国際プロレス

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国際プロレス(こくさいプロレス)は、日本プロレス団体。正式名称はインターナショナル・レスリング・エンタープライズInternational Wrestling Enterprise)。略称はIWE。会社事務所は高田馬場、道場は埼玉県大宮市(現:さいたま市)に存在した。

概要[編集]

1967年1月18日東京都浅草台東区体育館で、アントニオ猪木東京プロレスとの合同興行で旗揚げ。TBS東京12チャンネルで定期放送されていた。テレビの定期放送終了の半年後、1981年8月9日北海道羅臼町大会で活動を停止した。団体名の名付け親はプロレス評論家の菊池孝という噂があったが、本人は小佐野景浩2010年に行なったインタビューで、これを明確に否定している[1]。菊池は「吉原さん(吉原功)が考えたんじゃないかな」と語っている[1]

歴史[編集]

旗揚げ、東京プロレスとの業務提携[編集]

創業者の吉原功社長は、早稲田大学レスリング部出身の元プロレスラーで、日本プロレス営業部長を務めていたが、力道山の死後、経営方針を巡る対立で日本プロレスを退社した人物である。創業当初は、旧来の「団体」という形ではなく、所属選手を抱えず試合をするリングのみを提供するという、アメリカの「興行会社」のスタイルを志向していた。そのため、既存団体の選手を出場させるのも可能と考えていたという[2]。もっとも、他団体が所属選手を抱えるタイプの団体(日本プロレス)しか存在せず、今と違って日本人のフリーランス・レスラーが日本国外活動組以外いなかったこの当時にあっては、この構想は機能するはずもなく、普通の所属選手を抱える団体に転換している。なお、日本で最初に所属選手の契約書を作ったのは国際プロレスである。

アメリカで活躍する日本人プロレスラー ヒロ・マツダをエース兼ブッカーとし、日本プロレスからアマチュアスポーツのトップアスリートだった、杉山恒治(サンダー杉山)、草津正武(グレート草津)を同道した。1967年の旗揚げに際しては、国際プロレスよりも先に旗揚げをしたものの、興行不振で単独での興行能力を失っていた東京プロレスからアントニオ猪木らが参加し、合同興行との形で旗揚げシリーズを開催。ダニー・ホッジ、ザ・ケンタッキアンズ(ジェイク・スミス&ルーク・ブラウン)、エディ・グラハムジョニー・バレンタインを招聘したものの、テレビ局との放映契約を結べなかったこともあり、興行は振るわず東京プロレスとの提携もこの旗揚げシリーズのみで破綻する形となった。この時、猪木は永源勝(後の永源遙)、北沢幹之柴田勝久らと日本プロレスへ帰参したが、木村政雄(のちのラッシャー木村)、寺西勇らは国際プロレスに残留した。猪木らの離脱と入れ替わるように、旗揚げ興行に参加しなかった豊登が参戦し、マツダとのタッグが看板チームとなった。しかし、戦力、資金面、テレビ中継の有無でも日本プロレスとの差は歴然とし、1967年8月14日に大阪で行われた日本プロレスとの興行戦争(日本プロレスは大阪球場[3]、国際プロレスは大阪府立体育会館でそれぞれ開催。国際プロレスのメインイベントはヒロ・マツダ&サム・スティムボートvsロジャー・カービー&ビル・ドロモ戦)は“大阪夏の陣”として話題となったが、国際プロレスは日本プロレスに興行面で惨敗してしまう。

TBSプロレスとして再起動、国際プロレスへの回帰[編集]

1967年8月1日、TBSとの放映契約がまとまり「来年1月からの中継開始」が発表された。国際プロレスは資金調達の名目で、吉原功の早稲田大学時代の友人であるTBS運動部副部長の森忠大の仲介により、広島の乳業会社社長だった岩田弘に株を譲渡して融資を仰いだ[4]。この結果、岩田が国際プロレスの新しいオーナーとなり[5]、TBSのバックアップを受ける形で仕切り直しを行うこととなった。また、同時期にヒロ・マツダが吉原と決裂して国際プロレスを離脱したため、マツダに代わる外国人招聘のブッカーとして、4年前に日本プロレスの契約を打ち切られたグレート東郷が迎えられた[6]

同年11月20日、TBSによる全国中継開始の記者会見が行われ、TBS運動部部長の鶴田全夫と森および岩田が出席したが、吉原は会見に姿を現さなかった。そのため、吉原はTBSと岩田によって蚊帳の外に追いやられ、団体の運営を彼らに掌握されたと考えられていたが、当時の吉原は国際プロレスが赤字続きだったため多重債務を抱えており、公の場に出られる状況ではなかったという[7]。東郷にブッカーを委ねたのは吉原自身であり、放送責任者の森はテレビ中継、新オーナーの岩田は経営と、それぞれの立場から団体運営のハードの部分には携わっていたものの、ブッキングやマッチメイクなどリングの上に関するソフトの部分には、それほどタッチしていなかった[5][7]

