ニューホッシー」。文字どおり2001年シーズンに登場。視線が常に本人から見て左側を向いているが、これは球団公式イラストのホッシーとデザインを合わせたため。以前からのホッシーと比較して、顔が着ぐるみでない(同時に登場した湘南シーレックスのマスコット・レックの人形と同じ材質)うえに大きさも小さいため、体型がシャープで、既存ホッシーに比べると多少アクロバティックな動きもこなせる。2001年から2004年頃にかけて度々登場していたが、既存ホッシーほどの支持を得られなかったため、数年で姿を消すことになった。背番号2001。
[編集] 応援スタイル
「チャンステーマ」も参照
トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・応援メガホンやバットの使用・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様だが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。独特な旋律は応援歌の枠を超えて他球団ファンにも人気がある。移籍して入団する選手が口を揃えて「横浜のファンは大人しい(紳士的)」と言うなど、他球団の野次合戦とは一線を画し応援についての申し合わせを遵守している。
以下は2010年時点のもの
- 本拠地・横浜スタジアムでは試合前イベントの時間を確保する都合上、スタメン発表時に応援歌演奏(1-9)を並行して行っている(メンバー発表→応援歌演奏→メンバー発表→応援歌演奏…の繰り返し)。このスタイルは相手チームも同様に行っている。
- 得点時には「熱き星たちよ」が演奏される。ホームラン時、勝利時にはその前にファンファーレが演奏される。
- 代打登場時には1回だけ代打のテーマが演奏される。佐伯貴弘・村田修一については、代打で登場した場合でもファンファーレが優先される。
- 投手の打席では投手用のテーマが演奏されるが、三浦大輔の打席に限り固有のテーマが演奏される。過去には斎藤隆・野村弘樹・パット・マホームズ・ライアン・グリンに対しても固有のテーマが演奏された。
- 以前は選手別応援歌CDが発売されており、これらの曲が用いられていたが、次第に元選手からの使い回しが増え、球団で流れることのない応援歌の方が多くなってしまった[30]ことから2003年を最後に制作されなくなった。近年入団した選手では応援団が作成したテーマや、過去のあまり使われなかった選手のものを流用するなどしている。
- チャンステーマ演奏時や太鼓が使えない神宮球場のナイトゲームでは、応援メガホンやバットを用いず手拍子での応援が行われている。
- 7回の攻撃時には、ホームでは「熱き星たちよ」の映像が流され、ビジターでは「WINNING」が応援団により演奏される。多くの球団で行われているジェット風船は横浜スタジアムで禁止(ポイ捨て禁止条例抵触等の理由により)されているため、ビジター・地方球場でも(勝利時も含めて)飛ばすファンは少ない。
- アウトコールは9回以降にリードしている場面に限り行われ、巨人戦に限り「闘魂込めて」の一節を演奏してからアウトコールを行うときがある。
- 2007年より試合時、1-9の前に「勝利の輝き ファンファーレ」が演奏されるようになった(初期のころはビジターのみ)。
- 東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地・クリネックススタジアム宮城ではトランペットおよび笛の使用が禁止されているため、メロディー部の口喇叭を含め応援歌の歌唱をアカペラで行う。ヒットによる出塁や盗塁時に「いいぞ いいぞ ○○(人名)」を、四死球や野手選択など相手のミスによる出進塁時に「Let's Go Let's Go ○○(人名)」を通常の三三七拍子に変えてコールする。宮城球場以外でも、鳴り物応援を自粛する22時以降にはこの応援を行う。
- ヒットでの出塁の際はファンファーレ(三三七拍子)の後に、ヒットを打った選手の名前をスリーコールする。
- ターメル・スレッジには、交流戦では日本ハム時代の旧テーマと横浜時代の新テーマ(かつて在籍したデーブ・ドスターの公式応援歌)を交互に演奏する。
[編集] 私設応援団
横浜球団ではNPB特別応援許可を受けた以下の団体が応援を指揮する。
[編集] 戦績
- 1998年の日本シリーズで横浜スタジアムでの胴上げ(1960年の日本シリーズは大毎の本拠・後楽園球場)を果たしているが、リーグ優勝はいずれもビジターでの達成(1960年、1998年ともに阪神甲子園球場)である。[32]
- 現存するセ・リーグ6球団の中で唯一のシーズン勝率6割未到達球団。最高勝率は優勝した1998年の.585。
- 日本シリーズ出場は2回しかないが、その2度とも日本一を達成し勝率100%。現存の12球団のうち、出場していない楽天を除く11球団の中で唯一シリーズ敗退が無い。
- 現存するセ・リーグ5球団全てに対して通算対戦成績が負け越している。
- 現存するセ・リーグ6球団の中でAクラス入り回数が最も少ない(2010年終了時点で15回)。
- 3シーズン連続90敗を唯一記録している球団である(2008年 - 2010年)。そのほか、2シーズン連続90敗を記録している(1954年 - 1955年)。2シーズン連続90敗は過去に高橋(トンボ)ユニオンズ・近鉄パールズ(バファロー)が記録しているが、現存する12球団では唯一の記録である。
- 3年連続90敗以上はこれまで延べ5チームが喫した2年連続を上回るプロ野球ワースト新記録。また、横浜のシーズン90敗以上は通算6度目。近鉄の5度を抜いた。
- 最下位21回は、消滅したチームも含めて両リーグ最多である。
- 2011年に2008年から4年連続勝率3割台を記録しこれは1957年~1961年の近鉄以来50年ぶりの記録である。
[編集] 営業・ファンサービス
- レフト側外野指定席の一部を対戦カード別年間指定席として発売している。2007年は三塁側内野指定席の一部についても「ビジターシート」として対戦カード別年間指定席が発売された。
- 2005年から、エグゼクディブ・アドバイザーの石橋貴明(とんねるず)[33]の意向で、横浜スタジアムの可動席前(一・三塁付近)にあったネットが撤去された。選手とファンとの距離感が縮まり、試合前や勝利時には選手とのコミュニケーションが取れるようになっている。この付近の席に人気が集中したため、2006年からFA席・FB席新設という形で事実上のチケット値上げが行われた。
- 試合前や試合中に行われるイベントの種類と回数がかなり多く、攻守交代時のうち半分程度は何かイベントが行われている。
- 以下は2007年時点のもの
- スピードガンコンテスト(試合ごとに異なる募集形式で選ばれた10名がマウンドから投げる、ホーム最終戦はマスコミ記者対抗戦が行われるのが恒例。読売新聞グループ各社の記者には必ずブーイングが飛ぶ)
- スタプリタイム(オーロラビジョンを使用した写真撮影、試合前と試合中に数回ずつ)
- ベイスターズバズーカ(客席に子供向けのシャツやカラーボールを発射、試合中に3 - 4回程度)
- ハマスタダンスコンテスト(5回裏終了後。オーロラビジョンを使用したダンスコンテスト、一番多く映った人に賞品が送られる。賞品は2006年がグローブ、2007年がデサント提供の年間指定席ペア招待券)
- 帽子の投げ入れ(勝利した場合のみ)
