国際プロレス

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国際プロレス(こくさいプロレス)は、日本プロレス団体。正式名称はインターナショナル・レスリング・エンタープライズInternational Wrestling Enterprise)。略称はIWE

概要[編集]

1967年1月5日、大阪府立体育会館にてアントニオ猪木東京プロレスとの合同興行で旗揚げ[1]TBSと東京12チャンネル(現:テレビ東京)で定期放送されていた。テレビの定期放送終了の半年後、1981年8月9日の北海道羅臼町大会で活動を停止し、同年9月30日に解散した。団体名の名付け親はプロレス評論家の菊池孝という説があったが、本人は小佐野景浩2010年に行なったインタビューでこれを明確に否定しており、「吉原さんが考えたんじゃないかな」と語っている[2]

会社事務所は当初は東京都港区青山に置いたが、1970年に渋谷へ移転し、1972年に新宿区高田馬場の原田ビル(現在の新陽ビル)に移転して解散まで使用した他、道場は当初は青山や渋谷の事務所と同居だったが、1973年に埼玉県大宮市(現:さいたま市大宮区)へ移転した。大宮にあった道場は埼玉県道35号(産業道路)沿いでなおかつ京浜東北線与野駅さいたま新都心駅(当時はさいたま新都心駅は未開業)の中間付近に所在していた[3]

金網デスマッチの開催、選手入場時のテーマ曲の採用、日本人選手同士の対戦、日本人覆面レスラー覆面太郎)の登場、日本人ヒールユニット(独立愚連隊)の結成、専用移動バスの導入、外国人留学生制度など、当時としては斬新だった事例を他団体に先駆けて取り入れるなど、進取の気風に富んでいた[4]

歴史[編集]

旗揚げ、東京プロレスとの業務提携[編集]

創業者の吉原功社長は、早稲田大学レスリング部出身の元プロレスラーで、日本プロレスの営業部長を務めていた。しかし、力道山の死後、経理担当取締役の遠藤幸吉リキ・スポーツパレスの売却問題を巡って対立[5]1966年10月に日本プロレスを退社し、新団体の国際プロレス(インターナショナル・レスリング・エンタープライズ株式会社)を設立する[1]。創業当初は陣容が手薄だったこともあり、旧来の「団体」という形ではなく、シリーズごとに選手と出場契約を交わし、試合をするリングのみを提供するという、アメリカのプロレス業界と同様のフリーランス・システムを提唱、プロダクション的な「興行会社」のスタイルを志向していた[2]。そのため、当初は日本プロレスにも協力を求めていたが、日本プロレス側はこれを拒絶[2]、この構想は機能することなく、自前の所属選手を抱えて興行を打つ従来型のプロレス団体への転換を余儀なくされた[6]。なお、日本のプロレス団体で最初に所属選手の契約書をつくったのは国際プロレスである。

アメリカで活躍する日本人プロレスラーのヒロ・マツダをエース兼ブッカーとし、日本プロレスからマツダの日体荏原高校時代の後輩マティ鈴木およびアマチュアスポーツのトップアスリートだった杉山恒治(サンダー杉山)と草津正武(グレート草津)を同道した。旗揚げに際しては、国際プロレスに先んじて旗揚げしたものの興行不振で単独での興行能力を失っていた東京プロレスからアントニオ猪木らが参加し、合同興行の形で『パイオニア・シリーズ』と銘打たれた旗揚げシリーズを1967年1月に開催。合同興行とはいえ主催は国際プロレスで、東京プロレス側にギャランティーを支払うという形で話がまとまった[2]ダニー・ホッジ、ザ・ケンタッキアンズ(ジェイク・スミス&ルーク・ブラウン)、エディ・グラハムジョニー・バレンタインを招聘し、アメリカでもコンビを組んでいた猪木とマツダのタッグも注目を集めたが、テレビ局との放映契約を結べなかったこともあり、興行は振るわず東京プロレスとの提携もこの旗揚げシリーズのみで破綻する形となった[7]。この時、猪木は永源勝(永源遙)、北沢幹之柴田勝久らと日本プロレスへ帰参したが、木村政雄(ラッシャー木村)、寺西勇らは国際プロレスに残留した。猪木らの離脱と入れ替わるように、旗揚げ興行に参加しなかった豊登が参戦し、マツダとのタッグが看板チームとなった。

しかし、戦力、資金面、テレビ中継の有無でも日本プロレスとの差は歴然とし、1967年8月14日に大阪で行われた日本プロレスとの興行戦争(日本プロレスは大阪球場、国際プロレスは大阪府立体育会館でそれぞれ開催。日本プロレスのメインイベントはジャイアント馬場VSジン・キニスキーインターナショナル・ヘビー級王座戦、国際プロレスのメインイベントはヒロ・マツダ&サム・スティムボートVSロジャー・カービー&ビル・ドロモ戦)は「大阪夏の陣」として話題となったが、国際プロレスは日本プロレスに興行面で惨敗してしまう[6]

TBSプロレスとして再起動、国際プロレスへの回帰[編集]

1967年8月1日、TBSとの放映契約がまとまり「来年1月からの中継開始」が発表された。国際プロレスは資金調達の名目で、吉原功の早稲田大学時代の友人であるTBS運動部副部長の森忠大の仲介により、広島の乳業会社社長だった岩田弘に株を譲渡して融資を仰いだ[8]。この結果、岩田が国際プロレスの新しいオーナーとなり[9]、TBSのバックアップを受ける形で仕切り直しを行うこととなった。また、同時期にヒロ・マツダが吉原と決裂して国際プロレスを離脱したため、マツダに代わる外国人招聘のブッカーとして、4年前に日本プロレスの契約を打ち切られたグレート東郷が迎えられた[10]

同年11月20日、TBSによる全国中継開始の記者会見が行われ、TBS運動部部長の鶴田全夫と森および岩田が出席したが、吉原は会見に姿を現さなかった。そのため、吉原はTBSと岩田によって蚊帳の外に追いやられ、団体の運営を彼らに掌握されたと考えられていたが、当時の吉原は国際プロレスが赤字続きだったため多重債務を抱えており、公の場に出られる状況ではなかったという[11]。東郷にブッカーを委ねたのは吉原自身であり、放送責任者の森はテレビ中継、新オーナーの岩田は経営と、それぞれの立場から団体運営のハードの部分には携わっていたものの、ブッキングやマッチメイクなどリングの上に関するソフトの部分には、それほど関与していなかった[9][11]

1968年1月、TBSのネームバリューを活かして団体名を『TBSプロレス』と改称し[11]ルー・テーズ、ダニー・ホッジ、ハンス・シュミットワルドー・フォン・エリックブルドッグ・ブラワー、レフェリーのフレッド・アトキンスなどの豪華外国人を招聘して新シリーズを開幕[12]。森の意向で新人のグレート草津がエース候補に抜擢され、テレビ中継は『TWWAプロレス中継』として開始した。1月3日のテレビ放映第1戦は前述の「大阪夏の陣」以来となる日本プロレスの蔵前国技館とTBSプロレスの日大講堂の同一日興行となり(日本プロレスのメインイベントはジャイアント馬場VSクラッシャー・リソワスキーのインターナショナル・ヘビー級王座戦、国際プロレスのメインイベントはルー・テーズに草津が挑戦したTWWA世界ヘビー級王座戦)、「隅田川決戦」としてマスコミの話題となったが、草津はテーズのバックドロップに失神KO負けを喫し、新エース誕生というTBSの構想は頓挫、興行面でも「大阪夏の陣」同様、再び日本プロレスに惨敗してしまう。以降プロレス界は日本テレビとTBSのテレビ2局の対立時代に入った。

