国際プロレス
国際プロレス(こくさいプロレス)は、かつて存在した日本のプロレス興行団体。なお国際プロレスは通称で、正式社名は「インターナショナル・レスリング・エンタープライズ (International Wrestling Enterprise、略称IWE)」である。会社事務所は高田馬場、道場は埼玉県大宮市(現:さいたま市)に存在した。
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概要 [編集]
1967年1月18日に東京都浅草台東区体育館で、アントニオ猪木の東京プロレスとの合同興行で旗揚げ。TBSと東京12チャンネルで定期放送されていた。テレビの定期放送終了の半年後、1981年8月9日の北海道羅臼町大会で活動を停止した。団体名の名付け親はプロレス評論家の菊池孝という噂があったが、本人は小佐野景浩が2010年に行なったインタビューで、これを明確に否定している[1]。菊池は「吉原さん(吉原功)が考えたんじゃないかな」と語っている[1]。
旗揚げ・東京プロレスとの業務提携 [編集]
創業者の吉原功社長は、早稲田大学レスリング部出身の元プロレスラーで、日本プロレス営業部長を務めていたが、力道山の死後、経営方針を巡る対立で日本プロレスを退社した人物である。創業当初は、旧来の「団体」という形ではなく、所属選手を抱えず試合をするリングのみを提供するという、アメリカの「興行会社」のスタイルを志向していた。そのため、既存団体の選手を出場させるのも可能と考えていたという[2]。もっとも、他団体が所属選手を抱えるタイプの団体(日本プロレス)しか存在せず、今と違って日本人のフリーランス・レスラーが日本国外活動組以外いなかったこの当時にあっては、この構想は機能するはずもなく、普通の所属選手を抱える団体に転換している。なお、日本で最初に所属選手の契約書を作ったのは国際プロレスである。
アメリカで活躍する日本人プロレスラー ヒロ・マツダをエース兼ブッカーとし、日本プロレスからアマチュアスポーツのトップアスリートだった、杉山恒治(サンダー杉山)、草津正武(グレート草津)を同道した。1967年の旗揚げに際しては、国際プロレスよりも先に旗揚げをしたものの、興行不振で単独での興行能力を失っていた東京プロレスからアントニオ猪木らが参加し、合同興行との形で旗揚げシリーズを開催。ダニー・ホッジ、ザ・ケンタッキアンズ(ジェイク・スミス&ルーク・ブラウン)、エディ・グラハム、ジョニー・バレンタインを招聘したものの、テレビ局との放映契約を結べなかったこともあり、興行は振るわず東京プロレスとの提携もこの旗揚げシリーズのみで破綻する形となった。この時、猪木は永源勝(後の永源遙)、北沢幹之、柴田勝久らと日本プロレスへ帰参したが、木村政雄(のちのラッシャー木村)、寺西勇らは国際プロレスに残留した。猪木らの離脱と入れ替わるように、旗揚げ興行に参加しなかった豊登が参戦し、マツダとのタッグが看板チームとなった。しかし、戦力、資金面でも日本プロレスとの差は歴然としていた。
TBSプロレスとして再起動 [編集]
1967年8月1日、TBSとの放映契約がまとまり「来年1月からの中継開始」が発表された。国際プロレスは資金調達の名目で、吉原功の早稲田大学時代の友人であるTBS運動部副部長の森忠大の仲介により、広島の乳業会社社長だった岩田弘に株を譲渡して融資を仰いだ[3]。この結果、岩田が国際プロレスの新しいオーナーとなり[4]、TBSのバックアップを受ける形で仕切り直しを行うこととなった。また、同時期にヒロ・マツダが吉原と決裂して国際プロレスを離脱したため、マツダに代わる外国人招聘のブッカーとして、4年前に日本プロレスの契約を打ち切られたグレート東郷が迎えられた[5]。
同年11月20日、TBSによる全国中継開始の記者会見が行われ、TBS運動部部長の鶴田全夫と森および岩田が出席したが、吉原は会見に姿を現さなかった。そのため、吉原はTBSと岩田によって蚊帳の外に追いやられ、団体の運営を彼らに掌握されたと考えられていたが、当時の吉原は国際プロレスが赤字続きだったため多重債務を抱えており、公の場に出られる状況ではなかったという[6]。東郷にブッカーを委ねたのは吉原自身であり、放送責任者の森はテレビ中継、新オーナーの岩田は経営と、それぞれの立場から団体運営のハードの部分には携わっていたものの、ブッキングやマッチメイクなどリングの上に関するソフトの部分には、それほどタッチしていなかった[4][6]。
1968年1月、TBSのネームバリューを活かして団体名を『TBSプロレス』と改称し[6]、ルー・テーズ、ダニー・ホッジ、ハンス・シュミット、ワルドー・フォン・エリック、ブルドッグ・ブラワー、レフェリーのフレッド・アトキンスなどの豪華外国人を招聘して新シリーズを開幕[7]。森の意向で新人のグレート草津がエース候補に抜擢されるも、1月3日のテレビ放映第1戦でルー・テーズのバックドロップに失神負けを喫して頓挫。しかし、日本プロレスの蔵前国技館とTBSプロレスの日大講堂の同一日興行は“隅田川決戦”としてマスコミの話題となり、以降プロレス界は日本テレビとTBSのテレビ2局の対立時代に入った。
ところが、テレビ放送の開始から間もなく、プロレス業界の前時代的な経営体質に失望した岩田が吉原と決別して撤退[8]。また、再起動からわずか1か月後の同年2月には、ブッキングを巡る金銭上のトラブルから、招聘した外国人選手の参戦を東郷がボイコットする事件が発生、そのままTBSプロレスと絶縁する事態となった。これら一連の緊急事態を受け、イメージの悪化を懸念した局側の申し入れにより団体名は再び『国際プロレス』に戻り[9]、団体は新路線を模索することとなる。吉原は、当時早稲田スポーツ部OB会長の座にあり、レスリング部OBの吉原にとっても柔道部OBの森にとっても近しい存在だった日本レスリング協会会長の八田一朗の紹介を受けて新たにヨーロッパからの外国人選手ルートの開拓に成功、ビル・ロビンソンやモンスター・ロシモフ(のちのアンドレ・ザ・ジャイアント)らが国際プロレスに初来日を果たした。