- 第二ヒーローインタビュー(試合勝利後に正面レストラン外に設置されたテラスから、影のヒーローなどを中心にインタビューが行われる。球場の外からテラスを見上げる形になり、当日試合を見られなかった人も勝利の余韻に浸ることが出来る。ただし天候状態不良、ナイターの試合終了時間が遅い場合は、行わない場合がある。)
- 横浜スタジアムでは交流戦と相手チームのマスコットが来場している時、そして(本球場での)同一カードシーズン最終戦に限り、7回にビジターの応援歌が流れる。
[編集] 株主構成
- 株式会社ディー・エヌ・エー 87万株(66.92%)
- 株式会社ニッポン放送 40万株(30.77%)
- 株式会社東京放送ホールディングス 3万株(2.31%)
[編集] マルハからTBSへの筆頭株主交代
2001年11月16日、経営が悪化していた当時の親会社・マルハが球団株の第2位の株主だったニッポン放送への球団株譲渡(身売り)を発表し、NPBも一旦はこれを認めた。ところが10日以上も経ったところで読売ジャイアンツの渡邉恒雄オーナーが「ニッポン放送の持分法適用関連会社であるフジテレビがヤクルトスワローズの球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と異議を申し立て、これをきっかけにニッポン放送への球団株売却は頓挫。最終的に第3位株主のTBS(東京放送)に譲渡された。この際、TBSがもともとベイスターズの株主企業のひとつだったことから「筆頭株主の交代」という判断が下された。この判断により野球協約に規定されている新規加盟料30億円の支払いは不要とされた。
それまでの球団の身売りは球団名からユニホームまで一新されるケースばかりだったが、マルハ→TBSのケースは球団名もユニホームもそのまま残された。唯一変わったところは、ユニホームの袖についたTBSのロゴマークが入ったワッペンだけである。横浜ファンでもあるコラムニストの綱島理友は「ファンを悲しませない最もスマートなやり方。球団の身売りはこうあるべきだ」と高く評価している。
2005年10月、楽天がTBSの株式を大量購入して筆頭株主となった。しかし、楽天がすでに東北楽天ゴールデンイーグルスを運営していることから野球協約違反になる可能性が再浮上した。11月に楽天側は経営統合を撤回、資本・業務提携となったが、TBSが認定放送持株会社東京放送ホールディングス(TBSHD)に移行した事から楽天は買収を断念して反対株主の株式買取請求権を使い、TBSHDに保有全株式の買取請求を行ったことで問題は収束した。
[編集] マルハとTBSの球団経営に対する手腕の差
- マルハ傘下時代は、1989年以前はオーナーの道楽的存在[34]、もしくは親会社の広告塔的存在としての評価に留まり、地元・横浜でも不人気に喘ぐことが多かったが、1990年に就任した中部慶次郎オーナー(当時)のもと、積極的に球団の経営改善と地元密着に取り組み、その第1弾として1992年オフに球団名から親会社名を外して「横浜ベイスターズ」と変更。それ以降、1993年オフの主力選手大量解雇や歴代監督の交代劇等で波紋を起こすことも多かったが、その一方で石井琢朗や進藤達哉、鈴木尚典、三浦大輔に代表される生え抜きの新戦力育成と駒田徳広のFA獲得等でチームを大きく体質改善し、1998年には日本シリーズ制覇に至る。経営面でも二軍を「湘南シーレックス」として独立採算制を試みるなどの施策が行われ、一時は球団の黒字転換を実現したこともあった。
- ところが、親会社がTBS(現:東京放送ホールディングス)に代わり、マルハから出向していた大堀隆球団社長(当時)が2002年オフで退任すると途端に経営状態が悪化、2003年度には巨額の赤字を計上した。
[編集] TBS時代の放映権
「放映権 (日本プロ野球)」も参照
東京放送ホールディングスが筆頭株主(事実上のオーナーと目される)であったときにも、傘下(子会社)の放送局であるTBSテレビ・TBSラジオ&コミュニケーションズでは、対巨人戦以外の中継はめったに行われなかった。巨人戦以外は視聴率と聴取率が取れないことにも起因していた。テレビ中継は通常テレビ神奈川が単独で放送[35]し、同局で放送しないデーゲーム分のみ、自社かテレビ東京系列(対中日戦はテレビ愛知、対阪神戦はテレビ大阪)の中継で補っていた。フジテレビも放映権は保有しているが、同局では放送せず、対戦相手の地元系列局(対阪神戦は関西テレビ、対ソフトバンク戦はテレビ西日本)制作中継のために使っていた。ラジオ中継はTBSラジオが基幹局を務めるJRN系、ニッポン放送が基幹局を務めるNRN系で裏送りも含めて中継していた。主に対巨人戦が雨天中止になった時の予備カードや、対巨人戦がないときに放送された[36]。親会社でなくなった2012年以降もベイスターズの株を保有しており、テレビ(TBSニュースバード含む)もしくはラジオで放映することが決定している。
[編集] その他
- 球団関連会社からファンマガジン『月刊ベイスターズ』を発売(毎月25日)していた。やくみつるや山本哲士など辛口のコラムニスト陣が球団を容赦なく批判した(両者共に2007年より休載)ことで有名。漫画家のみずしな孝之は『月刊ホエールズ』(当時)への投稿がきっかけで漫画家デビューし、1999年の連載復帰から2010年12月号を持って休刊するまで続いていた。
[編集] ユニホーム
[編集] ユニホームの変遷
[編集] 下関時代
- 1950年 - 1951年 白は「WHALES」。グレーは「Whales」と「WHALES」を併用。白とグレーの「WHALES」は球団ロゴが左胸についたシールズ型。
- 1951年 ロゴが筆記体の「W」に変更される。同時にビジター用の定番となる「TAIYO」の印が初登場。
- 1952年 胸に「TAIYO WHALES」と書かれたビジター用が登場。この年監督に就任した小西得郎がピッツバーグ・パイレーツのビジター用(胸ロゴが「PITTSBURGH」)を参考にしたものである。このフルレターユニホームはシーズンオフに松竹ロビンスと合併したため1年しか使われなかったが、1959年に1年だけ復活している。
[編集] 洋松時代
- 1953年 松竹ロビンスと合併し大洋松竹ロビンスに名称変更。黒いロゴと赤いロゴはホーム用で春・秋用。ノースリーブで赤いロゴのユニホームは夏用だった。ビジター用は「Taiyo Shochiku Robins」の頭文字を取って筆記体で「TSR」。
- 1954年 球団本体がようやく合併し洋松ロビンスとなる。ホーム用とビジター用は同じデザイン。
[編集] 川崎時代
- 1955年 松竹が撤退し、大洋ホエールズに戻る。同時にロゴの中に線が入ったユニホームが登場。左袖に「KANAGAWA」の印が入る。
- 1955年 - 1958年 ブルックリン・ドジャースを参考にしたユニホームに変更。左袖のワッペンは最初は「KANAGAWA」だったが、1957年から親会社・大洋漁業の「まるはマーク」に変更。
- 1959年 - 1962年 クリーム地に橙色の「Whales」ロゴ。1959年のみ帽子マークは「T」と「W」を重ね合わせたものを使用し、ビジター用は「TAIYOWHALES」とチーム名を全て表記したものを使用。翌1960年から帽子マークは「T」となり、ビジター用は再び「TAIYO」表記に。この1960年から白地となり、胸番号が入る。1961年には左袖にチャンピオンマークが入る。
- 1963年 1年間だけ白地に赤の「Whales」ロゴ(黒い縁取り入り)。ビジター用の「TAIYO」のロゴが太くなり、線がオレンジ色から赤に変更される。