ところが、『TWWAプロレス中継』の開始から間もなく、プロレス業界の前時代的な経営体質に失望した岩田が吉原と決別して撤退[13]。リング上においても、草津が1月8日に鹿児島県体育館でテーズとの再戦を行うも再び敗退[† 1]。放送第2週の1月10日の大分県立荷揚町体育館ではサンダー杉山をテーズにぶつけるが杉山も敗れ、1月12日には九電記念体育館豊登がテーズと対戦したが、豊登も敗退してしまう[† 2]。放送第3週の1月17日には、仙台宮城県スポーツセンターにおいて豊登VSテーズの再戦が予定されていたが、東郷は豊登に代わって日本プロレスから大木金太郎を引き抜いてテーズと対戦させようと計画、大木も一旦は承諾して仙台へ向かったものの、日本プロレスにもこの情報が入り、引き留め工作により大木の引き抜きは失敗に終わった(試合は当初の予定通り豊登VSテーズ戦が行われ、テーズが勝利。その翌日の1月18日、日本プロレスのユセフ・トルコ松岡巌鉄が東郷の宿泊先に押しかけて暴行を加えるという事件が起き、警察沙汰となって一般新聞でも大きく報道された)[14]

さらに同年2月19日の『TWWAワールド・タッグ・シリーズ』静岡県浜松大会では、ブッキング料を巡る金銭上のトラブルから、招聘した外国人選手に試合出場を東郷がボイコットさせる事件が発生。この影響で2大会を日本人選手のみの興行とし、2月21日放送の『TWWAプロレス中継』は急遽、前月の1月12日に行われた九電記念体育館大会の録画中継に変更され、そして同年2月23日をもって東郷はTBSプロレスと絶縁する事態となった[15]。これら一連の緊急事態を受け、イメージの悪化を懸念した局側の申し入れにより団体名は再び『国際プロレス』に戻り[16]、団体は新路線を模索することとなる。吉原は、当時早稲田スポーツ部OB会長の座にあり、レスリング部OBの吉原にとっても柔道部OBの森にとっても近しい存在だった日本レスリング協会会長の八田一朗の紹介を受けて新たにヨーロッパからの外国人選手ルートの開拓に成功した。

しかし、グレート東郷による外国人選手ボイコット事件の余波は『TWWAワールド・タッグ・シリーズ』の次期シリーズである『日・欧 決戦シリーズ』にも影響し、同シリーズは全9戦という日程となった。また、東郷とのトラブルを受けての急遽の招聘だったこともあり、ヨーロッパからの外国人選手は就労ビザではなく観光ビザでの来日となったため、開幕戦である2月28日の栃木県足利市月丘高校体育館大会(メインイベントは豊登&杉山VSトニー・チャールズ&リー・シャロンのTWWA世界タッグ王座戦)は入場無料のチャリティー興行へ急遽変更されたが[15]、生中継は予定通り行われた(翌日に香港に飛んでビザを切り替え、第2戦からは通常の興行開催が可能となった)[17]。同シリーズは開催までの期間がほとんどなかったため宣伝はまったく行われず、パンフレットを販売しない会場もあった[18]

外国人選手の招聘[編集]

当時の日本プロレス界はプロレスのメッカであるアメリカから大物外国人を招聘することがステータスの時代だった。国際プロレスでは設立当初、ヒロ・マツダをエース兼ブッカーとしてアメリカからのレスラー招聘責任者とした。しかしマツダは1967年の2シリーズの終了後、TBSの放送開始を待たず、同年秋までに離脱してしまう。そこで国際プロレスは日系レスラーの大物グレート東郷にブッキングを依頼した。東郷はかつて日本プロレスのブッカーを務めていたが、力道山の死後は絶縁状態となっていた。東郷はカナダ(トロント地区)のプロモーターであるフランク・タニーを代表としてTWWAを設立。1968年1月、初代TWWA王者として認定されたルー・テーズを初めとする大物レスラーを招聘してシリーズを開催、TBSの放送も開始された。しかしその東郷とも同年2月には前述のトラブルから離別し、国際プロレスは北米ルートを完全に遮断されてしまう。

そのため吉原は八田一朗の力を借り、それまで日本プロレス界と縁の薄かったヨーロッパのマット界との提携に乗り出し、コネクションを形成していく。これによりビル・ロビンソンビリー・ジョイストニー・チャールズアルバート・ウォールパット・ローチワイルド・アンガスアル・ヘイズダニー・リンチなどのイギリス勢をはじめ、西ドイツホースト・ホフマンフランスモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)スイスジャック・デ・ラサルテス、そして欧州を主戦場としていたカナダ出身のジョージ・ゴーディエンコなど多くの強豪レスラーが、国際プロレスで初来日を果たした。なお、このヨーロッパのコネクションと吉原が協力して立ち上げたのが、団体崩壊までのタイトル統括組織となったIWAである。

欧州ルートを確立しつつ、フリーランス選手のシャチ横内のブッキングでバディ・コルトらを招聘するなど、アメリカのルートも少しずつ繋がり始めたが、NWAのコネクションは日本プロレスが握っていたため、NWAに次ぐアメリカのメジャー団体だったAWAに接近する。1970年2月にAWAの実質上のオーナーであり、現役世界ヘビー級王者のバーン・ガニアが来日して国際の主力勢を相手に防衛戦を行い、「AWA極東支部」の看板を掲げ本格提携がスタートした[19]。以降はガニアやエドワード・カーペンティアマッドドッグ・バション&ブッチャー・バションをはじめとする世界タッグ王者チームなど、AWA系の大物レスラーを数多く招聘、日本プロレスと遜色ない顔ぶれが揃うようになった。また、この提携はアンドレ・ザ・ジャイアントのアメリカ進出の契機ともなった[17]。一方で、1972年に旗揚げした新日本プロレスが、カール・ゴッチをブッカーにヨーロッパの選手を招聘するようになったこともあり、欧州マットとの繋がりは薄れていった。1974年11月にはシングル王者のガニアと、タッグ王者のニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスを同時招聘しての豪華な興行も開催された。

しかし、AWAが要求する高額な提携料は団体の運営を圧迫させることとなったため、1975年よりカナダカルガリー大剛鉄之助を支部長とする北米支部を設置して新たな招聘窓口とし、AWAルートは事実上解消された[20][21]。のちの関係者の回想によると、ガニアから「自分たち(AWA)を取るか、大剛を取るか」と迫られ、吉原が大剛を選んだとされている[20]。カナダのルートでは「ギャラは安いが中身が凄い外人選手」[21]を発掘し、ジプシー・ジョーキラー・トーア・カマタなど、当時のエースだったラッシャー木村と手の合う流血派のラフファイターが中心となったが、AWA時代と比べ外国人選手のネームバリューはスケールダウンすることとなった。大剛ルート以外では、新日本プロレス全日本プロレスと接点の無かったアメリカのミッドサウス地区(ビル・ワットMSWA)やテネシー地区(ジェリー・ジャレットCWA)、最末期にはメキシコのEMLL系からもレスラーを招聘した。1979年から1980年にかけてはAWAルートも一時的に復活、ヘビー級王者となっていたボックウインクルが来日して防衛戦を行い、ガニアの再来日も実現したが、本格的な提携再開には至らなかった。

