浪曲

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浪曲(ろうきょく)は、明治時代初期から始まった演芸である。「浪花節」(なにわぶし)とも言う。三味線を伴奏に用いて話を語り、歌う。各演目ごとに歌う部分(節)と語り演じる部分(啖呵)を両方持つ。明治時代後期から昭和中期にかけて一世を風靡し、文化史・メディア史に欠くことができないものとなった。

特徴[編集]

声を出して演じる者を「浪曲師」(ろうきょくし)と[1]呼ぶ。一つの物語を(ふし)と啖呵(たんか)で演じる。節は歌う部分で物語の状況や登場人物の心情を歌詞にしており、啖呵は登場人物を演じてセリフを話す。重視する順を「一声、二節、三啖呵(いちこえ、にふし、さんたんか)」と言う。先の二つを「声節(こえふし)」と呼び、特に重要視する[2]

七五調で演じられる浪花節は、思わず真似をして唸りたくなる節回しという間口の広さと、その実うまくなるには鍛錬を要する奥の深さを同時に持つ。近接した芸能(多くの今で言う郷土芸能)を取り込むなど、浪曲師が節の運びなどに各人各様の創意工夫をすることで、発展してきた。その自由さ、融通無碍ぶりが特徴の一つである。 竹本義太夫が決定打であった義太夫節鶴賀新内新内節のような、様式を決定付ける存在は未だ出ていない[3]。 演題(ネタ)は(特に近年のコンプライアンス重視の流れに対しての)侠客物のイメージが強いが、童話から、親子の情愛もの、仇討もの、戦争ものなど幅は広い。

「浪花節を読む」という表現があるように台本は存在するが、譜面は存在しない[4]。「曲師」と呼ばれる三味線の伴奏者(相方)のうち、主たる相手は「相三味線(あいじゃみせん)[5]」と呼ばれる。譜面が無いため、浪曲師と曲師の呼吸がピタリと合うかどうかは、きわめて重要な事となる[6][7]。調弦は三下り(さんさがり)にする[8]。関西では曲師とギター奏者がつくこともある[9]

東京、大阪をはじめ、名古屋、そして九州・福岡[10]に中心があった。

現在、浪曲の定席(常打ちの寄席)は東京都台東区浅草の「木馬亭」と、大阪府大阪市天王寺区の「一心寺門前浪曲寄席」がある [11]

動詞[編集]

浪曲(浪花節)の実演を表す動詞には様々あり、「うなる」・「うたう」・「語る」・「読む」・「口演する」などがある。

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については、遠くまで伝わる大音(だいおん。響き渡る大きな声)が上とされ、必然的に胴声(どうごえ)=白声(しらごえ)=寂声(さびごえ)=いわゆるダミ声=しわがれ声[12]で唸る事が浪曲であった。胴声は、ホーミーのように倍音豊かな発声を指す[13]。特徴的な声を作るために、喉から血が出るような修業を積んだという苦労談は多々出てくる[14][15]

また、広沢瓢右衛門のように自他共に認める大変な「悪声(あくせい)」であっても、それ以外の部分を磨き続け、ブレイクすることもあった。かつては喉の酷使(寄席・大劇場の大会出演・お座敷・放送出演・レコード吹き込み・映画出演等を一日数軒掛け持ちすることも、ざらにあった)が祟って舞台で使う声が出なくなり引退したり、残った啖呵のうまさを活用してまれに講談界に転じる者もあった。

が、マイクが発達して以降は、必須ではなくなり、小音(しょうおん。マイクなしでは寄席の後方まで届かないような小さな声)であってもその才能が生かされるようになる。上声(うわごえ)を使う事が主流となり、三門博のように当時タブーであった裏声を巧みに取り入れ特徴にした者さえもいる。女性浪曲師も、ほとんど胴声は使わない。

節(フシ)[編集]

