国際プロレス
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国際プロレス(こくさいプロレス)は、かつて存在した日本のプロレス興行団体。なお国際プロレスは通称で、正式社名は「インターナショナル・レスリング・エンタープライズ (International Wrestling Enterprise)」である。名付け親はプロレス評論家の菊池孝。会社事務所は高田馬場、道場は埼玉県大宮市(現:さいたま市)に存在した。
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[編集] 概要
1967年1月18日に東京都浅草台東体育館で、アントニオ猪木の東京プロレスとの合同興行で旗揚げ。TBSと東京12チャンネルで定期放送されていた。テレビの定期放送終了の半年後、1981年8月9日の北海道羅臼町大会で活動を停止した。
創業者の吉原功社長は、早稲田大学レスリング部出身の元プロレスラーで、日本プロレス営業部長を務めていたが、力道山の死後、経営方針を巡る対立で日本プロレスを退社した人物である。創業当初は、旧来の「団体」という形ではなく、所属選手を抱えず、試合をするリングのみを提供するという、アメリカの「興行会社」のスタイルを志向していた。ゆえに既存団体の選手を出場させるのも可能と考えていたという。もっとも、他団体が所属選手を抱えるタイプの団体(日本プロレス)しか存在せず、今と違って日本人のフリーランス・レスラーが日本国外活動組以外いなかったこの当時にあっては、この構想は機能するはずもなく、普通の所属選手を抱える団体に転換している(日本で最初に所属選手の契約書を作ったのは国際プロレスである)。
1967年の旗揚げ時には、アメリカで活躍する日本人プロレスラー ヒロ・マツダを招聘してエース兼ブッカーとし、日本プロレスからアマチュアスポーツのトップアスリートだった、杉山恒治(サンダー杉山)、草津正武(グレート草津)を同道した。しかしマツダは、グレート・東郷の関与を嫌い間もなく離脱。1968年1月、TBSテレビのバックアップを受け、一時的に「TBSプロレス」と改称し新シリーズを開幕。TBSの意向で新人の草津をエースにと目論むも、1月3日のテレビ放映第1戦でルー・テーズのバックドロップに失神負けを喫して頓挫。しかしながら日本プロレスの蔵前国技館とTBSプロレスの日大講堂の同一日興行は“隅田川決戦”としてマスコミの話題となり、以降プロレス界は日本テレビとTBSのテレビ2局の対立時代に入った。その後は、豊登、杉山、草津らによる複数エース体制を経て、1971年からはストロング小林が、1975年からはラッシャー木村が、IWA世界ヘビー級選手権者としてエースを務めた。
1970年代には、新日本プロレス、全日本プロレスに次ぐ第三の団体という位置付けだったが、エースのストロング小林の離脱などスター選手不在に悩み、両団体と比較するとマイナー感は否めなかった。話題作りもあって、選手入場時のテーマ曲の採用、日本人選手同士の対戦、日本人初の覆面レスラー「覆面太郎」、金網デスマッチ、女子プロレスを取り込んだ女子部の創設、「独立愚連隊」による軍団抗争など、後に日本のプロレスで一般的になったことをいち早く取り入れるなど、進取の気風に富んでいたとも言える。また、吉原社長が日本レスリング協会会長の八田一朗ともパイプがあったことで、ヨーロッパに独自のコネクションを持ち、国際プロレスで初来日を果たした選手も少なくない。
[編集] 金網デスマッチ
日本初の金網デスマッチは1970年10月8日、大阪府立体育会館で行われたラッシャー木村vsドクター・デス(ムース・モロウスキー)戦。事前に予告をしない形での決行だった。
国際プロレスとしては、この金網デスマッチは一回限りと考えていた。しかしその後、全国のプロモーターから「ぜひうちの地域でも」と要求され、仕方なく行った。開催の要望が多かったことから乱発せざるを得なくなり、マンネリ化により団体の首を締める結果となってしまう。
他団体でも当時実現しなかった金網デスマッチは、正に国際の真骨頂という雰囲気はあった。しかし流血の度合いがおびただしく、前述のラッシャー木村vsドクター・デス戦はTBSが中継放映したが、その後局内でも放送の是非が問題視され、結局TBSは自主判断により以降の金網デスマッチの放映を封印した。
串間努『少年ブーム』、森達也『悪役レスラーは笑う』等によれば、この流血シーンの放送自粛処置の発端は1962年、フレッド・ブラッシーが日本プロレスに参戦していた頃、その試合中の流血をカラーテレビで視聴していた老人が2人ショック死したことが挙げられる。その後一時カラー放送が中止されている。
