野口英世

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野口英世

野口 英世(のぐち ひでよ、明治9年(1876年11月9日 - 昭和3年(1928年5月21日)は日本細菌学者学位医学博士京都大学)、理学博士東京大学)。その他、ブラウン大学イェール大学より理学博士を授与されている。称号エクアドル共和国陸軍軍医監名誉大佐キリスト者

黄熱病梅毒等の研究で知られる。また、コッホから始まる細菌学的医学権威の最後の一人ともいわれる。ガーナアクラで黄熱病原を研究中に自身も感染して51歳で死去。

野口を主人公とした、子供向けの偉人伝が多数刊行されて「偉人の代表」ともよべる存在となったため、医学研究者としては非常に知名度が高い人物である。2004年より発行されている日本銀行券E号千円札の肖像になっている。

趣味は、浪花節将棋囲碁油絵であった。アメリカ合衆国シャンデイケンに野口の設計した別荘があり、ここで油絵の多くは描かれた。

アメリカ・ニューヨークにあるロックフェラー大学図書館入り口の双方には、ロックフェラーと、ロシア人彫刻家カニョンコフが制作した野口英世の胸像がある。この像はロックフェラー財団からの贈呈を受け、福島県猪苗代町にある野口英世記念館東京都にある野口英世記念会館にも設置されている。また長野県佐久市にある臼田文化センターには彫塑家川村吾蔵が制作した胸像がある。さらに東京、上野恩賜公園国立科学博物館前にも銅像がある。

