笹野高史

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ささの たかし
笹野 高史
本名 同じ
別名義 ワンシーン役者(自称)[1]
生年月日 1948年6月22日(66歳)
出生地 兵庫県津名郡一宮町(現淡路市
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
血液型 O型
職業 俳優
ジャンル 舞台、テレビドラマ、映画など
活動期間 1972年 - 現在
活動内容 1968年自由劇場入団
1972年:『ヴォイツェク』で初舞台
1982年:自由劇場退団
著名な家族 長男:ささの翔太
次男:ささの友間
三男:ささの堅太
四男:ささの貴斗
事務所 グランパパプロダクション
公式サイト 笹野高史[リンク切れ]
主な作品
舞台
『ヴォイツェク』
上海バンスキング
映画
武士の一分

笹野 高史(ささの たかし、1948年6月22日 - )は、兵庫県津名郡一宮町(現淡路市)出身の俳優洲本高校卒業後、日本大学芸術学部へ進学、中退。自由劇場を経て、グランパパプロダクション所属。身長167cm、体重57kg。特技はトランペット

コミカル、シリアス、真面目、堅物と、どのような役柄でも独特の味わいを見せる。山田洋次監督作品の常連でもあり、時代劇には欠かせない存在である。原則としてくる仕事を拒まないことから「ワンシーン役者」を自称する[1]

人物・来歴[編集]

淡路島の造り酒屋に四男として誕生するが、幼くして相次ぎ両親を亡くした。

日本大学芸術学部映画学科在学中の1968年自由劇場にスタッフとして入団する。一時は船員になったこともあったが、元々の夢である俳優を諦めきれず、1972年に『ヴォイツェク』で初舞台を踏み、俳優活動を開始。1979年の舞台『上海バンスキング』のバクマツ役で注目された。1982年には同劇場を退団するが、舞台には座友として参加する。

コクーン歌舞伎』、『平成中村座』などにも出演し、「夏祭浪花鑑」長町裏の場、通称「泥場」での悪役、義兵次、「隅田川続俤」通称「法界坊」などに出演する。自らの出身地にちなんで淡路屋屋号を持つことで知られる。歌舞伎出演の記者会見では「民間からの参加です」と言っている。新派にも水谷八重子波乃久里子の相手役で参加する事が多い。

1985年の『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』以来、山田洋次監督作品の常連者となる。原則として来る仕事は拒まず、ワンシーン役者を自称して活動を続け、2007年には山田監督の『武士の一分』で第30回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞をはじめ数々の賞を受賞した。

また、「どんな役にもカッコよさがある」をコンセプトとしており、台詞の裏に隠された役の深みを知るために台本の余白部分には担当役の履歴書を自分なりに書き込んでいる。

長く独身であったが、42歳にして17歳年下の劇団研究生の女性と結婚した。2000年代に入るとバラエティ番組にも出演するようになり、年の差結婚と年の離れた4人の息子たちがトーク番組でよくネタにされた。息子は全員が俳優として活躍している。

かつてキャンディーズの引退公演で大道具を担当した過去があり、三幸製菓(新潟市)の新CM発表会(2010年1月12日)では、共演した田中好子について「最初は(田中と)目が合わせられなかったが、仲良く話せるようになってうれしい」と語っている。

柄本明佐藤B作とは自由劇場時代からの30年来の親友。柄本とはともに『男はつらいよシリーズ』、『釣りバカ日誌シリーズ』で何度も共演、B作とも互いをテレビカメラの前で遠慮会釈なしに揶揄し合い扱き下ろせる程で、誰かがバラエティに出演した際に他方の愚痴をこぼし合える、気の置けない仲間である。

芸能関係者とプライベートの交流をほとんど持とうとしなかった渥美清と親交の深かった、数少ない芸能人である。柄本明を加えた3人で連れ立って芝居を見に行ったり、バーに飲みに行くこともあったという。山田洋次に対して最初に笹野を紹介したのも渥美で、それを笹野が知ったのは渥美が死去した際であった。笹野は現在も、渥美が心を開いた数少ない人間であったことを誇りにしている[2]

愛車は黄色のポルシェ・911である[3]

主な出演作[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

オリジナルビデオ[編集]

ネットドラマ[編集]

バラエティー・情報番組など[編集]

テレビアニメ[編集]

CM[編集]

インターネット動画[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b 2008年3月号『日経エンタテインメント!』、「2008年スーパーサブカタログPART2」より
  2. ^ 週刊女性』 2011年1月18・25日号
  3. ^ 『キカナイト』(2011年7月5日放送)”. 有名人&芸能人の愛車データベース. 2011年11月11日閲覧。

外部リンク[編集]