国際プロレスの興亡 [編集]
その後は、豊登、杉山、草津らによる複数エース体制を経て、1971年からはストロング小林が、1975年からはラッシャー木村が、IWA世界ヘビー級選手権者としてエースを務めた。
1970年代には、新日本プロレス、全日本プロレスに次ぐ第三の団体という位置付けだったが、エースのストロング小林の離脱などスター選手不在に悩み、両団体と比較するとマイナー感は否めなかった。話題作りもあって、選手入場時のテーマ曲の採用、日本人選手同士の対戦、日本人初の覆面レスラー『覆面太郎』、金網デスマッチ、女子プロレスを取り込んだ女子部の創設、『独立愚連隊』による軍団抗争など、後に日本のプロレスで一般的になったことをいち早く取り入れるなど、進取の気風に富んでいたとも言える。
1980年7月26日には、埼玉県大宮市にあった合宿所兼道場に乗用車が突っ込む事故でガス爆発を起こし全焼する事故が発生。幸い選手は巡業中で難を流れたが、この悪い流れに比例するがごとく観客動員の低迷が続いた。この危機状況を打開するために、1980年には放映局だった東京12チャンネル主導で救世主として大木金太郎を獲得したが、大木獲得を事前に知らされていなかった吉原代表と東京12チャンネル側との関係に齟齬を来す形となり、肝心の大木も同年11月に退団。また、翌1981年には目玉カードとしてルー・テーズより寄贈されたベルトを争う『ルー・テーズ杯争奪戦』も実施したが、起死回生には至らなかった。結局、1981年3月をもって東京12チャンネルからレギュラー中継を、6月で特番中継枠を相次いで打ち切られた。当時、重要な資金源であるテレビ放映権を失った国際プロレスは同年8月9日、北海道・羅臼町大会を最後に単独での興行能力を失い、崩壊した。
金網デスマッチ [編集]
日本初の金網デスマッチは1970年10月8日、大阪府立体育会館で行われたラッシャー木村vsドクター・デス(ムース・モロウスキー)戦。事前に告知をしない形での決行だった。
この金網デスマッチが実現した伏線として、当時、目玉選手として招聘を予定していたスパイロス・アリオンの参加キャンセル問題があった。当時、国際プロレスはヨーロッパルートに加え、アメリカ・ミネアポリスを本拠とし、NWAと比肩していたバーン・ガニア率いるAWAと提携し、名のある外国人レスラーも招聘できる態勢が整ってきていた。そこで、国際プロレスはデイリースポーツの協力を得て、当時来日が実現していなかった外国人選手を、ファン投票の結果で招聘する『あなたがプロモーター』企画を行い、1位となったアリオンを含む投票上位選手の招聘を行なった。しかし、圧倒的な海外ネットワークを持つ日本プロレスにことごとく妨害された。アリオンも一度は来日に合意しながらもキャンセルとなったため、当初予定していたサンダー杉山とのIWA世界シングル戦も中止に追い込まれた。その代替カードとして浮上したのが、遺恨が発生していた木村とドクター・デスとの完全決着戦であり、日本初の金網デスマッチが実現する形となった。関係者は急ピッチで、アメリカで実際に行われた際の写真を参考に金網が製作され、余りにも急に製作したことから、金網に出入口を付け忘れてしまったという珍事が起きている[10]。
国際プロレスとしては、この金網デスマッチは一回限りと考えていた。しかしその後、全国のプロモーターから「ぜひうちの地域でも」と要求され、仕方なく行なった。開催の要望が多かったことから乱発せざるを得なくなり、マンネリ化により団体の首を絞める結果となってしまう。
他団体でも当時実現しなかった金網デスマッチは、まさに国際の真骨頂という雰囲気はあった。しかし流血の度合いがおびただしく、前述のラッシャー木村vsドクター・デス戦はTBSが中継放映したが、その後局内でも放送の是非が問題視され、結局TBSは自主判断により以降の金網デスマッチの放映を封印した。
この流血シーンの放送自粛処置の発端は1962年、フレッド・ブラッシーが日本プロレスに参戦していた頃、その試合中の流血をカラーテレビで視聴していた老人が2人ショック死したことが挙げられる[11]。その後一時カラー放送が中止されている。
TBSでの定期中継打ち切り後、後継となった東京12チャンネルでは放映を解禁した。凶器攻撃や金網に乱打している最中は「このシーンは凄惨なため、放送をご容赦ください」というテロップと観客席を映しそのシーンを映さない策が講じられた。その映像のカットは激しい流血を伴う凶器攻撃の最中だけで、攻撃が終了した後は、おびただしい流血になろうと中継をカットすることはなかった。
1972年11月27日、愛知県体育館で日本初の金網タッグデスマッチ、ストロング小林&グレート草津vsディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー戦が行われた。しかし、外国人組が隙をついてリングから脱出するという不可解な決着をしている。これは、外国人側がアメリカでは一般的なエスケープルールと誤認していたという説もある。この決着に納得しない観客が、「勝負がついていない」「完全決着ではない」と暴れたり座り込みをするなどの暴動に発展、機動隊が出動する騒ぎとなった。
外国人選手の招聘 [編集]
当時の日本プロレス界はプロレスのメッカであるアメリカから大物外国人を招聘することがステータスの時代だった。