目次

[編集] 年譜

野口英世と母シカ(野口英世記念館蔵)
  • 明治9年(1876年11月9日福島県耶麻郡三ッ和村(現・猪苗代町)に野口佐代助[1]・シカ夫妻の長男として生まれ、清作と名付けられる(後述の理由により22歳で英世と改名)。[2]
  • 明治10年(1877年)1歳の時に囲炉裏に落ち、左手を大火傷する。当時は医者といえば内科的漢方医が主流で、また農村においては医療と法術祈祷の境界も明確ならざる認識であり、祈祷師による医学的根拠のない民間治療に頼る以外に方法はなく、結果、野口の左手の指は癒着してしまった。[3]
  • 明治16年(1883年)、三ッ和小学校に入学。[4]
  • 左手の障害から農作業が難しく、学問の力で身を立てるよう母に諭される。当時、半数以上の学童が様々な事情で退学していく中、家の手伝いなどで勉強が疎かになり落第したこともあったものの、上級生の時の成績は優秀で、小学校卒業時の成績は首席であった。一方、母は農作業のかたわら、副業として産婆を営むようになった。[5]
  • 明治22年(1889年)、猪苗代高等小学校の教頭であった小林栄に優秀な成績を認められ、小林の計らいで猪苗代高等小学校に入学する。当時、高等小学校に通うことができたのは一部の裕福な家庭の子息だけであったが、小林は野口のために自ら学費を援助しており、当時の野口に対する小林の期待の大きさがうかがえる。また、野口自身も母や小林らの期待によく応え、高等小学校でも体操以外の成績はすべて首席であった[6]
  • 明治24年(1891年)、左手の障害を嘆く彼の作文が、小林を始めとする教師や同級生らの同情を誘い、彼の左手を治すための手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡部鼎の下で左手の手術を受ける。結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになる。この手術がきっかけで医師を目指す。
  • 明治26年(1893年)、高等小学校を卒業後、自分を手術してくれた渡部の経営する会陽医院に書生として住み込みで働きながら、約3年半にわたって医学の基礎を学ぶ。この間に、渡部の友人であった歯科医で東京都港区の高山歯科医学院(現・東京歯科大学)の講師・6歳年長の血脇守之助と知り合う。
  • 明治29年(1896年)、小林らから40円もの大金を借りて上京。医師免許を取得するために必要な医術開業試験の前期試験(筆記試験)に合格するも、放蕩のためわずか2ヶ月で資金が尽き、下宿からの立ち退きを迫られる。後期試験に合格するまでの間、血脇の勤める高山歯科医学院に書生として雇ってもらおうとするが院長に拒否され、血脇の一存で非公式に寄宿舎に泊まり込むこととなる。その後、掃除や雑用をしながら学僕となる。
  • 同年、ドイツ語の学習を目的としてエリザ・ケッペン夫人の夜学の学費を得たいと考え、血脇に相談するが、月給4円の血脇には捻出できないため、血脇に策を与え院長に昇給を交渉させる。結果、血脇の給与は月額7円となり、ここから学費を得ることができた。
  • 後期試験(臨床試験)は実際の患者を相手に診断をするもので、独学が不可能であったため、医術開業試験の予備校である済生学舎[7]へ通う資金を得るために、再び血脇に秘策を与えて院長と交渉させる。その結果、血脇は院長から病院の経営を任せてもらうことで病院の予算を自由に動かせるようになり、彼自身は血脇から月額15円もの援助を受けることに成功[8]。済生学舎近くの東京都文京区本郷の大成館に下宿する。
  • 明治30年(1897年)、臨床試験で必須の打診ができないことから、血脇の計らいで帝国大学外科学教授・近藤次繁による左手の無償再手術を受ける。結果、打診が可能になり後期試験にも合格。21歳で医師免許を取得した[9]
  • 医師免許取得後、開業資金がなく、また左手を患者に見られたくないという理由から、開業医の道を断念。血脇の計らいで高山歯科医学院の講師を務める他、順天堂病院助手として「順天堂医事研究会雑誌」の編集の仕事に携わる。
  • 明治31年(1898年)10月、順天堂の上司である編纂主任・菅野徹三に頼み込み、順天堂医院長・佐藤進の紹介という形で、血清療法の開発などで世界的に名を知られていた北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に勤め始める。[10]。研究所では語学の能力を買われ、外国図書係として、外国論文の抄録、外人相手の通訳、および研究所外の人間との交渉を担当した。
  • 同年、知人からすすめられて、坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」を読んだところ、弁舌を弄し借金を重ねつつ自堕落な生活を送る登場人物・野々口精作が彼の名前によく似ており、また彼自身も借金を繰り返して遊郭などに出入りする悪癖があったことから強い衝撃を受け、そのモデルであると邪推される可能性を懸念し改名を決意、郷里の小林に相談の結果、世にすぐれるという意味の新しい名前“英世”を小林から与えられた[11]。本来、戸籍名の変更は法的に困難であるが、野口は別の集落に住んでいた清作という名前の人物に頼み込んで、自分の生家の近所にあった別の野口家へ養子に入ってもらい、第二の野口清作を意図的に作り出した上で、「同一集落に野口清作という名前の人間が二人居るのは紛らわしい」と主張するという手段により、戸籍名を改名することに成功した[12]
  • 明治32年(1899年)4月、伝染病研究所渉外係の業務の一環として、アメリカから志賀潔赤痢の研究を視察するために来日していたサイモン・フレクスナー博士の案内役を任された際、フレクスナーに自分の渡米留学の可能性を打診。
  • 同年5月、伝染病研究所の蔵書が、野口経由で貸し出された後に売却されるという事件が発覚。この事件を理由に研究所内勤務から外されたが、北里所長の計らいで横浜港検疫所検疫官補となる。9月、横浜港に入港した“あめりか丸”の内部で、ペスト患者を発見・診断した。
  • 同年10月、清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省より要請のあった、国際防疫班に選ばれる。しかし支度金96円を放蕩で使い果たしたため、資金を血脇に工面してもらい渡航。清国では一般的な病気の治療にあたった。半年の任期終了後も国際衛生局、ロシア衛生隊の要請を受け残留。国際的な業務を体験し、翌年5月にフレクスナー宛にアメリカ留学を希望する手紙を出す(ロックフェラー大・noguchi-paper)。この時期は大変な高給に恵まれたが、放蕩で使い果たしてしまったため、渡航のための資金を得る事はできなかった。