- 1964年 - 1972年 白地に黒の「Whales」ロゴ(赤い縁どり入り、レターが逆転)。1968年に帽子の印が筆記体の「W」となる。この「W」の書体は、当時のワシントン・セネタースの帽子と同じ。2005年にはワシントン・ナショナルズの帽子として復活した。背中に名前が入るのもこのユニホームからである。ホームゲーム用は「KAWASAKI」と本拠地の川崎市を意味する英文字が、ビジター用は選手の名前を英文字でそれぞれ使われた。最初、東京オリンピックで来日した外国人選手が、大洋のホームゲームのナイター中継を観て「このチームは全員、KAWASAKIという選手なのか?」と言ったという。その後、ホーム用は選手名のものと併用される。
- 1973年 白地でオレンジ色のロゴが1シーズンだけ復活。背番号の上の「KAWASAKI」(ビジター用のみ。ホーム用は選手名)もこれが最後。
- 1974年 - 1977年 基本色が湘南電車カラーと呼ばれたものになる(経緯については後述)。
- ホーム用は、白地でないものを採用。オレンジ色地に緑の「Whales」ロゴが入ったユニホームを使用。
- ビジター用は緑地に橙色「TAIYO」ロゴとなっている。
- パンツはホーム・ビジター両方ともベルトレス。
- 1977年後半から、袖の「丸に『は』(まるは)」マークが「鯨に乗った少年」のイラストに変更。
[編集] 横浜移転以降
[編集] ホエールズ時代
[編集] 横浜ベイスターズ時代
- 1993年 - 2009年 チーム名が横浜ベイスターズとなり、ユニホームを一新。チームカラーのマリンブルーと呼ばれる青[37]を基調とし、スパイクも青地に白線となる。ユニホームは第3ボタンまで脱着可能(後は飾りボタン)のプルオーバータイプとなる。背番号、胸番号、選手名は日本球界で初めてカッパー・プレート・ゴシックと呼ばれる製版業で使われる書体を採用。途中若干のマイナーチェンジはあったが、球団史上最長の16シーズン採用されたデザインとなった。
- ホーム用は白地に青のピンストライプ。青地に白の縁取りの「BayStars」のロゴ。胸番号、背番号は黒、選手名は青となる。
- ビジター用は上着が青、パンツが白で、袖とパンツに2本線(上着は白、パンツは青)が入る。胸ゴロは白ので「YOKOHAMA」の文字とβの印、選手名、背番号、胸番号は白。
- 2009年 - 2012年 横浜開港150周年に合わせてホーム・ビジターとも一新。胸元にyokohamaの頭文字にちなみ「Yネック」を採用。プロ野球では2001年のオリックス・ブルーウェーブ以来となる前開きでないプルオーバータイプを採用する。胸番号・背番号がゴシック体のような書体になる。アンダーシャツ、ベルト、スパイクの色が紺。帽子のマークから☆マークが消え、「β」のみになる。
- ホーム用はピンストライプがなくなり、左胸に「β」の印、右腹部に背番号。両肩に銀色の星マークが入る。「BAYSTARS」の大文字ロゴがパンツの左側線に入る。背ネームは幅狭。
- ビジター用はグレー地、白のピンストライプ、前面に筆記体の「Yokohama」の文字、左腹部に背番号。ビジターのみ帽子のツバの色が青色。背ネームはホームに比べて幅広。
[編集] 横浜DeNAベイスターズ時代
- 2012年 - 球団名が「横浜DeNAベイスターズ」となり新球団としてスタートした事に伴い、ユニホームのデザインを一新。新ユニホームのデザインコンセプトは、チームロゴ、プライマリーマークと同様に、「継承と革新」。「ワクワク感」「強さ・かっこ良さ」等、ファンが球団に期待する要素をイメージしてデザイン。帽子のマークがホームとビジターで違うなど、斬新なアイデアが盛り込まれた。
- ホーム用は「継承と革新」をコンセプトに1993年~2008年まで使われたデザインを踏襲。4季ぶりに縦じまが採用され、1998年に日本一に輝いた当時をほうふつさせるデザインとなった。白を基調にライトブルーの縦線で、上下縦じまを採用。胸には新球団のロゴを据えた。脇下の濃紺、袖口、首回りにライトブルーのライン。帽子にはチームのシンボルマークの「B」。
- ビジター用の上は濃紺がベースとした単一カラーで袖口や首回りに薄い青のラインが入り、ズボンは白。上下とも濃紺のユニホームを着用することもある。背番号と胸の「BAYSTARS」の文字は「横浜の海」をイメージし、水色のグラデーションがかかったデザインとなった。帽子にはチームの象徴でもある「星」をあしらった。
[編集] 2軍
[編集] シーレックス時代
- 2000年~2010年 - 二軍の独立採算化と一軍との差別化を目的に、2軍のチーム名を「湘南シーレックス」に改名。ユニホームも独自のものを使用。帽子は紺色を地色に「S」マーク、ツバはエメラルドグリーン。
- ホーム用:シャツは白地にエメラルドグリーンの首元から胸にかけてのラケットラインと袖口のラインが入り、胸にエメラルドグリーンで筆記体の「Searex」ロゴ、胸番号・背ネーム・背番号は黒、パンツは白地に横に青緑色のライン、アンダーシャツは青緑色。
- ビジター用:シャツはエメラルドグリーン(ラインなし)、胸に白で筆記体の「Searex」ロゴ、胸番号・背ネーム・背番号は白、パンツは白地に横にエメラルドグリーンのライン、アンダーシャツは青。
- 日本のプロ野球球団のユニフォームの多くは、背番号・背ネーム部分をユニフォームの生地に直付け(刺繍もしくはプリント)しているが、湘南のユニフォームの背ネーム部分は、アーチ状の生地にネームをプリントしたものをユニフォームの生地に縫い付けている。これはシーレックスに定着されては困るという励ましの意味で、2012年現在、日本のプロ球団に於いては唯一の例である。
[編集] 交流戦限定ユニホーム
- 2005年 - 2006年 ホーム用はピンストライプがなくなって左胸には「β」の印、右袖に背番号。左袖にTBSのロゴのワッペン。ビジター用は灰色の下地に前面に筆記体で「Yokohama」の文字、ホーム用と同じく右袖にも背番号。
- 2007年 - 2008年 ホーム用のみとなり、チームカラーの青を一切使わない紺基本のユニホーム。左胸には「β」の印、右胸に背番号が紺に金の縁取り。両脇には横浜赤レンガ倉庫をイメージした臙脂色が用いられる。楽天の交流戦ユニフォーム(ホーム用)とよく似ている。
- 2009年 - 2010年は登場せず。
[編集] 夏季限定ユニホーム
2004年から毎年夏季限定ユニホームを採用している。いずれも8月主催試合(2010年は7月中旬から8月いっぱい、2011年は7月初旬から8月いっぱいの予定)でのホーム用のみ。
- 2004年 - 2005年は白の下地の前面に「BayStars」のロゴが入り、脇下が青で当時の西武ライオンズのデザインとよく似ていた。両年とも期間終了後に選手のサインをいれてファンにプレゼントされる。背番号の氏名ローマ字は記載されていない。
- 2006年 - 2007年は白地の前面にブロック体で「BAYSTARS」の刺繍、その左上の方に背番号、左肩に「yokohama」、背中には背番号のみで首周りは青色で肩付近にかけてマリンブルーにし、帽子はマリンブルー地に「B」のみ。「ベータ・キャップ」と称される。
- 2010年は3年ぶりに夏季限定ユニホームが登場した(2011年も同デザイン)。デザインは通常ホーム用をベースに、ラグランスリーブ部はグラデーション入りの青として背番号にも金の縁取りが入る。キャップは通常ビジター用をベースに、マーク部が金文字となる。
交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更される予定である[38]。
[編集] 復刻ユニホーム