国際プロレスでは設立当初、ヒロ・マツダをエース兼ブッカーとしてアメリカからのレスラー招聘責任者とした。しかしマツダは1967年の2シリーズの終了後、TBSの放送開始を待たず、同年秋までに離脱してしまう。国際プロレスは日系レスラーの大物グレート東郷にブッキングを依頼した。東郷はかつて日本プロレスのブッカーを務めていたが、力道山の死後は絶縁状態となっていた。東郷はカナダ(トロント地区)のプロモーターであるフランク・タニーを代表としてTWWAを設立。1968年1月、初代TWWA王者として認定されたルー・テーズを初めとする大物レスラーを招聘してシリーズを開催、TBSの放送も開始された。しかしその東郷とも同年2月には金銭トラブルから離別し、国際プロレスは北米ルートを完全に遮断されてしまう。
そのため吉原は八田一朗の力を借り、それまで日本プロレス界と縁の薄かったヨーロッパマットとの提携に乗り出し、コネクションを形成していく。これによりビル・ロビンソン、ビリー・ジョイス、トニー・チャールズ、アルバート・ウォール、パット・ローチ、ワイルド・アンガス、アル・ヘイズなどのイギリス勢をはじめ、西ドイツのホースト・ホフマン、フランスのモンスター・ロシモフ(のちのアンドレ・ザ・ジャイアント)、そして欧州を主戦場としていたカナダ出身のジョージ・ゴーディエンコなど多くの強豪レスラーが、国際プロレスで初来日を果たした。なお、このヨーロッパのコネクションと吉原が協力して立ち上げたのが、団体崩壊までのタイトル統括組織となったIWAである。
その後アメリカルートも少しずつ繋がり始めたが、NWAのコネクションは日本プロレスが持っていたため、当時のアメリカの3大メジャー団体2位だったAWAに接近する。1970年2月にAWAの実質上のオーナーであり、現役世界ヘビー級王者のバーン・ガニアが来日して国際の主力勢を相手に防衛戦を行い、本格提携がスタートした。以降はガニアやマッドドッグ・バション&ブッチャー・バションをはじめとする世界タッグ王者チームなど、AWA系の大物レスラーを数多く招聘、日本プロレスと遜色ない顔ぶれが揃うようになった。また、アンドレがアメリカに行くきっかけも、この提携からともいわれている。一方でヨーロッパマットとの繋がりは薄れていった。1974年11月にはシングル王者のガニアと、タッグ王者のニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスを同時招聘しての豪華な興行も開催された。
しかし、1975年にカナダのカルガリーに大剛鉄之助を支部長とする北米支部を設置して招聘窓口とすると、AWAルートは事実状解消された。のちの関係者の回想によると、ガニアから「自分たち(AWA)を取るか、大剛を取るか」と迫られ、吉原が大剛を選んだとされている。カナダのルートではジプシー・ジョー、キラー・トーア・カマタなど、当時のエースだったラッシャー木村と手の合う流血派のラフファイターが中心となった。大剛ルート以外では、新日本プロレスや全日本プロレスと接点の無かったアメリカのミッドサウス地区(ビル・ワットのMSWA)やテネシー地区(ジェリー・ジャレットのCWA)、最末期にはメキシコのEMLL系からもレスラーを招聘した。1979年から1980年にかけてはAWAルートも一時的に復活、ヘビー級王者となっていたボックウインクルが来日して防衛戦を行い、ガニアの再来日も実現したが、本格的な提携再開には至らなかった。
前述の通り日本プロレスが存在していた頃は、大物外国人をなかなか招聘できずに苦戦していた。しかし、後にNWAやWWFなどアメリカのメジャーテリトリーや他団体の新日本プロレスおよび全日本プロレスで活躍する選手の中には、国際プロレスが初来日となったケースは多い。前述のビル・ロビンソンやアンドレ・ザ・ジャイアントのほかにも、リック・フレアー、ダスティ・ローデス、ワフー・マクダニエル、スーパースター・ビリー・グラハム、ケン・パテラ、ドン・ムラコ、ワイルド・サモアンズ、カルロス・コロン、リック・マーテル、ジェイク・ロバーツ、デビッド・シュルツ、ダイナマイト・キッドなどがいる。崩壊間際の1981年4月にも当時「まだ見ぬ強豪」として初来日が待望されていたポール・エラリングとスティーブ・オルソノスキーを招聘しており、未来日の新鋭レスラーのブッキングには最後まで意欲的だった。
女子部 [編集]
国際プロレスは1974年9月に女子部を創設した。これに伴い戦後に存在した全日本プロレス協会に次いで日本で2番目となる興行プログラムに女子の試合を挿入する男女混合プロレス団体となった。
女子部創設の背景には東京12チャンネルで中継を始めるに当たって、日本女子プロレスを中継していた局側から女子プロレスを組み込んで男女並立で放送することを条件として提示されたことにある。ちなみに日女の旗揚げは国際プロレスと同じ1967年で、旗揚げ戦の会場も同じ台東区体育館だった。
女子部には日女に最後まで残っていた小畑千代、佐倉輝美、千草京子が所属、外国人も日女に参戦していた世界王者、ファビュラス・ムーラが参加し、日女の実質的な後継となった。ムーラ門下生を中心に外国人選手も多く招聘した。レフェリーは男子の所属選手だった若松市政が主に担当した。
最初の試合は1974年「秋の陣」開幕戦となった9月15日の後楽園ホール大会で、第4試合として千草と元WWWA世界王者、サンディ・パーカーのシングルマッチ、第6試合として小畑&佐倉組対ムーラ&ポーラ・ケイ組のタッグマッチが組まれた。
テレビ局主導で始められたため、テレビマッチではいかなる場合でも女子の試合は中継された。しかし、当時はまだ男子プロレス選手及び関係者、ファンの間では女子を受け入れる風潮がなかった。これらゆえに反発も多く、さらに、日女から分かれて旗揚げされた全日本女子プロレスがマッハ文朱らの活躍により人気絶頂だったこともあり、1976年に女子部は解散した。
