カマラ (プロレスラー)
| カマラ | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム | カマラ キマラ ジャイアント・キマラ ジャイアント・キマラI ビッグ・ジム・ハリス シュガー・ベア・ハリス バッドニュース・ハリス ミシシッピ・ムーラー |
| 本名 | ジェームズ・ハリス |
| ニックネーム | ウガンダの大魔神 ウガンダン・ジャイアント ウガンダン・ヘッドハンター ロード・オブ・ザ・ジャングル |
| 身長 | 197cm - 201cm |
| 体重 | 150kg - 170kg |
| 誕生日 | 1950年5月28日(63歳) |
| 出身地 | ミシシッピ州セナトビア |
| トレーナー | タイニー・ティム・ハンプトン |
| デビュー | 1978年 |
| 引退 | 2011年 |
カマラ(Kamala)またはキマラ(Kimala)のリングネームで知られるジェームズ・ハリス(James Harris、1950年5月28日 - )は、アフリカ系アメリカ人の元プロレスラー。アメリカ合衆国ミシシッピ州出身(ギミック上の設定ではウガンダ出身)。
1980年代から1990年代にかけて、アフリカの部族ギミックの怪奇派レスラーとして、CWA、WCCW、MSWA、NWA、AWA、WWF、USWA、WCWなどアメリカの各団体で活躍した。日本にもジャイアント・キマラ(Giant Kimala)の名義で度々来日しており、全日本プロレスの常連外国人だったベンジャミン・ピーコックのギミックのオリジナル版として知られている。
目次 |
来歴[編集]
初期[編集]
プロレスラーになる以前はフロリダ州で配管工などの仕事に就いていた[1]。1975年にミシガン州に移住し、そこでボボ・ブラジルと出会ったことを機にプロレス入りを決意[1]。ブラジルの友人のプロレスラー、タイニー・ティム・ハンプトンのトレーニングを受け、1978年に地元ミシシッピ州やルイジアナ州、オクラホマ州などミッドサウス一帯をテリトリーとするトライ・ステート地区でデビューする。
当時はシュガー・ベア・ハリス(Sugar Bear Harris)などのリングネームを名乗り、大型の黒人ヒールとして売り出された。1980年4月にはアラバマ地区でオレイ・アンダーソンを破りNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を獲得している[2]。同年下期からはビッグ・ジム・ハリス(Big Jim Harris)の名前でドイツやイギリスなど欧州に定着。日本においても当時の専門誌で「まだ見ぬヨーロッパの強豪」として報じられたことがある。
1980年代[編集]
1982年にアメリカに戻り、テネシー州メンフィスのCWAにおいて、ジェリー・ローラーのアイデアで[3]ウガンダの未開部族をモチーフとした新ギミック、カマラ(Kamala)[4]に変身する。顔とボディに呪術的なペインティングを施し、槍と楯を手に巨大な木彫の仮面を被って入場、素足に腰布というスタイルで試合を行い、ジャングルの奥地で彼を「発見」したという謎の覆面探検家[5]を通訳兼任のマネージャーとして帯同するなど、奇抜なキャラクターと演出で一躍センセーショナルな存在となった。
以降、テキサス州ダラスのWCCW(フリッツ・フォン・エリック主宰)や古巣でもあるミッドサウス・エリアのMSWA(ビル・ワット主宰)など、各地の主要テリトリーを転戦。WCCWではフォン・エリック兄弟(ケビン、デビッド、ケリー)、ブルーザー・ブロディ、ザ・グレート・カブキ、テリー・ゴディらと激闘を繰り広げた。
1984年7月からはWWF(現・WWE)に初登場、フレッド・ブラッシーを覆面探検家フライデーとのダブル・マネージャーに迎え、アンドレ・ザ・ジャイアントとの抗争アングルが組まれるが、待遇面の不満から短期間で離脱。その後はビンス・マクマホンの全米侵攻に対するNWA&AWA連合軍(Pro Wrestling USA)の主力メンバーとなり、1985年7月6日に開催されたグレート・アメリカン・バッシュの第1回大会にも出場。AWAゾーンではサージェント・スローターやジェリー・ブラックウェルと抗争する。また、同年8月にはジャイアント・キマラとしてジャパンプロレスに初来日。当時はカブキやロード・ウォリアーズの出現でペイントレスラーが全盛だったこともあり、日本でも注目を集めた[6]。