前述の通り日本プロレスの全盛時は、大物外国人をなかなか招聘できずに苦戦していた。しかし欧州やAWAとの提携路線を敷いて以降は、後にNWAやWWFなどアメリカのメジャーテリトリーや他団体の新日本プロレスおよび全日本プロレスで活躍する選手の中には、国際プロレスが初来日となったケースは多い。欧州ルートのビル・ロビンソンやアンドレ・ザ・ジャイアントのほかにも、AWAルートではダスティ・ローデスブラックジャック・マリガンワフー・マクダニエルスーパースター・ビリー・グラハムバロン・フォン・ラシクケン・パテラ、そして当時無名の存在だったリック・フレアー、カナダやミッドサウスのルートからはワイルド・サモアンズリック・マーテルジェイク・ロバーツデビッド・シュルツダイナマイト・キッドなどがいる。東京12チャンネル(現・テレビ東京)によるレギュラー中継終了直後の1981年4月(『'81ビッグ・チャレンジ・シリーズ』)にも当時「まだ見ぬ強豪」として初来日が待望されていたポール・エラリングスティーブ・オルソノスキーを招聘しており、未来日の新鋭レスラーのブッキングには最後まで意欲的であったが、レギュラー中継終了前後には4人を呼ぶのがやっとの状態でもあった。

カラー放送開始、金網デスマッチ[編集]

TBSの『TWWAプロレス中継』におけるカラー放送での実況中継は、すでにカラー放送を実施していた『日本プロレス中継』(日本テレビ)のみならず、1969年7月に始まった『NETワールドプロレスリング』(NETテレビ〈現・テレビ朝日〉)にも先行される形となり、『'70ワールド・チャンピオンシリーズ』中の1970年4月22日(カラー化初回は4月13日に開催された北九州市若松大会の録画中継)になってようやく開始された。

その半年後の1970年10月8日、『'70ダイナマイト・シリーズ』大阪府立体育会館大会において、日本初の金網デスマッチであるラッシャー木村VSドクター・デス戦が、事前に告知されることなく行われた。テレビでは翌週の10月14日に録画中継された。

この金網デスマッチが決行された伏線として、同シリーズの目玉選手として招聘を予定していたスパイロス・アリオンの参加キャンセル問題があった。当時、国際プロレスはヨーロッパルートに加え、NWAと比肩していたバーン・ガニア率いるアメリカのメジャー団体AWAと提携し、ネームバリューのある外国人レスラーを招聘できる体制が整ってきていた。そこで、国際プロレスは1970年6月にデイリースポーツの協力を得て、未来日の外国人選手をファン投票をもとに招聘する『あなたがプロモーター』なる企画を行い、1位となったアリオンや2位のミル・マスカラスを含む投票上位選手の招聘を計画した。しかし、圧倒的な海外ネットワークを持つ日本プロレスにことごとく妨害された[22]。アリオンも一度は来日に合意し、シリーズのポスターに写真が掲載されていたにもかかわらず土壇場でキャンセルとなったため(アリオンとマスカラスは翌1971年2月に日本プロレスに初来日)、当初予定していたサンダー杉山とのIWA世界ヘビー級王座戦も中止に追い込まれた。その代替カードとして浮上したのが、遺恨が発生していた木村とドクター・デスの決着戦であり、完全決着戦として日本初の金網デスマッチが実現することとなった。関係者は急遽、アメリカで行われた金網デスマッチの写真を参考に金網を製作したが、余りにも急なことだったため、金網に出入口を付け忘れてしまったという珍事が起きている[23]

国際プロレスにおける金網デスマッチのルールは反則攻撃は可能で、ノックアウトまたはギブアップでの決着であり、ノックアウトの場合は相手をピンフォールして3カウントを奪った後、レフェリーがさらに10カウントを数え、相手がノックダウン状態のままカウント内に立ち上がれなければKO勝ちとなるというボクシングと同様のもので[† 3]、アメリカでは一般的なエスケープ・ルール(金網から脱出した選手が勝者となるルール)とは異なっていた。

国際プロレスとしては、金網デスマッチはラッシャー木村VSドクター・デス戦の一回限りと考えており、TBSもこの試合のみで金網デスマッチの中継を封印した。しかしその後、全国のプロモーターから金網デスマッチの興行開催を要求され、その要望が多かったことからタイトルマッチでも金網を使用するようになるなど乱発を余儀なくされ、時にはチェーン・デスマッチインディアン・ストラップ・マッチを併用する場合もあった。さらには木村以外の選手も金網デスマッチに出場することになり、その結果、マンネリ化により団体の首を絞める結果となってしまうばかりか、放送カードに自主規制をかけた『TWWAプロレス中継』の低迷の遠因ともなった。

国際プロレスの主要タイトルの防衛戦における金網デスマッチは、IWA世界ヘビー級王座では1972年1月27日の横浜文化体育館でのストロング小林VSカーティス・イヤウケア戦、IWA世界タッグ王座では『TWWAプロレス中継』打ち切り翌日の1974年3月31日の釧路でのラッシャー木村&グレート草津VSジム・ブランゼル&ザ・ブルート戦、WWU世界ジュニアヘビー級王座では1979年11月7日の弘前における阿修羅・原VSジプシー・ジョー戦において初めて行われた(IWA世界ミッドヘビー級王座では金網デスマッチは行われなかった)。

全日本プロレスを設立したジャイアント馬場が国際プロレスに特別参戦する2日前の1972年11月27日、『ビッグ・ウインター・シリーズ』愛知県体育館大会で日本初の金網タッグデスマッチ、王者チームのディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーにストロング小林&グレート草津が挑戦するWWA世界タッグ王座戦が行われたが、ダウンした日本人組をリングに残したまま外国人組が金網から脱出して控室に戻るという不透明決着となる(結果は無効試合となり、王者チームの外国人組がタイトルを防衛)[† 4]。これは、外国人側が前述のノックアウト・ルールを理解せず、アメリカで一般的なエスケープ・ルールと誤認していたためであるが[22]、この決着に納得しない観客が暴動を起こすという事態に発展。国際プロレスは愛知県警察に出動を要請し、機動隊約100人が出動する騒ぎとなった[† 5]。なお、小林とリソワスキーは翌11月28日に静岡で行われたIWA世界ヘビー級王座戦でも金網デスマッチで対戦している(小林&草津VSブルーザー&リソワスキーの再戦は3日後の11月30日、水戸にてWWA世界タッグ選手権とIWA世界タッグ選手権とのダブルタイトルマッチとして行われたが、この試合は金網デスマッチではなく通常の試合形式で行われ、12月24日に録画中継された)。

1973年11月28日、横浜文化体育館にて日本初の金網インディアン・ストラップ・マッチとしてグレート草津VSワフー・マクダニエルが行われた。この際のルールは、相手をノックアウトした後、相手を引きずってリングを2周すれば勝利するというものであった(アメリカでは1周ルールが一般的)。当日は番組収録も行われており、マイティ井上VSデーブ・ラーセンが12月15日に、ストロング小林&ラッシャー木村VSオレイ・アンダーソン&ジン・アンダーソンミネソタ・レッキング・クルー)が12月22日にそれぞれ録画中継された。また、1974年6月5日には米沢にて、日本初の金網チェーン・デスマッチとしてラッシャー木村VSセーラー・ホワイトが行われた。

1974年9月に『国際プロレスアワー』としてレギュラー中継を再開した東京12チャンネル(現:テレビ東京)では金網デスマッチの放映を解禁した。東京12チャンネルにおける金網デスマッチ中継初回は、同年7月5日に行われた『'74ビッグ・サマー・シリーズ』鹿児島県鹿屋大会のラッシャー木村VSザ・キラー戦で、両者による金網チェーン・デスマッチを7月29日に『月曜スポーツスペシャル』枠で録画中継した。『国際プロレスアワー』は後述の通り基本的に録画中継だったため、凶器攻撃や金網に乱打している最中は「このシーンは凄惨なため、放送をご容赦ください」というテロップと観客席を映し、そのシーンを映さない策が講じられた。その映像のカットは激しい流血を伴う凶器攻撃の最中だけで、攻撃が終了した後は、おびただしい流血になろうと中継をカットすることはなかった。東京12チャンネルにおける金網デスマッチの中継は、レギュラー放送を打ち切って特番枠へ移行した後の1981年5月16日に後楽園ホールで行われたポール・エラリング&テリー・ラザンVSマイティ井上&阿修羅・原のIWA世界タッグ王座戦(同年9月16日に録画中継)が最後となったが、金網デスマッチ自体は崩壊当日まで行われた。