最終試合は4月12日「ダイナマイトシリーズ」第12戦における小畑対佐倉のIWWA太平洋岸選手権試合で、小畑が勝利してタイトル防衛に成功した。ちなみに全女ではマッハが引退し、ビューティ・ペアブームが始まらんとした時期であった。
国際プロレス女子部は1年半強という短い活動期間であったが、後に全女の常連外国人として活躍した選手の中にはビッキー・ウィリアムス、ジョイス・グレーブル、レイラニ・カイら国際プロレスで初来日を果たした選手も含まれている。
なお、前出のIWWA太平洋岸選手権を含め女子のタイトルはすべて封印されたが、そのうちIWWA太平洋岸タッグ選手権は後にジャパン女子プロレスに持ち込まれて復活している。
全日本プロレスとの対抗戦 [編集]
かつて国際プロレスは5年遅れて旗揚げされた全日本プロレスと友好的関係を保っていた(全日本プロレスが旗揚げする際、吉原社長は選手不足の全日本にサンダー杉山を友好トレードしている)。そう言った関係から国際プロレスと全日本プロレスは対抗戦や交流戦を良く行っていた。
全日本プロレスの「オープン選手権」にはラッシャー木村、グレート草津、マイティ井上の3人が参加、又世界オープンタッグ選手権では高千穂明久とマイティ井上の混合タッグが実現している。更に国際プロレスが主催した「日本リーグ争覇戦」にもジャンボ鶴田やタイガー戸口、ミスター・サクラダらが大挙して参加している。又、国際プロレス対全日本プロレスの対抗戦も度々行われていた。(国際対全日全軍対抗戦や国際、全日、韓国軍団3軍対抗戦、1976年(昭和51年)の国際プロレスVS全日本プロレス「対抗戦」など)
テレビ放送 [編集]
| TWWAプロレス中継 | |
|---|---|
主に中継が行われていた後楽園ホール
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| ジャンル | プロレス実況中継番組 |
| 放送国 | |
| 制作局 | TBS |
| オープニング | 「コバルトの空」 |
| 1968年1月から1971年12月まで | |
| 放送時間 | 水曜19:00 - 19:54(54分) |
| 放送期間 | 1968年1月3日 - 1971年12月29日 |
| 1972年1月から3月まで | |
| 放送時間 | 水曜19:00 - 19:30 |
| 放送期間 | 1972年1月5日 - 3月29日 |
| 1972年4月から9月まで | |
| 放送時間 | 日曜18:00 - 18:55(55分) |
| 放送期間 | 1972年4月2日 - 9月24日 |
| 1972年10月から1973年9月まで | |
| 放送時間 | 日曜18:25→00 - 18:55→30(30分) |
| 放送期間 | 1972年10月1日 - 1973年9月30日 |
| 1973年10月から1974年3月まで | |
| 放送時間 | 土曜14:00 - 14:30(30分) |
| 放送期間 | 1973年10月6日 - 1974年3月30日 |
旗揚げから1年後の1968年1月からTBSで『TWWAプロレス中継』のタイトルで、レギュラー番組として放送。一時は団体名も「TBSプロレス」と名乗った。当初は毎週水曜 19:00 - 19:55で、後に水曜 19:00 - 19:30→日曜 18:00 - 19:00→日曜 18:25 - 18:55→日曜 18:00 - 18:30→土曜 14:00 - 14:30となった。1974年3月30日をもって番組は終了(関東地区)。番組開始当初はモノクロビデオ放送だったが1970年4月22日の放送分からカラー化された。
これに先駆けて定期放送開始前のパイロット版的なものとして、1967年8月11日に大分県営体育館で行われた『パイオニア・サマー・シリーズ』大分大会のメインイベント(ヒロ・マツダ、サム・スティムボートvsロジャー・カービー、ビル・ドロモ)の模様が、当日の大会の主催者でもあった大分放送のみで、翌1967年8月12日の23:05 - 23:50に録画放映されている(モノクロ放送、解説は森忠大)。なお、それまで大分放送は、既存のプロレス中継をネットした経験さえもなく、これが同局で初めてのプロレス放映となった。
TBSでの打ち切りが決定すると、TBS運動部長の森忠大の紹介で、1974年10月から東京12チャンネル(現・テレビ東京)で『国際プロレスアワー』のタイトルで放送されるようになり、1981年3月まで定期放送された。放送時間は、1974年10月から1980年9月までが毎週月曜 20:00 - 20:54、1980年10月から1981年3月までは毎週土曜 20:00 - 20:54。当時の東京12チャンネルは系列がないため、独立UHF放送局(近畿地方・東海地方)や、他系列局への販売を行っていた。
東京12チャンネルは、定期番組としては打ち切った後も、中継そのものは不定期ながらも存続させることにしていた。実際に、1981年5月3日18:00〜、同年9月16日および9月23日24:15〜に、それぞれ1時間の「特別番組」という形で中継を放映した。なお最終放映時のタイトルは『東京12チャンネル プロレスアワー』と表示された。
TBS版ネット局 [編集]
- 東京放送(制作局)
- 北海道放送
- 岩手放送
- 東北放送
- テレビ山梨
- 新潟放送(1972年3月をもって一旦中断、1972年10月に新番組扱いで再開も、1973年3月に打ち切り)
