日独防共協定

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日独防共協定に調印するリッベントロップとそれを見守る武者小路公共

日独防共協定(にちどくぼうきょうきょうてい、ドイツ語: Antikominternpakt)は、1936年昭和11年)11月25日日本ドイツの間で調印された共産「インターナショナル」ニ対スル協定及附属議定書と、その際に締結された秘密議定書を指す。国際共産主義運動を指導するコミンテルンに対抗する共同防衛をうたっている[1]。ドイツ側は交渉の相手を日本海軍に求めたが拒否されたため日本陸軍が当初の交渉相手となっていたが[2]、後には日本外務省が担当するに至った[3]

背景[編集]

1933年に国際連盟を脱退した日本では、国際的孤立を防ぐために同様に国際連盟から脱退したドイツ・イタリアと接近するべきという主張が日本陸軍内で唱えられていた。また、ソビエト連邦は両国にとって仮想敵であり、一方のソ連では1935年7月に開催された第7回コミンテルン大会で日独を敵と規定するなど、反ソビエトという点では両国の利害は一致していた。

しかしドイツ外務省やドイツ国防軍は伝統的に親中華民国路線であり、日本が建国した満州国承認も行わず対日接近には消極的で、極東情勢に不干渉の立場をとっていた(中独合作)。ナチス党内部でも、外交局長アルフレート・ローゼンベルクは日独接近は英独関係に悪影響を及ぼすと考えていた。しかし駐英大使であり、ヒトラーの個人的信任を得ていたヨアヒム・フォン・リッベントロップは日独接近は対英関係に好影響をもたらすと主張したため、ヒトラーはリッベントロップに「個人的な対日工作」を指令した。リッベントロップは「リッベントロップ事務所」を設立し、対日交渉に臨んだ。しかし頭越しの外交に不快感を抱いたドイツ外務省の消極的な抵抗を受けた。

交渉[編集]

大島浩駐独武官

1935年10月、リッベントロップは兵器ブローカーフリードリヒ・ハックを通じて駐独日本大使館付陸軍武官大島浩少将に接触し、日本陸軍参謀本部の意向を確認した。日本では駐日ドイツ大使ヘルベルト・フォン・ディルクゼンde:Herbert von Dirksen)が交渉を担当したが、大使館付武官オイゲン・オット大佐は極東の戦争にドイツが巻き込まれる危険性がある対日接近に懐疑的であった。

オットから報告を受けたルートヴィヒ・ベック参謀総長らドイツ参謀本部も対日接近を警戒した。国防軍内部で日独連携を主張するのは国防軍情報部長のヴィルヘルム・カナリス中将のみであり、国防軍総局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウを始めとする親中派は独自に対中交渉を始めていた。

日本の参謀本部は提携には積極的であったが、軍事同盟には消極的であった。しかし日ソ戦の際にドイツが「好意的中立」を保ってくれることを希望していた。ドイツ側はソ連を刺激することを恐れ、協定内容を対ソ連ではなく「コミンテルンによる国際共産主義運動が自国に波及する事を防ぐ」という婉曲的な内容にしようとした。しかしドイツ外務省や国防軍の抵抗を受け、交渉は一時停滞した。

1936年1月、日本外務省欧亜局長東郷茂徳は陸軍から説明を受けて初めて協定締結交渉を察知した。東郷は協定に反対であったが、2月に二・二六事件が勃発して陸軍の発言力が増大したため、交渉締結の路線から外れることは出来なかった。5月8日、外相有田八郎は駐独大使武者小路公共に「両国間に事項を限定しない漠然たる約束」をする趣旨の指令を行った。しかし参謀本部は大島少将に「日ソ戦が勃発した際に中立を守る」規定を盛り込むように指令した。

一方で4月6日にはライヒェナウらの主導で、中華民国に一億ライヒスマルク借款を行うことを始めとする援助協定が成立した。これは対独接近を考えていた日本側にも大きな衝撃を与えた。国防軍主導の独中接近で外交権限が奪われることを危惧したドイツ外務省は日独連携路線に傾いた。6月にヒトラーは日本重視路線を決定し、協定の成立は確定的になった。しかしドイツ外務省も軍事同盟は諸外国を刺激するため、内容をできるだけ骨抜きにするよう努めている。

11月頃になると日独接近は各国に察知され、イタリアが「同内容の協定(が日独伊間に)成立を期待する」と申し入れを行った。一方でソ連は協定成立を警戒し、11月20日に予定されていた日ソ漁業条約の調印を延期した。

条約締結[編集]

1938年10月頃の天王寺駅。駅前に、日章旗とともに同盟国ドイツのハーケンクロイツが掲げられている。

11月25日、ベルリンで協定が締結された。日本側の全権大使は武者小路駐独大使、ドイツ側はリッベントロップが行った。この席には外務省関係者ではないカナリスが参加していた。