  • 明治33年(1900年)6月、義和団の乱により清国の社会情勢が悪化。7月に日本へ帰国。開通したばかりの国鉄岩越線で福島県に帰郷。小林に留学資金の融通を要請するも、「いつまでも他人の金に頼るな」と諭され、拒否される。再び神田・東京歯科医学院(芝より移転した元・高山歯科医学院)の講師に戻る。
  • 同年、偶然に知り合った斉藤という家の娘と婚約の話を取り付け、斉藤家からもらった婚約持参金を渡航費に当てて、12月にアメリカへ渡航。[13]北里の紹介状を頼りに、フレクスナーのもとペンシルベニア大学で助手の職を得て、蛇毒の研究というテーマを与えられ、研究の成果を論文にまとめる。この蛇毒の研究は、フレクスナーの上司で同大学の理事であったサイラス・ミッチェル博士からも絶賛され、野口の名前は一躍アメリカの医学界に知れ渡った[14]
  • 明治34年(1901年)、ロックフェラー医学研究所が設立される。この研究所の設立にあたっては、フレクスナーが組織構成を任されていた。
  • 明治36年(1903年)、フレクスナーの指示によりデンマーク、コペンハーゲンの血清学研究所に留学。物理学者アーレニウス・マドセンとの連名でいくつかの論文を執筆する。
  • 明治37年(1904年)10月、アメリカに戻り、ロックフェラー医学研究所に移籍。
  • 明治38年(1905年)、血脇が婚約持参金300円を斉藤家に返済し、斉藤家との婚約を破棄。
  • 明治44年(1911年)8月、「梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表。一躍、世界の医学界に名前を知られることになった(ただし、梅毒スピロヘータの培地による純粋培養については追試に成功したものがおらず、また、当時の培地での完全な純粋培養は非常に困難であることが明らかになったため、純粋培養の成功は現代ではほぼ否定されている)。
  • 同年、京都帝国大学病理学教室に論文を提出、京都大学医学博士の学位を授与される。
  • 同年、アメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚する。
  • 大正2年(1913年)、梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織内において確認し、この病気が梅毒の進行した形であることを証明する。これは、生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示したものであった。小児麻痺病原体特定、狂犬病の病原体特定などの成果を発表(ただし、後年小児麻痺、狂犬病の病原体特定は否定されている)。
  • 大正3年(1914年)に東京大学より理学博士の学位を授与される。この年の7月にロックフェラー医学研究所正員に昇進する。この年のノーベル医学賞候補となった。
  • 大正4年(1915年9月5日、年老いた母との再会を果たすため、15年振りに日本に帰国。帝国学士院より恩賜賞を授けられる。またこの際にワイル病スピロヘータを発見した稲田龍吉井戸泰の研究および伊藤徹太のワイル病スピロヘータの純粋培養に関する研究を視察している。以後、彼は日本に帰国していない。2度目のノーベル医学賞候補となる。
  • 大正7年(1918年)、ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原菌発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される。当時、開通したばかりのパナマ運河周辺で、船員が黄熱病に感染する恐れがあったため、事態は急を要していた。エクアドルに到着後、患者の症状がワイル病に酷似していたことから、試験的にワイル病病原体培養法を適用し、9日後(日数については諸説あり)には、黄熱病と思われる病原体を特定することに成功(ただし、後年この病原体はやはりワイル病スピロヘータであったと考えられている。)この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が収束したとされる。この成果により、野口はエクアドル軍の名誉大佐に任命されている。さらに、3度目のノーベル医学賞の候補に名前が挙がる。野口の母シカが死去。
  • 大正9年(1920年ペルー訪問。国立サン・マルコス大学医学部より名誉博士号授与。リマ市滞在4日間にオロヤ熱およびペルー疣という2つの風土病の情報を入手。
  • 大正15年(1926年)ペルー疣とオロヤ熱の病原体(バルトネラ)の発表。
  • 昭和2年(1927年)、トラコーマ病原体を発表する(ただし、後年否定された。)。西アフリカの黄熱病を研究していたロックフェラー医学研究所の同僚研究員で、イギリス出身の医学者エイドリアン・ストークスが、野口ワクチンはアフリカでの黄熱病に効果がないという論文を発表する。ストークス自身も黄熱病で死亡。10月にアフリカへ黄熱病研究のため出張。
  • 同年11月、イギリス領ガーナアクラに到着、アフリカにおけるロックフェラーの研究施設本部はナイジェリアのラゴスにあったが、野口ワクチンに否定的見解を抱くチーム内での研究を望まない野口にイギリス植民局医学研究所病理学者、ウイリアム・A・ヤング博士が(ロックフェラーの組織外の)研究施設を貸与し研究を開始。現地では黄熱病が収束し病原体が入手できないため研究が進められない状況が続く。12月26日ウエンチ村で黄熱病らしき疫病が発生したとの報告を受け血液を採取に行く。
  • 昭和3年(1928年1月2日、野口自身が軽い黄熱病と診断する症状を発症し入院(ただし、別の医師にはアメーバ赤痢と診断されており、この時の症状は黄熱病ではなかったと考えられる)。1月9日には回復し退院、研究を再開する。
  • 同年3月末、フレクスナー宛にアフリカでの(南米とは異なる)黄熱病の病原体をほぼ特定できた旨の電報を出す。
  • 同年5月11日、ラゴスのロックフェラー研究所本部に行った際、体調を悪化。5月13日、黄熱病と診断され、アクラのリッジ病院に入院する。見舞いに来たヤング博士に「君は大丈夫か?」と尋ねた後に、(終生免疫が続くはずの黄熱病に再度かかったのを不可思議に思い)「どうも私には分からない」と発言。この言葉が最後の言葉とされている。5月16日、回復し、空腹を訴える程食欲も戻る。その旨はフレクスナーにも打電される。5月18日、病状が再度悪化。5月21日昼頃、病室で死亡。51年の生涯を閉じた。野口の死後、その血液をヤング博士がサルに接種したところ発症し、野口の死因が黄熱病であることが確認された。(ヤング博士自身も29日に黄熱病で死亡)6月15日、アメリカのニューヨークウッドローン墓地に埋葬される。