- 静岡放送(1971年4月7日よりネットに途中参加するも、1972年3月29日に打ち切り)
- 中部日本放送(1973年10月のキー局での土曜午後への移動後も、同局では土曜深夜の遅れネットでしばらく放送した模様)
- 北陸放送(1972年3月に打ち切り)
- 朝日放送
- 山陰放送
- 山陽放送
- 中国放送(広島テレビ・広島ホームテレビの編成から漏れたフジテレビ系列の番組や、ABC制作の関西ローカル番組等を放送した関係で一時遅れネットだった模様)
- テレビ山口(放送当時はTBS系列・フジテレビ系列・NETテレビ系列クロスネット局、1970年4月の開局時点から放送)
- RKB毎日放送
- 大分放送
- 宮崎放送
- 南日本放送
- 琉球放送(途中からネットに参加)
| TBS系 水曜19時枠 | ||
|---|---|---|
| 前番組 | 番組名 | 次番組 |
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TWWAプロレス中継
(1968.1.3 - 1971.12.29) |
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| TBS系 水曜19:00 - 19:30枠 | ||
|
TWWAプロレス中継
(19:00 - 19:54) |
TWWAプロレス中継
(1972.1.5 - 3.29) |
|
| TBS系 日曜18:00枠 | ||
|
TWWAプロレス中継
(1972.4.2 - 9.24) |
18:00-東京音楽祭 歌は世界に
(第2期) 18:25-TWWAプロレス中継 |
|
| TBS系 日曜18:25 - 18:55枠 | ||
|
TWWAプロレス中継
(18:00 - 18:55) |
TWWAプロレス中継
(1972.10.1 - 1973.3.25) |
18:00-TWWAプロレス中継
18:30-JNNニュースコープ |
| TBS系 日曜18:00 - 18:30枠 | ||
|
18:00-東京音楽祭 歌は世界に
(第2期。日曜23:00へ) 18:25-TWWAプロレス中継 |
TWWAプロレス中継
(1973.4.1 - 9.30) |
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| TBS系 土曜14:00 - 14:30枠 | ||
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TWWAプロレス中継
(1973.10.6 - 1974.3.30) |
再放送枠
※最初は『アテンションプリーズ』 |
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テレビ旗揚げ第1戦 [編集]
TBSテレビの定期放送第1回のメインイベントは、王者ルー・テーズにグレート草津が挑戦するTWWA世界ヘビー級選手権試合。この選手権は東郷の画策で1967年に設立されたいわばお手盛りのタイトルである。試合前、TBSの関係者がテーズに対し、エースに目論んでいた草津に「花を持たせる」ことをそれとなく要求する。歴戦をくぐり抜け何度となくNWA世界ヘビー級王座にも就いたテーズにとって、キャリア3年にも満たず大きな実績もない草津に負けることなど認めがたいことであり、大いに憤慨。吉原もTBS側の無礼ぶりを認めたが、「TBSに顔が立たないから表面上は了承したふりをしていてほしい。でも実際に従う必要はない」とテーズに語り、テーズも了承する。
試合が始まると、草津の受け身が未熟であることを見抜いたテーズは、必殺のバックドロップを見舞う。現在残された写真では、急角度の危険なものではなかったが、食らった草津はあえなく失神。草津自身は失神はしておらず、セコンドにいたグレート東郷の指示で寝ていただけだと語っている。草津はそのまま試合放棄で敗戦となり、TBSの目論みは潰れることとなった。「エース」がテレビ放映の初戦でこのような無残な負け方をするなど前代未聞であり、その後の国際の苦難の道を暗示した一戦といわれる。
団体解散後 [編集]
団体解散後は、新日本プロレスとの対抗戦を模索するが、マイティ井上、阿修羅・原、冬木弘道(のちのサムソン冬木)、菅原伸義(のちのアポロ菅原)、米村天心らはそれに反発し、全日本プロレスに移籍。引退やフリーになったレスラーもおり、新日本プロレスのリングに上がったのはラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇の3選手のみ。彼らは国際軍団(はぐれ国際軍団)としてリングに上がり、ヒールとして、新日本プロレスのファンから憎悪を一身に浴びることになる。吉原功社長は新日本の顧問となったが、1985年に死去した。
のち、ラッシャー木村は元国際の剛竜馬とともにUWFへ、さらに全日本プロレスへ移籍。鶴見・菅原・高杉らとのユニットは「国際血盟軍」と呼ばれたが、剛・菅原・高杉はのちに解雇され「パイオニア戦志」を旗揚げ。木村の馬場とのタッグ結成、鶴見のSWS移籍により軍団としては崩壊した。
一方、パイオニア戦志は「オリエンタルプロレス」へ形を変えた後に崩壊。その後、高杉・鶴見で「レスリング・ユニオン」を立ち上げ、それぞれ「IWA湘南」「IWA格闘志塾」として活動した。レスリング・ユニオンには他にオリプロ出身荒谷信孝らの「IWA流山」なども参加。
現在は、鶴見が吉原社長の遺族の了承を得て、「IWA格闘志塾」を改称する形で「国際プロレス」を名乗っている。
