早川雪洲
| 早川雪洲 | |
早川雪洲 |
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| 本名 | 早川金太郎 |
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| 生年月日 | 1886年6月10日 |
| 没年月日 | 1973年11月23日(満87歳没) |
| 出生地 | |
| 民族 | 日本人 |
| ジャンル | 映画(俳優、監督、脚本、製作) |
| 活動期間 | 1913年-1971年 |
| 配偶者 | 青木鶴子 |
| 主な作品 | |
| 『チート』 『新しき土』 『戦場にかける橋』 |
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早川 雪洲(はやかわ せっしゅう、本名:早川 金太郎(はやかわ きんたろう)、海外名:セッシュー・ハヤカワ(Sessue Hayakawa)[1]、1886年6月10日 - 1973年11月23日)は、日本の俳優。日本人としてもっとも早い時代に活躍した国際的映画俳優である。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] 生い立ち
千葉県安房郡千倉町(現・南房総市)千田出身。裕福な網元の家に生まれる。海軍軍人に憧れる軍国少年期をへて海軍予備学校(現・海城高校)を卒業した。
卒業後に、海軍兵学校を受験するも試験前の素潜りで鼓膜が破裂。感染し化膿して頭部の半分が腫れた。そのため身体検査で不合格となり絶望し自殺未遂(割腹自殺を図ったとされる)。
[編集] 渡米
快復後に渡米し、アメリカの有名大学の1つであるシカゴ大学に入学し、一時期フットボール部にも所属していたという。1913年に同大学を卒業後、カリフォルニア州ロサンゼルスのリトルトーキョーにあった劇団で舞台の脚本を書くようになり、その舞台にも立つ。
その舞台が映画人の目にとまり、映画(トーマス・H・インス監督の『タイフーン』がデビュー作とされる)に出演する。なお、芸名は当初、尊敬する西郷隆盛の号「南洲」をもじって「北洲」としていたが、同名の俳優がいることがわかり、「北=雪が降る」ので「雪洲」とした。
[編集] スター
1915年の『チート』(セシル・B・デミル監督)で、人妻に焼きごてで焼印をする冷酷な日本人青年という悪役を演じ、一躍アメリカでスターダムに伸し上がる(ただし日本国内においては、同作で酷い日本人を演じたことで「国辱俳優」のレッテルが貼られた)。
また第一次世界大戦時には、日本やイギリスなどとともに連合国の一員として参戦したアメリカ政府の戦時公債の販売促進キャンペーンにも、イギリス人のチャーリー・チャップリンなど人気俳優とともに参加し貢献するなど、幅広い人気を得た。
1918年には、大学時代の友人の父親から100万ドルの融資を受け、自分の映画製作会社「ヘイワース・ピクチャーズ社(Haworth Pictures Corporation)」をロサンゼルス近郊に設立。3年で23本の映画を製作、年200万ドルの純利益を得てアメリカを代表する日本人映画人としてその名を轟かせた。映画1本の出演料も、当時のチャップリン(週給1万ドル)に匹敵(週給8500ドル)するほど高額だったという。なお、この製作会社は1922年に閉めている。
[編集] 国際的活躍
アメリカ国内のみならず世界的にも絶大な人気を誇り、雪洲が現れるとアメリカの女性ファンが何重もとり囲み、水溜まりがあれば、女性たちがわれ先に着ている毛皮のコートを雪洲の前に敷き積めるといった人気ぶりが伝えられた。
東洋風の四階建ての大邸宅を建設しハリウッド山にある豪邸「グレンギャリ城」では連日連夜パーティを催し、多くの同時代の映画人と親交があった。戦前の伝説的二枚目スターでセックスシンボル的存在であった、ルドルフ・ヴァレンティノも駆け出しの一時期、雪洲の屋敷に勤めていたことがあるという。この屋敷はヴァイン通りとフランクリン通りの交差するあたりにあった。現在はフリーウェイの出口になっており、面影はない。さらに全盛期には、世界の有名人が集うモンテカルロのカジノで一晩に500万円も負けてニュースになったこともあった。
しかし、1920年代にカリフォルニア州を中心に巻き起こった排日感情の高まりや映画会社との軋轢などもあり、1923年にハリウッドを去ってニューヨークへ向かい、ブロードウェイを中心に活躍した他、ヨーロッパや世界各地を巡業し、イギリス国王ジョージ5世に招かれたり、フランスのパリでの舞台がヒットするなどしばらくは舞台俳優として活躍した。
日露戦争を描いた当時の超大作フランス映画『ラ・バタイユ』(1923年)に出演し、東郷平八郎元帥役を演じた。日本公開時には東郷元帥自らがこの映画を鑑賞している。
1927年以降はトーキーの時代が来たため、英語の発音が良くない俳優のアメリカ国内での活躍の場が減ったこともあり、その後帰国し1932年には日本映画にも出演。日独合作映画『新しき土』(1937年)では、原節子の厳格な父親役を演じ、特にドイツでは高い評価を得た。
[編集] 第二次世界大戦