テレビ放映権移行、全日本プロレスとの交流[編集]

豊登、杉山、草津らによる複数エース体制を経て、1971年からはストロング小林のエース体制が確立した国際プロレスであったが、1974年2月に小林が離脱し、フリー宣言を行って新日本プロレスへ転出した。これに対し、国際は契約違反として小林に違約金の支払を求めたが、東京スポーツが仲介に入り、和解金を国際に支払った上で、小林は「東京スポーツ所属選手」として新日本に参戦することで決着した(1975年より正式に新日本所属選手となる)。

TBSの『TWWAプロレス中継』も1972年から変化が生じる。同年1月に放送時間が水曜19時台前半のみの30分に短縮され、さらに4月にはゴールデンタイムを外れ日曜18時台へ移動したと同時に、基本的に録画中継へと変更された。この時期からネットを打ち切る局が現れた他、1973年10月には放送時間が土曜午後に再び移動したことに加え、愛知県体育館大阪府立体育会館などの大会場を放送エリアに抱える中部日本放送(現:CBCテレビ)と朝日放送における放送が遅れネットに変更されるなど、状況はますます悪化。ついにTBSは1974年1月28日の『'74パイオニア・シリーズ』岩手県営体育館大会を最後の番組収録とした上で、同年2月に『TWWAプロレス中継』の打ち切りを正式発表。『'74チャレンジ・シリーズ』開幕の4日後である1974年3月30日をもって『TWWAプロレス中継』の放送を終了した。

この窮地を救ったのが、吉原功の早大レスリング部の盟友だった東京12チャンネルの白石剛達運動部長である[24]。TBSの放送打ち切り後、吉原は白石に国際プロレスのテレビ中継を嘆願し、これが通じて東京12チャンネルは『月曜スポーツスペシャル』内での単発放送に踏み切る。初回放送として、1974年6月3日の『'74ダイナマイト・シリーズ』後楽園ホール大会が生中継で放送され、その後も2回『月曜スポーツスペシャル』で単発放送された。そして同年9月23日、『国際プロレスアワー』として、かつてNETテレビで『NETワールドプロレスリング』を放送していた月曜20時台において、半年ぶりにレギュラー中継が再開された。レギュラー放送の復活初回放送は、『TWWAプロレス中継』と同じく日大講堂大会の生中継であった。

また、全日本プロレスとの交流戦も国際プロレスの苦境を救った。もともと全日本プロレスとは協調路線を保っていたため(全日本プロレスが旗揚げする際、吉原社長は選手不足の全日本にサンダー杉山を友好トレードしている他、1972年11月29日・30日にはジャイアント馬場が国際プロレスに友情参戦)、TBSによる放送打ち切り後初のシリーズとなった『'74チャレンジ・シリーズ』は国際・全日本提携記念シリーズとして開催され、全日本から馬場をはじめ高千穂明久サムソン・クツワダ大熊元司の4選手が3月26日から4月10日まで参戦した(本来は4月11日まで参戦予定だったが、当日予定していた大阪府立体育会館大会が交通機関のゼネストの影響で中止となったため[25]、4月10日島根県出雲大会までの参戦となった)。

さらに、1975年12月に全日本プロレスが開催した『オープン選手権』にはラッシャー木村、グレート草津、マイティ井上の3人が参加(外国人選手もバロン・フォン・ラシクホースト・ホフマンAWAのブッキングで参戦)。1977年12月の『世界オープンタッグ選手権』にも木村と草津が国際プロレス代表チームとして参戦し、井上も高千穂明久との混合タッグで出場している。その間の1976年3月28日には蔵前国技館にて全日本との対抗戦が行われ(メインイベントはラッシャー木村VSジャンボ鶴田)、以降も1977年11月の『全軍対抗戦』、大木金太郎の金一道場を加えた1978年2月の『全日本・国際・韓国 全軍激突戦』など対抗戦形式の単発シリーズが開催された(1977年の『全軍対抗戦』には、外国人選手も国際プロレスからキラー・ブルックスとブルドーザー・ビッグ・ベン、全日本プロレスからビル・ロビンソンジム・デュランが両団体の前シリーズより残留参戦したが、彼らは対抗戦には出場せず、それぞれの招聘団体の日本人選手と対戦した)。1978年11月に国際プロレスが主催した『日本リーグ争覇戦』にも、ジャンボ鶴田、キム・ドクミスター・サクラダら全日本プロレスの選手が参加した(前年に大相撲からプロレスに転向した石川隆士は、このリーグ戦においてフリーの立場で凱旋帰国を果たしている)。

全日本プロレスとの対抗戦は、全国ネットを持つ日本テレビに国際プロレスのレスラーが映るというメリットも生んだが、全日本の選手に敗れることによるイメージダウンを懸念した東京12チャンネルは反対していたという[20]

女子部創設[編集]

1974年9月の東京12チャンネルにおけるレギュラー放送開始と同時に、国際プロレスは女子部を創設した。これに伴い戦後に存在した全日本プロレス協会に次いで、興行プログラムに女子の試合を挿入する日本で2番目の男女混合プロレス団体となった。

女子部創設の背景には東京12チャンネルで中継を始めるに当たって、1972年に解散した日本女子プロレスを中継していた局側から女子プロレスを組み込んで男女並立で放送することと、毎月最終週のプロレス中継を休止し、プロボクシング中継番組である『KO(ノックアウト)ボクシング』を放送することを条件として提示されたことにある。ちなみに日女の旗揚げは国際プロレスと同じ1967年で、旗揚げ戦の会場も同じ台東区体育館だった。

女子部には日女に最後まで残っていた小畑千代佐倉輝美千草京子が所属、外国人も日女に参戦していた世界王者、ファビュラス・ムーラが参加し、日女の実質的な後継となった。ムーラ門下生を中心に外国人選手も多く招聘した。レフェリーは男子の所属選手だった若松市政が主に担当した。

最初の試合は『'74スーパー・ワイド・シリーズ』開幕戦となった1974年9月15日の後楽園ホール大会で、第4試合として千草と元WWWA世界王者サンディ・パーカーのシングルマッチ、第6試合として小畑&佐倉組対ムーラ&ポーラ・ケイ組のタッグマッチが組まれた。

テレビ局主導で始められたため、テレビマッチではいかなる場合でも女子の試合は中継された。しかし、当時はまだ男子プロレス選手及び関係者、ファンの間では女子を受け入れる風潮がなかった。これらゆえに反発も多く、さらに、日女から分かれて旗揚げされた全日本女子プロレスマッハ文朱らの活躍により人気絶頂だったこともあり、1976年に女子部は解散した。

最終試合は4月12日「ダイナマイトシリーズ」第12戦における小畑対佐倉のIWWA太平洋岸選手権試合で、小畑が勝利してタイトル防衛に成功した。ちなみに全女ではマッハが引退し、ビューティ・ペアブームが始まらんとした時期であった。

国際プロレス女子部は1年半強という短い活動期間であったが、後に全女の常連外国人として活躍した選手の中にはビッキー・ウィリアムスジョイス・グレーブルレイラニ・カイら国際プロレスで初来日を果たした選手も含まれている。

なお、前出のIWWA太平洋岸選手権を含め女子のタイトルはすべて封印されたが、そのうちIWWA太平洋岸タッグ選手権は後にジャパン女子プロレスに持ち込まれて復活している。

