キング・イヤウケア

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キング・イヤウケア
プロフィール
リングネーム キング・カーティス・イヤウケア
プリンス・イヤウケア
ザ・ウィザード
ザ・マスター 
本名 カーティス・イヤウケア
ニックネーム 流血大王
ハワイの巨象
身長 193cm
体重 140kg(全盛時)
誕生日 1936年
死亡日 2010年12月4日(73歳没)
出身地 アメリカ合衆国の旗ハワイ州ホノルル
デビュー 1958年
引退 1980年代
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キング・イヤウケアKing Curtis Iaukea1936年 - 2010年12月4日)は、アメリカ合衆国の元プロレスラーハワイ州ホノルル出身。日本での異名は流血大王ハワイの巨象。息子はプロレスラーのロッキー・イヤウケア。なお、若い頃はプリンス・イヤウケアを名乗っていた。

目次

来歴[編集]

カメハメハ王朝の血筋を引く由緒ある家柄の出自で、父は長らくホノルル警察署長を務め、自身はハイスクール時代にフットボールの選手で活躍した。

大学卒業後、のちにPWFの初代会長になるロード・ジェームス・ブレアースのスカウトで22歳でプロレス入り。1960年10月には日本プロレスに初来日、同年11月16日、東京体育館力道山の持つインターナショナル・ヘビー級王座にも挑戦。1968年7月にはサンフランシスコベアキャット・ライトからAWA版のUSヘビー級王座を奪取。翌1969年5月にも同所でレイ・スティーブンスを破り、NWA版のUS王座を獲得した。

1970年2月までに日プロに計4度の来日を果たし、1968年にはジャイアント馬場のインター王座に挑戦している。1972年1月には国際プロレスに来日し、ストロング小林IWA世界ヘビー級王座金網デスマッチで挑戦。1972年2月1日にはフィラデルフィアバロン・シクルナと組んでカール・ゴッチ&レネ・グレイからWWWF世界タッグ王座を奪取した。

1973年3月には全日本プロレスの『第1回 チャンピオン・カーニバル』にPWF太平洋岸ヘビー級王者チャンピオンの触れ込みで初参戦し、その後全日を日本での主戦場とする。新春シリーズへの参加が多く、早めに来日してレフェリー兼外人係のジョー樋口の家でおせち料理を食べるのを楽しみにしていたという。また、「殺人アパッチブル・ラモスとのコンビは、イヤウケアがハワイ王朝の、ラモスがインディアン首長の末裔ということから「タイクーンズ」と命名され大活躍した(1978年1月にはこのコンビで大木金太郎&キム・ドクインターナショナル・タッグ王座に2回挑戦している)。

1979年1月にはブルーザー・ブロディと共に全日に来日(ブロディはこのときが初来日)。ブロディが大声を張り上げて客席を蹴散らしながら入場するパフォーマンスは、イヤウケアの影響を強く受けたという。またリングのロープの金具を緩めるのが好きで、1970年代は3本勝負の試合が主流であり、1本目終了した頃にはロープは緩々になっていた。

帰国後まもなくフロリダをサーキット中に足の傷からばい菌が入り敗血症を患い、下半身麻痺から現役を退く。その後1987年マネージャーとして復帰。WWFではザ・ウィザードを名乗ってカマラシカといった野獣系の怪奇派レスラーをコントロールした。1990年代WCWにてケビン・サリバンの「父親」としてダンジョン・オブ・ドゥームなる妖怪軍団を結成。配下にはカマラ、ザ・シャーク(ジョン・テンタ)、ゾディアック(エド・レスリー)、ザ・ジャイアント(ポール・ワイト)らがいた。

その間、1989年にはブロディ・メモリアルナイトのスペシャルゲストとして久々の来日を果たしている。

1990年代後半にプロレスリング・ビジネスから引退してハワイに戻り、ワイキキで貸しボート屋を経営した[1]。なお、太陽ケアはイヤウケアの知り合いで、イヤウケアにロード・ブレアースを紹介されて日本でプロレスラーになることになったという。

2010年12月4日、73歳で死去[2]

得意技[編集]

獲得タイトル[編集]

関連項目[編集]

脚註[編集]

  1. ^ 『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P10(2002年、日本スポーツ出版社
  2. ^ Former pro wrestler Iaukea dies at age 73 Honolulu Star-Advertiser 2010-12-5

外部リンク[編集]