1968年1月、TBSのネームバリューを活かして団体名を『TBSプロレス』と改称し[7]ルー・テーズ、ダニー・ホッジ、ハンス・シュミットワルドー・フォン・エリックブルドッグ・ブラワー、レフェリーのフレッド・アトキンスなどの豪華外国人を招聘して新シリーズを開幕[8]。森の意向で新人のグレート草津がエース候補に抜擢された。1月3日のテレビ放映第1戦は前述の“大阪夏の陣”以来となる日本プロレスの蔵前国技館とTBSプロレスの日大講堂の同一日興行となり、“隅田川決戦”としてマスコミの話題となったが、草津はルー・テーズのバックドロップに失神負けを喫して頓挫したと同時に、興行面でも“大阪夏の陣”同様にジャイアント馬場インターナショナル・ヘビー級王座防衛戦[3]の前にまたも惨敗してしまう。以降プロレス界は日本テレビとTBSのテレビ2局の対立時代に入った。

ところが、テレビ放送の開始から間もなく、プロレス業界の前時代的な経営体質に失望した岩田が吉原と決別して撤退[9]サンダー杉山をテーズにぶつけるが杉山は惨敗。1月17日の仙台大会において豊登vsテーズが予定されていたが、東郷は豊登に代わって日本プロレスから大木金太郎を引き抜いた上で仙台でテーズと戦わせようと計画し、大木も一旦は承諾して仙台へ向かうが、日プロにもこの情報が入り、日プロ側の工作により大木を引き抜く事は失敗に終わった。さらに同年2月には、ブッキング料を巡る金銭上のトラブルから、招聘した外国人選手に試合出場を東郷がボイコットさせる事件が発生、そのままTBSプロレスと絶縁する事態となった。これら一連の緊急事態を受け、イメージの悪化を懸念した局側の申し入れにより団体名は再び『国際プロレス』に戻り[10]、団体は新路線を模索することとなる。吉原は、当時早稲田スポーツ部OB会長の座にあり、レスリング部OBの吉原にとっても柔道部OBの森にとっても近しい存在だった日本レスリング協会会長の八田一朗の紹介を受けて新たにヨーロッパからの外国人選手ルートの開拓に成功、ビル・ロビンソンやモンスター・ロシモフ(のちのアンドレ・ザ・ジャイアント)らが国際プロレスに初来日を果たした。

外国人選手の招聘[編集]

当時の日本プロレス界はプロレスのメッカであるアメリカから大物外国人を招聘することがステータスの時代だった。

国際プロレスでは設立当初、ヒロ・マツダをエース兼ブッカーとしてアメリカからのレスラー招聘責任者とした。しかしマツダは1967年の2シリーズの終了後、TBSの放送開始を待たず、同年秋までに離脱してしまう。国際プロレスは日系レスラーの大物グレート東郷にブッキングを依頼した。東郷はかつて日本プロレスのブッカーを務めていたが、力道山の死後は絶縁状態となっていた。東郷はカナダ(トロント地区)のプロモーターであるフランク・タニーを代表としてTWWAを設立。1968年1月、初代TWWA王者として認定されたルー・テーズを初めとする大物レスラーを招聘してシリーズを開催、TBSの放送も開始された。しかしその東郷とも同年2月には前述のトラブルから離別し、国際プロレスは北米ルートを完全に遮断されてしまう。

そのため吉原は八田一朗の力を借り、それまで日本プロレス界と縁の薄かったヨーロッパマットとの提携に乗り出し、コネクションを形成していく。これによりビル・ロビンソンビリー・ジョイストニー・チャールズアルバート・ウォールパット・ローチワイルド・アンガスアル・ヘイズダニー・リンチなどのイギリス勢をはじめ、西ドイツホースト・ホフマンフランスモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)スイスジャック・デ・ラサルテス、そして欧州を主戦場としていたカナダ出身のジョージ・ゴーディエンコなど多くの強豪レスラーが、国際プロレスで初来日を果たした。なお、このヨーロッパのコネクションと吉原が協力して立ち上げたのが、団体崩壊までのタイトル統括組織となったIWAである。

その後アメリカルートも少しずつ繋がり始めたが、NWAのコネクションは日本プロレスが持っていたため、当時のアメリカの3大メジャー団体2位だったAWAに接近する。1970年2月にAWAの実質上のオーナーであり、現役世界ヘビー級王者のバーン・ガニアが来日して国際の主力勢を相手に防衛戦を行い、本格提携がスタートした。以降はガニアやマッドドッグ・バション&ブッチャー・バションをはじめとする世界タッグ王者チームなど、AWA系の大物レスラーを数多く招聘、日本プロレスと遜色ない顔ぶれが揃うようになった。また、アンドレがアメリカに行くきっかけも、この提携からともいわれている。一方でヨーロッパマットとの繋がりは薄れていった。1974年11月にはシングル王者のガニアと、タッグ王者のニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスを同時招聘しての豪華な興行も開催された。

しかし、1975年カナダカルガリー大剛鉄之助を支部長とする北米支部を設置して招聘窓口とすると、高額な提携料が必要となるAWAルートは事実状解消された。のちの関係者の回想によると、ガニアから「自分たち(AWA)を取るか、大剛を取るか」と迫られ、吉原が大剛を選んだとされている。カナダのルートではジプシー・ジョーキラー・トーア・カマタなど、当時のエースだったラッシャー木村と手の合う流血派のラフファイターが中心となった。大剛ルート以外では、新日本プロレス全日本プロレスと接点の無かったアメリカのミッドサウス地区(ビル・ワットMSWA)やテネシー地区(ジェリー・ジャレットCWA)、最末期にはメキシコのEMLL系からもレスラーを招聘した。1979年から1980年にかけてはAWAルートも一時的に復活、ヘビー級王者となっていたボックウインクルが来日して防衛戦を行い、ガニアの再来日も実現したが、本格的な提携再開には至らなかった。

