国生さゆり

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こくしょう さゆり
国生 さゆり
本名 國生さゆり
生年月日 1966年12月22日(47歳)
出生地 日本の旗 日本鹿児島県鹿屋市
国籍 日本の旗 日本
血液型 A型
職業 歌手女優タレント
活動期間 1985年 -
公式サイト Sony Music Artists

国生 さゆり(こくしょう さゆり、1966年(昭和41年)12月22日 - )は、日本女優タレント歌手血液型A型。愛称はさゆちゃん。ソニー・ミュージックアーティスツ所属。

鹿児島県鹿屋市出身。幼少期を長崎県佐世保市で過ごし、鹿屋市立西原小学校・鹿屋市立第一鹿屋中学校清水ヶ丘高等学校広島県呉市)卒(父親が海上自衛官で、佐世保基地から鹿屋基地呉基地への転勤にともなうもの)[1][2]

1985年(昭和60年)4月に、おニャン子クラブの会員番号8番としてデビューした。翌年の1986年(昭和61年)に、シングル曲の「バレンタイン・キッス」でソロデビューした[1]

本名の正式な表記は「國生さゆり」で、NHKに出演する際などにはこちらを用いる場合もある。「さゆり」という名前は父が吉永小百合のファンであったことから名付けられた[3]

経歴[編集]

芸能界入り前から、おニャン子クラブ卒業まで[編集]

高校在学中の1984年、第3回ミス・セブンティーンコンテスト(過去最大応募総数18万325人)中国地区代表に選出され全国大会に出場(同コンテストの同期には渡辺美里工藤静香渡辺満里奈などがいる[4]。1986年に渡辺美里のラジオ番組で国生と対談。入賞はできなかったが、大会終了後にCBSソニーからレコード会社対抗運動会に「運動会要員」として出場しないかと声をかけられる[4]。これは陸上短距離走インターハイ選手であった国生にゼッケンの社名をアピールしてもらいたいという狙いであった[4]。レコード会社対抗運動会には2度出場し、石川秀美を追い抜いたこともある。

CBSソニーからは正式にスカウトされたわけではないため[5]資生堂の美容部員に就職が内定し、高校卒業後は広島のデパート化粧品売り場に立つ予定だった[4][5]。しかし、先のCBSソニーの担当者の薦めで1985年2月、フジテレビ系列の深夜番組『オールナイトフジ』の“女子高生スペシャル”に出演[5]。番組内で行った“美少女コンテスト”において優勝するなどして、同年4月1日からの同局で始める新番組『夕やけニャンニャン』のおニャン子クラブ(以下、原則として「おニャン子」と標記する)の一員としてスカウトされ、おニャン子クラブ会員番号8番として番組開始とともにデビューした[1]。高校を卒業後、上京した[5][6]。高校時代を広島で過ごしたため、当時は「広島出身」としていた(現在は「鹿児島出身」としている)。

『夕やけニャンニャン』(以下、『夕ニャン』と略す)の初期メンバーは都会育ちの子が多く、田舎育ちは国生だけであった[7]。また素人集団という『夕ニャン』メンバーのイメージだが[8]、実際は子役上がりの子も多く、完全な素人は国生だけで当初はメンバー内で孤立したという[7]。学生時代は陸上部のキャプテンを務めていたことに加え、『夕ニャン』放映開始時には既に学生ではなかったため、『夕ニャン』出演当初はリハーサルから番組に参加し、学生時代とテレビリハーサルで得た体験を交えつつ、自発的に後輩おニャン子に指導するなど、自然とおニャン子のリーダー格となっていった。しかしおニャン子のパブリックイメージはあくまでもフロントの4人である新田恵利中島美春福永恵規内海和子に集中していたため、9月にソロデビューした河合その子のキャンペーンに同行した以外は特に目立った活動のない状態が続いた。