テレビ中継を行っていたテレビ東京の連結子会社であるFMラジオ局InterFMでは国際プロレスに関する特集を組んでおり、解散30年目に当たる2011年1月31日には国際プロレスに所属していた選手のテーマ曲を放送する特別番組『私の好きな国際プロレステーマ曲 名曲セレクション』が20:00 - 21:00に放送された。
DVD化 [編集]
プロレスのビデオ・DVDソフト化は珍しいことではない。しかし、こと国際プロレスに関しては、TBS中継終期の名勝負はビデオソフト化され発売されたものの、東京12チャンネル放映時代の中・末期の映像は、団体の倒産及び中継終了以来、当時の映像の放映さえもほとんどなかった。わずかに、メインの実況を務めた杉浦滋男が死去した際、1977年3月に蔵前国技館で行われたIWAワールドシリーズ決勝戦の映像の一部が、テレビ東京のスポーツニュースの枠で流れた事例がある。東京12チャンネルがテレビ東京と社名を変更し、本社社屋を神谷町から現在の虎ノ門に移転した際、その当時の映像は全て破棄されたという噂まであった。
DVD化は2007年3月になされた。1969年から1974年までのTBS時代の映像は新たに発掘されたものも含め『伝説の国際プロレス』、1974年から1981年までの東京12チャンネル時代の映像は『不滅の国際プロレス』と銘打ってポニーキャニオンから発売された。前者は元週刊ゴング編集長の竹内宏介が、後者は竹内とプロレスライターの流智美が監修を務めた。デイリースポーツによると、同2作品の企画者はポニーキャニオンの高原万平である。
2010年8月には、東京12チャンネル時代の映像を収録した『国際プロレス クロニクル』上巻が、2011年3月には同下巻がそれぞれクエストから発売された。『不滅の国際プロレス』同様に流智美が監修を務めた。
タイトル [編集]
IWA [編集]
IWAは「インターナショナル・レスリング・アライアンス(International Wrestling Alliance)」の略。
その他 [編集]
女子(IWWA) [編集]
IWWAは「国際女子プロレス協会」の略で、日本女子プロレスより継承されている。
所属選手・スタッフ [編集]
「Category:国際プロレスに所属したプロレスラー」も参照
所属選手 [編集]
- 東京プロレスより移籍。長めのパンチパーマに長いモミアゲ、額には無数の傷跡。力道山を髣髴とさせる黒のロングタイツ。ストロング小林離脱後のエースであり、金網デスマッチでは無類の強さを誇り“金網の鬼”と呼ばれた。国際崩壊後は新日本→UWF→全日本→NOAHを転々とし2004年引退、2010年死去。
- ストロング小林(覆面太郎)
- 当初は日本人初のマスクマンとしてデビューも、欧州遠征後エースとして台頭。1974年、フリー宣言し新日本の猪木戦ののち新日本へ移籍。移籍後は北米タッグなどのタイトル奪取、1982年、映画出演を機に「ストロング金剛」と改名してタレント活動を兼業。1984年引退。
- 東京プロレス崩壊後、国際プロレスに入団。ストロング小林とのタッグでIWA世界タッグ王座を奪取。1970年に引退するが、2年後、新日本プロレスでカムバック。1998年死去。
- ヨーロッパ仕込みのテクニシャン。国際の崩壊後は全日本に入団。その後はプロレスリング・ノア専属レフェリー兼テレビ中継解説者も務めた。2009年にノアとの契約満了で退団、2010年に引退興行がとり行われた。
- “和製ブルーザー”の異名を持ち、パワーと全力ファイトが身上。国際崩壊後はラッシャー木村、寺西勇と共に新日本へ参戦。のちに長州力とともに「維新軍団」(後にジャパンプロレスへ発展)を結成する。引退後は「アニマル浜口レスリング道場」で後進の指導に当たる。女子レスリングの浜口京子の父親である。
- 東京プロレスより移籍。空中殺法を得意にし、“和製カーペンティア”の異名有り。国際崩壊後はラッシャー木村、アニマル浜口と共に新日本へ参戦。
- 冬木弘道(のちのサムソン冬木)
- 1979年に国際正規軍から造反し、大位山と独立愚連隊を結成。のちにヒールへの道を歩む礎となった。国際崩壊後はドイツ遠征後、全日本プロレスへ転戦、SWS、NOWなどを経てIWA格闘志塾を設立。吉原社長の遺族の了解を得て『国際プロレスプロモーション』を名乗る。
- 大相撲出身。鶴見と独立愚連隊を結成した。
- 覆面の元祖「逆輸入レスラー」。単身メキシコでデビュー。
- スネーク奄美(栄勇)
- レスリング仕込みのテクニックを駆使して前座戦線を沸かせていたが、病魔に倒れ、1981年、29歳で死去。
- 阿修羅・原(原進)
- 団体崩壊時のジュニアヘビー級のエース。「和製チャールズ・ブロンソン」「星の王子様」といったコンセプトで、アイドル的に売り出された。崩壊後は全日本に移籍。SWS→WARを経て、1994年引退。母校である諫早農業高校でラグビー部のコーチをしていた。
- 菅原伸義(のちのアポロ菅原)
- ボディビル出身。国際崩壊後は全日本プロレスへ転戦。
- 若松市政(のちの将軍KYワカマツ)
- 当初は営業部員として入社するものの、プロレスラーになりたい未練から、31歳の高齢でデビューを果たした。その後も団体崩壊まで営業とレスラーの2足わらじを兼務。のちにSWSの旗揚げにも大きく関わる。現在は芦別市議会議員。
- 学生時代はフットボーラー。全日移籍後は一時期、ウルトラセブンのリングネームでマスクマンに転向。パイオニア戦志、オリエンタル・プロレスを経て湘南プロレスを設立。現役。
- 大相撲出身。団体崩壊後全日本プロレスへ転戦するも廃業。故郷でちゃんこ料理店を営む。
- 国際最後の興行でデビューするも、そのまま引退。
- 元大相撲幕内力士。デビュー後まもなく退団。
- 東京プロレスより移籍。フィリピンに渡り、現地でレスラーの育成、団体を旗揚げする。
- 大剛鉄之助(仙台強)