前述の通り日本プロレスの全盛時は、大物外国人をなかなか招聘できずに苦戦していた。しかし欧州やAWAとの提携路線を敷いて以降は、後にNWAやWWFなどアメリカのメジャーテリトリーや他団体の新日本プロレスおよび全日本プロレスで活躍する選手の中には、国際プロレスが初来日となったケースは多い。前述のビル・ロビンソンやアンドレ・ザ・ジャイアントのほかにも、リック・フレアーダスティ・ローデスワフー・マクダニエルスーパースター・ビリー・グラハムケン・パテラドン・ムラコワイルド・サモアンズカルロス・コロンリック・マーテルジェイク・ロバーツデビッド・シュルツダイナマイト・キッドなどがいる。東京12チャンネル(現・テレビ東京)によるレギュラー中継終了直後の1981年4月(『'81ビッグ・チャレンジ・シリーズ』)にも当時「まだ見ぬ強豪」として初来日が待望されていたポール・エラリングスティーブ・オルソノスキーを招聘しており、未来日の新鋭レスラーのブッキングには最後まで意欲的であったが、レギュラー中継終了前後には4人を呼ぶのがやっとの状態でもあった。

金網デスマッチ[編集]

日本初の金網デスマッチ1970年10月8日、大阪府立体育会館で行われたラッシャー木村vsドクター・デス(ムース・モロウスキー)戦。事前に告知をしない形での決行だった。

この金網デスマッチが実現した伏線として、当時、目玉選手として招聘を予定していたスパイロス・アリオンの参加キャンセル問題があった。当時、国際プロレスはヨーロッパルートに加え、アメリカ・ミネアポリスを本拠とし、NWAと比肩していたバーン・ガニア率いるAWAと提携し、名のある外国人レスラーも招聘できる態勢が整ってきていた。そこで、国際プロレスはデイリースポーツの協力を得て、当時来日が実現していなかった外国人選手を、ファン投票の結果で招聘する『あなたがプロモーター』企画を行い、1位となったアリオンや2位のミル・マスカラスを含む投票上位選手の招聘を行なった。しかし、圧倒的な海外ネットワークを持つ日本プロレスにことごとく妨害された。アリオンも一度は来日に合意しながらもキャンセルとなったため(アリオンとマスカラスは1971年2月に日本プロレスに初来日)、当初予定していたサンダー杉山とのIWA世界ヘビー級王座戦も中止に追い込まれた。その代替カードとして浮上したのが、遺恨が発生していた木村とドクター・デスとの完全決着戦であり、日本初の金網デスマッチが実現する形となった。関係者は急ピッチで、アメリカで実際に行われた際の写真を参考に金網が製作され、余りにも急に製作したことから、金網に出入口を付け忘れてしまったという珍事が起きている[11]

国際プロレスとしては、この金網デスマッチは一回限りと考えていた。しかしその後、全国のプロモーターから「ぜひうちの地域でも」と要求され、仕方なく行ない、タイトルマッチも金網デスマッチで行われたこともあった。開催の要望が多かったことから乱発せざるを得なくなり、マンネリ化により団体の首を絞める結果となってしまう。

他団体でも当時実現しなかった金網デスマッチは、まさに国際の真骨頂という雰囲気はあった。流血の度合いがおびただしく、カラー放送による実況中継を1970年4月に開始したばかりのTBSは、ラッシャー木村vsドクター・デスのみで金網デスマッチ中継を封印した。

1972年11月27日、愛知県体育館で日本初の金網タッグデスマッチ、ストロング小林&グレート草津vsディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー戦が行われた。しかし、外国人組が隙をついてリングから脱出するという不可解な決着をしている。これは、外国人側がアメリカでは一般的なエスケープ・ルールと誤認していたという説もある。この決着に納得しない観客が、「勝負がついていない」「完全決着ではない」と暴れたり座り込みをするなどの暴動に発展、機動隊が出動する騒ぎとなった。

後継となった東京12チャンネルでは放映を解禁したが、凶器攻撃や金網に乱打している最中は「このシーンは凄惨なため、放送をご容赦ください」というテロップと観客席を映しそのシーンを映さない策が講じられた。その映像のカットは激しい流血を伴う凶器攻撃の最中だけで、攻撃が終了した後は、おびただしい流血になろうと中継をカットすることはなかった。東京12チャンネルにおける金網デスマッチの中継は特番枠へ移行した1981年5月16日に後楽園ホールで行われたポール・エラリング&テリー・ラザンvsマイティ井上&阿修羅・原とのIWA世界タッグ王座戦が最後となったが、金網デスマッチ自体は崩壊当日まで行われた。

テレビ放映権移行、女子部創設[編集]