後のTV出演の際、自身のおニャン子時代について、「ソロで出れるのか、グループで出れるのか、それとも出れないのか、とてもピリピリしていた。」「先にソロデビューを果たしている新田恵利や河合その子を応援したいという気持ちと嫉妬心とが入り混じり、女の子ならではのとても複雑な気持ちで見ていた。」と当時を振り返っている。

1986年に入るとようやく頭角を現し、2月1日、国生さゆりwithおニャン子クラブ(国生のサブボーカルとして、白石麻子渡辺美奈代がつく)名義のもと『バレンタイン・キッス』でソロデビュー。同曲は約30万枚のヒットとなり、現在でもバレンタインシーズンには定番の曲である。しかし、オリコンでは初登場2位という結果に。新田や河合は1位を獲得しているだけに、2人には負けたくなかったと、当時の悔しい心境を語っている。

また、『スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説』へのメインゲスト出演や、『月曜ドラマランド』などおニャン子主体のドラマにも主役格で出演するようになり、瞬く間に中心メンバーへと成長。さらに、カネボウ秋のキャンペーンガールに選ばれるなどの活躍をみせた。この頃から「芯の強さ・気の強さ」を前面に出すようになり、おニャン子のリーダーとしてのイメージも定着してゆく。国生の親衛隊つなぎ姿の若者が多かった[9]

リーダーとして後輩の指導にも積極的に関わっていたが、ソロデビュー以降は「年下のメンバーの子たちの中に、自分から入ってはいかなかった」という。渡辺美奈代などは後に「さゆりちゃんが苦手だった」と発言している(そうとわかる発言をしている)。国生が挙げる仲の良かったメンバーは福永恵規、樹原亜紀名越美香城之内早苗など、自身が「おとな組」と称する面々。(新田との確執に関して「私はプロ意識のない人は嫌いです」と、暗におニャン子内に派閥が存在していることを認める発言をしているが、樹原や名越は芸能界での成功を目指しているわけではなかった。)特に同い年で、同じく就職を取り止めておニャン子入りした福永のことは「東京に来てはじめてできた友達」と表現している。(新田恵利#新田派・国生派の頁参照)

バイクの免許を取得し、1986年の10月から約一か月掛けて北アメリカ大陸を横断する企画を実行。その様子は『夕ニャン』内で逐一報告された。完走を遂げた際には「(交通)事故を起こすと芸能活動ができなくなるので、もうバイクには乗れません」と、涙ながらに発言。ビデオ(当時はLD)「HELLO!アメリカ」(2004年にDVD化)、写真集「EAGLE」などの形で商品化された。

1987年4月、『夕ニャン』およびおニャン子クラブを卒業。番組最後のあいさつで「私はおニャン子の想い出を缶詰に入れ、冷蔵庫に入れて保存しておきたいです」という弁を述べたが、後にこの時のVTRを観たタモリから「缶詰に入れたら、何も冷蔵庫に入れる必要はないじゃないか」という突っ込みを入れられる。同年7月に『キスより簡単』で連続ドラマ初主演を果たす。

同年8月の番組終了時までには何回かゲストとして『夕ニャン』に出演し、おニャン子クラブの解散コンサートにも出演。

『夕ニャン』終了後 - 1990年代の活動など[編集]

1988年でシングル、翌1989年でアルバムの発売は途絶えたが、女優としては多数のドラマにレギュラー出演した。同年、エランドール賞新人賞を受賞。ただこの頃に、「歌詞やセリフを覚えていかない」、「遅刻しても謝らない」、「ADにつらく当たり、コップ酒を投げつける[10]」、「(インタビュアーや取材記者など)感性が合わないと思った相手とは話さない」などの言動をしていると一部メディアで批判が出るようになる。これに関して当時は「自分は口数が少ないから誤解を受けやすい」と弁明していたが、近年は「あの頃は天狗でした」とそれらが事実であったこと、そのために20歳代の後半に一気に仕事が減ったことを明かしている。