TBSでの定期中継打ち切り後、後継となった東京12チャンネルでは放映を解禁した。凶器攻撃や金網に乱打している最中は「このシーンは凄惨なため、放送をご容赦ください」というテロップと観客席を映しそのシーンを映さない策が講じられた。その映像のカットは激しい流血を伴う凶器攻撃の最中だけで、攻撃が終了した後は、おびただしい流血になろうと中継をカットすることはなかった。
1972年11月27日、愛知県体育館で日本初の金網タッグデスマッチ、ストロング小林&グレート草津vsディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー戦が行われた。しかし、外国人組が隙をついてリングから脱出するという不可解な決着をしている。これは、外国人側がアメリカでは一般的なエスケープルールと誤認していたという説もある。この決着に納得しない観客が、「勝負がついていない」「完全決着ではない」と暴れたり座り込みをするなどの暴動に発展、機動隊が出動する騒ぎとなった。
[編集] 外国人選手の招聘
当時の日本プロレス界は、「外国人至上主義」であり、プロレスのメッカはアメリカだった。大物外国人をアメリカマットから連れてくることこそステータスの時代だった。
国際プロレスでは設立当初、ヒロ・マツダをエース兼ブッカーとしてアメリカからのレスラー招聘責任者としたが、TBSの意向でグレート・東郷がブッカーとして登用されたため、マツダは離脱する。その東郷もTBS放映開始まもない1968年2月には金銭トラブルから離別し、国際プロレスは北米ルートを完全に遮断されてしまう。
そのため吉原社長は八田一朗の力を借りヨーロッパに独自のコネクションを作り上げ、ビル・ロビンソンやモンスター・ロシモフ(のちのアンドレ・ザ・ジャイアント)などの多くの欧州強豪レスラーが、国際プロレスで初来日を果たした。なお、このヨーロッパのコネクションと吉原社長が協力して立ち上げたのが、団体崩壊までのタイトル統括組織となったIWAである。
その後アメリカルートも少しずつ繋がり始めたが、NWAのコネクションは日本プロレスが持っていたため、当時のアメリカの3大メジャー団体2位だったAWAと提携を結ぶ。これにより1970年以降、大物米国人レスラーが多く来日するようになり、世界ヘビー級王者のバーン・ガニアや世界タッグ王者チームを招聘し、日本国内で世界タイトルマッチも行われるようになった。アンドレがアメリカに行くきっかけも、この提携からである。しかし、1975年にはこのAWAルートも解消し、カナダのカルガリーに大剛鉄之助を支部長とする北米支部を設置し、ここを招聘窓口とした。後の関係者の回想によると、ガニアから「自分達(AWA)を取るか、大剛を取るか」を迫られ、吉原が大剛を選んだとされている。また、団体後期にはルー・テーズがUSAで興した団体(IWA)と提携して選手を招聘した事もある。
[編集] テレビ放送
旗揚げから1年後の1968年1月からTBSで『TWWAプロレス中継』のタイトルで、レギュラー番組として放送。一時は団体名も「TBSプロレス」と名乗った。当初は毎週水曜 19:00〜19:55で、後に水曜 19:00〜19:30→日曜 18:00〜19:00→日曜 18:25〜18:55→日曜 18:00〜18:30→土曜 14:00〜14:30となった。1974年3月30日をもって番組は終了(関東地区)。
因みに、これに先駆けて定期放送開始前のパイロット版的なものとして、1967年8月に大分県営体育館で行われた「パイオニア・サマー・シリーズ」大分大会が、当日の大会の主催者でもあった大分放送のみで、後日深夜に録画放映されている。解説は森忠大。なお、それまで大分放送は、既存のプロレス中継をネットした経験さえもなく、ゆえにこれが同局で初めてのプロレス放映となった。
TBSでの打ち切りが決定すると、TBS運動部長の森忠大の紹介で、1974年10月から東京12チャンネル(現・テレビ東京)で『国際プロレスアワー』のタイトルで放送されるようになり、1981年3月まで定期放送された。放送時間は、1974年10月から1980年9月までが毎週月曜 20:00〜20:54、1980年10月から1981年3月までは毎週土曜 20:00〜20:54。当時の東京12チャンネルは系列がないため、独立UHF放送局(近畿地方・東海地方)や、他系列局への販売を行っていた。
東京12チャンネルは、定期番組としては打ち切った後も、中継そのものは不定期ながらも存続させることにしていた。実際に、1981年5月3日 18:00〜、同年9月16日及び9月23日 24:15〜に、それぞれ1時間の「特別番組」という形で中継を放映した。なお最終放映時のタイトルは『東京12チャンネル プロレスアワー』と表示された。