2010年8月にセントラル・リーグが開催した「オールドユニホームシリーズ」では前身球団である横浜大洋時代のホーム用ユニホームを使った[39]。この他、2006年のファン感謝デーには大洋・横浜大洋時代の復刻ユニホームを着用してアトラクションをこなしている。
[編集] ユニホームスポンサー
- いずれもホームゲーム用。太字斜線は現在掲出中のスポンサー。
[編集] 左胸
[編集] 袖部分
[編集] ズボン
- 2007年 TBS(ジ〜ンマーク入り)
- 2008年 マイナビ(毎日コミュニケーションズ)
- 2009年 - 2011年 TBS(TBSテレビ〔同年4月より旧東京放送からTBSの略称を引き継ぐ〕。ブーブとピンクリボン活動とのコラボレーション)
- 2012年 - リスト
[編集] ヘルメット
[編集] 球団旗
[編集] 下関時代
- 1950年~1953年:白地に大洋漁業のまるはマーク。
[編集] 洋松時代
- 1954年:紫地に大洋漁業のまるはマークと松竹の社章を合体。
[編集] 川崎時代
- 1955年~1963年:合併前のデザインに大洋の社名が入る。「大(は)洋」
- 1964年~1977年:漢字を「TAIYOWHALES」とアルファベットに変更。「TAIYO(は)WHALES」
- 初期にはKAWASAKIという文字が入るバージョンも存在した。「KAWA(は)SAKI」
[編集] 横浜移転以降
[編集] ホエールズ時代
- 1978年~1992年:紺色地に白で「W」。その下に「YOKOHAMA TAIYO」
[編集] ベイスターズ時代
- 1993年~2011年:中央に「YOKOHAMA BayStars」ロゴ、その下に小さく「REACH FOR THE STARS」。ホーム用は白地に青文字、ビジター用は青地に白文字。文字の後ろには☆のグラデーション。
- 「REACH FOR THE STARS」とは、直訳すると「一番を目指せ」という意味である。
[編集] DeNAベイスターズ時代
- 2012年~:上下に青・青緑色のツートンカラーのライン、白地に青の横ストライプ、青いリボンが巻き付いた星形(☆の中央に「BAYSTARS」、巻きついたリボンの上に「DeNA」、下に「YOKOHAMA」)のプライマリーマークを使用。
[編集] 2軍
[編集] 湘南シーレックス時代
- 2000~2010:白地に渦潮を模したグラデーション。中央に「SHONAN Searex」ロゴ。その下に1軍のベイスターズのものと同様に「REACH FOR THE STARS」のスローガンが入る。
[編集] 歴代本拠地
- ※本来は旧松竹ロビンスの本拠地衣笠球場と旧大洋ホエールズの本拠地下関球場のダブルフランチャイズだったが、実質的には旧松竹の準本拠地とされていた大阪球場の方が集客能力が高いということで、使用頻度が多くなった。
[編集] 歴代監督
- 1950年 : 渡辺大陸
- 1951年 : 中島治康
- 1951年 : 有馬義一
- 1952年 - 1953年 : 小西得郎 ※1
- 1954年 : 永沢武夫
- 1955年 : 藤井勇 ※2
- 1956年 - 1958年 : 迫畑正巳
- 1959年 : 森茂雄
- 1960年 - 1967年 : 三原脩
- 1968年 - 1972年 : 別当薫(第1次)※3
- 1973年 : 青田昇
- 1974年 : 宮崎剛
- 1975年 - 1976年 : 秋山登
- 1977年 - 1979年 : 別当薫(第2次)※4
- 1980年 - 1981年 : 土井淳 ※5
- 1982年 - 1984年 : 関根潤三
- 1985年 - 1986年 : 近藤貞雄
- 1987年 - 1989年 : 古葉竹識
- 1990年 - 1992年 : 須藤豊
- 1992年 : 江尻亮
- 1993年 - 1995年 : 近藤昭仁 ※6
- 1996年 - 1997年 : 大矢明彦(第1次)
- 1998年 - 2000年 : 権藤博
- 2001年 - 2002年 : 森祇晶 ※7
- 2003年 - 2004年 : 山下大輔
- 2005年 - 2006年 : 牛島和彦
- 2007年 - 2009年 : 大矢明彦(第2次)※8
- 2010年 - 2011年 : 尾花高夫
- 2012年 - : 中畑清※9
※太字は優勝達成監督
- ※1 1953年から松竹ロビンスと合併し大洋松竹ロビンス
- ※2 ここから大洋ホエールズ(第2次)
- ※3 1972年は8月30日まで指揮、残り試合は青田昇と宮崎剛が代行
- ※4 ここから横浜大洋ホエールズ
- ※5 1981年は9月24日まで指揮、残り試合は山根俊英が代行
- ※6 ここから横浜ベイスターズ
- ※7 2002年は9月25日まで指揮、残り試合は黒江透修が代行
- ※8 2009年は5月17日まで指揮、残り試合は田代富雄が代行
- ※9 ここから横浜DeNAベイスターズ
[編集] 歴代オーナー
- 中部謙市(1950年 - 1953年)
- 中部謙吉(1953年 - 1977年)
- 中部新次郎(1977年 - 1990年)
- 中部慶次郎(1990年 - 2001年)
- 砂原幸雄(2001年 - 2004年)
- 若林貴世志(2004年 - 2011年)
- 春田真(2012年 - )
[編集] 永久欠番
球団の永久欠番は次の通り。
- 100-球団に対して貢献のある著名人(複数)
[編集] 顕彰
横浜ベイスターズでは、通算2000本安打、通算200勝、250セーブを記録した選手に対し、球団より貢献者として顕彰される。各人物は、横浜スタジアムの外野フェンス右翼部分にレリーフを飾り顕彰している。現在の対象者は以下の通り。
[編集] 球団歌・応援歌
- 湘南シーレックス
- 若き王者たち(公式ソング)
- Searex Horizon(公式テーマ)
[編集] 過去に使用された球団歌・応援歌
- 大洋・横浜大洋時代
- 行くぞ大洋(球団歌)(歌:三鷹淳とチャッピーズ)
- 勝利花(応援歌)(歌:三鷹淳とチャッピーズ)
- 横浜時代
- 横浜Boy Style(イメージソング)(歌:CoCo)
- WINNING(応援歌)(歌:CoCo)
- BayStarsを観にいこうよ(イメージソング)(詞・曲・歌:ダ・カーポ)
- BE A HERO(公式ソング)(歌:クレイジーケンバンドfeat.小野瀬雅生)※2006年まで
[編集] 主なキャンプ地
- 山口県・下関球場:1950、1952
- 兵庫県・神戸銀行グラウンド:1951
- 兵庫県・明石球場:1953、1960 - 1961
- 長崎県・大橋球場:1954
- 鹿児島県・鴨池球場:1955、1957 - 1958
- 千葉県・銚子球場:1956、1962
- 岡山県・岡山球場:1956
- 静岡県・三保東海大グラウンド:1959 - 1961
- 愛媛県・松山球場:1959
- 静岡県・島田球場:1972 - 1973
- 静岡市・草薙球場:1963 - 1971、1974 - 1979、1981 - 1986の一軍キャンプ、(1981・1987 - 1989の二軍キャンプ)、他
- アリゾナ州メサ市・ホホカム球場[41]:1980 - 1981の1軍キャンプ
- 宜野湾市・宜野湾市立野球場:1987 -
- 神奈川県・横浜ベイスターズ総合練習場:1990 -
- 沖縄県・嘉手納町野球場:湘南シーレックス
- 鹿児島県・名瀬運動公園野球場:2010秋季、2011秋季(プロ野球初の奄美大島でのキャンプとなる)
[編集] 主なエピソード