1991年のドラマ『しゃぼん玉』出演以降、長渕剛との不倫関係が噂されるようになる[10]。これに関して長渕は「自分は一般常識の範囲外で生きている」と発言。1995年1月、長渕が大麻取締法により逮捕されたのを受けて記者会見を開き、自身は薬物に無関係であり、長渕の夫人(志穂美悦子)を交えて話し合い不倫関係を清算させたと発表。「潔い」、「保身のために逃げた」と賛否が分かれたが、この件を機にバラエティ番組に多く出演するようになり、「強気に恋愛を語る」というキャラクターを得る。

1995年4月から『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』にレギュラー出演。番組の企画で、室井滋高山理衣との3人組ユニットMckeeを結成。曲を出し、オリコン初登場28位を記録するという結果になる。しかし、リリースした曲はこの1曲で終わり、Mckeeも自然消滅した。番組のマイナーチェンジ(「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」へ番組名改名・番組内容大幅リニューアル)により1996年の夏に降板。2002年3月の『ウリナリ』最終回の際に『ウッチャンウリウリ!ナンチャンナリナリ!!』時代からの歴代レギュラー陣が一挙に出演したが(一部のぞく)、国生らは1995年当時のVTRが流されただけで出演は一切しなかった。代わりにMckeeの後釜であるポケットビスケッツは出演した。

これ以降も読売テレビ制作『島田紳助がオールスターの皆様に芸能界の厳しさ教えますスペシャル!』などに出演。島田紳助は過去に自身の番組『Club紳助』において、国生が恋愛体験をあからさまに話してくれたことに感謝しており、不倫問題の際「女優はどんな恋をしても許される」と応援の手紙を送ったという。また『夕ニャン』で共演していた常滑川まことも、番組共演のたびにこの件を笑いに代え、国生をカバーしていた。

2000年以降の活動など[編集]

2000年11月、中学時代に交際していた上前琢郎と結婚。結婚初期は鹿児島県内に居住し、仕事の度に東京へ向かう生活を送っていた。結婚生活中から再びバラエティ番組への出演も増える。

2002年、おニャン子クラブの再結成に参加。シングル「ショーミキゲン」では、おニャン子クラブの楽曲ではじめてフロントボーカルを担当した。

2003年8月に上前と離婚。その後、1年間ほどのブランクを経て再び同棲する関係になっていたことが2007年6月になって報道されたが[11]、2008年8月になって再び同棲が解消されていると報道された[12]

2007年2月13日にテレビ朝日系列で放送された『ロンドンハーツ』ではドッキリ企画として番組内のライブで21年ぶりに「バレンタイン・キッス」をデビュー当時の衣装とポニーテールの髪型で再現。ライブ当日での急遽出演依頼であったため、感涙していたと同時にもう少しレッスン時間が欲しかったと伝えていた。「バレンタイン・キッス 2007」と銘打った新録音バージョンをインターネット配信で発表した。

2008年、デビュー曲のセルフリメイク「バレンタイン・キッス 2008」を発表。同年2月14日、AKB48のライブ内で歌唱された「バレンタイン・キッス」でもドッキリ企画として同曲の2番目のフレーズから参加し、AKB48との共演を果たす。この後の記者会見では報道陣に今でも「現役アイドル」宣言をした。

また同日放送の『アイドリング!!!』(おニャン子の後継グループの冠番組)では、事務所の後輩で奇しくも自身と同じ番号「8」を持つアイドリング!!!8号のフォンチーに対し「フォンチーね、ちょっと太ったのよね」と発言し、担当マネージャーの「アイドルグループの中にせっかく入れてもらったのに全然やる気がない」という嘆きを暴露。バカリズムが「8番の名前を汚さないで」と言った後に続けて「汚さないで」と発言し、これらの言動が一部で物議を醸したが、しっかりダイエットを成功させたフォンチーを褒め、フォンチーも国生のことを尊敬するようになった。