その後は、豊登、杉山、草津らによる複数エース体制を経て、1971年からはストロング小林のエース体制が確立した国際プロレスであったが、1974年2月には小林が離脱し新日本プロレスへ移籍した。

TBSのテレビ中継である『TWWAプロレス中継』のカラー放送も、日本プロレス中継番組(『日本プロレス中継』〈日本テレビ〉、『NETワールドプロレスリング』〈NETテレビ(現・テレビ朝日〉)に出遅れる格好となり、『NETワールドプロレスリング』開始9か月後の1970年4月にようやく開始した他、『TWWAプロレス中継』自体も1972年から変化が生じる。同年1月に放送時間が30分に短縮され、さらに同年4月にはゴールデンタイムを外れ、日曜18時台へ移動した。この時期からネットを打ち切る局が現れた他、1973年10月には放送時間が土曜午後に移動したと同時に、愛知県体育館や大阪府立体育会館などの大会場を放送エリアに抱える中部日本放送朝日放送における放送が遅れネットに変更されるなど、TBSにおけるテレビ中継の環境はますます悪化し、小林離脱直後の1974年3月を以って『TWWAプロレス中継』自体が打ち切られたと同時にテレビ中継が消滅してしまい半年間はテレビ中継がない状態に陥ったが、NETテレビにおける定期中継が終了した3週間後に崩壊した日本プロレスとは異なり、旗揚げから1年間テレビ中継がなかった国際プロレスはこの状態を乗り切ることが出来た。

そして1974年9月に東京12チャンネルにおいて『国際プロレスアワー』としてかつてNETテレビで『NETワールドプロレスリング』放送していた月曜20時台において、半年ぶりに中継が再開されると同時に、国際プロレスは女子部を創設した。これに伴い戦後に存在した全日本プロレス協会に次いで日本で2番目となる興行プログラムに女子の試合を挿入する男女混合プロレス団体となった。

女子部創設の背景には東京12チャンネルで中継を始めるに当たって、1972年に解散した日本女子プロレスを中継していた局側から女子プロレスを組み込んで男女並立で放送することを条件として提示されたことにある。ちなみに日女の旗揚げは国際プロレスと同じ1967年で、旗揚げ戦の会場も同じ台東区体育館だった。

金網デスマッチや女子部の創設の他にも、選手入場時のテーマ曲の採用、日本人選手同士の対戦、日本人初の覆面レスラー『覆面太郎』、『独立愚連隊』による軍団抗争など、後に日本のプロレスで一般的になったことをいち早く取り入れるなど、進取の気風に富んでいたとも言える。

女子部には日女に最後まで残っていた小畑千代佐倉輝美千草京子が所属、外国人も日女に参戦していた世界王者、ファビュラス・ムーラが参加し、日女の実質的な後継となった。ムーラ門下生を中心に外国人選手も多く招聘した。レフェリーは男子の所属選手だった若松市政が主に担当した。

最初の試合は1974年「秋の陣」開幕戦となった9月15日後楽園ホール大会で、第4試合として千草と元WWWA世界王者サンディ・パーカーのシングルマッチ、第6試合として小畑&佐倉組対ムーラ&ポーラ・ケイ組のタッグマッチが組まれた。

テレビ局主導で始められたため、テレビマッチではいかなる場合でも女子の試合は中継された。しかし、当時はまだ男子プロレス選手及び関係者、ファンの間では女子を受け入れる風潮がなかった。これらゆえに反発も多く、さらに、日女から分かれて旗揚げされた全日本女子プロレスマッハ文朱らの活躍により人気絶頂だったこともあり、1976年に女子部は解散した。

最終試合は4月12日「ダイナマイトシリーズ」第12戦における小畑対佐倉のIWWA太平洋岸選手権試合で、小畑が勝利してタイトル防衛に成功した。ちなみに全女ではマッハが引退し、ビューティ・ペアブームが始まらんとした時期であった。

国際プロレス女子部は1年半強という短い活動期間であったが、後に全女の常連外国人として活躍した選手の中にはビッキー・ウィリアムスジョイス・グレーブルレイラニ・カイら国際プロレスで初来日を果たした選手も含まれている。

なお、前出のIWWA太平洋岸選手権を含め女子のタイトルはすべて封印されたが、そのうちIWWA太平洋岸タッグ選手権は後にジャパン女子プロレスに持ち込まれて復活している。

国際女子部解散後、男女混合団体の復活は1989年FMWまで13年待つことになる。

新日本プロレスと全日本プロレスとの交流、崩壊[編集]

1970年代には、新日本プロレス全日本プロレスに次ぐ第三の団体という位置付けだったが、1974年2月のストロング小林の離脱後は、1975年からはラッシャー木村が、IWA世界ヘビー級選手権者としてエースを務めた。

この頃からネット局が多く全国をほぼカバーしていた『ワールドプロレスリング』(NETテレビ→テレビ朝日)や『全日本プロレス中継』(日本テレビ)の影響で団体の人気は伸び悩むようになり、観客動員数も減少に転じる。全日本との対抗戦も土曜日に行われた場合は国際プロレス主催でも原則『全日本プロレス中継』で生中継され、『国際プロレスアワー』では録画でかつダイジェストでの中継となるなど、中継面でも劣勢に立たされる。当時は系列局が1局もなかった東京12チャンネルへの放映権移行に伴い、ネット地域が大幅に減少した。中京・関西地区ではキー局系列局で放送されず独立局での放送となってしまい、愛知県体育館と大阪府立体育会館という大会場を控える愛知・大阪の2府県のネットを失ったように[12]、両団体と比較するとマイナー感は否めなかった。