[編集] セ・リーグ最長イニング記録
1952年9月7日の対松竹ロビンス戦(京都市西京極総合運動公園野球場)は、当時のセ・リーグ最長イニング記録である延長20回を戦い抜いたが、チームはサヨナラ負けを喫した。
[編集] 38年の空白
横浜のリーグ優勝は2回。大洋時代の1960年に初優勝を果たしたものの、2度目の優勝はベイスターズと名前を変えてからの1998年。この間、実に38年間ものブランクを要したが、初のリーグ優勝を果たした後の1962年と1964年は終盤まで阪神タイガースと熾烈な優勝争いを繰り広げている。
特に1964年は、残り2試合で1勝すれば4年ぶりの優勝を果たすところまで粘り、阪神甲子園球場での直接対決を迎えた。ところが、試合当日は小雨だったものの、阪神側の意向で試合は中止になった(試合開始前の開催か中止かの判断は主催チームが行う)。その後、阪神は破竹の9連勝を遂げ、8試合目の対中日ドラゴンズ戦で逆転優勝を果たした。当時、大洋の正捕手として活躍していた「明大五人衆」の一人、土井淳は後に「この2年間のどちらかに優勝していたら、38年も(優勝から)遠ざかることは無かったと思う」と語っている。
[編集] 荒川事件
1969年のドラフト会議で、早稲田大学の荒川尭に対する大洋の強行指名が発端となって起きた、ドラフト史上最大とされる事件(荒川事件)。
荒川は当初、大洋への入団を拒否、その後の経過では熱狂的な大洋ファンと目される者による荒川への傷害事件まで発生するが、後に荒川は形式的に大洋へ入団し、ヤクルトアトムズに移籍してプロ野球選手として活動するも、傷害事件の後遺症とされる視力障害により早々に選手生命を絶たれた。
この事件が原因となって、「横浜ベイスターズ」となってからも、2008年に松本啓二朗・細山田武史を指名するまでは早稲田大学在籍の選手をドラフト指名する事はなかった。
[編集] 湘南電車カラーのユニホーム
1974年 - 1977年のシーズンに使われたユニホームのこと。ホーム用は橙色、帽子とビジター用は緑色を使っていたため、湘南電車を髣髴とさせる配色から「湘南電車カラー(湘南カラー)」といわれた。
このユニホームが採用される契機になったのは山下大輔の入団である。当時の大洋は静岡県草薙総合運動場硬式野球場でキャンプを行うなど、静岡県とのつながりがあった。そこに静岡出身の山下がドラフト1位で入団したため、ヘッドコーチの秋山登が「(静岡名産の)ミカンとお茶を題材にしたユニホームは出来ないものか」とオーナーの中部謙吉に提案したところ、中部も「食品会社としてイメージアップにつながる」と了承。その結果、橙色と緑を使ったユニホームが完成した。具体的なデザインは、オークランド・アスレチックスの当時のユニホームを参考にしている。
[編集] 田尾五打席敬遠
1982年、長崎慶一は首位打者争いでトップを走っていたが、中日ドラゴンズの田尾安志は長崎に6厘差で迫っていた。中日にとってはシーズン最終戦となる試合で、大洋は田尾に対して5打席連続敬遠を行った。この大洋の行為に対し、田尾は5打席目で敬遠球に対し抗議の意味を込めた空振りを行ったほどだった。一方の長崎はこの試合を含め欠場し、最終的に長崎は首位打者となった。
敬遠行為そのものは、この他にも特定の打者への全打席敬遠の例が多数存在し、ルール上認められる行為でもある。ところが、この試合は長崎と田尾の首位打者争いよりもはるかに重要な意味がある試合だったため、この5打席連続敬遠が大きな災いを招く事となる。
試合前の時点で中日は全日程を終えた読売ジャイアンツとゲーム差0で並んでいたため、中日が勝てば中日の優勝、大洋が勝てば巨人の優勝と、リーグ優勝が掛かった大一番だった。しかし大洋は田尾に5打席連続敬遠を行い、走者となった田尾をあっさり生還させてしまうなど大差で敗れ、中日の優勝が決まった。
大洋の勝利よりも個人記録を優先した行為に対し、納得できない多数のファンが試合後に「イニングの先頭打者である田尾へ敬遠した大洋の行為は敗退行為[42]ではないか」と連盟に抗議が集中する事態となった。
「田尾の敬遠だけでは故意に失点させたとはいえず、敗退行為には当たらない」「過去の全打席敬遠の試合との整合性を考慮すると、特定の試合だけを敗退行為として認めるわけにはいかない」などと反論されて抗議は退けられたが、一段落した後も、世論は大洋の行為に「アンチ巨人だが、さすがにあれは巨人ファンに同情した」「中日ファンとして素直に喜べない優勝だ」などといった疑問を投げかけ、宇佐美徹也は自身の著書「プロ野球データブック」で大洋の行為を糾弾した。
当時監督だった関根潤三は、その後フジテレビの野球解説者として解説者となった田尾と再会し、「当時の大洋では個人成績だけがニュースになる状態だった」と敬遠へ至った経緯を説明し、「時々、あの敬遠の場面を夢に見て目を覚ますことがある」とも打ち明けた。これ以降、関根と田尾との関係が修復された。
[編集] 1995年のオールスターファン投票
1995年のオールスターゲームは横浜スタジアムで開催されることとなった。これに当時の球団社長らは、ゲームを盛り上げるためにファンに対してファン投票への参加を呼びかけた。
ところが、これが大量の「組織票」を発生させる結果となってしまい、本拠地開催となった横浜からは佐々木主浩と駒田徳広、ロバート・ローズ、佐伯貴弘、グレン・ブラッグス、畠山準の6人が選ばれたため、批判の的となった(他の3名は古田敦也と江藤智、野村謙二郎)。特に佐伯と畠山に至ってはノミネートこそされていたものの、選出時点ではスタメンを波留敏夫や鈴木尚典に譲ることが多くレギュラーとは言えなかったため、当人たちも困惑気味だった。
試合では、普段は抑えの佐々木が先発し、誰にも踏み荒らされていないマウンドで投球する珍しい光景が見られた。
[編集] プロ野球脱税事件と緊急補強
1997年にプロ野球選手による脱税(プロ野球脱税事件)が発覚し、横浜からは波留敏夫と万永貴司、川崎義文、米正秀が関わっている事が判明した。特にリードオフマンで特攻隊長的役割を担っていた波留の離脱は優勝争いを行う上でも大きな痛手となるため、外野手の補強が急務となった。
そこで、先発転向後2年間結果が出なかった盛田幸希とのトレードで、大阪近鉄バファローズから中根仁を獲得した。開幕当初こそ井上純やホセ・マラベなどがスタメンに名を連ねていたが、中根は「左殺し」として左投手先発時のスタメンや、左投手への代打の切り札として1998年の優勝に貢献した。波留も6週間の出場停止が解けると、二軍での調整も一切禁じられていた球団の方針だったにも関わらず、権藤博によってぶっつけ本番でスタメンに復帰する。
復帰当初こそ無調整の状態から結果を残せなかったが徐々に調子を取り戻し、7月の月間MVPに輝くなど奮起した。ヒーローインタビューでは「今日のヒーローは波留選手です」というインタビュアーの声と同時に「ヤッター」と自らを鼓舞し、感涙と戒めの男泣きを憚り無くお立ち台で見せた。
[編集] 2001年と2005年の順位
2001年のみセ・リーグの順位決定方法が通常と異なっていた。勝率の順位と勝利数の順位が異なる場合は、勝利数を優先して順位を決定し、勝率1位のチームと勝ち数1位のチームが異なる場合はその両チームによるプレーオフでリーグ優勝チームを決めることにした。
その2001年、横浜は69勝67敗4分けで、広島は68勝65敗7分けでシーズンを終えた。勝率は横浜.507、広島.511。前年までの順位決定方式なら広島が上位になるところだが、上述の通りこの年は「勝利数順」で決めていたため、勝ち数で上回っている横浜が3位に入り、5年連続でAクラス入りした。