国際女子部解散後、男女混合団体の復活は1989年FMWまで13年待つことになる。

テーマ曲導入[編集]

現在では一般的となった選手別のテーマ曲を流しながら選手が入場するという演出は、国際プロレスが初めて採用した。選手入場時に音楽を流すこと自体は以前から他団体でも行っていた。しかし、流れる曲は放送局のスポーツテーマやマーチばかりであった。

そこで『国際プロレスアワー』のプロデューサーであった田中元和は、西ドイツ遠征時にちあきなおみの「四つのお願い」で入場したマイティ井上などから意見を募り、ジャンルを問わずに各選手別のイメージに合ったテーマ曲に乗せながら入場するというアイデアを画策した。

各選手別のテーマ曲第1号は、東京12チャンネルにおける最初のレギュラー中継のシリーズとなった『'74スーパー・ワイド・シリーズ』に来日したスーパースター・ビリー・グラハムのテーマに採用され、曲はミュージカルジーザス・クライスト・スーパースター』のサントラ曲である「Jesus Christ Superstar」であった。但し、1979年にグラハムが再来日した際は101ストリングス・オーケストラによるカバー・バージョンが使用された。

その後も他の選手へも波及していったが、ラッシャー木村の場合は当初はダニエル・ブーンの「Skydiver」を使用したが、「Skydiver」はほとんど使用されず、対戦相手のテーマやIWA世界タッグ王者のテーマ[† 6]で入場することもあったが、最終的にはサンディ・ネルソンの「Rebirth of the beat」に落ち着いている。阿修羅・原のテーマ曲となった「阿修羅」は国際では唯一、オリジナルとして一から制作されたテーマ曲である。また、1980年の『'80ビッグ・サマー・シリーズ』に来日したランディ・タイラースパイク・ヒューバーに至っては、シリーズ後半から『国際プロレスアワー』の直前番組となったドラマ・『ぼくら野球探偵団』のオープニング及びエンディングテーマ曲のカラオケバージョンが使用された(タイラーはオープニングの「マジカル・アクション!!」、ヒューバーはエンディングの「アイム・ダンディ」で、いずれも歌唱アーティストはノヴェラ)。

新日本プロレスとの交流、崩壊[編集]

1974年2月のストロング小林の離脱後は、1975年からはラッシャー木村IWA世界ヘビー級王者としてエースを務めたが、人気面では国際プロレスは後発の新日本プロレス全日本プロレスに次ぐ第三の団体という位置付けであり、両団体と比較するとマイナー感は否めなかった。

小林の離脱後、TBSから東京12チャンネルへテレビ放映権が移行したが、同局の『国際プロレスアワー』の放送形態は末期の『TWWAプロレス中継』同様に基本的に録画中継で、なおかつ録画中継となった場合は収録から1〜2ヶ月後の放送となることもあった他[† 7]、試合の生中継や番組収録を実施する会場も1976年までは関東地方で開催された興行のみ中継され(1977年から関東地方以外で開催された興行の中継も本格的に開始)[26]、ネット局が多く全国をほぼカバーし、全国各地の興行で実況生中継を実施していた『ワールドプロレスリング』(NETテレビ→テレビ朝日)や『全日本プロレス中継』(日本テレビ)と比べ、視聴率は伸び悩むようになり、観客動員数も減少に転じる。全日本との対抗戦も土曜日に行われた場合は国際プロレス主催でも原則『全日本プロレス中継』で生中継され、『国際プロレスアワー』では録画かつダイジェストでの中継となるなど、中継面でも劣勢に立たされる。

また、当時は系列局を1局も持たなかった東京12チャンネルへの移行は、ネット地域を大幅に減少させることとなった。中京・関西地区ではキー局系列局で放送されず独立局での放送となり、愛知県体育館大阪府立体育会館という大会場を控える愛知・大阪の2府県では放送されず[† 8]、さらに当時民放4局が所在し、なおかつ札幌中島スポーツセンター宮城県スポーツセンター広島県立体育館という大会場を抱える北海道・宮城県・広島県におけるネットを完全に失うなど、全国ネットで所属選手の試合が放送される新日本や全日本と比べ、マイナー感に一層拍車がかかった。また、外国人招聘ルートを高額な提携料が必要とされるAWAから、大剛鉄之助をブッカーとする安価なカナダルートに変更させた結果、外国人選手のネームバリューにおいても他団体に見劣りすることとなった(海外ルートでは、新日本プロレスが旗揚げ以来もっとも劣勢に立たされていたが、国際とAWAの提携解消と同時期に、新日本はWWFとの提携を開始し、外国人選手の顔ぶれでも国際を凌駕するようになる)。

1970年代後半に始まった危機的状況を打開するために、1977年には近鉄ラグビー部(現:近鉄ライナーズ)に所属していたラグビー日本代表選手の原進(阿修羅・原)をスカウトし、ジュニアヘビー級のエースに育て上げて大々的に売り出したが、一方で、同時期より退団した選手やスタッフも相次ぐ。1977年には田中忠治が体調不良を理由に引退した他、名物レフェリーであった阿部脩参議院選挙全国区の落選の責任を取る形で退団。翌1978年には剛竜馬藤波辰巳への挑戦を表明し新日本へ移籍した。

また、他団体との交流においても変化が発生。1978年11月25日、全日本プロレスの協力で開催された『日本リーグ争覇戦』の蔵前国技館大会に、新日本プロレスからストロング小林と小林邦明が出場し、その見返りとして、新日本が同時期に開催していた『プレ日本選手権』の12月16日の蔵前国技館大会にアニマル浜口寺西勇を派遣。これに伴い、交流戦は全日本プロレスのライバル団体である新日本プロレスにシフトし(当時、吉原功と全日本のジャイアント馬場との代表同士の間で、何らかの金銭的なトラブルがあったことも原因とされる[27])、翌1979年には両団体を傘下とする日本レスリング・コミッションを設立。国際のIWA世界ヘビー級王座IWA世界タッグ王座、新日本のWWFジュニアヘビー級王座のタイトルマッチが団体間で行われたが、この時期から経営難により、ギャラの未払いが発生するようになった他[28]、都内におけるビッグマッチは、日大講堂撤退後は後楽園ホールでほとんどが行われ、蔵前国技館や大田区体育館における開催は数回にとどまった。入場人員5000人以上の大会場における開催は政令指定都市で行われるのがやっとの状態となった[29]

交流先を全日本から新日本へ変更しても危機状況は変わらず、1980年に入ると団体を取り巻く環境はますます悪化。2月には東京12チャンネルの主導により、TBSプロレス時代にグレート東郷が獲得できなかった大木金太郎が国際プロレスに入団したが、大木への交渉を事前に知らされていなかった吉原代表と東京12チャンネルとの間に軋轢を生む形となったばかりか[27]、大木が日本プロレス時代から保持していたインターナショナル・ヘビー級王座の防衛戦をNWA非加盟の団体である国際プロレスで行ったことから、かつての交流先でなおかつ日本におけるNWA加盟団体であった全日本プロレスから抗議を受けることとなった(大木は韓国におけるNWAプロモーターであり、日本プロレス崩壊後も韓国ではインターナショナル・ヘビー級王座の防衛戦を行っていたが、日本での主戦場としていた全日本プロレスのリングでは行われることがなかった)。

さらに7月26日には、埼玉県大宮市埼玉県道35号(産業道路)沿いにあった合宿所兼道場にタクシーが突っ込み、ガス爆発を起こし全焼する事故が発生[25]。幸い選手は前日に『'80ビッグ・サマー・シリーズ』最終戦(札幌大会)が開催されたため北海道にいたこともあり難を逃れた。