- 東京プロレスより移籍。カナダ修行から帰国直前の交通事故で右足を切断。引退後はカナダに居住し、ブッカー業に就く。崩壊後は新日本プロレスのブッカー兼トレーナー。
- 現役引退後はリングアナウンサーに転向。レスラーになる前は元トンボユニオンズのプロ野球選手だった。
- 東京プロレスより移籍。豊登と常に行動を共にした。初代IWAミッド・ヘビー級王者。
- デビル紫(村崎鬼三、村崎昭男、グレート・サキ)
- 海上自衛隊出身。スペインへの転戦中にマスクマンに変身する。
- 長沢秀幸(タイガー・チョン・リー)
- 日本プロレスデビューから国際プロレス引退まで生涯前座レスラーだった。
- 本郷篤(本郷清吉)
- 主に海外マットを拠点に活動。全日本にも短期ながら在籍。現在はオレゴン州で実業家。
- 日本プロレス時代はジャイアント馬場と並ぶ巨漢レスラー。引退後はレフェリーに転向。1991年死去。
- ヤス・フジイ(藤井東助、藤井三吉、零戦隼人、ドクター・ヒロ・オオタ、コロネル・ヤンキー)
留学生 [編集]
- 黒潮太郎(テリー・ハーバード)
- プロレス留学生第1号。
- 黒潮太郎に次ぐプロレス留学生第2号。
女子部 [編集]
- 小畑とのコンビで、IWWA太平洋岸タッグ王座を獲得。
- 国際女子部崩壊後は元全日本女子プロレスの阿蘇しのぶらと「ニューワールド女子プロレス」を旗揚げしたが、短期間で崩壊。
スタッフ [編集]
- レフェリー・遠藤光男
- かつてボディビルの「ミスター日本」に輝いたことがある。アームレスリング世界一の触れ込みで途中より参加。現在は日本アームレスリング連盟会長。
- レフェリー・阿部脩
- レフェリー・前溝隆男
- 日本人とトンガ人のハーフ。大相撲の三保ヶ関部屋に所属。廃業後プロ野球の高橋ユニオンズに入団するも、直後に大映スターズとの合併により解雇され、プロボクサーに転向、2度日本ミドル級王者になった。引退後、ボウリングのインストラクターを経て、プロレスのレフェリーと幾多のスポーツを渡り歩いた[12]。阿部脩の引退後はメインレフェリーに。
- リングアナウンサー・鈴木利夫
- 団体の営業部長だったが、竹下民夫の離脱後はリングアナを兼任。「はぐれ国際軍団」のごく初期に、彼らにセコンドとして帯同したこともある。
- リングアナウンサー・飯橋一敏
- 崩壊後は全日本プロレス社員を経て現在はプロレスリング・ノア勤務。実弟は元十両力士・プロレスラーの維新力浩司。
主な日本人フリー参戦選手 [編集]
来日外国人選手 [編集]
「Category:国際プロレスに参戦した外国人プロレスラー」も参照
- アファ・アノアイ
- アリババ・マルスターニ
- アル・コステロ
- アル・ヘイズ
- アルゼンチン・アポロ
- アルバート・ウォール
- アレックス・スミルノフ
- アンジェロ・ポッフォ
- アンジェロ・モスカ
- アンドレ・ザ・ジャイアント(モンスター・ロシモフ)
- イアン・キャンベル
- イワン・コロフ
- イワン・ストロゴフ
- イワン・バイテン
- イワン・ブレストン
- ウィリアム・ホール
- エディ・グラハム
- エディ・サリバン
- エドワード・カーペンティア
- エミール・エルマンソー
- エル・クルセロ
- エル・コバルデ
- エル・ドーベルマン
- エローデス
- オックス・ベーカー
- オレイ・アンダーソン
- カール・ゴッチ
- カール・ファジー
- カウボーイ・ボブ・エリス
- カサバブ
- カシモド
- カルロス・コロン
- カルロス・プラタ
- キース・ハート
- キューバン・アサシン1号
- キューバン・アサシン2号
- キラー・カール・クラップ
- キラー・トーア・カマタ
- キラー・ブルックス
- ギル・ヘイズ
- キング・イヤウケア
- クラッシャー・リソワスキー
- グラン・ラパン
- クルト・フォン・ヘス
- クレージー・セーラー・ホワイト
- グレート・ムルンバ
- グレッグ・ガニア
- ケビン・ヒューズ
- ケン・パテラ
- ゴージャス・ジョージ・ジュニア
- ゴードン・ネルソン
- サム・スティムボート
- ザ・キウイズ
- ザ・キラー
- ザ・ジャックナイフ
- ザ・ブルート
- ザ・モンゴリアン
- ザ・モンゴリアン1号
- ザ・モンゴリアン2号
- ザ・UFO
- ザ・USSR
- ジ・アトミック
- ジ・アンダーテイカー
- ジ・インベーダー
- ジ・エンフォーサー
- シーク・エルマンソー
- シーン・リーガン
- ジェイク・スミス
- ジェイク・ロバーツ
- ジェフ・ポーツ
- ジェリー・クリスティー
- ジェリー・オーツ
- ジェリー・ブラウン
- シカ・アノアイ
- ジプシー・ジョー
- ジム・ブランゼル
- ジャック・クレイボーン(稲妻二郎の実兄エディ・モロー)
- ジャン・ウィルキンス
- ジョー・ルダック
- ジョージ・ゴーディエンコ
- ジョニー・バレンタイン
- ジョニー・パワーズ
- ジョン・ダ・シルバ
- ジョン・トロス
- ジルベール・ボワニー
- ジン・アンダーソン
- スウィート・ウィリアムス
- スーパー・アサシン
- スーパースター・ビリー・グラハム
- スカンドル・アクバ
- スタン・スタージャック
- スティーブ・オルソノスキー
- スパイク・ヒューバー
- ターザン・タイラー
- ダイナマイト・キッド
- ダスティ・ローデス
- ダニー・バビッチ
- ダニー・ホッジ
- ダニー・リンチ
- チーフ・ダニー・リトルベア
- チーフ・ブラック・イーグル
- チーフ・ホワイト・ウルフ
- チーフ・ホワイト・フェザー
- チン・リー
- ディーン・ホー
- ティエラ・ビエント・イ・フエゴ
- ディック・ザ・ブルーザー
