ジャパン女子プロレス

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ジャパン女子プロレス(ジャパンじょしプロレス)は、日本女子プロレス団体。略称はジャパン女子、ジャパ女、JWP(現存するJWP女子プロレスとの区別のため旧JWPと呼ぶ場合もあり)とも称した。運営会社は途中で変わり、1992年の解散時はジャパン企画プロモーションが運営していた。道場は東京都八王子市に置かれていた[1]

略史[編集]

日本女子プロレス国際プロレスに吸収されて以来、女子プロレス団体は全日本女子プロレス(全女)しかなかったが、ジャパン女子は全女のクラッシュギャルズ人気を引き金とする女子プロレスブームを背景に、「プロレス版『おニャン子クラブ』」を当初のコンセプトとして設立された。そのため、旗揚げ時には芸能事務所ボンド」が関わり、おニャン子クラブをプロデュースした秋元康がアドバイサーとして関与していた。またコーチ役として男子プロレス界から山本小鉄を招聘。その関係もあり、新日本プロレスのリングに試合を提供したこともあった。

元全女のジャッキー佐藤ナンシー久美シュートボクシング風間ルミ柔道神取忍を四天王とし、1期生としてアイドル系の尾崎魔弓キューティー鈴木、悪役(ヒール)のイーグル沢井などを輩出した。アメリカAWAメキシコLLIとも提携を結び、全女常連だったモンスター・リッパーら外国人も多数招聘した。

旗揚げ戦は1986年8月17日。秋元はもちろん、ゲストとして本田美奈子少女隊、さらにアントニオ猪木も来場した華々しい旗揚げであった[2]

旗揚げ時は豪華であったが、その後、何度も経営不安が発生。旗揚げ当初の代表であった椎名勝英は早々に退陣していた[注釈 1]。打開策として、当時の社長であった持丸常吉は、同団体のレフェリー兼コーチであったグラン浜田を通じて交流のあった、新間寿(元新日本プロレス営業本部長)や大塚直樹(元ジャパンプロレス副会長)らの協力を得て、男子プロレスや空手などあらゆる格闘技を融合した『格闘技連合』として再出発する方針を進めた。

その布石として、浜田と営業部員であった大仁田厚[注釈 2]との抗争(アングルであった)の延長線上で組まれた両者の試合(1988年12月3日、後楽園ホール大会)をきっかけに、男女混合団体にしようとする動きもあったもの、所属選手達やファンの猛反発を受け[注釈 3]、この計画は頓挫している。

1991年10月、若手選手の半田美希穂積詩子北村真実が、持丸社長ら当時の経営陣を批判して退団したことをきっかけに経営不安が再燃。一旦は収まったものの、翌1992年1月、アメリカLPWAへの遠征を申し出ていた風間を会社が解雇。これに神取が反発して来年度の契約を更新しない姿勢を示したことで団体内は混乱し、同年1月26日の熊谷大会をもって解散した。

解散後、ジャパン企画プロモーションの子会社である「JWPプロジェクト」を受け皿とする新団体が後を引き継ぐ計画が立ち上がったが、選手会が分裂。鈴木、尾崎、ダイナマイト関西プラム麻里子福岡晶斎藤澄子ボリショイ・キッドJWPとして前述の後継団体に参加。ハーレー斉藤大沢ゆかり斉藤緑二上美紀子遠藤美月は半田グループや風間、神取と合流してLLPW(現・LLPW-X)を設立した。また最終興行の時点で引退を表明していた沢井、デビル雅美は程なく引退を撤回し、それぞれLLPW、JWPに加わっている。

2014年現在、ジャパン女子プロレス出身者で現役なのは尾崎、関西、神取、ボリショイ、遠藤の5人である。

タイトル[編集]

所属した選手、スタッフ[編集]

団体崩壊後JWP女子プロレスに参加した選手、スタッフ[編集]