『全日本プロレス中継』が土曜20時台に放送されていたころは全日本プロレスとは友好的関係を保っていたため(全日本プロレスが旗揚げする際、吉原社長は選手不足の全日本にサンダー杉山を友好トレードしている)、そう言った関係から国際プロレスと全日本プロレスは対抗戦や交流戦を良く行っていた。

1975年の全日本プロレスの『オープン選手権』にはラッシャー木村、グレート草津、マイティ井上の3人が参加、又世界オープンタッグ選手権では高千穂明久とマイティ井上の混合タッグが実現している。更に国際プロレスが主催した「日本リーグ争覇戦」にもジャンボ鶴田キム・ドクミスター・サクラダらが大挙して参加している。又、国際プロレス対全日本プロレスの対抗戦も度々行われていた(国際対全日全軍対抗戦や国際、全日、韓国軍団3軍対抗戦、1976年(昭和51年)の国際プロレスVS全日本プロレス「対抗戦」など)。

1970年代後半に始まった危機的状況を打開するために、1977年には近鉄に所属していたラグビー日本代表選手の原進(後の阿修羅・原)をスカウトしてジュニアヘビー級のエースに育て上げて大々的に売り出した他、『全日本プロレス中継』がゴールデンタイムを外れたと同時期に、国際プロレスは新日本プロレス共々日本プロレスリングコミッションに加盟したのに伴い、交流戦は全日本プロレスのライバル団体である新日本プロレスにシフトしていき、互いにIWA世界タッグ選手権やWWFジュニアヘビー級選手権が行われるようになった。

一方で、この時期から退団した選手やスタッフも相次ぐ。1977年には名物レフェリーであった阿部脩参議院選挙全国区の落選の責任を取る形で退団し、翌1978年には剛竜馬藤波辰巳への挑戦を表明し新日本へ移籍した。さらに負傷や病気による離脱も相次ぎ、アニマル浜口1980年3月に負傷で、翌1981年4月に肝臓疾患でそれぞれ長期離脱した他、同年6月には、グレート草津アキレス腱断裂で、翌1981年4月には若松市政も急性膵臓炎でそれぞれ長期離脱してフロントに専念したために、若手選手が少ない国際プロレスは、選手不足からマッチメイクに苦慮するようになる。

交流先を新日本へ変更しても危機状況は変わらず、1980年に入ると団体を取り巻く環境はますます悪化してしまう。7月26日には、埼玉県大宮市にあった合宿所兼道場に乗用車が突っ込む事故でガス爆発を起こし全焼する事故が発生。幸い選手は前日に『'80ビッグ・サマーシリーズ』最終戦(札幌中島スポーツセンター大会)が開催されたため北海道にいたこともありで難を逃れた。翌1981年には目玉カードとしてルー・テーズより寄贈されたベルトを争う『ルー・テーズ杯争奪戦』も実施したが、決勝まで一括で行う全日本プロレスの『チャンピオン・カーニバル』や新日本プロレスの『MSGシリーズ』と異なり、『'81新春パイオニアシリーズ』に前期予選を、『'81スーパーファイトシリーズ』に後期予選をそれぞれ実施しただけで起死回生には至らなかった。これらの悪い流れに比例するがごとく観客動員の低迷が続いてしまう。

放映局だった東京12チャンネルとの関係もこの時期から悪化し、1980年2月には東京12チャンネル主導で救世主として、TBSプロレス時代にグレート東郷が獲得できなかった大木金太郎を獲得したが、大木獲得を事前に知らされていなかった吉原代表と東京12チャンネル側との関係に齟齬を来す形となり、肝心の大木は11月にわずか9カ月で退団した。さらに東京12チャンネルは、同年10月から『国際プロレスアワー』の放送時間を月曜20時台からかつて日本テレビで『全日本プロレス中継』を放送していた土曜20時台へ変更したものの、『'81スーパーファイトシリーズ』終了後の1981年3月を以ってレギュラー中継を打ち切った。『'81ビッグチャレンジシリーズ』並びに『'81ダイナマイトシリーズ』の一部試合は特番枠で放送されたが、東京12チャンネルは6月30日を以って特番枠における中継も打ち切ったと同時に、国際プロレスはテレビ放映権や重要な資金源であるテレビ放映権料を完全に失った。