大別すると関西関東中京(合いの子節)と地方ごとで三つに分けられた。

  • 関西節が一番古く、明治30年代までは浮かれ節といった。低調子ともいい、三味線の調子が「ベンベンベン」と低い。聞いていて浮き浮きする歌うような節調。
  • 関東節は、高調子ともいい、三味線の調子が「カンカンカン」と高く、哀切、悲壮感が漂う。
  • 中京節は、関東節と関西節を上手くミックスした形。

下記のように工夫の末、東西で相互に特徴を取り入れることも徐々に進み、三波春夫によれば中京節が「現在の主流となって」[16]おり、純関東節、純関西節といえる存在は現在は少ない[17]

各自が工夫し磨きをかけることで、「一人一節」というほど節回しは各々異なり、浪曲師の特徴的な節回しは、それぞれの名を採って○○節と呼ばれる。

代表的なところでは、関東節と中京節をミックスして虎造節を作り、当たり芸「清水次郎長伝」を演じた二代目広沢虎造[18]、低調子が主流の関西節のなかで、高音でノリのよいテンポの幸枝若節を作り、「河内十人斬り」や「左甚五郎」を演じ、戦後の浪曲界を支えた初代京山幸枝若、中京節では、浪曲に新内節をミックスして三門節を作り「唄入り観音経」を演じた三門博が挙げられる。また、天才少年浪曲師初代天中軒雲月の明るく平易な雲月節が、のちの数多くの女流浪曲師の節作りの土台となった。

稽古として「声調べ」(こえしらべ)を行う。三味線の音色に「♪何が何して何とやら」から始まる、意味のついていない歌詞を乗せて、声の調子を整える。

啖呵(タンカ)[編集]

啖呵で有名なところは、古くは「節の奈良丸、啖呵の辰雄、声のいいのが雲右衛門」と並び称されるほどであった一心亭辰雄(後に喉を痛めて講談に転出、服部伸と名乗る)、独特な江戸前の啖呵が魅力であった東武蔵、同じく江戸前で愛嬌のある小気味良い啖呵が大きな魅力であった二代目広沢虎造、大阪から東京に転じ落語の定席に出続けた滑稽浪曲の二代目広沢菊春、関西では、悪声であったが滑稽味のある啖呵(ケレン)で晩年にブレイクした広沢瓢右衛門、歯切れの良く明るく時にボヤキ口調の入る啖呵が魅力の京山幸枝若が挙げられる。

特にタンカは落語や講談と共通点が多い。

浪曲の構成[編集]

浪曲は一席一話完結(そのような演題を端物と呼ぶ)から、何段にも亘る(一話を一段と呼ぶ)長いシリーズ物もある。時間にすると一席は30分位にまとめられている。しかしかつては、雲右衛門の舞台における一席1時間弱にわたる長講や、逆にSPレコードに吹き込むために3分ごとの細切れにまとめられたものも多数あり、融通無碍ゆえに演芸ではメディア対応が早く、いち早いレコード吹き込みに重宝された。

現在は、興行形態の変化により、物語全体を通しで味わう、連続読みを味わう機会は極端に少なくなっており、物語のヤマ場のみを演じることが多い。

寄席においては、まずマイクで演者の紹介があったのち、浪曲師が登場する。あいさつがあった後に演目に入る。拍子木が鳴りながら曲師が弾き出しを奏でる。

冒頭の部分は「外題付け」(げだいづけ)と[19]呼ぶ。

浪曲の衣装・舞台セット[編集]

舞台に上がる浪曲師は和服姿であり、正装として特にを多く用いる[20]

演じる時の舞台のセットはまず舞台の中央、浪曲師の後ろに金屏風を置く。その前に腰ぐらいの高さの小さめのテーブルを置きその上に、華やかな柄の特製のテーブルかけ[21]をかけてある。真後ろに背もたれの長い椅子があり、演者の多くは立ちながら演じている。

観客から見て右手の方に曲師が座っている。現在、曲師は定席など正式な舞台では衝立を挟んで観客から見えないようになっている。が「出弾き」と呼ぶ客前に出て弾くスタイルも少数だがある[22][23]