そうした中、東京12チャンネルは、10月より『国際プロレスアワー』の放送時間を月曜20時台から、かつて多団体放送時代の『プロレスアワー』や日本テレビで『全日本プロレス中継』を放送していた土曜20時台へ変更した。変更初回は滋賀県近江八幡大会の生中継で、インターナショナル・ヘビー級王座・IWA世界ヘビー級王座・IWA世界タッグ王座の3大タイトルマッチが放送された。このうち大木VS上田馬之助のインターナショナル・ヘビー級選手権試合に関しては、試合直後に大木はNWAからベルトを返上するよう勧告を受けた。その後、大木は翌11月に国際プロレスを退団し、後にNWAからのインターナショナル・ヘビー級王座返上勧告も受け入れた(インターナショナル・ヘビー級王座は翌1981年4月に全日本プロレスの王座として復活)。大木の退団は、もともと東京12チャンネルが視聴率アップのテコ入れとして半年契約で入団させたものの、それほど数字が上がらず契約が更新されなかったためであり、本人は契約の延長を望んでいたという[27]

さらに負傷や病気による離脱も相次ぎ、1980年3月にアニマル浜口が試合中にリング下で後頭部を打って長期欠場、復帰後の翌1981年4月にも肝臓疾患により戦線を離脱。1980年6月にはグレート草津が右足首骨折で、1981年4月には若松市政も急性膵臓炎でそれぞれ長期欠場、完治後もリングを離れて営業に専念することとなったために、もともと選手不足だった国際プロレスは、ますますマッチメイクに苦慮するようになる。

1981年は起死回生を果たすべくルー・テーズより寄贈されたベルトを争う『ルー・テーズ杯争奪戦』を年間の柱として計画、決勝まで1シリーズ内で行う全日本プロレスの『チャンピオン・カーニバル』や新日本プロレスの『MSGシリーズ』と異なり、『'81新春パイオニア・シリーズ』に前期予選を、『'81スーパー・ファイト・シリーズ』に後期予選をそれぞれ実施し、同年秋に決勝リーグ戦を行う予定だったが、そこまで団体を存続させることはできなかった。

3月には前年に全焼した合宿所兼道場の再建工事が開始されたものの[3]、東京12チャンネルは3月28日に放送された『'81スーパー・ファイト・シリーズ』宮城県大会(3月24日開催)をもって『国際プロレスアワー』のレギュラー中継を打ち切った。その後も東京12チャンネルは特番枠で放送することを前提として一部大会のテレビ収録を行ったが、6月25日に行われた『'81ダイナマイト・シリーズ』最終戦静岡県清水大会をもって特番枠における収録も打ち切られ、国際プロレスは重要な資金源であるテレビ放映権料を完全に失った。

以降、国際プロレスは7月16日に『'81ビッグ・サマー・シリーズ』を前年よりも8戦削減した全13戦の日程で開幕させた。参戦した外国人選手は同年1月に新日本プロレスに来日し、坂口征二が保持する北米ヘビー級王座に挑戦して敗れたジ・エンフォーサーをエース格とした寂しいシリーズとなってしまい、開催地も都道府県庁所在地では試合がなく東日本地区中心のローカル・サーキットとなり(西日本地区の興行は広島県における2戦のみ)、なおかつ最大で5日連続で興行のない移動・オフ日が設定され、さらには会場も屋外会場中心で、カードも6試合が組まれるのがやっとで、寺西勇菅原伸義冬木弘道がぞれぞれ1戦ずつ欠場するという緊縮日程となった。

シリーズ後半の北海道サーキットでは、8月6日に室蘭にてIWA世界ヘビー級選手権試合(木村VSエンフォーサーの金網デスマッチ)を、8月8日に根室にてIWA世界タッグ選手権試合(マイティ井上&阿修羅・原VSジェリー・オーツ&テリー・ギッブスの金網タッグ・デスマッチ)を行いながら興行を消化。そして8月9日、シリーズ最終戦で、なおかつ1972年11月3日以来の9年ぶりの興行開催となった羅臼町の羅臼小学校グラウンドでの試合を最後に興行活動を停止した。当日のメインイベントは国際プロレスとしては最後の金網デスマッチとなった鶴見五郎VSギッブス戦であった。『'81ビッグ・サマー・シリーズ』は当初は15戦の予定で、8月11日に留萌、翌8月12日に函館での興行がそれぞれ予定されていたが、中止となったため羅臼大会が国際プロレス最後の興行となった[30]

東京12チャンネルにおけるテレビ録画中継は、活動停止後かつ1981年10月1日のテレビ東京への局名変更直前にも行われ、同年9月16日(5月16日に後楽園ホールで行われた『'81ビッグ・チャレンジ・シリーズ』最終戦)と同年9月23日(同年6月25日に清水市鈴与記念体育館で行われた『'81ダイナマイト・シリーズ』最終戦)に深夜帯でそれぞれ放送された。しかし、『'81ビッグ・サマー・シリーズ』を最後に事実上単独での興行能力を失った国際プロレスは、1981年9月30日に正式に解散を発表し、名実共に崩壊[25]。認定タイトルであったIWA世界ヘビー級王座・IWA世界ミッドヘビー級王座・IWA世界タッグ王座も封印された。1981年秋に開催予定であった『ルー・テーズ杯争奪戦』決勝リーグも、団体崩壊に伴い完遂されることなく終わっている。

団体解散後[編集]

団体解散後は、吉原代表は引き続き新日本プロレスとの対抗戦を模索するが(1981年10月8日の新日本蔵前国技館大会のポスターにも国際の選手が名を連ねていた)、最終所属選手15人の内、マイティ井上は新日本参戦拒否をすぐさま表明し、井上に同調する形で阿修羅・原冬木弘道(のちのサムソン冬木)、菅原伸義(のちのアポロ菅原)、米村天心の5選手は全日本プロレスに移籍。全日本に移籍した5選手は、同年10月2日開幕の『'81ジャイアント・シリーズ』から参戦し、待遇面もしばらくはマッチメイクなどで差別を受けた日本プロレス残党とは異なり、直接全日本プロレスとの契約となった。最終的に新日本プロレスのリングに上がったのはラッシャー木村アニマル浜口寺西勇の3選手のみとなり、国際は事実上、木村派と井上派に分裂する事となった。木村・浜口・寺西の3人は国際軍団(はぐれ国際軍団)としてリングに上がり、ヒールとして、新日本プロレスのファンから憎悪を一身に浴びることになる。

一方でフリーになった上で海外へ活路を求めたレスラーや、引退したレスラーもおり、鶴見五郎西ドイツへ、高杉正彦マッハ隼人メキシコへ渡った他、若松市政カナダへ渡り悪役マネージャーとして活躍した。ミスター珍はセミリタイアした他、グレート草津と秋吉豊幸は団体解散と同時に引退した。

吉原功社長はしばらくはプロレス界から離れていたが、1984年7月に新日本の顧問となったものの1985年6月に死去した。

後に、ラッシャー木村は元国際の剛竜馬とともにUWFへ、さらに全日本プロレスへ移籍。鶴見、菅原、高杉らとのユニットは「国際血盟軍」と呼ばれたが、剛・菅原・高杉はのちに解雇され「パイオニア戦志」を旗揚げ。木村の馬場とのタッグ結成、鶴見のSWS移籍により軍団としては崩壊した。アニマル浜口と寺西勇も後に新日本プロレスで長州力らと維新軍団を結成後、ジャパンプロレス軍団となって全日本プロレスへ参戦した。冬木は後にSWSへ移籍し、珍もFMWで再デビューした他、最後まで全日本プロレスに残留した木村・井上は後に全日本を離脱し、プロレスリング・ノア旗揚げに参画した。