テレビ放映権やそれに伴う放映権料を失った国際プロレスは、1981年7月16日に『'81ビッグ・サマーシリーズ』を前年よりも日程を8戦削減した全13戦の日程で開幕させた。参戦した外国人選手は同年1月に新日本プロレスに来日し、坂口征二が保持する北米ヘビー級王座に挑戦して敗れたジ・エンフォーサーをエース格とした寂しいシリーズとなってしまい、開催地も都道府県庁所在地では試合がなく屋外会場中心となり、なおかつ最大で5日連続で移動・休養日が設定され[13]、さらにはカードも6試合が組まれるのがやっとの状態という緊縮日程となってしまった。同年8月6日に北海道室蘭市体育館でIWA世界ヘビー級選手権試合を、同年8月8日に北海道根室市青少年センターでIWA世界タッグ選手権試合を行いながらシリーズを消化し、同年8月9日、シリーズ最終戦である北海道羅臼町羅臼小学校グラウンド大会を最後に単独での興行能力を失い、崩壊した。当日のメインイベントは国際プロレスとしては最後の金網デスマッチとなった鶴見五郎vsテリー・ギッブス戦であった。1981年秋に開催予定であった『ルー・テーズ杯争奪戦』決勝トーナメントは崩壊に伴い行われずに終わっている。

団体解散後[編集]

団体解散後は、吉原代表は引き続き新日本プロレスとの対抗戦を模索するが(1981年10月8日の新日本蔵前国技館大会のポスターにも国際の選手が名を連ねていた)、マイティ井上が異議を唱え、阿修羅・原冬木弘道(のちのサムソン冬木)、菅原伸義(のちのアポロ菅原)、米村天心らは井上に同調し全日本プロレスに移籍。引退やフリーになったレスラーもおり、新日本プロレスのリングに上がったのはラッシャー木村アニマル浜口寺西勇の3選手のみとなり、国際は事実上、木村派と井上派に分裂する事となった。木村・浜口・寺西の3人は国際軍団(はぐれ国際軍団)としてリングに上がり、ヒールとして、新日本プロレスのファンから憎悪を一身に浴びることになる。若松市政カナダへ渡り悪役マネージャーとして活躍した。吉原功社長は新日本の顧問となったが、1985年に死去した。

のち、ラッシャー木村は元国際の剛竜馬とともにUWFへ、さらに全日本プロレスへ移籍。鶴見・菅原・高杉らとのユニットは「国際血盟軍」と呼ばれたが、剛・菅原・高杉はのちに解雇され「パイオニア戦志」を旗揚げ。木村の馬場とのタッグ結成、鶴見のSWS移籍により軍団としては崩壊した。アニマル浜口と寺西勇も後に新日本プロレスで長州力らと維新軍団を結成後、ジャパンプロレス軍団となって全日本プロレスへ参戦した。冬木は後にSWSへ移籍した他、最後まで全日本プロレスに残留した木村・井上は後に全日本を離脱し、プロレスリング・ノア旗揚げに参画した。

一方、パイオニア戦志は「オリエンタルプロレス」へ形を変えた後に崩壊。その後、高杉・鶴見で「レスリング・ユニオン」を立ち上げ、それぞれ「IWA湘南」「IWA格闘志塾」として活動した。レスリング・ユニオンには他にオリプロ出身荒谷信孝らの「IWA流山」なども参加。

後に鶴見は、吉原社長の遺族の了承を得て、「IWA格闘志塾」を改称する形で「国際プロレス」を名乗っていたが、鶴見は2013年に引退した。

テレビ中継を行っていたテレビ東京の連結子会社であったFMラジオInterFM[14]では崩壊30年後に国際プロレスに関する特集を組み、解散30年目に当たる2011年1月31日には国際プロレスに所属していた選手のテーマ曲を放送する特別番組『私の好きな国際プロレステーマ曲 名曲セレクション』が20:00 - 21:00に放送された。

タイトル[編集]

IWA(インターナショナル・レスリング・アライアンス)
TWWA(トランス・ワールド・レスリング・アライアンス)
IWWA(国際女子プロレス協会)
WWU(ワールド・レスリング・ユニオン)
リーグ戦

所属選手[編集]

プロレスラー[編集]