1986年の後半よりWWFと再契約。ザ・ウィザードことキング・イヤウケアをダブル・マネージャーに、12月にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦。1987年5月のサタデー・ナイト・メイン・イベントではジェイク・ロバーツとも対戦し、1988年からはワイルド・サモアン・シカとの野獣コンビで活動した。WWF離脱後の1989年2月には全日本プロレスに来日。1991年の再来日ではキマラ2号ことベンジャミン・ピーコックとタッグを組み、アブドーラ・ザ・ブッチャーを交えたアフリカ軍団としても猛威をふるった。
1990年代[編集]
1991年下期からはメンフィスのUSWAに参戦し、因縁のジェリー・ローラーとユニファイド世界王座を巡る熾烈な抗争を展開する[7]。翌1992年4月にはW★INGプロモーションに来日した。同年下期よりWWFに復帰し、ジ・アンダーテイカーとの怪奇派同士の抗争をスタート。11月のサバイバー・シリーズでは棺桶マッチによる決着戦が行われた。1993年、マネージャーのキム・チー(ブルックリン・ブロウラー)との仲間割れを機にベビーフェイスに転向。聖職者としてWWFに復帰したスリックを新しいマネージャーに迎え、ショーン・マイケルズ、パパ・シャンゴ、ヨコズナ、バンバン・ビガロらヒール勢を相手に異色のベビーフェイスとして活躍した[8]。
その後、WWFを離れトラック・ドライバーをしていたが[1][9]、同時期にWCWに移籍していたハルク・ホーガンの招きで1995年よりWCWと契約。再びヒールに戻り、ケビン・サリバン率いるダンジョン・オブ・ドゥームに加入。ザ・シャークやゾディアックらと共闘し、MSWAからWWFを通しての宿敵ジム・ドゥガンとの抗争を再開。同年9月のPPV "Fall Brawl" ではダンジョン・オブ・ドゥームのメンバーとしてメインイベントの時間差金網デスマッチ「ウォー・ゲーム」に出場、ハルカマニアックス(ホーガン、ランディ・サベージ、スティング、レックス・ルガー)と対戦したが、この試合を最後にWCWを離脱する。
2000年代[編集]
以降はセミリタイアしてトラック・ドライバーを本業とする傍ら、各地のインディー団体にスポット参戦した。2001年4月1日にはレッスルマニアX-Sevenのギミック・バトルロイヤルに出場。1992年の参戦時と同様、キム・チーとハービー・ウィップルマンをマネージャーに従えて久々のWWE登場を果たした。この大会では、当時WWEのコミッショナー役だったウィリアム・リーガルの執務室に闖入して部屋をメチャクチャにするなどバックステージのスキットでも活躍している。2004年7月26日にはRAWのディーヴァ・サーチにも出演した。
2005年にWWEとレジェンド契約を結び、8月11日のスマックダウンでランディ・オートンと対戦。11月1日のタブー・チューズデイのユージン&ジミー・スヌーカ対ロブ・コンウェイ&タイソン・トムコ戦にも登場し、試合後にトムコをウガンダン・スプラッシュで圧殺している。2006年6月26日のRAWでは、前日のヴェンジェンスで邂逅した同タイプの後継者ともいえるウマガとの試合が組まれた。
その後もインディー団体にレジェンドとして時折参戦する一方、オールドタイマーによるリユニオン・イベントにも出場し、かつてのライバルたちとエキシビション・マッチを行った。2008年6月8日にはTNAのPPV "Slammiversary" に登場。リング上で行われたジェイ・リーサルとソウ・カル・バルのウェディング・セレモニー(ランディ・サベージとエリザベスのパロディ)に、ジェイク・ロバーツ、ココ・B・ウェア、ジョージ・スティールと共に出席して式をぶち壊しにした。
2011年11月12日、糖尿病の合併症で足を切断することとなり、上記2008年6月のTNA大会を最後に現役を引退した[10][11]。
得意技[編集]
日本ではキワモノ的なイメージばかりが喧伝されレスラーとして正当に評価されることはなかったが、巨体に似合わぬ敏捷性の持ち主であり、トップロープからのダイビング・ボディ・プレスをはじめ、(決して見栄えは良くないものの)リープ・フロッグなどもこなした。また、技ではないが自らの巨大な腹を太鼓に見立てて両手でポンポンと叩く仕草も彼のトレードマークで、後にザ・ロックがホーガンの前で真似をしたことがある。
- ウガンダン・スプラッシュ
- クロー・ホールド
- ヘッドバット
- バックハンド・チョップ
- ソバット