『新しき土』の撮影が完了した1937年に、映画「吉原」の撮影のためフランスに渡ったが、撮影開始後の1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、1940年にはドイツ軍にパリが占領され、親独の(つまり日本と同じ枢軸国側についた)ヴィシー政権が設立されたが、その後もパリに留まる。なお、この頃同じくパリに住んでいた大富豪の薩摩治郎八とも親交を持つ。
1941年12月には日本も第二次世界大戦に参戦し、多くの在仏日本人がフランス国内に取り残されることとなったが、雪洲もパリへ残ることとなった。なお早川は、ドイツ軍がパリを占領した後もドイツのプロパガンダに利用されることを拒み、その上にヴィシー政権に与せず自由フランスのドイツ軍に対するレジスタンス運動にも協力したこともあり、1944年に自由フランス軍と連合国軍によってパリが解放され、「敵国人」となった後も拘留されなかった。
さらに、1945年8月に日本が連合国に降伏し、第二次世界大戦が終結した後には、ドイツ軍へ協力した疑いでフランス国内で拘留された日本人の解放に、薩摩らとともに尽力した他、フランスに取り残された多くの日本人を帰国させるために活動した。
[編集] 戦後
その後もパリに滞在していたが、1949年には、戦前親交のあったハンフリー・ボガートが新作映画『東京ジョー』に雪洲が出演することを強く希望、雪洲を探しまわり、パリで水彩画家をしていた雪洲を見つけ出した。
当時日本はイギリスやアメリカ、フランスなどを中心とした連合国軍に占領されており、被占領国の日本人に対するビザ発給には大きな制限がかかっていたにもかかわらず、ボガートは雪洲に再びアメリカの労働ビザを取得するよう働きかけ、アメリカ政府は第二次世界大戦中に雪洲がドイツへの戦争協力を行っていないことを確認し、労働ビザを出し出演が実現した。
その後雪洲は、日本をベースにアメリカの作品にも出演するという活動スタイルを取り、これまでのようにアメリカを中心とした外国映画だけでなく、『鞍馬天狗と勝海舟』や「怒れ!力道山」など日本映画にも多く出演した。
[編集] アカデミー賞ノミネート
1957年の『戦場にかける橋』では日本軍の収容所所長の斉藤大佐を熱演し、高い評価を得た。日本人男優として初めてアカデミー助演男優賞にノミネートされ(受賞は逃している)、またこの作品自体もアカデミー作品賞を獲得した。
ゴールデングローブ賞にもノミネートされ、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞を受賞した。またこれまでの俳優活動が評価され、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにも名前が刻まれている。
[編集] 引退と死去
その後『アンデルセン物語』や『戦場よ永遠に』など、複数のアメリカの作品に出演したが、妻の死去を受けて1966年に引退した。1973年に東京都内の病院で脳梗塞で死去した。
[編集] 出演
[編集] 映画
- タイフーン(1915年)
- チート(1915年)
- 桜の光(1919年)
- スワンプ(1921年)
- 黒薔薇(1921年)
- 怒髪天を衝いて(1921年)
- かげろふの命(1922年)
- ラ・バタイユ(1923年)
- 大和魂(1930年)
- ヨシワラ(1936年)
- 新しき土(1937年)
- 背信(1937年)
- 東京ジョー(1949年)
- 三人の帰宅(1950年)
- レ・ミゼラブル あゝ無情(1950年)
- 鞍馬天狗と勝海舟(1953年)
- 日本敗れず(1954年)
- 東京暗黒街・竹の家(1955年)
- 怒れ!力道山(1956年)
- 戦場にかける橋(1957年)
- 底抜け慰問屋行ったり来たり(1958年)
- 緑の館(1959年)
- 南海漂流(1960年)
- 戦場よ永遠に(1960年)
- ボスは俺の拳銃で(1966年)
- アンデルセン物語(1966年)
- 黒人の意気(1971年)
[編集] テレビドラマ
- 次郎物語(1956年)
[編集] 家族
1914年に日本人女優の青木鶴子と結婚。プレイボーイの雪洲にはアメリカ人女優の愛人や日本人の愛人がいた。本妻との間に子はなかったが、アメリカ人女優との間にできた男児を日本へ連れ帰り、また日本の愛人との間に生まれた女児2人も、妻に育てさせた。
[編集] 文献
- 早川雪洲『早川雪洲 ~武者修行世界を行く~』日本図書センター〈人間の記録〉、1999年、ISBN 4820543334(1959年出版の自伝(絶版)の改題版)
[編集] 人物
- 彼が少年期の頃、アメリカ船のダゴタ号が千葉県白浜沖で遭難した時には通訳として活躍した。この時、船長からアマリリスをお礼に貰ったが、その花は白浜町の西岬に植えたという。
- 本業は俳優だか、哲学の博士号を持っており哲学博士としても活躍した。
[編集] 関連項目
- セッシュ
- 子供と魔法(モーリス・ラヴェルのオペラ。1925年初演。第1部で登場人物のひとり「中国風の茶碗」の歌の歌詞に、"harakiri, Sessue Hayakawa !"とある。台本はシドニー=ガブリエル・コレット)
[編集] 脚注
- ^ Sessueは早川本人が考えた「アメリカ人にも覚えやすい綴り」で、本人はこれを「セッシュー」(sesh-oo)と発音していたが[1]、アメリカ人は通称「セッスー」(ses-sue)または「セスエ」(sesu-é)と発音していた [2]。