高座の座布団に座り語る、「座り高座」(浄瑠璃とほぼ同じスタイル)[24]は前進芸能の「祭文」から引き続き、雲右衛門以前には主流であった。雲右衛門により立ち演説スタイルが主流になった後にも、落語の定席が主な活躍の場であった広沢菊春が用い、現在でもごくまれに見ることができる。

歴史[編集]

前史から、寄席芸としての成立まで[編集]

浪曲は、全国的に伝播していた阿呆陀羅経(ちょぼくれ、ちょんがれ)、デロレン祭文(貝祭文)、説経節など門付芸が基礎になって[25](さらなる源流として古くから伝わる節談説教声明)、大道芸として始まった。成立に先行する文化・文政年間上方の芸人浪花伊助(なにわ いすけ)が、阿波浄瑠璃、祭文春駒節、ほめら等を取り入れて「浮連節(うかれぶし)」と名付け、新しく売り出した芸を源流とする。大阪では明治40年代までは「浮かれ節」と呼ばれた。

明治の初めまで、東京では秋葉原、両国広小路などの盛り場ヒラキよしずがけの粗末な仮設小屋)で大道芸として、周辺芸能として並行していた上州祭文(デロレン祭文)などと同様に他の見世物と並んで行われていた[26]。当時は周辺芸能と未分化の状態であった様子が資料からも伺える。

維新も一段落し、地方からの労働者が東京に集まり、手軽な余暇として、盛り場の入場料の安い寄席や投げ銭方式であるヒラキに詰めかける。彼らは江戸の正統な落語や当時知識層に大流行であった講談よりも、わかりやすい珍芸や音楽性のある浪花節に飛びつく。

1873年(明治6年)に、横浜のヒラキで祭文を語って活躍していた玉川派の祖青木勝之助(あおき かつのすけ)が、東京・四谷の寄席・山本亭[27]に出演し[28]、翌年には浪花節組合初代頭取である春日井松之助らが麻布・福井亭に出演する。しかし、職域を侵され始めた講談や落語からは蔑視され、浪花節としばしば紛争まで起きている[29]

1893年(明治26年)、関東節の祖と言われる浪花節組合二代頭取浪花亭駒吉が、都心の日本橋「大ろじ」に出演して以降は、門下の浪花亭峰吉浪花亭愛造の活躍もあって早くも1900年(明治33年)には、東京市内の寄席120軒のうち、53軒が浪花節を主にかける(定席)までに勢いを増した[30]。従来「御入来」(ごにゅうらい)と言われ、代名詞として蔑まれた要因でもあった外題付け(物語の導入部)を、主題ごとに改め、物語の内容をつじつまの合ったものに改変するなどの工夫をし芸格を上げる。1903年(明治36年)、愛造は日本における初めてのレコード吹き込みをする[31]

大阪でも浮かれ節の芸人鑑札取得のための組合(愛国社から「親友派組合」。今の親友協会に至る)や、浮かれ節専門の寄席(天満・国光席、松島・広沢館、千日前・愛進館など)ができ、明治中期には東西で寄席芸としての地位が確立された。また、近年まで[32]地方を巡演するという形で門付芸の伝統を残していた。そういった形で地方では浪花節に根強い人気があったのである。

雲右衛門の東上[編集]

日露戦争勝利の余韻もまだ冷めない1907年(明治40年)、三河家梅車の妻お浜との駆け落ちにより雌伏していた、吉川小繁改め桃中軒雲右衛門が、総髪紋付姿で屏風を背に、「不弁」と言うのみで(つまり外題付けも無しに)いきなり本題に入るという新演出、「武士道鼓吹」を旗印にし、演目は玄洋社の助力により台本内容を高めた義士伝ばかりという新機軸[33]で、研鑽の地・九州から神戸、大阪、京都と東上しつつ続々と沸かせてゆく。それが新聞記事により大きな話題になる中、ついには6月、東京の大劇場本郷座に進出、27日もの間、連日3時間以上の長講、2500人収容の劇場を超満員にする[34]。風雲児・雲右衛門により、人気は大衆的なものから、当時から浪花節を嫌悪していた知識層にまで広がり、世を席巻する。