この順位決定方式は、シーズン途中では試合を早く消化したチームが上位になりやすいという結果となり、実態が分かりづらいなどの理由からわずか1年で「勝率順」に戻した[43]。
2005年は順位決定方法が勝率順に戻っていたため、69勝(70敗7分け、勝率.496)の横浜が3位、71勝(73敗2分け、勝率.493)のヤクルトが4位となった。
[編集] 幻に終わった「21世紀初」のダブルヘッダー
2007年9月30日の横浜対東京ヤクルトスワローズ戦(横浜スタジアム)は、NPB公式戦(一軍)では実に9年ぶりとなるダブルヘッダーとして開催されることになった。
このうち1試合分は、同カード[44]が悪天候により中止となった場合を想定して、シーズン前の日程編成の段階において試合日時と開催球場を未定としていた開催分で、実際に横浜スタジアムで雨天中止となった同カード1試合と組み合わせる形でダブルヘッダーとして編成された。
だが、当日はあいにくの雨天でダブルヘッダーは2試合とも中止となり、10月8日・10月9日の2連戦として組み直された。この2連戦も、仮に8日が悪天候の場合は9日をダブルヘッダーとして開催する予定だったが、両日とも予定通り開催された。蛇足だが、8日はマーク・クルーンの横浜在籍最後の登板試合で、9日は古田敦也の現役最後の試合だった。
NPB公式戦でダブルヘッダーが最後に開催されたのは1998年のこと。パ・リーグは10月9日の西武ライオンズ対オリックス・ブルーウェーブ戦(西武ドーム)、セ・リーグはその翌日の横浜対中日ドラゴンズ戦(横浜スタジアム)である。その後ダブルヘッダーはセ・パどちらでも開催されておらず、21世紀になってからは一度も無い。
[編集] 九州で交流戦
2008年5月28日・5月29日の横浜主催セ・パ交流戦・対福岡ソフトバンクホークス2連戦は、九州地方2県で開催された。
試合が行われたのは、初日の28日が大分県大分市の新大分球場、翌29日が福岡県北九州市の北九州市民球場だった。後者の福岡県はソフトバンクの保護地域であり、北九州では1989年の球団移転以来、年間数試合主催公式戦を開催しているが、セ・パ交流戦が相手球団の保護地域で開催されたのはこれが初だった[45]。
北九州でのダグアウトの割り振りは、通常のソフトバンク主催試合同様に横浜が三塁側、ソフトバンクが一塁側を使った。また、横浜は同年シーズンまで交流戦で「交流戦専用ユニホーム」を着ていたが、この2連戦では通常のユニホームを着た。一方、ソフトバンクが北九州でビジター用ユニホームを着たのはこの試合が初だった[46]。
観客の大半はホークスファンだったが、首位打者争いをしていた内川聖一にとっては地元大分への凱旋試合となった。
但し、北九州市はベイスターズの前身・大洋ホエールズの発祥地である山口県下関市に隣接しており、関門都市圏は古くからベイスターズファンが多い土地柄という背景もある(下関球場も参照)。また、近年横浜は北九州市民球場で主催の春季オープン戦を年間1試合前後開催している。
2012年5月30日・5月31日の横浜主催のセ・パ交流戦・対福岡ソフトバンクホークス2連戦も、九州地方2県で開催予定。試合が行われるのは、30日が長崎県長崎市の長崎ビッグNスタジアム、翌31日が福岡県北九州市の北九州市民球場[47]。
[編集] 新潟県・市による誘致構想
2009年9月から、新潟県と新潟市がNPB球団の本拠地、もしくは年間10試合以上の主催ゲームを開催する「準本拠地」の誘致活動を水面下で開始した。同年開場した新潟県立野球場(HARD OFF ECOスタジアム新潟)が、NPB関係者から設備面で高い評価を受けたことが背景にある。2010年1月には「原則として球団を特定せずにNPB12球団を対象とし、拠点の一つとして年間数試合を開催する『準フランチャイズ』としての球団招致」という方向性が決まり、3月24日に県・市・県内財界関係者などから成る「プロ野球新潟招致委員会」が発足。当面は公式戦の開催数増加を目指し、その上で準本拠地を招致し、最終的には本拠地招致を目標として段階的に誘致活動を実施することになり、今後NPBとセ・パ12球団に対し働きかけを進めることになった。なお、これまでの一部報道では、ある関係者がセ球団の誘致候補として横浜の名を挙げていたが[48]、前述の通り現段階の方針はNPB全球団に対する活動が中心であり、県・市側からも横浜球団など各球団個別に対する公式な意思表示は行っていない(2010年9月現在)。
しかし前述の住生活グループへの球団売却問題が明らかになった際、一部報道で新潟を準本拠地、もしくは完全移転する構想が報じられた。住生活グループ側は広域アクセスの問題などから新潟への移転には否定的な見解を示しながらも、将来的な移転の可能性は否定せず、横浜での本拠地継続を求めるTBS側とその他も含めた条件面で折り合いが付かなくなり、結局10月27日までに売却交渉は決裂した。なお横浜側は2011年シーズン、新潟ではこれまでと同様に主催公式戦を開催する意向を表明しており、同年は対阪神戦1試合が開催され、2012年も対巨人戦1試合の開催が予定されている[49]。
[編集] 沖縄で公式戦
横浜は2010年6月29日・6月30日の2日間、同年全面改築が竣工した沖縄セルラースタジアム那覇で対東京ヤクルトスワローズ2連戦を主催開催した。横浜は大洋ホエールズ時代の1975年5月17日・5月18日に改築前の県営奥武山野球場(当時)で対広島東洋カープ2連戦を主催開催したが、沖縄県ではこの試合以来、実に35年ぶりのプロ野球公式戦となった。また、この2試合は沖縄県でのプロ野球一軍公式戦[50]としては史上初のナイター(19時開始[51])となった。
翌2011年は、7月5日・7月6日に対広島東洋カープ2連戦を沖縄セルラースタジアム那覇で開催。
2012年は、6月26日・6月27日に対東京ヤクルトスワローズ2連戦が沖縄セルラースタジアム那覇で開催される予定。
[編集] キーワード
[編集] 明大五人衆
1956年に明治大学から秋山登、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5名も入団するのは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。
[編集] スーパーカートリオ
高木豊、加藤博一、屋鋪要の俊足打者3名を指す。近藤貞雄監督時代の1985年に彼ら3人を打順の1 - 3番に並べ、「スーパーカートリオ」と命名された。この年の3人の盗塁数は、高木42盗塁、加藤48盗塁、屋鋪58盗塁、合計148盗塁だった(高木は前年盗塁王、屋鋪は翌年から3年連続盗塁王)。後に加藤の代わりに高橋雅裕を加えたニュースーパーカートリオが結成された。
2006年7月16日の対広島戦のイベントとして復活し、打者・田代富雄、広島の川口和久と達川光男のバッテリーと1人1回限りの盗塁対決を行った。結果は高木が二盗死、加藤が牽制死、屋鋪が二盗成功となった。
[編集] マシンガン打線
詳細は「マシンガン打線」を参照
ベイスターズ打線の代名詞。長打力はないものの、連打でたたみかける途切れのない打線を形容して命名され、1998年の優勝時にベイスターズ打線の愛称として定着した。基本的なオーダーは、石井琢朗 - 波留敏夫 - 鈴木尚典 - ロバート・ローズ - 駒田徳広 - 佐伯貴弘(中根仁) - 進藤達哉 - 谷繁元信 - 投手の順である。
[編集] 横浜ドーム
「横浜スタジアム#横浜ドーム構想」を参照
[編集] クアトロK
詳細は「クアトロK」を参照