11月には、女子プロレス団体OZアカデミーによる新宿FACEでの興行に、交友関係のあった尾崎魔弓セコンドとして登場[13]。 以降、尾崎魔弓率いる尾崎軍のマネージャーとして参加している。

2009年12月24日、コンサルタント会社社長の甲田英司と婚約。2012年2月14日に婚姻届を提出[14]

2010年7月、おニャン子クラブ在籍時には犬猿の仲と言われた新田恵利と有楽町のディスコ「クラブディアナ」で同じステージに立ち、新ユニット結成を約束した。

同年11月、宝くじで100万円を当てたことを本人のブログで報告した。その後、2011年3月、東北地方太平洋沖地震の義援金として、当選した宝くじの当選金100万円全額を寄付すると自身のブログで明かした。

2013年9月9日、夫である甲田英司と離婚した事をレギュラー出演している『ハピくるっ!』(2013年9月13日、関西テレビ)の番組内で自らの口で発表した。

人物・エピソード[編集]

陸上短距離走のインターハイ広島県代表選手であった[15]。100メートルのベストタイムは12秒8[15]。「12.8秒。これが私の青春です」と1987年3月のおニャン子クラブの卒業式の記念プロモにて自らが語るほどであった。また1986年2月、TBS系ザ・ベストテン』において(デビュー曲『バレンタイン・キッス』がランクインした時)司会の小西博之[16]と100メートル走の競走という企画があった(事前に競技場で収録したものを流す)が、この時は少し差がついて完敗だったが、それでも本人は遺憾無く実力を発揮していた様だった。1995年にはフローレンス・ジョイナーとの『世紀の100M対決!』を繰り広げた。

これまで唯一の自身のMCであるラジオ番組『走れメロン』(1986年、ニッポン放送系)は日曜の夜10時からの番組であり、野球中継の延長で番組が短縮・中止となる事が頻繁にあったが、短縮になった時のトークで「野球はそんなに熱狂的でもありませんが、地元だった広島よりは巨人が好きです。特に槙原寛己さんみたいな肩幅の広い選手が好きです」と話す。

おニャン子クラブに在籍していた時、本屋にいたら店の向こう側から自分を無断で撮影していたカメラ小僧を見つけたので、気付かれないように店を出るとカメラ小僧の後ろに回って相手を驚かせて、「何やってんだ、お前」と問い詰めた挙句、カメラ小僧のフィルムを全て没収して台無しにしたことがあった[17]

アイドル時代、毎日新聞に「当世風 美しき虚像」と題して取り上げられた際に、「アイドル青田買い時代の目立ちたがり娘は、テレビカメラに向かって確かめる。テレビよ、テレビよ、一番の器量よしはだれ?」「会ってみたら、ろくなあいさつもあらばこそ、人前かまわず髪をブラッシングするわ、足を投げ出すわ。ほおづえ突いて、“変に大人になりたくないしぃ”」「芸能界はアイドル人気の使い捨てばやり、美しい虚像も早々と“星屑”にならなければいいんですが」などと酷評されたことがあった[18]。後のインタビューで、「この当時はおニャン子クラブのメンバーを含めた他のアイドルを必要以上にライバル視していたことから、色々と疑心暗鬼に陥っていた。取材の時にいい顔しなかったのがいけないのに、ホント、ヤナ奴だよねー。マスコミに批判された時はすごいコタえたが、結局悪いイメージにしても何にしても自分が作ったものなんだよね。今にして思えばさゆりが蒔いた種なんだ」と語っていた[19]

歌のトップテン』(1986年5月26日放送)においてのセカンドシングル『夏を待てない』の歌い出しの外しっぷりが『ダウンタウンDX』(2004年3月4日放送)や『くりぃむしちゅーのたりらリでイキます!!』で取り上げられ、もはやネタ扱いされている。上田晋也は「なんでこんな人応援してたんだろう」と呟いていた。