解散時に所属していた選手
東京プロレスより移籍。長めのパンチパーマに長いモミアゲ、額には無数の傷跡。力道山を髣髴とさせる黒のロングタイツ。ストロング小林離脱後のエースであり、金網デスマッチでは無類の強さを誇り“金網の鬼”と呼ばれた。国際崩壊後は新日本→UWF→全日本→NOAHを転々とし2004年引退、2010年死去。
吉原社長の薫陶を受け、体格や出自に恵まれていたが、デビュー戦のルー・テーズ戦で惨敗。大成することなく選手生活を終える。長期欠場のまま国際崩壊を迎えると同時に引退。2008年死去。次男であるK-1ファイター草津賢治が2代目を名乗った。
ヨーロッパ仕込みのテクニシャン。国際の崩壊後は全日本に入団。その後はプロレスリング・ノア専属レフェリー兼テレビ中継解説者も務めた。2009年にノアとの契約満了で退団、2010年に引退興行がとり行われた。
“和製ブルーザー”の異名を持ち、パワーと全力ファイトが身上。グレート草津同様に長期欠場のまま国際崩壊を迎える。国際崩壊後はラッシャー木村、寺西勇と共に新日本へ参戦。のちに長州力とともに「維新軍団」(後にジャパンプロレスへ発展)を結成する。引退後は「アニマル浜口レスリング道場」で後進の指導に当たる。女子レスリングの浜口京子の父親である。
東京プロレスより移籍。空中殺法を得意にし、“和製カーペンティア”の異名有り。国際崩壊後はラッシャー木村、アニマル浜口と共に新日本へ参戦。
末期の国際プロレスに入団。崩壊後は全日本プロレス→SWS→WARFMWWEWと団体を渡り歩く。理不尽キャラで人気を博すも2003年死去。
1979年に国際正規軍から造反し、大位山と独立愚連隊を結成。のちにヒールへの道を歩む礎となった。国際崩壊後はドイツ遠征後、全日本プロレスへ転戦、SWS、NOWなどを経てIWA格闘志塾を設立。吉原社長の遺族の了解を得て『国際プロレスプロモーション』を名乗り活動していたが、2013年8月引退。
団体崩壊時のジュニアヘビー級のエース。「和製チャールズ・ブロンソン」「星の王子様」といったコンセプトで、アイドル的に売り出された。崩壊後は全日本に移籍。SWS→WARを経て、1994年引退。母校である諫早農業高校でラグビー部のコーチをしていた。
ボディビル出身。国際崩壊後は全日本プロレスへ転戦するも剛竜馬・高杉正彦共々解雇。インディー団体を渡り歩く。
プロ柔道出身。全日本プロレス協会→日本プロレス→国際プロレス、その間にタレント活動でレスラー生活休業を挟む。晩年は重度の糖尿病で人工透析を受けながら、FMWに参戦したが、1995年死去。
当初は営業部員として入社するものの、プロレスラーになりたい未練から、31歳の高齢でデビューを果たした。その後も団体崩壊まで営業とレスラーの2足わらじを兼務いていたが、崩壊時は営業に専念していた。のちに新日本プロレスで悪役マネージャーとしてブレイクし、SWSの旗揚げにも大きく関わる。現在は芦別市議会議員。
学生時代はフットボーラー。崩壊後メキシコへ渡り、1982年の全日移籍後は一時期、ウルトラセブンのリングネームでマスクマンに転向したが、剛竜馬・アポロ菅原共々全日本を解雇。パイオニア戦志、オリエンタル・プロレスを経て湘南プロレスを設立。現役。
覆面の元祖「逆輸入レスラー」。単身メキシコでデビュー。
大相撲出身。団体崩壊後全日本プロレスへ転戦するも廃業。故郷でちゃんこ料理店を営む。
国際最後の興行でデビューするも、そのまま引退。
解散前に退団した選手
当初は日本人初のマスクマンとしてデビューも、欧州遠征後エースとして台頭。1974年、フリー宣言し新日本の猪木戦ののち新日本へ移籍。移籍後は北米タッグなどのタイトル奪取、1982年、映画出演を機に「ストロング金剛」と改名してタレント活動を兼業。1984年引退。
1964年東京オリンピックのレスリング日本代表、雷電ドロップ(ヒップドロップ)を得意としていた。1972年に全日本プロレスに円満移籍。後年、ビジネスを興し成功するが糖尿病を患い、2002年死去。
東京プロレス崩壊後、国際プロレスに入団。ストロング小林とのタッグでIWA世界タッグ王座を奪取。1970年に引退するが、2年後、新日本プロレスでカムバック。1998年死去。
韓国の猛虎。TBSプロレス時代にグレート東郷の誘いを受けて、参戦を計画していたが事前に断念している。その後1980年、国際プロレスに救世主として入団するものの、半年ほどで退団。2006年死去。
国際プロレスの新人公募入団1号選手。藤波辰巳への挑戦を表明し、国際を脱退し新日本へ参戦。その後は全日本に移籍したが高杉正彦・アポロ菅原共々解雇となり、インディマット界を中心に活動。2009年死去。
初期の国際プロレスのエースとして期待されていたが、グレート東郷のブッカー就任を不服として早々と退団する。1999年死去。
大相撲出身。鶴見と独立愚連隊を結成した。
レスリング仕込みのテクニックを駆使して前座戦線を沸かせていたが、病魔に倒れ、1981年、29歳で死去。
元大相撲幕内力士。デビュー後まもなく退団。
東京プロレスより移籍。フィリピンに渡り、現地でレスラーの育成、団体を旗揚げする。
東京プロレスより移籍。カナダ修行から帰国直前の交通事故で右足を切断。引退後はカナダに居住し、ブッカー業に就く。崩壊後は新日本プロレスのブッカー兼トレーナー。
現役引退後はリングアナウンサーに転向。レスラーになる前は元トンボユニオンズのプロ野球選手だった。
東京プロレスより移籍。豊登と常に行動を共にした。初代IWAミッド・ヘビー級王者。
  • デビル紫(村崎鬼三、村崎昭男、グレート・サキ)
海上自衛隊出身。スペインへの転戦中にマスクマンに変身する。
日本プロレスデビューから国際プロレス引退まで生涯前座レスラーだった。
  • 本郷篤(本郷清吉)
のちに全日本プロレスに移籍し肥後宗典に改名。2002年死去。
主に海外マットを拠点に活動。全日本にも短期ながら在籍。現在はオレゴン州で実業家。
  • ヤス・フジイ(藤井東助、藤井三吉、零戦隼人、ドクター・ヒロ・オオタ、コロネル・ヤンキー)
マイティ井上と同期入門。1972年、海外修行中に一方的にフリー宣言(吉原代表との確執があったとされる)。主にアメリカ、ヨーロッパ各地を転戦。1979年上田馬之助のパートナーとして逆上陸を果たした。