ダイナマイト・関西
1986年デビュー1期生。『ミス・A』を名乗る。初代・新人王など各種タイトルを獲得。団体末期に『ダイナマイト関西』へ改名。フリーとして活動を経て現在はOZアカデミー所属。
1986年デビュー1期生。サンボの経験を有し、グラウンドレスリングでは屈指の使い手だった。JWP所属後、1997年広島大会でのリング禍により死去。日本プロレス史上初の試合中の事故により死亡事例となった。
1986年デビュー1期生。ジュニアヘビー級として活躍する一方、ヒールユニット『GUREN隊』の一員として風間、キューティーら正規軍と抗争。その後フリーを経て、OZアカデミーを主宰。
1986年デビュー1期生。アイドル・レスラーとして芸能活動も並行し、ジャパン女子の顔的存在となる。JWPに参加後も中心選手として活躍し、1999年引退。
1989年デビュー4期生。器械体操出身で将来のスター候補として期待されていた。JWPに参加し主力選手として活躍。1999年引退。
ジャパン女子所属時より覆面レスラーとして活動。JWPに参加し、戦闘仕様の『コマンド・ボリショイ』としての一面も持つ。現在もJWP在籍中。
1989年デビュー4期生。JWPに参加し、福岡とともに将来が嘱望されていたが、首の負傷により1993年引退。
1988年に全日本女子の練習生として所属していたが退団。その後、1990年にジャパン女子へ入門するも退団。団体崩壊後にJWPへ参加し、1992年にデビューを果たした。その後、江戸っ子風スタイルのキャラクター・レスラー『さぶろう』へ改名。1996年引退。
元全日本女子プロレス所属、WWWA世界シングル王者。1988年にジャパン女子にフリー参戦という形で復帰。団体崩壊後はJWPと専属契約を結び、重鎮として長らく活躍する。その後フリーを経て、2008年引退。
1990年レフェリーとしてデビュー。JWPに参加し『乱馬翔』と改名(その後、本名へ再改名している)。
1986年より全日本女子でレフェリー活動。1991年にジャパン女子へ移籍。JWPにもレフェリーとして参加。
1986年よりリングアナウンサーとして活動。団体崩壊後にJWPを設立し、広報の篠崎清とともに共同代表となる。現在は退団し、フリーのリングアナウンサーとして活動中。
1990年よりリングアナウンサーとして活動。JWPにも参加。現在はオフィスラディでリング設営兼プロモーターとして活動。

団体崩壊後、LLPWに参加した選手・スタッフ[編集]

神取忍
  • 神取忍(神取しのぶ)(所属→フリー契約)
世界柔道選手権3位の実績を引き下げ、ジャパン女子へ入門。旗揚げ当時の『四天王』の一人として扱われる。ジャッキーとの「シュート・マッチ」に勝利し引導を渡す。1988年以降はフリー契約。LLPWでは団体の顔として、団体対抗戦で活躍。風間の辞任を受け、後任社長となる。自由民主党参議院議員も務めた。
シュートボクシング界からジャパン女子へ入門。旗揚げ当時の『四天王』の一人として扱われる。正規軍のエースとして活躍。1990年以降はフリー契約。首脳陣との対立から崩壊直前に契約を打ち切られる。崩壊後はLLPWを設立し、女性初の選手兼社長となる。2003年引退。
1986年デビュー1期生。『ハレー斉藤』を名乗る。正規軍の一員として活躍。団体末期に『ハーレー斉藤』へ改名。2012年引退。
1986年デビュー1期生。ヒールユニット『GUREN隊』の一員として正規軍と抗争。LLPW所属後は女子屈指のヘビー級レスラーとして活躍する一方で、ヒールユニット『平成裁恐猛毒GUREN隊』を結成し男女他団体にも進出した。2007年引退。
1987年デビュー2期生。団体崩壊直前に退団。崩壊後にLLPWへ参加。風間の『社長秘書』的存在だったが、のちに造反しヒール・ターン。1995年引退。
1987年デビュー2期生。団体崩壊直前に退団。崩壊後にLLPWへ参加。LLPWではジュリアナ風スタイルへ変身し、同団体での数多くのキャラクター・レスラー登場への嚆矢となる。1994年引退、プロレスラー維新力浩司と結婚。
1988年デビュー2期生。シューティングの経験を持ち『GUREN隊』の一員として活動。LLPWに参加し、『沙羅(しゅら)ゆかり』、さらに宝塚風キャラクター『ジェンヌゆかり』に改名するも1996年引退。
1989年デビュー3期生。団体崩壊直前に退団。崩壊後にLLPWへ参加し『レオ北村』と改名。1995年引退。
1989年デビュー4期生。『GUREN隊』として活動も団体崩壊直前に退団。崩壊後にLLPWへ参加。LLPWではレディース風スタイルのキャラクター・レスラー『紅夜叉(くれないやしゃ)』に改名し活躍。1999年引退。
1989年デビュー4期生。崩壊後にLLPWへ参加し、しばらくして『キャロル美鳥』へ改名。2002年引退。
GAMI
1990年デビュー4期生。崩壊後にLLPWへ参加。その後、アルシオンヘッド・ハンディングを受けて移籍し、『GAMI』に改名、AtoZ、フリーを経て、プロレスリングWAVEを旗揚げ。2011年からは同団体の運営会社「ZABUN」の社長に就任するが、社長専念のため2013年引退。
1991年デビュー5期生。崩壊後にLLPWへ参加。風間、神取退任後のLLPW社長にも就任したが現在は辞任。
元全日本女子所属レスラー、レフェリー。1989年よりフリーとしてジャパン女子でレフェリング。団体崩壊後LLPWへ参加し、メイン・レフェリーとして活躍。現在はフリーとして各団体で活動中。
1986年デビュー1期生。伊藤勇気、スマイリー真美とともにユニット『プリンス・キッズ』を組む。1993年に引退するも、団体崩壊後にLLPWへレフェリーとして参加している。

