キング・ハク
| キング・ハク | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム | プリンス・トンガ キング・トンガ ハク キング・ハク ミング |
| 本名 | ウリウリ・フィフィタ |
| ニックネーム | 南海の暴君 |
| 身長 | 185cm |
| 体重 | 120kg - 124kg |
| 誕生日 | 1959年2月3日(54歳) |
| 出身地 | |
| スポーツ歴 | 大相撲 |
| トレーナー | ジャイアント馬場 ザ・ファンクス |
| デビュー | 1978年 |
キング・ハク(King Haku)などのリングネームで知られるウリウリ・フィフィタ(Tonga 'Uli'uli Fifita、1959年2月3日 - )は、トンガ・ヌクアロファ出身のプロレスラー。
大相撲・朝日山部屋出身の元力士であり、プロレス転向後は全日本プロレスを経てアメリカのWWFやWCWで活躍した。
新日本プロレスで活動するタマ・トンガことピート・フィフィタ、WWEに所属するカマーチョことテヴィタ・フィフィタは実子。
目次 |
来歴 [編集]
1974年末、トンガ国王の命で16代朝日山親方に連れられて来日し、大相撲の朝日山部屋に入門。福ノ島の四股名で幕下27枚目まで昇進するも、親方死去後に起こった部屋のお家騒動のため1976年9月に廃業の憂き目に遭う[1]。その後1977年7月に全日本プロレスに入団し、同年12月に渡米。テキサス州アマリロのザ・ファンクスのもとでトレーニングを積み、翌1978年、アマリロ地区にてプリンス・トンガ(Prince Tonga)のリングネームでデビュー。アイランダー系のベビーフェイスとして南部のローカル・エリアを転戦し、1979年にはテネシー地区でデビッド・シュルツやトージョー・ヤマモトのチームを破り、NWA6人タッグ王座を獲得した[2]。
1980年に凱旋し、7月11日の津島市体育館におけるリック・デビッドソン戦で日本マットでのデビューを果たす。以降、1982年頃まで全日本の若手選手としてキャリアを積んだ。1983年、プエルトリコのWWCに参戦し、ヒールのキング・トンガ(King Tonga)に改名。その後は北米マットを主戦場とするようになり、フロリダ地区やAWAなど当時の主要テリトリーにも登場。1984年10月にはカナダのモントリオール地区でディノ・ブラボーからカナディアン・インターナショナル・ヘビー級王座を奪取している[3]。
1986年、ハク(Haku)のリングネームでWWFと契約。当初はベビーフェイスとして、トンガ・キッドことタマとのタッグチーム、ジ・アイランダーズ(The Islanders)で売り出された。やがてヒールターンし、ボビー・ヒーナンのファミリーに加入してブリティッシュ・ブルドッグスらと抗争。タマの離脱後はシングルプレイヤーとなり、1988年6月にはハーリー・レイスの負傷欠場で空位となっていた「キング」の称号をバトルロイヤルに勝ち抜いて獲得した[4]。以降、キング・ハク(King Haku)を名乗り、同年の8月から10月にかけてはハルク・ホーガンとの連戦も行われている[4]。
翌1989年1月のロイヤルランブル1989でレイスを破り正式に「王位」を継承するが、その後ジム・ドゥガンに敗れキングの座から陥落[5]。同年下期からはヒールに転向していたアンドレ・ザ・ジャイアントとのタッグチーム、コロッサル・コネクション(Colossal Connection)で活躍。アックスとスマッシュのデモリッションを相手に、WWF世界タッグ王座を巡る抗争を展開した[6]。
1990年4月には日米レスリングサミットへの参戦で久々に日本に登場。ジャンボ鶴田と組んでカート・ヘニング&リック・マーテルを撃破した。同年下期にアンドレが戦列を離れると、大相撲時代の盟友ザ・バーバリアンを新パートナーにミッドカード戦線で活動。1992年は当時WWFと提携していた日本のSWSを主戦場に、谷津嘉章とナチュラル・パワーズなるチームを結成、天龍源一郎&阿修羅・原の龍原砲とタッグ王座を争う。同年秋にWWFを退団し、1993年6月にはWAR経由で新日本プロレスのリングに初登場。8月のG1クライマックスにも来日した。