一方、パイオニア戦志は「オリエンタルプロレス」へ形を変えた後に崩壊。その後、高杉、鶴見で「レスリング・ユニオン」を立ち上げ、それぞれ「IWA湘南」「IWA格闘志塾」として活動した。レスリング・ユニオンには他にオリプロ出身荒谷信孝らの「IWA流山」なども参加。

後に鶴見は、吉原社長の遺族の了承を得て、「IWA格闘志塾」を改称する形で「国際プロレス」を名乗っていたが、鶴見は2013年に引退した。

崩壊時に所属していた選手で現役選手であるのは、高杉正彦とアポロ菅原の2人のみである(菅原は長期間レスラー活動を行っていない)。

テレビ中継を行っていたテレビ東京の連結子会社であったFMラジオInterFM[† 9]では崩壊30年後に国際プロレスに関する特集を組み、解散30年目に当たる2011年1月31日には国際プロレスに所属していた選手のテーマ曲を放送する特別番組『私の好きな国際プロレステーマ曲 名曲セレクション』が20:00 - 21:00に放送された。

タイトル[編集]

IWA(インターナショナル・レスリング・アライアンス)
TWWA(トランス・ワールド・レスリング・アライアンス)
IWWA(国際女子プロレス協会)
WWU(ワールド・レスリング・ユニオン)
リーグ戦
IWA選手権ルール
  • フォール、ギブアップ、ノックアウト、リングアウトで勝利した場合はタイトル移動。3本勝負の場合、3本目が反則勝ちの場合は移動が認められなかった。試合によって時間無制限一本勝負、61分3本勝負、61分1本勝負などルールは異なっていた。

所属選手[編集]

プロレスラー[編集]

解散時に所属していた選手
東京プロレスより移籍。ストロング小林離脱後のエースであり、金網デスマッチでは無類の強さを誇り「金網の鬼」と呼ばれた。国際崩壊後は新日本プロレスUWF全日本プロレスNOAHを渡り歩き、2004年引退、2010年死去。
ラグビー日本代表で、体格や出自に恵まれていたが、デビュー戦のルー・テーズ戦で惨敗。大成することなく選手生活を終える。長期欠場のまま国際崩壊を迎えると同時に引退。2008年死去。次男であるK-1ファイター草津賢治が2代目を名乗った。
ヨーロッパ仕込みのテクニシャン。国際の崩壊後は全日本プロレスに入団。その後はプロレスリング・ノアの専属レフェリー兼カラー・コメンテーターを務めた。2009年にノアとの契約満了で退団、2010年に引退興行がとり行われた。
「和製ブルーザー」の異名を持ち、パワーと全力ファイトが身上。グレート草津同様に長期欠場のまま国際崩壊を迎える。国際崩壊後はラッシャー木村、寺西勇と共に新日本プロレスへ参戦し、「国際軍団」の一員として活躍。のちに長州力とともに「維新軍団」(後にジャパンプロレスへ発展)を結成する。引退後は「アニマル浜口レスリング道場」で後進の指導に当たる。女子レスリングの浜口京子の父親である。
東京プロレスより移籍。空中殺法を得意とした技巧派で、「和製カーペンティア」の異名を持った。国際崩壊後はラッシャー木村、アニマル浜口と共に新日本プロレスへ参戦。
1979年に国際正規軍から造反し、大位山勝三と独立愚連隊を結成。のちにヒールへの道を歩む礎となった。国際崩壊後は西ドイツ遠征後、全日本プロレスへ参戦して外国人サイドで活躍。その後、SWSNOWなどを経てIWA格闘志塾を設立。吉原社長の遺族の了解を得て国際プロレスプロモーションを名乗り活動していたが、2013年8月引退。
団体崩壊時のジュニアヘビー級のエース。「和製チャールズ・ブロンソン」のイメージで売り出された。崩壊後は全日本プロレスに移籍。SWS→WARを経て、1994年引退。母校である諫早農業高校でラグビー部のコーチをしていた。
プロ柔道出身。全日本プロレス協会→日本プロレス→国際プロレス、その間にタレント活動でレスラー生活休業を挟む。晩年は重度の糖尿病で人工透析を受けながら、FMWに参戦したが、1995年死去。
海上自衛隊出身で1967年にレスラーとしてデビュー。村崎鬼三、村崎昭男、グレート・サキを名乗り、スペインへの転戦中に覆面レスラーに変身する。1980年の引退後は営業部に転属した。
大相撲出身。団体崩壊後は全日本プロレスへ転戦するも退団し、全日本退団後も妻の故郷である福島県会津若松市でちゃんこ料理店を営みながら全日本が会津地方で行う興行にスポット参戦していた。現在はちゃんこ料理店の営業に専念している。
当初は営業部員として入社するものの、プロレスラーになりたい未練から、31歳で遅咲きデビューを果たした。その後も団体崩壊まで営業とレスラーの2足わらじを兼務していたが、崩壊時は営業に専念していた。のちに新日本プロレスで悪役マネージャーとしてブレイクし、SWSの旗揚げにも大きく関わる。現在は芦別市議会議員。
覆面の元祖「逆輸入レスラー」。単身メキシコでデビュー。国際プロレスではEMLLとの選手招聘窓口も担った。国際崩壊後は全日本プロレスを経てUWFに参加。
学生時代はフットボーラー。崩壊後メキシコへ渡り、1982年の全日本プロレス移籍後は一時期、ウルトラセブンのリングネームでマスクマンに転向したが、剛竜馬・アポロ菅原共々全日本を解雇された。パイオニア戦志オリエンタルプロレスを経て湘南プロレスを設立。
ボディビル出身。国際崩壊後は全日本プロレスへ転戦するも剛竜馬・高杉正彦共々解雇。インディー団体を渡り歩く。
末期の国際プロレスに入団。崩壊後は全日本プロレス→SWS→WAR→FMW→WEWと団体を渡り歩く。理不尽キャラで人気を博すも2003年死去。
国際最後の興行でデビューするも、未勝利のまま1試合のみで引退。
解散前に退団した選手
日本人初のマスクマン「覆面太郎」としてデビューしたが、すぐに素顔に戻り、欧州やAWA遠征を経てエースとして台頭。1974年にフリー宣言し、新日本プロレスでのアントニオ猪木戦ののち、新日本へ移籍。移籍後は北米タッグ王座などのタイトルを奪取して活躍した。1982年、映画出演を機に「ストロング金剛」と改名してタレント活動を兼業。1984年引退。
1964年東京オリンピックのレスリング日本代表、「雷電ドロップ」と呼ばれるヒップドロップを得意としていた。1972年に全日本プロレスに円満移籍したが、1976年に全日本を退団しフリーに。その後は上田馬之助などと共闘した。後年、ビジネスを興し成功するが糖尿病を患い、2002年死去。
東京プロレス崩壊後、国際プロレスに入団。ストロング小林とのタッグでIWA世界タッグ王座を奪取。1970年に引退するが、2年後、新日本プロレスでカムバック。1998年死去。
日本プロレス在籍中、グレート東郷の誘いを受けてTBSプロレスへの参戦を計画していたが事前に断念している。その後1980年、東京12チャンネル主導で国際プロレスに入団するものの、半年ほどで退団。2006年死去。
旗揚げ時の国際プロレスのエース兼ブッカーを務めていたが、TBSプロレスへの移行期に吉原と決別して退団。以降はアメリカを主戦場に、全日本プロレスや新日本プロレスに時折参戦した。1999年死去。
国際プロレスの新人公募入団1号選手。藤波辰巳への挑戦を表明し、国際を脱退し新日本プロレスへ参戦。その後はUWFを経て全日本プロレスに移籍したが高杉正彦・アポロ菅原共々解雇となり、インディマット界を中心に活動。2009年死去。
大相撲出身。鶴見五郎と独立愚連隊を結成したが、崩壊直前に引退。
レスリング仕込みのテクニックを駆使して前座戦線を沸かせていたが、病魔に倒れ、1981年、29歳で死去。
元大相撲幕内力士。デビュー後まもなく退団。
東京プロレスより移籍。フィリピンに渡り、現地でレスラーの育成、団体を旗揚げする。
東京プロレスより移籍。カナダ修行から帰国直前の交通事故で右足を切断。引退後はカナダに居住し、ブッカー業に就く。崩壊後は新日本プロレスのブッカー兼トレーナー。
東京プロレスより移籍。豊登と常に行動を共にした。初代IWAミッド・ヘビー級王者。
日本プロレスデビューから国際プロレス引退まで生涯前座レスラーだった。
  • 本郷篤(本郷清吉)
のちに全日本プロレスに移籍し肥後宗典に改名。2002年死去。
主に海外マットを拠点に活動。全日本プロレスにも短期ながら在籍。現在はオレゴン州で実業家。
  • ヤス・フジイ(藤井東助、藤井三吉、零戦隼人、ドクター・ヒロ・オオタ、コロネル・ヤンキー)
マイティ井上と同期入門。1972年、海外修行中に一方的にフリー宣言(吉原代表との確執があったとされる)。主にアメリカ、ヨーロッパ各地を転戦。1979年上田馬之助のパートナーとして逆上陸を果たした。
旗揚げ直後に入門したが、1シリーズのみで退団。
大相撲からプロレスに転向。

