阿修羅・原

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

阿修羅・原
プロフィール
リングネーム 阿修羅・原
阿修羅原
ミスター・フジ
原進
本名 原進
ニックネーム 和製チャールズ・ブロンソン
ガッツマン
流離のヒットマン
野生のダンプガイ
身長 183cm
体重 125kg
誕生日 1947年1月8日(62歳)
出身地 長崎県北高来郡森山町(現諫早市
スポーツ歴 ラグビー
デビュー 1978年6月23日
引退 1994年10月29日
  

阿修羅・原(あしゅら はら、1947年1月8日 - )は、ラグビー選手を経てプロレスの世界でも活躍した元プロレスラーで、教育者。本名は原 進(はら すすむ)。長崎県北高来郡森山町(現諫早市)出身。

目次

[編集] 経歴

[編集] ラガーマン時代

長崎県立諫早農業高等学校在学中からラグビー選手として鳴らし、進学した東洋大学、さらには社会人としては近鉄の選手とラグビーで渡り歩く。近鉄時代は日本代表に選出され、1976年には日本人として唯一世界選抜メンバーに選出されるなど、日本を代表するラガーマンとして活躍した。

[編集] プロレスラー時代

1976年秋、国際プロレスにスカウトされ入門。マスクマンとしてプレデビューしていたが、1978年に素顔で正式にデビュー。対戦相手は寺西勇。その後すぐに海外武者修行に出た。修行先でのカナダでは2戦目に英連邦ジュニアヘビー王座を獲得(スケジュールの関係で即返上)し、同年冬に帰国。ラグビーファンである野坂昭如阿修羅・原と命名された。1979年の新春シリーズより本格参戦し、5月にミレ・ツルノからWWUジュニアヘビー王座を獲得した。その後は同王座を巡りダイナマイト・キッドらと名勝負を行い、次代のエースとして期待された。1980年4月には新日本プロレスに進出、藤波辰巳と勝負を繰り広げた。しかしその前後からスランプに陥る。ジュニア王座を返上してアメリカで再修行を行い、ヘビー級の礎を築いた。帰国後の1981年5月にマイティ井上IWA世界タッグ王者となるが、8月には国際プロが活動停止となった

その後はマイティ井上らと共に全日本プロレスに移籍した。一説では、引退するつもりだったところ似たようなキャリアの天龍源一郎NWA世界王者に挑戦すると聞いて、「所属団体が違っただけでその差は何だ!」と引退を撤回したといい、これをきっかけに天龍との縁が出来る。全日本参戦の理由も「天龍と闘いたいから」だったという。当初はフリーとしての参戦だったが、全日本参戦直後に実現した天龍とのシングル戦(1981年10月2日)における原のファイトに感心したジャイアント馬場が原に所属選手になるように勧めたため、晴れて全日本と所属契約を結んだと言われている。その後天龍と原は1984年4月にもシングルで2度対決し、いずれの試合も名勝負としてファン・マスコミの間で語り継がれている。また、1981年と1982年には天龍・原のコンビで世界最強タッグ決定リーグ戦に出場している(まだ龍原砲とは呼ばれていなかった)。井上や石川敬士と共にアジアタッグ王座を獲得するなど活躍した。1984年秋ごろに諸事情で全日本を一旦離れたが、1985年にフリー選手として全日本に復帰。この時期はラッシャー木村国際血盟軍(木村・鶴見五郎ら旧国際プロレス選手の軍団)とともに闘うことが多かった。

当時のニックネームは“野生のダンプガイ”。1985年に全日本に復帰後のニックネームは“ヒットマン”。

1987年より天龍源一郎と共に「天龍同盟」を結成。天龍とのタッグ「龍原砲」は全日本で一時代を築き、長州力ジャパンプロレス勢が離脱した後の全日本を支えた。1987年9月にはPWF世界タッグ王座を龍原砲で獲得している。