1994年11月、ミング(Meng)の名前でWCWに登場。サングラスに黒スーツ姿で悪徳マネージャーのカーネル・ロバート・パーカーのボディーガード役を務める。翌1995年には、日本育ちという出自から武道家スタイルのヒールに変身。同年7月のPPV "バッシュ・アット・ザ・ビーチ" では、スティングのUSヘビー級王座に挑戦した[7]。以降もWCWに定着し、ケビン・サリバンのダンジョン・オブ・ドゥームへの加入や、旧友バーバリアンとのフェイシズ・オブ・フィアー(Faces of Fear)などで活動。フェイシズ・オブ・フィアーでは1996年12月のスターケードでジ・アウトサイダーズ(ケビン・ナッシュ&スコット・ホール)のWCW世界タッグ王座にも挑戦している[8]。その後はセミレギュラーの立場で単発的な出場を続け、1998年8月には当時連勝記録を更新中だったWCW世界ヘビー級王者ゴールドバーグのチャレンジャー兼ジョバーとしてマンデー・ナイトロに登場。WCW末期はハードコア戦線に進出し、2001年1月14日に師匠のテリー・ファンクからWCWハードコア王座を奪取した[9]。
その1週間後の1月21日、WWFのロイヤルランブル2001に出場。以降はWWFに復帰し、ヒールターンしたリキシのタッグパートナーを務めた。翌2002年3月1日には、WWF初の単独日本公演であるスマックダウン・ツアー・ジャパンに参加、横浜アリーナでダイヤモンド・ダラス・ペイジとの試合が組まれた。
WWF離脱後はハーリー・レイスのWLWなど各地のインディー団体を転戦。2004年5月には新日本プロレスの東京ドーム大会に来日し、天龍源一郎と組んでブルー・ウルフ&ドルゴルスレン・スミヤバザルと対戦した。
リアルファイトにも強く、WWFを共にサーキットしたダイナマイト・キッドの自著には、バーで同席していた女性を執拗に侮辱したジミー・ジャック・ファンクがハクに叩きのめされたエピソードが書かれている[10]。
得意技 [編集]
- トンガン・デス・グリップ(Tongan death grip)
- 代表的なフィニッシュ・ホールド。コブラクローと同型。団体によってはギブアップとピンフォール両方が狙える万能技となっていた。
- ダイビング・スプラッシュ
- 現在では息子のタマ・トンガがフォームごと受け継いでいる。
- トラース・キック
- WWF時代のフィニッシャーの一つ。ハーリー・レイスを破り「キング」の座を継承した際の決まり手でもある。
- ドロップキック
- 初期の全日本プロレス時代に多用。ジャイアント馬場は彼のドロップキックを高く評価していた。
- バックハンド・チョップ
- ヘッドバット
- ベアハッグ
- パワースラム
- サイドバスター
- ペンデュラム・バックブリーカー
獲得タイトル [編集]
- NWA6人タッグ王座(ミッドアメリカ版):1回(w / ケン・ルーカス&ジョージ・グラス)
- NWAハワイ・ヘビー級王座:1回
- WWCプエルトリコ・ヘビー級王座:2回
- WWC北米タッグ王座:1回(w / エル・グラン・アポロ)
- WWC世界タッグ王座:1回(w / ヘラクレス・アヤラ)
- カナディアン・インターナショナル・ヘビー級王座:1回
- カナディアン・インターナショナル・タッグ王座:1回(w / リチャード・チャーランド)
- WWF世界タッグ王座:1回(w / アンドレ・ザ・ジャイアント)
- SWSタッグ王座:2回(w / 谷津嘉章)
- WCWハードコア王座:1回
- WLWヘビー級王座:3回
脚注 [編集]
- ^ 『THE WRESTLER BEST 1000』P191(1996年、日本スポーツ出版社)
- ^ “NWA World 6-Man Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月19日閲覧。
- ^ “International Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月19日閲覧。
- ^ a b “WWE Yearly Results 1988”. The History of WWE. 2009年9月26日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1989”. The History of WWE. 2009年9月26日閲覧。
- ^ “History of the WWE World Tag Team Championship”. WWE.com. 2010年4月19日閲覧。
- ^ “WCW Bash at the Beach”. The History of WWE. 2010年4月19日閲覧。
- ^ “WCW Starrcade 1996”. pWw - Everything Wrestling. 2010年4月19日閲覧。
- ^ “WCW World Hardcore Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月19日閲覧。
- ^ 『ピュア・ダイナマイト - ダイナマイト・キッド自伝』P169-170(2001年、エンターブレイン、ISBN 4-7577-0639-1)
外部リンク [編集]
|
|||||