直後の1908年(明治41年)2月、大阪の吉田奈良丸も対抗するように[35]東上し、新富座に出演[36]、さらに11月には京山小円も同座に上がるなど、寄席芸として定着してわずか20年弱の浪花節は、一気に千人以上の客席を埋めることが出来る芸能となる。

その奈良丸が吹き込んだレコード(発売は日蓄)が発売され、代名詞となった「日本一」の流麗な語りで、合わせて売上50万枚に及び、誕生間もない日本のレコード・蓄音機の全国的普及に大きな貢献を果たす。その後奈良丸のメロディを使った俗曲「奈良丸くずし」が流行する。また、この時期に落語や講談から一足遅れで、浪花節でも速記本が多数出版される。

こうして浪花節は、明治末期には落語講談をはるかにしのぐ人気となる。[37]明治38年には東京の浪曲師の数が落語家や講談師を抜き、明治40年には448名とピークを迎える。落語家の2倍強、講談の4倍弱である。当時の寄席打ちの名人としては、東西に一心亭辰雄岡本鶴治(おかもと つるじ)がいる。多くの無名浪曲師は、地方巡業や寄席出演で糊口を凌ぐ[38]

そんな中で1913年(大正2年)、「講談倶楽部」の臨時増刊「浪花節十八番」刊行に当たり、講釈師連と出版元・講談社の対立[39]も起きる[40]

「浪花節」が「浪曲」と広く呼ばれるようになったのは大正7年ごろからで[41]、その後徐々に広まり、昭和に入ってから「浪花節」の呼び名に取って代わるようになる。

わかりやすさを買われて浪花節は早くより民衆教化に利用され、1920年(大正9年)の第1回国勢調査では大阪市の要請を受け、宣伝役を担う[42]。また、当時盛んに行われた海外移民を追って奈良丸を始めとした[43]浪曲師たちにより、台湾朝鮮満州はもちろんのこと、ハワイや欧米、ブラジルまで海外巡業が行われるようになる。[44]

一時停滞した浪花節も、前記の三巨頭を慕って出てきた中より、三代目鼈甲斎虎丸東家楽燕木村重友初代天中軒雲月が現れ、関東を中心に三羽烏、四天王と称される。1923年(大正12年)、関東大震災のあと、篠田実のレコード「紺屋高尾」が空前の大ヒットを飛ばす。寄席は、この頃から急速に勢力を伸ばす映画に興行的に押され始める。

ラジオの登場・戦時協力[編集]

ラジオ放送が始まると、1925年(大正14年)演芸の一つとして初めてラジオに登場[45]、その日本放送協会(のちのNHK)ネットワークの完成で浪花節の人気は全国的に広まる。

浪曲は昭和初年においては庶民に圧倒的に支持された寄席芸能であった。1932年(昭和7年)に実施された「全国ラジオ調査」では、ラジオ聴取者の好む番組の第一位は浪曲で、全体の57パーセントを占めていた[46]

二代目広沢虎造の清水次郎長伝、二代目玉川勝太郎の天保水滸伝、寿々木米若の佐渡情話、三門博の唄入り観音経などが一世を風靡し、戦前まで全盛を迎える。

忠君愛国」「義理人情」を賛美した演題が時流に合い、七五調に乗った平易な節調と軽快なセリフ(啖呵)がもてはやされて、庶民の人気を博した。

1940年(昭和15年)には、戦争協力の促進を企図し「浪曲向上会」が結成され、多くの浪曲師や作家が動員される。愛国浪曲情報局の肝いりで続々作られることとなる。当時の代表的な作に、二代目天中軒雲月「九段の母」などがある。

戦後の復活[編集]

1945年(昭和20年)太平洋戦争敗戦後は一転、GHQに「前時代的、反動的」と疎まれる存在となる[47]。しかし、その体制下でも地方巡業を中心にした大家は「所得番付」に多く顔を出すなど、農漁村を中心に根強い人気を維持する。