女子プロレスラー[編集]

旧日女のエースで、元IWWA世界王者。引退後は全日本女子プロレスにて「魔界魔女軍団」を率いた。
小畑とのコンビで、IWWA太平洋岸タッグ王座を獲得。
国際女子部崩壊後は元全日本女子プロレスの阿蘇しのぶらと「ニューワールド女子プロレス」を旗揚げしたが、短期間で崩壊。

留学生[編集]

プロレス留学生第1号。
黒潮太郎に次ぐプロレス留学生第2号。

スタッフ[編集]

  • レフェリー・遠藤光男
かつてボディビルの「ミスター日本」に輝いたことがある。アームレスリング世界一の触れ込みで阿部脩離脱後の1978年より参加し、崩壊時までレフェリーを務めた。現在は日本アームレスリング連盟会長。
日本プロレス時代はジャイアント馬場と並ぶ巨漢レスラー。引退後はレフェリーに転向し、崩壊まで務めた。1991年死去。
レスラー時代は本業の傍ら、俳優業(大映専属)もこなした。首にぶら下げていたホイッスルがトレードマーク。1977年1977年参議院選挙全国区に出馬したが落選し、そのまま退団。
日本人とトンガ人のハーフ。大相撲三保ヶ関部屋に所属。廃業後プロ野球高橋ユニオンズに入団するも、直後に大映スターズとの合併により解雇され、プロボクサーに転向、2度日本ミドル級王者になった。引退後、ボウリングインストラクターを経て、プロレスのレフェリーと幾多のスポーツを渡り歩いた[31]。阿部脩の離脱後はメインレフェリーに。
レスラーとしてデビューしたが、その後引退。引退後はリングアナウンサーに転向。レスラーになる前は元トンボユニオンズのプロ野球選手だった。
団体の営業部長だったが、竹下民夫の離脱後はリングアナを兼任。「はぐれ国際軍団」のごく初期に、彼らにセコンドとして帯同したこともある。
崩壊後は全日本プロレス社員を経て現在はプロレスリング・ノア勤務。実弟は元十両力士・プロレスラーの維新力浩司

フリー参戦選手[編集]

来日外国人選手[編集]

プロレスラー[編集]

女子プロレスラー[編集]

来日外国人関係者[編集]

試合中継[編集]

DVD[編集]

プロレスのビデオ、DVDのソフト化は珍しいことではない。しかし、こと国際プロレスに関しては、TBS中継終期の名勝負はビデオソフト化され発売されたものの、東京12チャンネル放映時代の中・末期の映像は、団体の倒産及び中継終了以来、当時の映像の放映さえもほとんどなかった。わずかに、メインの実況を務めた杉浦滋男が死去した際、1977年3月に蔵前国技館で行われたIWAワールド・シリーズ決勝戦の映像の一部が、テレビ東京のスポーツニュースの枠で流れた事例がある。東京12チャンネルがテレビ東京と社名を変更し、本社社屋を神谷町から現在の虎ノ門に移転した際、その当時の映像は全て破棄されたという噂まであった。

DVD化は2007年3月になされた。1969年から1974年までのTBS時代の映像は新たに発掘されたものも含め『伝説の国際プロレス』、1974年から1981年までの東京12チャンネル時代の映像は『不滅の国際プロレス』と銘打ってポニーキャニオンから発売された。前者は竹内宏介が、後者は竹内とプロレスライターの流智美が監修を務めた。デイリースポーツによると、同2作品の企画者はポニーキャニオンの高原万平である。

2010年8月には、東京12チャンネル時代の映像を収録した『国際プロレス クロニクル』上巻が、2011年3月には同下巻がそれぞれクエストから発売された。『不滅の国際プロレス』同様に流智美が監修を務めた。

参考文献[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 鹿児島大会の草津VSテーズ戦は当初は放送予定がなかったが、TBS労働組合のストライキで生中継が中止となった4月24日に代替で録画中継された。
  2. ^ 豊登VSテーズも当初は放送予定がなかったが、後述するグレート東郷の外国人ボイコット事件の影響で2月21日に録画中継された。
  3. ^ ただし導入初期は、ピンフォールによる3カウントと、改めてのレフェリーによる10カウントとの間に、タイムキーパー(兼リングアナウンサー)が場内に読み上げる「30秒間」のカウントも挟んでおり、すなわち、3カウント→30秒→10カウントの、総計「43カウント」をとって初めてKO勝ちとなるルールになっていた。
    また、ごくまれに「金網マッチ」などと称し、他者の乱入を阻止する目的のみでリングに金網を設置し、試合は(デスマッチルールではなく)通常のプロレスルールで行ったケースもあった。
  4. ^ 実際には、当時のWWA世界タッグ王者チームはザ・ブラックジャックスであり、1972年11月末の時点ではブルーザー&クラッシャーはWWA世界タッグ王座を保持していなかった(Wrestling-Titles.com: WWA World Tag Team Title)。そのため、タイトルマッチはチャンピオン・ベルトが持参されていない状態で行われた。
  5. ^ 当日は番組収録も行われており、マイティ井上VSホセ・アローヨは12月3日に、ミスター珍VSダイドーネ・ムッソリーニは12月10日にそれぞれ録画中継された。
  6. ^ “IWA世界タッグ王者のテーマ”は、当時の東京12チャンネルのスタッフが、所蔵の音源からセレクトしたインストゥルメンタルの曲だが、現時点では曲目が不明とされている。
    また、東京12チャンネルでは「パープルページェントマーチ」とは別に、モダン・ジャズ風のインストゥルメンタル曲を、スポーツ中継のテーマ曲として採用していたことがあり、これを選手入場曲として使用したこともあるが、こちらも曲目などのプロフィールは不明である。
  7. ^ 試合中継も、プロレス雑誌(当時は全て月刊誌)による試合結果発表よりも遅いこともあった。
  8. ^ 当時はテレビ愛知テレビ大阪は開局前で、愛知・大阪の2府県における東京12チャンネル番組の放送は、キー局系列局で放送されるのが前提であった(周辺府県の独立局である三重テレビ放送岐阜放送近畿放送サンテレビジョンではネットされており、そこで視聴することは可能であった)。
  9. ^ 現在はテレビ東京の連結子会社ではなくなっている。

出典[編集]