その後1988年11月に控室や事務所まで「借金取り」が来るほど金銭にルーズであることを理由に全日本を解雇となり、札幌で隠遁生活を余儀なくされる。しかしまもなく盟友・天龍の願いを受け1991年に天龍が所属していたSWSにて復帰。SWS崩壊後は天龍らとWARへ移籍。対抗戦の相手である新日本プロレスのリング上では、長州力藤波辰爾らとも対戦をした。さらに、反WAR軍を結成し、スーパーストロングマシーンとタッグを組む。

1994年引退引退試合では天龍の厳しい攻撃を真正面から受け続けた。その壮絶さは伝説となっている。試合後、天龍は会場にいた原の家族へ向けてマイクを握り、「長らくお借りいたしました。今日、原をお返しします」と語りかけ、はなむけとした。

[編集] 教育者時代

引退後は郷里の森山町に帰り、町の教育委員会に依頼されて森山町立スポーツ交流館で町民の健康づくりのスポーツコーチを務めた。その後、母校の長崎県立諫早農業高校でラグビー部コーチとなって、当時長崎県立長崎北陽台高等学校にラグビー名門校のお株を奪われて凋落傾向にあったラグビー部の建て直しに当たったほか、その他の学校でも筋トレの方法などを教えた。諫早農高は2002年、全国大会に出場した。

しかしまもなくその職も離れ、現在は脳梗塞で体が不自由となった父の介護をしながらひっそりと暮らしている(2004年に母が亡くなり父の介護に専念するようになったという)。そのあまりに不器用な生き方を愛し、原の再起を願うファンは決して少なくない。

[編集] 得意技

全日本時代、スタン・ハンセンに連日のようにラリアットを食らい、失神・痙攣状態になったこともある。ハンセンが左腕を振りぬくのにちょうどいい背丈だったことも災いし、「他には何もいらないから、あと5センチくれ!」と叫んだこともある。しかしその経験を生かし、ラリアットを自らの必殺技とした。
天龍への対抗心から使用し始める。後に龍原砲を組んでからはサンドイッチ式、というツープラトン攻撃に昇華する。

[編集] エピソード

  • 全日本に所属(正式には所属しておらずフリー)してすぐの頃から、諸事情があり遠征へ向かう際は選手バスに乗らず、リング屋のトラックに同乗していた(後に天龍源一郎と天龍同盟・龍原砲を結成後は、メンバーと一緒に専用車で移動した)。当時から金銭的な問題はあり、あまりお金を持っていない中、リング屋トラックで移動していた仲田龍(現・ノア取締役)や海野宏之(現・新日本レフェリー)らをよく食事に連れて行くなど面倒見はよかった。仲田も「原さんが解雇されたときは、事情は何となく分かっていたから、驚いたというより心配した。僕らにとっては、よくしてもらったし、感謝しているし、尊敬している」と述べている。
  • 意外な所では、国際プロレス時代にオリジナル曲のシングルレコードを発売した事がある(1980年5月)。題名は『ゆき子』というムード歌謡。発売のキッカケは原のテーマ曲「阿修羅」のレコード発売を担当したキングレコードのディレクターとよく飲みに行き、カラオケを披露したところ、「これはいける」とディレクターが乗り気になったところからである。また、全日本時代の1984年にも榎本三恵子ロッキード事件裁判で有名となった女性)とデュエット曲『恋遊び』をセンチュリーレコード(現在は倒産)からリリースしている。
  • 同じ長崎県出身の後輩、長与千種をかわいがり、試合会場が近いときは長与のほか、ライオネス飛鳥大森ゆかりデビル雅美全日本女子プロレスの選手らと頻繁に飲み会を開いていた。当時、過密スケジュールで試合をしている彼女らを労い、支払いはすべて原が持っていた。原本人は酒が嫌いだったが、酒好きの天龍らとの付き合いを重視し、スタッフやマスコミも誘って連日飲み歩いた。お金が足りなくなると当時若手だった冬木弘道川田利明に馬場の元へ金を借りに行かせるなどし、結果的にそのサービス精神が仇となり、借金を重ねてしまった。

[編集] タイトル歴