横浜公園平和野球場
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| 横浜公園平和野球場 平和球場 |
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|---|---|
| 施設データ | |
| 所在地 | 神奈川県横浜市中区 横浜公園無番地 |
| 開場 | 1929年 |
| 所有者 | 横浜市 |
| 管理・運用者 | 横浜市 |
| グラウンド | 内・外野 - 天然芝 |
| 設計者 | |
| 使用チーム • 開催試合 | |
| 読売ジュニアジャイアンツ(1954年 - 1955年) | |
| 収容能力 | |
| グラウンドデータ | |
| 球場規模 | |
| フェンス | |
横浜公園平和野球場(よこはまこうえんへいわやきゅうじょう)は、かつて日本の神奈川県横浜市中区の横浜公園内に存在した野球場。跡地には現在、横浜スタジアムが建設されている。通称は平和球場(へいわきゅうじょう)。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 建設
1929年、関東大震災復興記念事業の一環として建設された。当初の名称は横浜公園球場であった。この地にはもともと、在日外国人のクリケットグラウンドとして1874年に完成した「彼我公園(ひがこうえん)」があり、1896年には地元外国人チームと旧制第一高校との国際野球試合が開催された。
[編集] 日米親善試合
1934年に、ルー・ゲーリッグやベーブ・ルースらを擁するアメリカ大リーグ選抜軍と、沢村栄治や苅田久徳らを擁する日本代表チームとの間で現在の日米野球の前身となる親善試合も開かれた。
[編集] 太平洋戦争と捕虜収容所時代
第二次世界大戦(太平洋戦争)が激化した1942年9月には球場の使用が停止される。スタンドは「東京捕虜収容所第3分所」となり、日本軍が占領地で捕虜にした連合軍兵士を収容した。同収容所は1944年5月に閉鎖されるが、翌1945年8月に日本が敗戦、9月に球場は連合軍の接収を受けた。
[編集] 「ルー・ゲーリック・スタジアム」と日本初のナイトゲーム
横浜市内の競技施設でほぼ同時期に連合軍に接収された横濱競馬場は、本来とは違う使用目的(住宅施設等)に供されたが、横浜公園球場は接収下でも野球場として利用され、球場名も、この地でプレーし日米開戦の直前に世を去ったゲーリッグにちなんで、「ルー・ゲーリック・スタジアム[1]」と改称された[2]。
接収中の1948年8月17日、この「ルー・ゲーリック・スタジアム」で、日本初の職業野球公式戦のナイトゲーム開催が実施された。対戦カードは東京巨人軍-中日ドラゴンズ戦で、3-2で中日が日本のナイトゲーム初勝利を飾った。試合開始は20時過ぎだった。この8月17日は現在でも「プロ野球ナイター記念日」とされている。
[編集] 「平和球場」への改称と老朽化
1952年に連合軍の接収解除に伴い横浜市に返還され、1955年に「横浜公園平和野球場」と再度改称される。しかし、市民の間には正式名称よりも略称である「平和球場」という呼び方のほうが定着した。本稿でも以下は平和球場の略称を用いる。
返還された平和球場はプロ野球の試合こそほとんど行われなかったものの、高校野球神奈川大会や社会人野球などアマチュア野球の会場として大いに活躍した。しかし、築40年を超えて建物の老朽化は深刻になり、1970年には、躯体のコンクリートが劣化して観客の重量を支えきれなくなったという理由から、スタンドの上半分が閉鎖された。これによってもともと15,000人程度であった観客収容数が半減してアマチュア野球の大会にも使用できなくなり[3]、野球好きの市民の間に建て替えとプロ球団誘致を求める署名活動などが行われるようになった。
一方、この頃の大洋球団は、巨人戦以外は全く集客の伸びない川崎球場に限界を感じており、同じ県内でもより知名度が高く人口も多い横浜へ本拠地を移転する構想を持っていた。しかし、老朽化で倒壊の危険性があり10,000人の収容すら出来なくなった平和球場は、プロ野球興行の専用球場としては到底使用できない状況であった。そこで大洋球団は1972年11月22日、横浜市に対し「横浜平和球場が改築した折には、本拠地を川崎から移転したい」と申し入れを行い、当時横浜市長だった飛鳥田一雄の同意を得て覚書を取り交わした。
[編集] 新球場建設決定と解体決定
新球場の建設には資金面や法規面で様々なハードルがあったが、順次これらは乗り越えられてゆく(詳細については横浜スタジアム#新球場建設を参照のこと)。これにより新球場となる横浜スタジアムの建設が正式に決定、1977年4月、横浜スタジアムの着工に伴い解体された。