[編集] テレビ旗揚げ第1戦
TBSテレビの放送の第1回のメインイベントは、王者ルー・テーズ対グレート草津のTWWA世界ヘビー級選手権試合(この選手権は東郷の画策で1967年に設立されたいわばお手盛りのタイトル)。試合前、TBSの関係者がテーズに対し、エースに目論んでいた草津に「花を持たせる」ことをそれとなく要求する。歴戦をくぐり抜け何度となくNWA世界ヘビー級王座にも就いたテーズにとって、キャリア3年にも満たず大きな実績もない草津に負けることなど認めがたいことであり、大いに憤慨。吉原もTBS側の無礼ぶりを認めたが、「TBSに顔が立たないから表面上は了承したふりをしていてほしい。でも実際に従う必要はない」とテーズに語り、テーズも了承する。
そして試合が始まる。草津の受身が未熟であることを見抜いたテーズは、必殺のバックドロップを見舞う。現在残された写真では、急角度の危険なものではなかったが、食らった草津はあえなく失神。草津自身は失神はしておらず、セコンドにいたグレート・東郷の指示で寝ていただけだと語っている。草津はそのまま試合放棄となり敗戦となり、TBSの目論みは潰れることとなった。「エース」が(TV放映の)初戦でこのような無残な負け方をするなど前代未聞であり、その後の国際の苦難の道を暗示した一戦といわれる。
[編集] 団体解散後
団体解散後は、新日本プロレスとの対抗戦を模索するが、マイティ井上、阿修羅・原、冬木弘道(後のサムソン冬木)、アポロ菅原、米村天心らはそれに反発し、全日本プロレスに移籍。フリーになったり引退するレスラーもおり、新日本プロレスのリングに上がったのはラッシャー木村・アニマル浜口・寺西勇らのみ。彼らは国際軍団(いわゆる「はぐれ国際軍団」)としてリングに上がり、ヒールとして、新日本プロレスのファンから憎悪を一身に浴びる事になる。吉原功社長は新日本の顧問となったが、1985年に死去した。
のち、ラッシャー木村は元国際の剛竜馬とともにUWFへ、さらに全日本プロレスへ移籍。鶴見・菅原・高杉らとのユニットは「国際血盟軍」と呼ばれたが、剛・菅原・高杉はのちに解雇。木村の馬場とのタッグ結成、鶴見のSWS移籍により軍団としては崩壊した。
現在は、鶴見が吉原社長の遺族の了承を得て、自身の団体に「国際」の名前を冠している。
[編集] DVD化
プロレスのビデオ・DVDソフト化は珍しい事ではないが、こと国際プロレスに関してはTBS時代の名勝負に関しては発売されているものの、東京12チャンネル放映時代の中・末期の映像は、倒産し中継終了以来、一度も当時のフイルムを録画放映された事が無かった。
東京12チャンネルがテレビ東京に社名変更になり、本社社屋が神谷町から現在の虎ノ門に移転された際に、その当時のフイルムは全て破棄されたという噂もあったが、ついに2007年3月に待望のDVD化がなされる事となった。1969年〜1974年のTBS時代の映像は「伝説の国際プロレス」として発売され、元週刊ゴング編集長の竹内宏介が監修を務めた。また1974年から1981年までのテレビ東京時代の映像は「不滅の国際プロレス」として発売され、竹内宏介とプロレスライターの流智美が監修を務めた。2作品ともポニーキャニオンから販売されている。デイリースポーツによるとポニーキャニオンの高原万平が同2作品の企画者である。
[編集] 所属選手
- 長めのパンチパーマに長いモミアゲ、額には無数の傷跡。力道山を髣髴とさせる黒のロングタイツ。ストロング小林離脱後のエースである。
- 1974年の新日本の猪木戦を機に新日本へ移籍。北米タッグ等タイトル奪取し引退しストロング金剛として坊主になり強面のタレントになる。
- 吉原功社長に溺愛され、体格や出自に恵まれていたが、デビュー戦でつまずき大成することなく選手生活を終える。2008年逝去。
- 東京プロレス崩壊後、国際プロレスに入団。ストロング小林とのタッグでIWA世界タッグ王座を奪取。1970年に引退するが、2年後、新日本プロレスでカムバック。
- 韓国の猛虎。1980年国際プロレスに救世主として入団するものの、半年ほどで退団。2006年逝去。
- 国際プロレスの新人公募入団1号選手。藤波辰巳への挑戦を表明し、国際を脱退し新日本へ参戦。
- ヨーロッパ仕込みのテクニシャン。現在はプロレスリング・ノア専属レフェリー兼テレビ中継解説者。
- “和製ブルーザー”の異名を持ち、パワー&全力ファイトが身上。女子レスリングの浜口京子の父親である。
- 空中殺法を得意にし、“和製カーペンティア”の異名有り。