[編集] 評価

細菌学の権威として著名であるが、医学研究者としてのスタイルは、膨大な実験から得られるデータ収集を重視した実践派といえる。想定される実験パターンを全て完璧に実行し、尚且つその作業は驚異的なスピードと正確さをもって行われた。この特異な研究姿勢から、当時のアメリカ医学界では野口を指して「実験マシーン」「日本人は睡眠を取らない」などと揶揄する声もあったという。この評価は本人も少なからず気にしていたようで、晩年になってから同僚に「自分のような古いスタイルの研究者は、不要になる時代がもうすぐ来るだろう」と語っていたと伝えられている。

下記にあるように現在でも評価が高い研究は顕微鏡観察による病理学血清学的研究である。現在でも評価される業績としては蛇毒によって引き起こされた溶血性変化に関するもので血管の内皮にもたらされた傷害により出血と浮腫が引き起こされる機構について最初の病理学的な詳細な記述をした。これは、その後のガラガラヘビ蛇毒の血清をヤギで作製することの基礎研究につながった。

また細菌学の分野では梅毒スピロヘータを運動失調症関節障害に至る末期神経梅毒患者(脊髄癆)の脳標本で発見したことが著名である(抗生剤の大量投与が必要であり多発性硬化症脊髄変性症との鑑別が重要である)。当時の顕微鏡で数万枚にもおよぶ病理組織標本の観察により確認に至ったもので神経性疾患感染症との関連を明らかにした最初期の業績として評価が特に高い。[15]1920年代、精神科病棟での入院患者の半数が第3期以降の梅毒患者であり、その原因を明らかにしたことが評価される。またツェツェバエにより媒介されるペルー疣(四肢に数センチに達するができる)と溶血性貧血による重篤な症状をきたすオロヤ熱が同じバルトネラ症であることの発見(1926年 - 1928年サイエンス誌数編を含む17編)、血清学的ヘルペドモナド HERPETOMONADS とリーシュマニア LEISHMANIAS の分類(1926年サイエンス誌)などがある。前者は1885年ペルーの医学生カリオンが自らのからだを実験体にして証明したものである。だがその後ハーバード大学により否定されたものを、野口が科学的に証明したものでその成否について大変な議論となったが結果的に野口の成果が正しいとされた。このため南アメリカでの野口の評価は高く、同地域の後進の医学研究者への影響は大きい

一方で疑問に残る業績として挙げられるのが、病原性梅毒スピロヘータの純粋培養[16]と黄熱病の研究[17]。である。急性灰白髄炎(小児麻痺)病原体、狂犬病病原体、黄熱病病原体等の発見特定の業績に関しては、その後ウイルスが病原体であることが判明していることから否定されており、現代において微生物学の分野で評価できるものは全体の仕事のうちの一部に留まることになる。これは、野口の研究時期、すでに濾過性病原体としてのウイルスの存在は示唆されていたが、光学顕微鏡で観察可能なスピロヘータの研究方法にこだわったこと、培養方法などに技術的限界があったと考えられる。また発表された200余の論文の大部分を占めるJournal of Experimental Medicineは、外部の研究者による査読を免れており、査読システムの不備も指摘されている。[18]