その他[編集]

元全日本女子プロレス所属・WWWA世界シングル王者。旗揚げ戦で復帰したが1987年7月18日に行われた神取との対戦(シュート・マッチ)に敗れたことに起因して、程なく引退している。1999年胃癌で早逝。旗揚げ当時の『四天王』の一人。
元全日本女子プロレス所属・WWWA世界タッグ王者。ジャッキー佐藤とともに旗揚げ戦で復帰。現在は引退。旗揚げ当時の『四天王』の一人。
グラン浜田の娘で、定着参戦していた。
1984年メキシコでデビュー。1988年までジャパン女子へ定着参戦していたが、その後、全日本女子へ転戦した。
1986年デビュー1期生。オスカル智、スマイリー真美と共に『プリンス・キッズ』を組む。将来を嘱望されていたが、腰の負傷のため、引退。
1986年デビュー1期生。『GUREN隊』の一員として活動するも、団体崩壊前に退団。1992年にオリエンタルプロレスで復帰したが、現在は引退。
オスカル智、伊藤勇気らと共に『プリンス・キッズ』を組む。1990年引退。
1987年デビュー。キューティー鈴木とともに美形レスラーとして注目されたが、1991年3月引退。怪我が多く欠場期間が長かった。
1987年デビュー。1989年に退団後、1994年に『ボンバー光』に改名して復帰し、GAEA JAPANの旗揚げに参加。1997年引退。
1989年デビュー以来、覆面レスラー『スコルピオン』として活動。団体末期に覆面を脱ぎ、本名に改名している。
1989年デビュー。ハーレー斉藤の妹。「現役女子高生レスラー」として活動するも、学業専念のため引退。
3期生のひとりだが、2年ほどで退団。引退後は結婚して家庭に入るも、2009年5月に38歳で死去。
元全日本女子所属。1990年よりジャパン女子へフリー参戦。1991年引退、結婚しアメリカ・ニューヨークへ移住。
1990年、ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げと共に、選手活動に専念。
元全日本プロレス所属。1990年よりジャパン女子でレフェリング。1999年死去。
後にFMWへ移籍。現在もフリーランスとして活動。
  • 清水勝男(リングアナウンサー)

外国人選手[編集]

全女の常連だったが、旗揚げのごく一時期のみ参戦。
元AWAチャンピオン。
モレノ4姉妹の長女。
ビビアンの姪。
ウィニー・バークレーの名で全女にも来日歴あり。ジャパン女子にはルナとのルナティクスとして来日。
元UWAチャンピオンで過去にエベリア・ペレスの名で全女にも来日。
元「ラ・ギャラクティカ2号」。
AWAチャンピオンとして来日し、神取忍相手に防衛戦を行った。
WWFチャンピオンで、離脱直後に来日。

テレビ放送[編集]

団体後期において、テレビ神奈川及び東京ケーブルネットワークにて試合中継が行われた。

また、京都・KBSホールで開催される興行に限り、KBS京都テレビで試合中継が放送された。

なお、団体のごく初期においては、テレビ朝日のバラエティ番組・「鶴太郎の大人によくないテレビ」にて、試合の模様を流す短いコーナーが存在したが、これは試合そのものよりも、会場で観戦している子供(番組出演者)の反応の方に、重点が置かれた構成になっていた。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 椎名は、退陣時に閑散とした会場を見て「こんなはずじゃなかったのにな…」という言葉を漏らしたと言われる。純粋な女子プロレスとしての戦いを目指す選手達と、椎名ら経営陣の目指したプロレス版『おニャン子』路線との軋轢を象徴させる言葉でもあった[3]
  2. ^ 当時、現役を引退していた大仁田は、ビジネスの失敗で生じた借金返済の為肉体労働などに従事した後に、ジャパン女子に営業部員として入社していた。この浜田との一連の抗争の後、フリーとして復帰。後のFMWの旗揚げへとつながっていく。
  3. ^ 試合前にリングに上がった風間ルミら所属選手が総意として「皆さん、私達は女子のリングを守っていきます」と訴えたことが観客らの同情を呼び、浜田対大仁田戦が行われる際にファンは「やめろ」コールやブーイングなどで反応。この会場の状況を聞いた新間は、ジャパン女子の男女混合団体化を断念したと言われる[4]

出典[編集]

参考書籍[編集]