条約の内容[編集]

大日本帝国政府および独逸国政府は共産「インターナショナル」(所謂コミンテルン)の目的が其の執り得る有らゆる手段に依る現存国家の 破壊及爆壓に有ることを認め 共産「インターナショナル」の諸国の国内関係に対する干渉を看過することは其の国内の安寧及び社会の福祉を危殆ならしむるのみならず世界平和全般を脅すものなることを確信し 共産主義的破壊に対する防衛の為協力せんことを欲し左の通協定せり

第一条
締結国は共産「インターナショナル」の活動に付相互に通報し、必要なる防衛措置に付協議し且緊密なる協力に依り右の措置を達成することを約す(対コミンテルン活動の通報・協議)
第二条
締結国は共産「インターナショナル」の破壊工作に依りて国内の安寧を脅さるる第三国に対し協定の趣旨に依る防衛措置を執り又は本協定に参加せんことを共同に勧誘すべし(第三国の加入要件)
第三条
本協定は日本語及び独逸語の本文を以って正文とす。本協定は署名の日より実施せらるべく且つ五年間効力を有す。締結国は右期間満了前適当の時期に於て爾後に於ける両国協力の態様に付了解を遂ぐべし(条約の期限)

附属議定書[編集]

本日共産「インターナショナル」に対する協定に署名するに当り下名の全権委員は左の通協定せり

(イ)両締約国の当該官憲は共産「インターナショナル」の活動に関する情報の交換並びに共産「インターナショナル」に対する啓発及防衛の措置に付緊密に協力すべし

(ロ)両締約国の当該官憲は国外に於て直接又は間接に共産「インターナショナル」の勤務に服し又は其の破壊工作を助長するものに対し現行法の範囲内に於て厳格なる措置を執るべし

(ハ)前記(イ)に定められたる両締約国の当該官憲の協力を容易ならしむる為常設委員会設置せらるべし。共産「インターナショナル」の破壊活動防衛の為必要なる爾余の防衛措置は右委員会に於て考究且協議せらるべし

(以上仮名を平仮名、旧仮名遣いを現代仮名遣いに修正)

秘密附属協定[編集]

日本陸軍が望んだ軍事的条約は第一条に定められた規定に盛り込まれた。この附属協定は公表されなかった。

第一条 
締約国の一方がソビエト連邦より挑発によらず攻撃・攻撃の脅威を受けた場合には、ソビエト連邦を援助しない。攻撃を受ける事態になった場合には両国間で協議する(対ソ不援助規定)。
第二条
締約国は相互合意なく、ソビエト連邦との間に本協定の意思に反した一切の政治的条約を結ばない(対ソ単独条約締結の禁止)。
第三条
この協定は本協定と同期間の効力を持つ。

(以上、概要)

秘密書簡・秘密了解事項[編集]

秘密附属協定を補則するため、秘密書簡と秘密了解事項が添付された。日独両国がすでにソビエト連邦と結んだ条約(独ソ中立条約など)は秘密附属協定の第二条の対象外となることなどが定められた。

評価[編集]

防共協定は交渉過程において実効性をもたない骨抜きの条約となり、交渉当事者にも「背骨無き」同盟[4]と評価されていた。

日本においては駐日大使ディルクゼンが勲一等旭日大綬章を受け、その他カナリス、オット、ハック等の交渉関係者にも叙勲が行われた。 しかし陸軍以外は協定締結に積極的ではなく、元老西園寺公望は「どうも日独条約はほとんど十が十までドイツに利用されて、日本はむしろ非常な損をしたように思われる」ともらしており、ディルクゼンも日本外務省・海軍・財界の態度が冷淡であると報告している。

その後[編集]

スターリンと握手するリッベントロップ外相1939年8月23日

1937年(昭和12年)11月 イタリアの参加により日独伊防共協定に発展した。1938年、リッベントロップは条約締結の功績により外相に就任し、以降のドイツ外交の主務者となった。

しかし1939年には独ソ間で独ソ不可侵条約が締結された。これを日独防共協定違反として平沼内閣総辞職し、事実上の空文となった。しかし日独はふたたび接近し、1940年には日独伊三国軍事同盟に発展した。1941年には日本も日ソ中立条約の締結に至っている。

第二次世界大戦勃発後は枢軸側に参戦したブルガリア、、フィンランドハンガリー満州国ルーマニアスロバキア南京国民政府クロアチア独立国、ドイツの占領下に置かれたデンマーク、および、中立国のフランコ政権下のスペインも協定に参加している。

関係する人物[編集]

ドイツ側対日接近派[編集]

日本側対独接近派[編集]

ドイツ側対中接近派[編集]

脚注[編集]

  1. ^ NHK取材班, p17
  2. ^ NHK取材班, p41
  3. ^ NHK取材班, p124
  4. ^ 田嶋信雄 <論説>日独防共協定像の再構成(一)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]