研究内容 年度 成果 現代の評価
梅毒スピロヘータの純粋培養 明治44年(1911年) -- 否定
梅毒スピロヘータを
進行性麻痺・脊髄癆患者の
脳病理組織内で発見
大正2年(1913年) -- 評価されている
小児麻痺病原体特定 大正2年(1913年) -- 病原体はウイルスと判明し否定
狂犬病病原体特定 大正2年(1913年) -- 病原体はウイルスと判明し否定
南米・黄熱病病原体特定 大正7年(1918年) ワクチンにより南米での
ワイル氏病流行が収束
病原体はウイルスと判明し否定
ペルー疣とオロヤ熱の病原が同じ
バルトネラ症であることを発見
大正15年(1926年) -- 評価されている
トラコーマ病原体特定 昭和2年(1927年) -- 別の病原体(クラミジア)が判明し否定
アフリカ・黄熱病病原体特定(未発表) 昭和3年(1928年) -- 病原体はウイルスと判明し否定

[編集] エピソード

  • 少年期の野口は家を疎ましく思い、死を覚悟するほど家を出たいと願っていた。高野川ほとりでのこのような口論があった旨、姉・野口イヌの後年の回想にある。イヌ「私は家を出て行くので、長男のお前があの家を継ぎなさい」清作「俺は継ぎたくない。姉さんが婿をとって継いでくれ。あんな希望のない百姓の家などいらない、姉さんにくれてやる。」押し問答を続け、しまいに清作は川に飛び込もうとする。清作「俺が家を継がねばならないなら死ぬ。」(野口英世記念会「野口英世-少年期」)
  • 会津若松の書生時代に洗礼を受けたカトリック教会で出会った6歳年下の女学生・山内ヨネに懸想し偽名で幾度も恋文を送る。結果女学校校長経由で教会神父に連絡があり叱責を受ける。その後東京の済生学舎で、逝去した医師の父の後を継ぐため、順天堂医院で看護婦をしながら女医を目指す山内に再会し学友となり、頭蓋骨を贈呈している。明治32年(1899年)清国に出向く直前には正装し湯島に下宿する山内に会いに行き、また清国より帰国した折には野口と山内の名を刻んだ指輪を贈っている。山内はそれを迷惑と感じたようで下宿の主婦に依頼し以降の面会を拒否した。山内はその後野口同様20代前半で医師免許を取得し会津若松で三省堂医院を開業している。渡米後、野口の友人かつ山内の従兄弟である菊地良馨経由で山内が結婚した事を知り「夏の夜に飛び去る星、誰か追うものぞ」との一文を菊池に送っている。その後、野口が日本に帰郷した際の記念写真には、山内の姿がある。
  • 渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤家との関係は、渡米後の野口の悩みの種となった。血脇とやりとりされた手紙の中で幾度もこの件に触れており、斎藤家子女に対し「顔も醜く学がない」旨の評がある。血脇は破談を薦めるが、野口は自ら破談にする事はなく先方から破談されるよう策していた。現代と適齢期の常識が異なり、婚期を逃す事を恐れた斎藤家から幾度も婚約履行の催促が来るのに対し、野口からは数年は研究で帰国できないと宣言する、欧州への留学資金を数千円要求するなど、ずれたやりとりが多く見られる。
  • フレクスナーに渡した履歴書には、明治26年(1894年)5月に東京医科大学に入学し3年で卒業とあり、ロックフェラー医学研究所の公式記録にもその旨記載されている。実際には明治26年(1894年)には会津若松で書生をしており、その後も予備校である済生学舎にも数ヶ月通っただけであった。またアメリカで出した初論文から一貫して医学博士(M.D.)であることを明示していたが、日本には当時医学博士は数十人単位しかおらず、学歴詐称・肩書詐称の状態であった。昭和2年(1927年)に友人・堀市郎がアメリカの新聞記者に取材を受けた際に苦学生であったことを説明するために野口が大学を卒業していないことを語ったところ、憤慨し、電報で取り消しを求めた。
  • 自分のために全てを捧げてくれた母親の事を大変愛していたらしく、アメリカに渡った後に母親にアメリカの自分の住所が刻印された判子を送っている。これは母親が大変字が下手な事を考慮して送った物である。一度の帰国も母親の手紙に端を発しており、帰国した折には母親とずっと一緒に居たとも伝えられている。
  • ニューヨークでの将棋の相手は、写真家堀市郎であり、囲碁の相手は、彫塑家川村吾蔵があたった。「野口さんが勝ち出すと、堀君が待ったをかけ、三手、四手も遡って最後に堀君が勝つまで待ったをする。2回戦は野口さんが勝つ。それで一勝一敗で夜遅くなり、その翌晩に対戦する。これが幾晩も幾年も続いた」と川村吾蔵が野口英世と堀市郎の将棋の様子を「野口博士との思い出」で綴っている。
  • 明治37年(1904年)、24歳の時に、星一の計らいでアメリカ・フィラデルフィアに滞在していた前総理大臣伊藤博文の宿舎を訪ね、1時間ほど歓談を行っている。後にお互いが千円紙幣の肖像に採用される。
  • 台湾医学界の重鎮であった、杜聡明が学生時代、ニューヨークにいる野口英世を訪ね、ロックフェラー研究所の食堂で日本語で歓談していた際、食堂内に米国人が入ってきた途端、野口はさっと言語を日本語から英語に切り替えたという。杜聡明は、「これが真の国際マナーであり、国際人というものか」と感嘆した、と自らの書で野口英世について語っている(「中国名医列伝」・中公新書)。