タレントでは勝俣州和星田英利ココリコ遠藤章造ダイノジ大地洋輔などがファンだったと告白している。星田の証言によると、おニャン子クラブ時代の親衛隊のメンバーは、暴走族ヤクザ風の人間といった、所謂「気合の入った方達」ばかりだったとのこと[20]

前述の通り、高校を卒業しおニャン子メンバーになる前は、資生堂の美容部員での就職が決定していた[4]。しかしおニャン子メンバーになった後に、資生堂のライバル社であるカネボウの1986年秋のキャンペーンガールとしての話があった時、国生は「(カネボウに)選出していただいたのは光栄だが、資生堂に何か申し訳ない気持ちは多少有ります」と語っていた[21]

最近では女優業のほかに、NHK-BS2の番組『アニメ夜話』に3回にわたって出演した(『BSアニメ夜話スペシャル とことん!あしたのジョー』を含めると4回)。『ルパン三世 カリオストロの城』の回では唐沢俊一と討論した。

好きなアニメ監督は宮崎駿押井守ウォルト・ディズニーなど。『アニメギガ・スペシャル とことん!押井守』にも出演した。最も好きな押井守作品は『Avalon』である。

趣味はゴルフ。「週刊ゴルフダイジェスト」に隔週で対談の連載を設けていた(2006年〜2010年)。

日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会認定焼酎アドバイザーでもある。

かなり負けず嫌いな性格である。ロンドンハーツの企画で、腹筋を行った時には80回も腹筋をしたがインリンに僅差で負けた。そのことが非常に悔しかったため、「いつかインリンを抜こう」と毎日腹筋を行っていた。

2010年はまいけるが一時的に国生の付き人マネージャーをしていた[22]

出演[編集]

テレビドラマ[編集]

太字は主演作品

映画[編集]

テレビ番組[編集]

(レギュラー、準レギュラーのみ)

配信番組[編集]

  • 鳥肌怨読棺(2009年7月 - 9月、Bee TV) - パーソナリティー
  • 婚前特急 -ジンセイは17から-(2009年9月、LISMO Video
  • オシャレに恋したシンデレラ(2011年10月 - 12月、Bee TV) - 兼高朝子 役

オリジナルビデオ[編集]

  • 獣のように(1990年・1992年 全3作、東映ビデオ) - 桃子 役
  • 大災難(1995年、徳間ジャパンコミュニケーションズ) - マリ 役

ラジオ[編集]

アニメ[編集]

CM[編集]

音楽[編集]

シングル[編集]

  1. バレンタイン・キッス(1986年2月1日、作詞 秋元康、作曲 瀬井広明、編曲 佐藤準、c/w 恋はRing Ring Ring)
  2. 夏を待てない(1986年5月10日、作詞 秋元康、作曲 後藤次利、編曲 佐藤準、c/w サンバを躍らせて)
  3. ノーブルレッドの瞬間(1986年8月14日、作詞 秋元康、作曲 後藤次利、編曲 佐藤準、c/w もう一度走って恋人よ)
  4. あの夏のバイク(1986年12月3日、作詞 秋元康、作曲 後藤次利、編曲 佐藤準、c/w 夜明けまで"Happy Birthday")
  5. 星屑の狙撃手(1987年3月11日、作詞 秋元康、作曲・編曲 後藤次利、c/w こわれた太陽) - 「こわれた太陽」はエイス・ワンダー「浮気なテディ・ボーイ」のカヴァー
  6. ソレ以上、アレ未満(1987年5月28日、作詞 秋元康、作曲 小森田実、編曲 難波正司、c/w ノンフィクションしたい)
  7. 恋は遠くから(1987年10月1日、作詞・作曲 ポール・グレイ、日本語詞 秋元康、編曲 佐藤準、c/w コルドンブルー・ジェラシー風味(あじ))
  8. ガラスの森(1988年4月30日、作詞 森雪之丞、作曲 瀬井広明、編曲 難波正司、c/w WAIT!)
  9. Can't Stop My Heart(1996年4月17日、McKee名義、作詞 南々見一也、作曲・編曲 後藤次利)
  10. バレンタイン・キッス2008(2008年1月16日、編曲 多田三洋)