横浜の4人の救援陣(木塚敦志、加藤武治、川村丈夫、マーク・クルーン)を指す。4人の頭文字の「K」とイタリア語で4を意味する「クア(ワ)トロ」から。
[編集] 脚注
- ^ 『東京日日新聞』1930年7月28日付。
- ^ a b c 佐竹敏之『大洋ホエールズ誕生前! 林兼商店野球部から大洋漁業野球部まで』文芸社、2009年 ISBN 978-4-286-07213-5
- ^ 中部兼市は1947年8月-1950年11月まで次男の謙吉副社長とともに公職追放され、長男の謙吉が社長を務めていたが、実質は兼市が経営を掌握しており、プロ球団化も彼の意向によるものであった。
- ^ 交通新聞社新書『国鉄スワローズ1950-1964』より
- ^ 具体的に「解散」などの処罰内容を決めていたわけではなかったが、下位球団を整理する意図は背景に存在した。
- ^ 球団史では傍系扱いとなり、
大東京軍(社名:大日本野球連盟・東京協会、経営:國民新聞社・1936年-1937年)
→ライオン軍(経営:共同印刷→田村駒商店、スポンサー:ライオン歯磨本舗・1937年-1940年)
→朝日軍(社名:朝日野球倶楽部・1941年-1945年)
→パシフィック(1946年)
→太陽ロビンス(スポンサー:太陽レーヨン・1947年)
→大陽ロビンス(1948年-1949年)
→松竹ロビンス(スポンサー:松竹・1950年-1952年)
の球団史や結成年度・優勝回数・その他記録は一切カウントされない。このため、ベイスターズは初代セントラル・リーグ優勝チームの後身でありながら「初代セ・リーグ覇者」と名乗ることができなくなっている。 - ^ 須田泰明『スポーツの今日を刻む〜スポーツジャーナリスト21人からのメッセージ〜』
(杉山茂・岡崎満義+スポーツデザイン研究所編 創文企画 2002年 ISBN 4-921164-11-8)
に横浜市への球場使用料は1試合2,000万円とある。
また、同著に元・球団社長の大堀隆が語ったとして
「98年にベイスターズがセ・リーグで優勝し、日本シリーズも制したとき、同時期にかながわ・ゆめ国体も開かれていたんです。どちらが地域=横浜市の活性化に力があったか。私はベイスターズだと思う。地下街に佐々木の大魔神神社できたくらいですから。国体には何年にもわたって何千何百億円ものお金が使われたはずです。それにくらべて、せめてベイスターズには横浜球場の使用料を安くしてもらいたいと希望するのですが、それができない。市に言わせると、もし安くしたら必ず市民から、たかが一私企業のための利益をはかり、結局は税金を使うことになるようなことは許せない、と抗議の電話が殺到するだろう、というのです」
とある。 - ^ 横浜スタジアム建設の際、一口250万円の市民株主800口によるオーナーズ・クラブに内野席シーズン・シートを45年間与えたため、2023年まで(株)横浜スタジアムが運営(指定管理者)する球場を専用球場とすることが規定されている。このオーナーズ・クラブは球団総務部内のオーナーズ・クラブ事務局が管理している。
出典:「座談会 横浜公園とスタジアム〜開港から現在まで〜」有隣堂『有鄰』第398号平成13年1月1日 - ^ このほかに第3セクターである(株)横浜スタジアムとの間に契約を交わし、20年契約で入場料収入の29%、シーズン席の収入の30%と販売経費を球団から球場へ払い、球場内広告に対して5,000万円、物販協力金として350万円を球場から球団へ支払うというものだった。1978年(初年度)の横浜スタジアムは広告収入5億3,300万円、物販収入9億2,000万円。1993年は、球場収入13億9,200万円、広告収入13億9,300万円、物販収入15億6,500万円で、経常利益は13億9,600億円、資産は現金・預金・有価証券で64億3,800万円であった。この契約は現在も延長されていると思われる。
- ^ 横浜大洋友の会(現・横浜ベイスターズ友の会)。球団営業部主導の横浜ベイスターズ全国ファンクラブとは別組織。
- ^ ビデオリサーチ調べ
- ^ 1977年9月26日以降
- ^ ホエールズ・ベイスターズ選手のCM出演は、1991年に、中山裕章と高橋雅裕が大洋漁業の『パッ缶』のCMに出演した。2000年には金城龍彦が松坂慶子とともに『東京電話』(東京通信ネットワーク(TTnet):フュージョン・コミュニケーションズとKDDIの前身)のCMに出演している。
- ^ この年は全日程最下位でシーズンを終えた。セ・リーグ全日程最下位は65年サンケイ、80年中日、85年ヤクルト、91年阪神に次いで5度目。横浜は12球団で唯一サヨナラ勝ちがなく、サヨナラ試合は0勝6敗。セ・リーグでサヨナラ勝ちなしは78年広島以来24年ぶり。
- ^ TBSの略称は、2009年4月の東京放送ホールディングスへの社名変更に伴い、子会社のTBSテレビに引き継がれた。
- ^ 横浜ベイスターズ売却を打診 TBS、住生活G軸に朝日新聞2010年10月1日
- ^ ベイ売却、来週にも「横浜残留」で住生活グループと合意へ 神奈川新聞2010年10月5日
- ^ TBSの会見にて財津敬三社長は、交渉打ち切りについて「私どもが決断した。あちらも言いたいことがあるだろうけど」と説明 カナロコ(神奈川新聞) 2010年10月28日閲覧。
- ^ “TBS、横浜ベイスターズを来季も保有” (日本語). 読売新聞. (2010年10月27日) 2010年10月27日閲覧。
- ^ 横浜ベイスターズ:TBS、住生活ともに交渉の破談認める 毎日.jp 2010年10月27日
- ^ 横浜売却、本拠地移転が決裂要因 球団社長が公表 共同通信 2010年10月28日
- ^ 住生活G会長「ゼロから出発したかった」 読売新聞 2010年10月28日
- ^ “DeNAが横浜球団買収へ TBSと大筋で合意”. 共同通信 (2011年10月19日). 2011年10月24日閲覧。
- ^ “横浜、尾花監督が休養 球団売却で人事不透明に”. 共同通信 (2011年10月22日). 2011年10月24日閲覧。
- ^ “(株)横浜ベイスターズ(連結子会社)株式の譲渡に関するお知らせ (PDF)” (2011年11月4日). 2011年11月4日閲覧。
- ^ “横浜DeNA誕生 組閣、補強、村田のFA流出阻止が急務”. スポーツニッポン (2011年12月1日). 2011年12月1日閲覧。
- ^ 「広島東洋カープ」の「東洋」は球団の筆頭株主であるマツダの旧社名・東洋工業に由来する。
- ^ a b “横浜DeNA参入、誓約書で“念押し””. デイリースポーツ. (2011年12月6日) 2011年12月6日閲覧。
- ^ 横浜ベイスターズ - ニュース - セ・リーグ初!マスコットキャラクターが『ツイッター』に登録☆
- ^ 公式曲のメロディは球場での演奏に適さないものが多く、応援団側がこれらの使用を拒んだことも要因にある。
- ^ 湘南シーレックスを専門に応援する団体である。
- ^ 横浜ベイスターズ記録サイトあと何?大洋ホエールズ60年全試合http://www.kernelsupport.co.jp/atonan/nenndobetuseiseki/zen60nen.htm
- ^ 牛島和彦監督(当時)がテレビ番組で頼み込んでの就任
- ^ とくに1960~70年代の中部謙吉オーナー時代に代表される。
- ^ 2000年代後半頃、番組名がtvkプロ野球中継 熱烈ベイスターズLIVE!!であっても、TBSテレビでの地上波中継の無い主催試合の場合、tvk制作の中継ではなく、BS-TBS・TBSニュースバードのBANG BANG BASEBALLを購入して同時放送を行う傾向にあった。