[編集] 野口英世語録

  • 志を得ざれば再び此の地を踏まず(青年期、上京の際、猪苗代の実家の柱に彫りこんだ言葉)
  • 人生の最大の幸福は一家の和楽である。円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより切なるものはない。
  • 努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。
  • 絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。
  • ナボレオンは三時間しが寝なかった(口語)
  • 偉ぐなるのが敵討(ガタキウ)ちだ(口語)
  • 学問は一種のギャンブルである。
  • 名誉のためなら危ない橋でも渡る。
  • 忍耐は苦い。しかし、その実は甘い。(原典フランス語)
  • 英雄却相親(星一との写真に添え書き)

[編集] 後世への影響

野口英世の像(上野公園)

[編集] 系譜

  • 野口氏
清太郎━━岩吉==善之助==佐代助━━清作(英世)
        (渡部氏)(小檜山氏)

[編集] 関連人物

[編集] 脚注

  1. ^ 父・佐代助は怠け者ではあったが特に悪人というわけでもなく、性格的にはむしろ人好きで好印象のある人物であったと言われる。後年、野口が恩師や友人らを巧妙に説得して再三にわたり多額の借金を繰り返し、借金の天才とまで呼ばれたほどの要領の良さ・世渡りのうまさは、良くも悪くも彼の父から受け継いだ才能であったとも言われている。
  2. ^ 野口家は代々貧農の家系であった。彼の母は勤勉で真面目な性格であったが、母の奉公先の二瓶家の紹介で婿入りした父は酒好きで怠け者の性格であり、それが野口家の貧困に拍車をかけていたと言われる。後年、野口は母に似て勤勉な努力家になる一方、酒好きで怠け者な父の性格も同時に受け継いだものか、放蕩で多額の借金を重ね、周囲の人々に迷惑を及ぼし続けるという、極端な二面性を持つことになった。
  3. ^ この当時、明治政府は新しく医師免許法を敷き西洋医を都市部へ導入しようとしていた段階で、三ッ和村には外科手術が可能な西洋医はおらず、仮にいたとしても野口家の経済状態では治療費を払うこともできなかったと思われる。また、たとえ治療費を払えるだけの経済力が野口家にあったとしても、当時の医療技術では、彼の左手を元通りにできるような治療が可能であったとは考えにくい。
  4. ^ 当時、義務教育制度はなかったが、小学校の学費は無料で、しかも小学校は野口家の向かい、母シカが奉公していた二瓶家の敷地内にあり、当主の二瓶橘吾は公式に学務委員を務めていた。当時、多くの学童が一里~二里の道程を歩いて学校に通っていた状況を鑑みると、野口が勉学を行うには恵まれた環境であったと言える。
  5. ^ 後年、産婆の開業について政府による新しい免許制度が創設され、全ての産婆に免許の取得が義務付けられた時、母は文字の読み書きができなかったが、近所の寺の住職に頼み込んで一から読み書きを教えてもらい、苦労の末に国家試験に合格、正式な産婆の免許を取得し、生涯にわたって合計2000件近くの出産に貢献した。この点において、野口の母もまた息子と同じく医学に携わる人生を全うしたと言えよう。
  6. ^ 野口は左手が不自由なために、体操だけは苦手であったと言われている。また、現存する彼の4年間の成績表の体操の項目には点数が入っておらず、体操は学業評価の対象ではなかったと考えられる。なお、余談ではあるが、野口は右手で箸を持ちながら左手で弁当箱を持つことができなかったため、彼が学校に持って行く弁当は、箸を使わずに右手だけで食べられるよう、いつも握り飯だったと言われている。
  7. ^ 明治9年(1876年)に開校し、明治36年(1903年)に廃校、それまで在学していた学生は現・日本医科大学に引き継がれた。ただし、野口はアメリカで、自分は東京医科大学に入学したと詐称している。
  8. ^ 野口に15円を全額渡すと即座に放蕩してしまい、学費が払えなくなることが分かったため、血脇は5円ずつ3回に分けて渡すようになったという逸話がある。
  9. ^ 明治9年に長谷川泰により設立された済生学舎は、有名な人物だけでも高橋辰五郎(1886年22歳で免許取得)、吉岡彌生(1892年21歳で免許取得)、光田健輔(1896年20歳で免許取得)など若くして医師免許を取得する者を多く輩出し、当時の医師の半数を養成したとも言われ、野口が通学を希望した理由もここにあったと考えられる。ちなみに、当時の医術開業試験は俗に“前期3年・後期7年”とも言われたほどの難関で、30歳を過ぎても合格できない例も珍しくなかった。済生学舎の教育水準の高さもさることながら、16歳から医学の勉強を始めて4年余で試験に合格し、21歳で免許を取得した野口は優秀であったと言える。
  10. ^ 伝染病研究所では学閥により冷遇されており、後に野口が研究所を辞めてアメリカへ渡る原因になったと言われるが、所長の北里柴三郎はその後も野口に対して便宜を図っており、また野口もアメリカから北里に宛てて多くの論文を送っていることから、野口と北里の関係は険悪であったとは考えにくく、この説に疑問を唱える意見もある。もともと、伝染病研究所は北里と帝国大学医学部との対立を発端として設立されており、研究所内における学閥的な風潮はそれほど強くはなかったと思われる。ただし、当時の研究生が平均28歳程度で大学を卒業し入所していることを鑑みると、22歳で紹介入所した野口が若輩扱いされていたのは年功序列的に致し方のない面もある。また、野口は当時、研究所勤務と同時に順天堂の雑誌編集と高山歯科医学院の講師も継続兼務しており、研究のための十分な時間を確保できず、研究所に在籍した8ヶ月の間に野口は一切研究に関わることはできなかったため、研究所内においては医学者としての実績・評価はない。
  11. ^ 「当世書生気質」が発刊されたのは明治18年(1885年)であり、当時まだ9歳であった野口の年齢を考慮しても主人公の名前と野口清作との間に直接の関係はない。しかし、坪内は後に、「自分の小説が野口英世の奮起の動機になったと知り、光栄に思う」との旨を語っている。