- ネック・ハンギング・ツリー(ハルク・ホーガンの巨体を軽々と担ぎ上げたこともある)
獲得タイトル[編集]
特記以外はカマラ(キマラ)名義での載冠。
- NWA USタッグ王座:1回(w / オキ・シキナ) ※シュガー・ベア・ハリス名義
- NWAサウスイースタン・ヘビー級王座:1回 ※バッドニュース・ハリス名義
- AWA南部ヘビー級王座:1回
- TASW 6人タッグ王座:1回(w / イライジャ・アキーム&カリーム・モハメッド)
- USWAユニファイド世界ヘビー級王座:4回
- GLWAヘビー級王座:1回
- SXWハードコア王座:1回
マネージャー[編集]
- パーシー・プリングル3世(シュガー・ベア・ハリス時代)
- フライデー / キム・チー
- ジミー・ハート(CWA)
- J・J・ディロン(CWA、FCW)
- スカンドル・アクバ(WCCW、MSWA)
- シーク・アドナン・アル=ケイシー(AWA)
- フレッド・ブラッシー(WWF)
- ザ・ウィザード(WWF)
- ミスター・フジ(WWF)
- ハービー・ウィップルマン(WWF)
- スリック(WWF)
- ケビン・サリバン(WCW)
脚注[編集]
- ^ a b c “Kamala sings! Learning about the recording career of The Ugandan Giant”. SLAM! Wrestling: September 20, 2007. 2010年1月28日閲覧。
- ^ “NWA Southeastern Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月19日閲覧。
- ^ “Breaking Kayfabe with Kamala Jim Harris: The man behind the Ugandan Giant”. SLAM! Wrestling: July 7, 2001. 2010年1月28日閲覧。
- ^ もともとのリングネームは「キマラ(Kimala)」だったが、発音のしやすさから地区によっては「カマラ(Kamala)」と呼ばれ、次第にそれが正式な呼称として定着していった。これにより、「ジャイアント・キマラ」のリングネームは日本ではベンジャミン・ピーコックが継承するようになった。
- ^ 初期はフライデー(Friday)、後にキム・チー(Kim Chee)と呼ばれ、カマラが参戦する各団体にサファリ・ルックのハンドラー(調教師)として出現し、セコンド役を務めた。正体はすべて同一人物ということになっているが、各団体のジョバーやレフェリーが覆面を被って変身する場合が多く、WWFではスティーブ・ロンバルディ(ブルックリン・ブロウラー)が担当した。カマラは英語が喋れないという設定だったため、リング下からデタラメなスワヒリ語をまくし立てて彼に指示を与えていた。
- ^ 来日時はカレーライスが気に入ったようで、ホテルの自室でパクついている姿も見られた。また、当時のプロレス週刊誌の懸賞プレゼントに彼の直筆サインが出品されたが、通常の筆記体ではなく拙い文字で "K I M A L A" とサインするなど、英語の読み書きができないというキャラクター設定を徹底させていた。
- ^ “USWA Unified World Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月19日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1993”. The History of WWE. 2010年8月8日閲覧。
- ^ 音楽好きである彼は、リングを離れていたこの時期よりプライベートで自作の曲を書きためており、2000年代に入って自らの作詞・作曲・歌によるCDもリリースしている(Kamala sings! Learning about the recording career of The Ugandan Giant)。ストックは100曲以上にも上り、その中には(主にWWF時代に自身が経験した)プロレスリング・ビジネスの不当な雇用条件に対する告発を歌ったものも少なくないという。
- ^ “Kamala undergoes amputation procedure due to health issues”. PW Torch. 2011年11月12日閲覧。
- ^ “糖尿病で足切断 キマラ氏が引退”. 日刊スポーツ. 2011年11月15日閲覧。