アルバム[編集]

  • PEP TALK(1986年7月16日)
  • BALANCE OF HEART(1987年2月1日)
  • TRANSIT(1987年8月1日)
  • SUMMER SNOW(1988年6月22日)
  • 愛執 -Still Loving-(1988年7月21日) - 8cmCDでリリースされた5曲入りベストアルバム
  • SAKANA(1989年10月21日) - 「さかな」「部屋(ルーム)」の2曲は自身が作詞
  • 国生さゆり ベストコレクション(1997年7月1日)
  • GOLDEN☆BEST 国生さゆり SINGLES(2002年11月20日)

参加作品

インターネット配信[編集]

  • バレンタイン・キッス2007(2007年1月17日、編曲 柳田しゆ) - PVも同時発表。

ビデオ・LD[編集]

  • HELLO! アメリカ(1986年12月12日、堤幸彦監督)
  • ファーストコンサート DASH! KOKUSHO(1987年4月1日)

※いずれも2004年にDVD化されている。

書籍[編集]

CDマガジン

脚注[編集]

  1. ^ a b c 国生 さゆり プロフィール - Sony Music Artists
  2. ^ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載2〉上:東スポWEB
  3. ^ 2007年10月26日放送『スタジオパークからこんにちは』より
  4. ^ a b c d e 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載3〉下国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載4〉上国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載4〉下
  5. ^ a b c d 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載5〉上国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載5〉下
  6. ^ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載6〉上
  7. ^ a b 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載7〉上国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載7〉下国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載8〉上国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載8〉下
  8. ^ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載11〉上国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載11〉
  9. ^ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載20〉国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載8〉下
  10. ^ a b 本多圭の「芸能界・今昔・裏・レポート」Vol.69 TBSドラマ『歸國』出演の長渕剛 忘れがたき「AD殴打事件」その蛮行」、日刊サイゾー2010年7月16日2012年9月2日閲覧。
  11. ^ 「国生さゆりがロンハーで自ら復縁同棲を報告」オリコン2007年6月13日9時40分配信
  12. ^ 「国生さゆり03年離婚の元夫との再同居解消」日刊スポーツ2008年8月5日
  13. ^ 「OZ新宿大会での尾崎軍セコンドに国生さゆりさんが登場した件につきまして」OZアカデミープレスリリース、2008年11月6日
  14. ^ 国生さゆり バレンタイン入籍を報告「この日を待ってました」 - スポーツニッポン 2012年2月14日
  15. ^ a b 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載2〉下
  16. ^ 小西自身は、サイクリングボクシングスキー野球乗馬合気道と言ったスポーツの趣味や、特技を持っている。
  17. ^ 「まいどおニャン子 卒業記念完全保存版」 扶桑社 132項 ISBN 4-89353-142-5
  18. ^ 「Look 国生さゆり」毎日新聞 1987年4月14日夕刊
  19. ^ 「背のび強がりもうやめます!!」DUNK 集英社、1987年10月号、127-129項
  20. ^ 日本テレビ系列「ダウンタウンDX」2010年10月16日放送分より。
  21. ^ カネボウCM出演時のBGMは、国生本人の歌う『ノーブルレッドの瞬間(とき)』であった。
  22. ^ 『クイズ☆タレント名鑑』2010年11月25日放送分による。
  23. ^ 番組の企画で、アトランタオリンピック聖火ランナーを体験。前走者はシェイプUPガールズ梶原真弓
  24. ^ 単独で「懺悔花」「番町皿屋敷」、共同で「鈴の音」「もう半分」「雪女」を担当。

参考ウェブサイト[編集]

外部リンク[編集]