- 初期の国際プロレスのエースとして期待されていたが、グレート・東郷のブッカー就任を不服として早々と退団する。
- 大位山と独立愚連隊を結成し、後にヒールへの道を歩む礎となる。
- 大相撲出身。鶴見と独立愚連隊を結成した。
- 覆面の元祖「逆輸入レスラー」。単身メキシコでデビュー。
- レスリング仕込みのテクニックを駆使して前座戦線を沸かせていたが、病魔に倒れ、29歳の若さで逝去。
- 団体崩壊時のジュニアヘビー級のエース。「和製チャールズ・ブロンソン」「星の王子様」といったコンセプトで、アイドル的に売り出された。崩壊後は全日本に移籍。
- ボディビル出身。
- 当初は営業部員として入社するものの、プロレスラーになりたい未練から、31歳の高齢でデビューを果たす。その後も団体崩壊まで営業とレスラーの2足わらじを兼務。
- 高杉正彦
- 米村天心
- ジャック・クレイボーン(稲妻二郎の実兄)
- 黒潮太郎
- プロレス留学生第1号。
- 黒潮太郎に次ぐプロレス留学生第2号。
- フィリピンに渡り、現地でレスラーの育成、団体を旗揚げする。
- 日本国外修行中の交通事故で引退後はブッカー業に就く。崩壊後は新日本プロレスのブッカー兼トレーナー。
- 現役引退後はリング・アナウンサーに転向。レスラーになる前はプロ野球選手だった。
- IWAミッド・ヘビー級王者。
- 海上自衛隊出身。
- 日本プロレスデビューから国際プロレス引退まで生涯前座レスラーだった。
- 後に全日本プロレスに移籍。
- 日本プロレス時代はジャイアント馬場と並ぶ巨漢レスラー。引退後はレフェリーに転向。既に他界している。
- アームレスリング世界一の触れ込みで途中より参加。現在は日本アームレスリング連盟会長。
- レフェリー・阿部修
- レスラー時代は本業の傍ら、俳優業もこなす。首にぶら下げていたホイッスルがトレードマーク。
- 崩壊後は全日本プロレス社員を経て現在はプロレスリング・ノア勤務。実弟は元十両力士・プロレスラーの維新力浩司。
[編集] 外国人選手
- 初代IWA世界ヘビー級王者。日本での外国人ベビーフェイス第一号。
- 後のアンドレ・ザ・ジャイアント。初来日は国際プロレスで、国際時代にバーン・ガニアと出会ったのがブレークのきっかけになった。
- カール・ゴッチ
- ジョージ・ゴーディエンコ
- ドン・レオ・ジョナサン
- エドワード・カーペンティア
- ディック・ザ・ブルーザー
- クラッシャー・リソワスキー
- マッドドッグ・バション
- ターザン・タイラー
- キング・イヤウケア
- ピーター・メイビア
- ホースト・ホフマン
- ラリー・ヘニング
- レイ・スティーブンス
- ワフー・マクダニエル
- ダスティ・ローデス
- ディック・マードック
- ブラックジャック・マリガン
- ブラックジャック・ランザ
- ボビー・ヒーナン
- イワン・コロフ
- バロン・フォン・ラシク
- スーパースター・ビリー・グラハム
- アンジェロ・モスカ
- ザ・ブルート
- ケン・パテラ
- リック・フレアー
- ボビー・スローター
- ドクター・デス
- オックス・ベーカー
- ワイルド・アンガス
- ダニー・リンチ
- ティト・コパ
- ギル・ヘイズ
- ビッグ・ジョン・クイン
- クルト・フォン・ヘス
- ジプシー・ジョー
- 驚異的なタフネスぶりでデスマッチで活躍。自らパイプ椅子を相手に渡し、背中を殴打しろと仕向ける。
- キラー・トーア・カマタ
- ワイルド・サモアンズ
- アレックス・スミルノフ
- クレージー・セーラー・ホワイト
- キラー・ブルックス
- デビッド・シュルツ
- プロフェッサー・タナカ
- ディーン・ホー
- モンゴリアン・ストンパー
- ジェイク・ロバーツ
- リック・マーテル
- ビッグ・ダディ・リッター
- ダイナマイト・キッド
- マイク・ジョージ
- ボブ・スイータン
- ロン・バス
- ジョニー・パワーズ
- キラー・カール・クラップ
- パワーズとクラップは団体末期に対抗戦を行っていた新日本プロレスからのいわば払い下げである。
- ロッキード事件の頃に参戦した。このようないかにもマイナー感漂うレスラーが国際プロレスにはよく登場した。
[編集] 関連項目
- 菊池孝(プロレス評論家、国際プロレス中継解説者)
- 竹内宏介(プロレス評論家、国際プロレス中継解説者)
- AWA
- IWA世界ヘビー級王座
- プロレス夢のオールスター戦(1979年に行われたが、国際プロレスは全日本・新日本より一段下として扱われた)
- デスマッチ
- 国際プロレスプロモーション
- IWA・JAPAN