- ディック・マードック
- ティト・コパ
- デール・ルイス
- テキサス・アウトロー
- デビッド・シュルツ
- デビル・ブッチャー
- テリー・ギッブス
- テリー・ラザン
- ドクター・デス
- トシ東郷
- トニー・チャールズ
- トム・スタントン
- ドン・ケント
- ドン・バス
- ドン・ムラコ
- ドン・レオ・ジョナサン
- ニック・カーター
- ニック・ボックウィンクル
- ネルソン・ロイヤル
- ノーベル・オースチン
- バーン・ガニア
- バスター・マシューズ
- パット・ケリー
- パット・ローチ
- バッファロー・ザリノフ
- バディ・ウォルフ
- バディ・オースチン
- バディ・コルト
- バディ・ロバーツ
- バロン・シクルナ
- バロン・フォン・ラシク
- ハンス・シュミット
- ビースト・コロンビア
- ピーター・メイビア
- ピエール・マーチン
- ビッグ・コマンチ
- ビッグ・ジョン・クイン
- ビッグ・ダディ・リッター
- ビリー・ジョイス
- ビル・ドロモ
- ビル・ハワード
- ビル・ミラー
- ビル・ロビンソン
- ビル・ワット
- ブッチャー・バション
- ブッチャー・ブラニガン
- ブッチャー・リンチ
- ブラック・ロッキード
- ブラックジャック・マリガン
- ブラックジャック・ランザ
- ブルーノ・アーリントン
- ブルドーザー・ビッグ・ベン
- ブルドッグ・ブラワー
- フレッド・カリー
- プロフェッサー・タナカ
- ヘイスタック・カルホーン
- ベン・アレキサンダー
- ホースト・ホフマン
- ポール・エラリング
- ホセ・アローヨ
- ホセ・ルイス・メンディエタ
- ボビー・クリスティー
- ボビー・スローター
- ボビー・ヒーナン
- ボブ・オートン
- ボブ・スウィータン
- ボブ・ブラッガーズ
- ボブ・マーカス
- マーク・ロコ
- マイク・ケリー
- マイク・ジョージ
- マイク・ボイエッティ
- マイク・マーテル
- マイク・ミラー
- マスクド・インターン
- マスクド・インベーダー
- マッドドッグ・バション
- マリオ・ミラノ
- ミスター・ギロチン
- ミネソタ・レッキング・クルー
- ミレ・ツルノ
- ムース・ショーラック
- メッサーシュミット
- モーリス・バション・ジュニア
- モンゴリアン・ストンパー
- ラーズ・アンダーソン
- ラリー・シャープ
- ラリー・ヘニング
- ランディ・タイラー
- ランディ・ローズ
- リッキー・マーテル
- リック・オリバー
- リック・フレアー
- リッパー・コリンズ
- リップ・タイラー
- ルー・テーズ
- ルーク・グラハム
- ルーク・ブラウン
- レイ・キャンディ
- レイ・ゴールデン・アポロン
- レイ・スティーブンス
- レーン・ゴルト
- レオ・ロペス
- レジー・パークス
- レス・ソントン
- レッド・デビル
- レッド・バスチェン
- ロジャー・カービー
- ロッキー・ブリュワー
- ロン・バス
- ワイルド・アンガス
- ワイルド・サモアンズ
- ワフー・マクダニエル
- ワルドー・フォン・エリック
女子部 [編集]
- キティ・アダムス
- サンディ・パーカー
- シェリア・シェファード
- ジョイス・グレーブル
- スー・グリーン
- デイジー・メイ
- ドッティー・ダーンズ
- ドナ・クリスタネーロ
- トニー・ローズ
- ビッキー・ウィリアムス
- ファビュラス・ムーラ
- ペギー・パターソン
- ポーラ・ケイ
- レイラニ・カイ
関係者 [編集]
- グレート東郷(ブッカー)
- パーシー・プリングル3世(ザ・モンゴリアンズのマネージャー)
- バニー・キャロル(ジ・エンフォーサーのマネージャー)※エンフォーサー夫人
- フレッド・アトキンス(レフェリー)
参考文献 [編集]
- 『Gスピリッツ Vol.19』 辰巳出版、2011年。ISBN 9784777808922。
脚注 [編集]
- ^ a b 小佐野景浩 実録・国際プロレス第5回 菊池孝(前編)『Gスピリッツ Vol.15』 p69(2010年、辰巳出版)ISBN 477780772X
- ^ 原康史『激録・馬場と猪木』
- ^ 『Gスピリッツ Vol.19』、P84-85。
- ^ a b 『Gスピリッツ Vol.19』、P85。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.19』、P84。
- ^ a b c 『Gスピリッツ Vol.19』、P87。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.19』、P88。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.19』、P89-90。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.19』、P91。
- ^ 竹内宏介『プロレス醜聞100連発!!』88P-89Pより
- ^ 串間努『少年ブーム』、森達也『悪役レスラーは笑う』など。
- ^ 『VAN VAN 相撲界』1986年7月号、P17
関連項目 [編集]
- 菊池孝(プロレス評論家、国際プロレス中継解説者)
- 門馬忠雄(プロレス評論家、国際プロレス中継解説者)
- 竹内宏介(プロレス評論家、国際プロレス中継解説者)
- 山田二郎(TBS・アナウンサー)
- 杉浦滋男(東京12チャンネル・アナウンサー)
- AWA
- プロレス夢のオールスター戦
- デスマッチ
- パイオニア戦志
- 国際プロレスプロモーション
- IWA・JAPAN
- 日本女子プロレス