女子プロレスラー[編集]

旧日女のエースで、元IWWA世界王者。引退後は全日本女子プロレスにて「魔界魔女軍団」を率いた。
小畑とのコンビで、IWWA太平洋岸タッグ王座を獲得。
国際女子部崩壊後は元全日本女子プロレスの阿蘇しのぶらと「ニューワールド女子プロレス」を旗揚げしたが、短期間で崩壊。

留学生[編集]

プロレス留学生第1号。
黒潮太郎に次ぐプロレス留学生第2号。

スタッフ[編集]

  • レフェリー・遠藤光男
かつてボディビルの「ミスター日本」に輝いたことがある。アームレスリング世界一の触れ込みで阿部脩離脱後の1978年よりより参加し、崩壊時までレフェリーを務めた。現在は日本アームレスリング連盟会長。
日本プロレス時代はジャイアント馬場と並ぶ巨漢レスラー。引退後はレフェリーに転向し、崩壊まで務めた。1991年死去。
レスラー時代は本業の傍ら、俳優業(大映専属)もこなした。首にぶら下げていたホイッスルがトレードマーク。1977年1977年参議院選挙全国区に出馬したが落選し、そのまま退団。
日本人とトンガ人のハーフ。大相撲三保ヶ関部屋に所属。廃業後プロ野球高橋ユニオンズに入団するも、直後に大映スターズとの合併により解雇され、プロボクサーに転向、2度日本ミドル級王者になった。引退後、ボウリングインストラクターを経て、プロレスのレフェリーと幾多のスポーツを渡り歩いた[15]。阿部脩の離脱後はメインレフェリーに。
団体の営業部長だったが、竹下民夫の離脱後はリングアナを兼任。「はぐれ国際軍団」のごく初期に、彼らにセコンドとして帯同したこともある。
崩壊後は全日本プロレス社員を経て現在はプロレスリング・ノア勤務。実弟は元十両力士・プロレスラーの維新力浩司

フリー参戦選手[編集]

来日外国人選手[編集]

プロレスラー[編集]

女子プロレスラー[編集]

来日外国人関係者[編集]

試合中継[編集]

DVD[編集]

プロレスのビデオ、DVDのソフト化は珍しいことではない。しかし、こと国際プロレスに関しては、TBS中継終期の名勝負はビデオソフト化され発売されたものの、東京12チャンネル放映時代の中・末期の映像は、団体の倒産及び中継終了以来、当時の映像の放映さえもほとんどなかった。わずかに、メインの実況を務めた杉浦滋男が死去した際、1977年3月に蔵前国技館で行われたIWAワールドシリーズ決勝戦の映像の一部が、テレビ東京のスポーツニュースの枠で流れた事例がある。東京12チャンネルがテレビ東京と社名を変更し、本社社屋を神谷町から現在の虎ノ門に移転した際、その当時の映像は全て破棄されたという噂まであった。

DVD化は2007年3月になされた。1969年から1974年までのTBS時代の映像は新たに発掘されたものも含め『伝説の国際プロレス』、1974年から1981年までの東京12チャンネル時代の映像は『不滅の国際プロレス』と銘打ってポニーキャニオンから発売された。前者は竹内宏介が、後者は竹内とプロレスライターの流智美が監修を務めた。デイリースポーツによると、同2作品の企画者はポニーキャニオンの高原万平である。

2010年8月には、東京12チャンネル時代の映像を収録した『国際プロレス クロニクル』上巻が、2011年3月には同下巻がそれぞれクエストから発売された。『不滅の国際プロレス』同様に流智美が監修を務めた。

参考文献[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b 小佐野景浩 実録・国際プロレス第5回 菊池孝(前編)『Gスピリッツ Vol.15』 p69(2010年、辰巳出版ISBN 477780772X
  2. ^ 原康史『激録・馬場と猪木』
  3. ^ a b 日本プロレスのメインイベントは大阪がジャイアント馬場vsジン・キニスキー、蔵前がジャイアント馬場vsクラッシャー・リソワスキーで、いずれもインターナショナル・ヘビー級王座戦
  4. ^ 『Gスピリッツ Vol.19』、P84-85。
  5. ^ a b 『Gスピリッツ Vol.19』、P85。
  6. ^ 『Gスピリッツ Vol.19』、P84。
  7. ^ a b c 『Gスピリッツ Vol.19』、P87。
  8. ^ 『Gスピリッツ Vol.19』、P88。
  9. ^ 『Gスピリッツ Vol.19』、P89-90。
  10. ^ 『Gスピリッツ Vol.19』、P91。
  11. ^ 竹内宏介『プロレス醜聞100連発!!』88P-89Pより
  12. ^ 当時はテレビ愛知テレビ大阪は開局前で、愛知・大阪の2府県における東京12チャンネル番組の放送は、キー局系列局で放送されるのが前提であった。
  13. ^ 当時同レベルのサーキットを組んだ場合はは20戦前後組まれるのが一般的であった。
  14. ^ 現在はテレビ東京の連結子会社ではなくなっている。
  15. ^ 『VAN VAN 相撲界』1986年7月号、P17