  12. ^ その他、第二の野口清作を作り出す手段として、彼の生家の近所にあった別の野口家に男児が生まれた時、その男児の親を説得して、男児の名前を“清作”にさせたとする説もある。いずれにしても、彼の住んでいた村に野口姓の家が複数存在することを巧妙に利用した改名手段であったと言える。
  13. ^ 血脇と共に偶然温泉地で知り合った斉藤家との婚約を前提とした持参金の他に、小林夫人が内職で作った金、旧友から借りた金など計500円もの大金を渡航費として準備したが、横浜の遊郭でほとんどが使い果たされてしまった。結局、出航直前に血脇が高利貸しから借りた300円の金が渡航費となった。
  14. ^ ミッチェル博士はもともと彼の父親から受け継いだ蛇毒の研究に生涯をかけて取り組んでいたが、彼は野口の作成した論文を読んで、「私と父が親子二代にわたって取り組んできた長年の研究が、一人の日本人青年の協力によってようやく完成を迎えた」と賞賛し、研究の成果はミッチェル・フレクスナー・野口の連名で正式に学会で発表された。
  15. ^ (a) Noguchi, H.; Moore, J. W. "A DEMONSTRAION OF TREPONEMA PALLIDUM IN THE BRAIN IN CASES OF GENERAL PARALYSIS" J. Exp. Med. 1913, 17(2), 232-238. (b) Noguchi, H. "The Transmission of treponema pallidum from the brains of paretics to the rabbit" J. Am. Med. Assoc. 1913, 61, 85.
  16. ^ 同時期に同じ研究室で仕事をしていたHans Zinsserは、培養された野口株が病原性を示していないことを報告している((a) Zinsser, H.; Hopkins, J. G.; Gilbert R. "NOTES ON THE CULTIVATION OF TREPONEMA PALLIDUM" J. Exp. Med. 1915, 21(3), 213-221. (b) Zinsser, H.; Hopkins, J. G. "ANTIBODY FORMING AGAINST TREPONEMA PALLIDUM-AGGLUTINATION" J. Exp. Med. 1915, 21(6), 576-582. )。また野口の報告に遅れて単離されたニコラスI株は、純粋培養は失敗したものの病原性を有し(Nichols, H. J.; Hough, W. H. "Demonstration of Sprochaeta pallida in the cerebrospinal fluid from a patient with nervous relapse following the use of salvarsan" J. Am. Med. Assoc. 1913, 60, 108-110.)、最終的に1981年に二つのグループによって純粋培養の成功が報告された。(a) Fieldsteel, A. H.; Cox, D. L.; Moeckli, R. A. "Cultivation of Virulent Treponema pallidum in Tissue Culture" Infect. Immun. 1981, 32(2), 908-915.(b) Norris, S. J. "In Vitro Cultivation of Treponema pallidum: Independent Confirmation" Infect. Immun. 1982, 36(1), 437-439. 非病原性の梅毒スピロヘータの純粋培養は野口の報告と前後して他に5例報告されており、野口が最初ではない。また病原性梅毒スピロヘータの純粋培養には酸素濃度のコントロールが重要であったこと、野口株の遺伝子の型が非病原性のものと一致していることなどから、現在では病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は試行成功していなかったと考えられている。
  17. ^ 野口の業績の中では黄熱病の研究が一般的には有名だが、現在、南アメリカの「黄熱病」で彼が発見したと報告した病原菌「レプトスピラ・イクテロイデス」は、黄熱病と類似した黄疸、発熱をきたすワイル病(黄疸出血性レプトスピラ症)の病原体と同一であることが示唆されており、当時の南アメリカの「黄熱病」は、アフリカにおけるウイルス原性黄熱病とは異なる疾患が含まれていた可能性が高い。1920年の論文(LEPTOSPIRA ICTEROIDES AND YELLOW FEVER、アメリカ科学アカデミー紀要PNAS 1920 Mar;6(3):110-1.)において野口は結論において「But until the finding of Leptospira icteroides is confirmed by the investigation of cases of yellow fever in still other places, its standing as the inciting agent of yellow fever will have to be regarded as not yet certainly established.(「しかし、Leptospira icteroidesの発見はさらに他の場所において黄熱の症例の調査によって確認されるまで、その黄熱病の原因としてのその地位は確実に確立されたものと見なすべきものではない」)」と述べている。またこの前後にThe journal of experimental medicineにおいて黄熱病の論文を発表している。この中で南アメリカ、アフリカの黄熱病の差異に関する直接的記載は明らかではなく、当時の研究状況などをふまえ、今後野口の黄熱病の業績に関しては科学史上十分に検討され客観的な記載が必要であろう。なおこのレプトスピラは1914年に稲田龍吉によって日本黄疸出血性スピロヘーター症の病原体として発見され1918年のエクアドルにおける野口の発見は正確には南アメリカの黄疸出血性レプトスピラ症の再発見およびワクチンの作製の可能性といえるかもしれない。
  18. ^ 『背信の科学者たち』、Noguchi and His Patrons