- ^ 他にフジ・メディア・ホールディングスの主要株主であり、ニッポン放送とともにNRN基幹局を務めるラジオ局でもある文化放送の文化放送ライオンズナイター、文化放送ホームランナイター、同社が技術協力するNACK5 SATURDAY&SUNDAY LIONS(NACK5)、RFラジオ日本のラジオ日本ジャイアンツナイターで主催試合を中継する場合があった。
- ^ ブルーアズール=藍青色
- ^ 2008年は夏季オリンピック北京大会開催のため8月主催試合が8カード21試合中13試合と少ないため、夏季限定ユニホームの着用はない。また2009年は登場せず。
- ^ 【プロ野球】セ・リーグ6球団が復刻版ユニフォームで対戦 産経新聞 2010年7月25日
- ^ 2010年の「オールドユニホームシリーズ」では広告を右袖に掲示
- ^ en:HoHoKam Park
- ^ 日本プロフェッショナル野球協約第177条参照のこと。
- ^ ただし、勝率1位チームと勝ち数1位チームとのプレーオフは、実例はないものの2006年まで継続していた。
- ^ 同年の対ヤクルト戦は横浜スタジアムの他に地方開催も編成されており、8月14日・8月15日には「山口シリーズ」(14日=山口市スポーツの森西京スタジアム、15日=下関球場)2連戦が組まれていた。なお、この山口シリーズは2試合とも予定通り開催されている。
- ^ ちなみに横浜が北九州で公式戦が行われたのは1993年9月4日の対広島戦以来約15年ぶり。ソフトバンクの本拠地でもある福岡Yahoo!JAPANドームでも2004年4月17日に対中日ドラゴンズ戦が主催公式戦を開催している。
- ^ 但し前身のダイエー時代には春季オープン戦で、ビジターで対巨人戦と対広島戦を行っている。
- ^ 2012年度 セ・パ交流戦 試合日程 - 日本野球機構オフィシャルサイト 2011年11月21日
- ^ 2010年1月21日付・朝日新聞新潟版の紙面においては、関係者の話として招致候補に東京ヤクルトスワローズと福岡ソフトバンクホークスの2球団が挙がったのみで、横浜は挙がらなかった。しかし、2010年10月2日にハードオフ新潟で開催されたファーム日本選手権の開会式に出席した新潟市長の篠田昭は、横浜の住生活グループへの球団売却問題が浮上し、ハードオフ新潟が準本拠地の候補として報じられたことを受け、取材に対し「(招致の相手先は)横浜かヤクルトを想定していた」と発言している。
- ^ 横浜はハードオフ新潟の建設事業にあたって、新潟県側に設計面でのアドバイスを与えるなど建設段階で関与した縁があることなどから、開場年の2009年と翌2010年は主催公式戦を2試合開催した。また、2010年にはマツダオールスターゲーム第2戦が開催され、横浜を中心にセ各球団から運営要員が派遣された。
- ^ これに先駆けて4月に巨人対阪神の二軍公式戦が18時から同じ沖縄セルラースタジアムでナイターで行われている
- ^ 19時開始は1970年代前半まで頻繁にあった。ただ、オイルショック以後は省エネ対策のため遅くとも18時半までの開始となったが、後楽園球場→東京ドームを読売ジャイアンツと日本ハムファイターズが併用した時代に、両チームが前年度Aクラスで翌年度開幕戦主管権を得た場合、変則ダブルヘッダーでどちらかが19時開始のナイターで試合をしていたことはあった
[編集] 関連項目
[編集] 人物(架空人物含む)
- 横浜DeNAベイスターズの選手一覧
- Template:横浜ベイスターズ及びその前身球団ドラフト指名選手
- 横浜55年会
- 大堀隆
- 池杉昭次郎(かつての名物応援団長)
- 石橋貴明(2005年 - 2006年ごろまで球団エグゼクティブ・アドバイザーを務めた)
- みのもんた(2007年、TBS内でのベイスターズ応援団長)
- 萩本欽一(2011年、萩本と球団の合同による『欽ちゃん!!横浜ベイスターズ応援プロジェクト』を展開)
- スタジアムDJ
- オフィシャルリポーター
- diana(球団の公式チアリーディングチーム、TBSトライメディアが運営)
[編集] 横浜DeNAに所属する(していた)野球漫画の登場人物
- 左門豊作 - 巨人の星に登場する大洋の選手。1976年 - 1979年までの「新・巨人の星」では、最終章で球団が横浜大洋となり、大リーグボール右1号(蜃気楼魔球)を打った場所も横浜球場。飛雄馬と初めて会った場所も横浜である。
- 土門剛介 - ドカベン
- 橘英雄 - H2。ドラマ版では横浜を経由してメジャーリーグへ挑戦していった(ちなみに、ドラマ版の製作局は当時の親会社・TBS)。
[編集] 記録関連
[編集] 新聞・放送(マスコミ)関連
- プロ野球中継
- 放映権 (日本プロ野球)#横浜DeNAベイスターズ
- TBS・BS-TBS・TBS R&C・東通・TBSニュースバード
- ハマスタWAVE(横浜スタジアム主催試合インターネット中継ハマスタWAVE)
- BANG BANG BASEBALL(TBSニュースバードで2008年から完全放送中。TBS地上波で放送がない場合はtvkで放送される場合もある。その場合は外部所属のフリーアナウンサーが実況する)
- move on ベイスターズ(2008年)
- Love BayStars(2009年-)
- TBSラジオ エキサイトベースボール
- みのもんたの朝ズバッ!
- ニッポン放送
- ニッポン放送ショウアップナイター(1978年に横浜大洋主催試合の独占放送権を取得し、2002年の筆頭株主交替まで主な中継番組であった)時々、試合を放送することがある。
- 文化放送
- 文化放送ホームランナイター(土曜・日曜に放送されるが、主催試合は対巨人戦を除き自社で放送されることは少なく、系列局向けの裏送りや技術協力の場合が多かった。2011年時点は巨人主催試合の週末デーゲーム増加により、年数試合程度が自社でも放送されている)
- 文化放送ライオンズナイター(平日の交流戦・横浜DeNA対西武戦で中継)
- J SPORTS
- J SPORTS STADIUM(1998年から2007年まで放送。ジュピターテレコム(J:COM)・フジテレビなどが主要株主(2005年スポーツ・アイ ESPN合併後はTBSもわずかながら出資)だが、ベイスターズがTBS傘下に入ってからも引き続き放送された。TBS傘下入り後はTBSのアナウンサー・解説者の出演が多かった他、TBSのアナウンサーと大洋・横浜OBのフジテレビ・tvkの解説者の組み合わせとなる場合もあった)
- 神奈川新聞
- tvk
- イッツ・コミュニケーションズ・横浜ケーブルビジョン
- move on ベイスターズ!(横浜スタジアムでのナイター試合開始直前の平日17:30 - 17:45に生放送される番組)
[編集] 本拠地・神奈川県や横浜市関連
- 横浜熱闘倶楽部
- 横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティ
- 横浜F・マリノス
- 横浜FC
- 産業能率大学
- ベイスターズ横浜会
- 横浜シミズ(横浜DeNAベイスターズ主催試合で、球場と折半で運営業務・施設管理を委託している)
- 京浜急行電鉄(ベイスターズを大々的に宣伝している)
[編集] 横浜応援団
- 全国星覇会
- 横浜ベイスターズを愛する会(横浜・北海道・関西・九州)
[編集] 外部リンク
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