[編集] 参考文献

  • 『野口英世 知られざる軌跡 メリー・ロレッタ・ダージズとの出会い』 山本厚子 山手書房新社 ISBN 4841300430 (1992年)
  • 『野口英世の妻』飯沼信子 新人物往来社 ISBN 4404018940 (1992年)
  • 遠き落日ISBN 4041307147ISBN 4041307155 (角川文庫) - 渡辺淳一による伝記的小説
  • 『背信の科学者たち』ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド著 化学同人 ISBN 475980160X (1988年)
  • 『背信の科学者たち』ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド著 講談社 ISBN 4062575353 (2006年) - 上の書籍の新書版
  • 『正伝 野口英世』北篤 毎日新聞社 ISBN 9784620316154 (2003年)
  • "Noguchi and His Patrons" by Isabel Rosanoff Plesset, Fairleigh Dickinson Univ Press, ISBN 0838623476 (1980年)
  • 『朝日選書389 野口英世 』 中山茂著 朝日新聞社 ISBN 4022594896 (1989年)
  • 『医聖 野口英世を育てた人々』小桧山六郎 福島民友新聞社 ISBN 978-4897577043 (2008年)
  • 『野口英世―少年期』野口英世記念会 (1980年)
  • 『当世書生気質』坪内 逍遙 岩波文庫 ISBN 978-4003100424
  • 『野口英世 [改稿]』小泉 丹 岩波新書 (1939年)

[編集] 外部リンク

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