1951年(昭和26年)の民放ラジオの登場と共に、その根強い大衆的人気から、広沢虎造や新進浪曲師国友忠の連続浪曲「銭形平次[48]などの連続浪曲読み番組、素人の浪曲のど自慢番組(ラジオ東京浪曲天狗道場など)が続々と編成され、全国放送のNHKも巻き込んだラジオ浪曲のブームとして昭和30年代初頭に再び最盛期を迎える。

毎日どこかの局で浪曲番組が流れている、ラジオ番組の聴取率ベストテンに6つもランクインする[49]など隆盛を誇り、当時の子どもはみな、虎造の「旅行けば~」や二代目玉川勝太郎の「利根の川風たもとに~」といった外題付けを知っていた[50]

浅草国際劇場、銀座歌舞伎座、大阪文楽座など大劇場で「浪曲大会」が定期的に開かれるなどする。

衰退から現在[編集]

歌謡浪曲スタイルの大流行はあったものの、寄席で演じられる浪曲自体は娯楽の多様化で長期低落してゆく[51]

もともと浪花節は、他の演芸に比べても女性の進出が早く、成立前の江戸末期から曲師はもちろん既に女流もおり、明治・大正期には女流浪曲団がいくつも結成され巡業に出て好評を得ていた[52]。そのような所から戦前期から、著名な二代目天中軒雲月初代春野百合子冨士月子、戦後期には天津羽衣二葉百合子二代目春野百合子が登場する。が、浪曲への入門者が女性に偏りだし、近年は講談と同様に現役浪曲師の男女比が逆転する事態になっている。

関東では玉川福太郎から、次の国本武春が入門するまで15年間、その後に続く男性浪曲師までにも25年、という長い空白期間があるなどのボトルネック状態があった[53]がそこは脱し、若手浪曲師を中心として現代に合う新しいスタイルを模索している。

歌謡浪曲[編集]

歌謡浪曲とは、伴奏が三味線でなく洋楽器で、より歌うことを重視した、浪曲と歌謡曲の中間的形態である。浪曲のもともと持っていた自在性・融通性により生まれ、戦後の高度成長期に大きく膨らみ、主流となっていく。 先駆として、戦前からの浪謡曲芙蓉軒麗花、洋楽器伴奏で演じた初代筑波武蔵など、戦中になると、軍歌入りの浪曲となる。戦後になると「歌謡節」を各人が創設する。

ラジオ浪曲も全盛を過ぎ、小屋自体の数が減った寄席や同じく減った通常の巡業より、一流大家ばかりが競演することが売りの大会形式の興行が増えてきた昭和32年ごろを境に、若手の修業する機会は急速に失われていく。スタンスの取り方はさまざまで、当時若手浪曲師の三波春夫村田英雄などは、伴奏が洋楽器でより歌うことを重視したで歌謡曲(のちに演歌)の世界へ転進、そのレパートリーとして歌謡浪曲を歌うようになる。女流では天津羽衣二葉百合子などの大きな流れ自体がほぼ歌謡浪曲そのものであった。浪花節は歌謡浪曲を通して現在の演歌に強い影響を与えた。

また男性では、関西の真山一郎一門が、浪曲界の中で「演歌浪曲」と称した歌謡浪曲を専ら演じている[54]など現在も、東西の高座で歌謡浪曲スタイルを披露する浪曲師はいる。

浪曲の周辺[編集]

戦前に宮川松安が実演した洋楽器を使う楽浪曲の試みや、一人ではなく二人、または数人で一つの演目を分担して語る「掛け合い浪曲」は特筆される[55]

また、節と語りで物語を回す浪花節の形式は、多くに応用され、上方には古くから「節劇」といわれる浪花節を歌舞伎義太夫節(チョボ)のように使って演ずる劇がある[56]上州でもかつて節劇が盛んであったことが知られている。浪花節を無声映画の活弁代わりに使う連鎖劇なども生れた。浪曲ラジオドラマも同じ系譜に連なるものである。これらは1957年(昭和32年)革新的な試みの舞台「きりしとほろ上人伝」につながっていく。武智鉄二演出、浪曲が物語の進行、操り人形と役者が共演する舞台であった。

また映画においては、佐渡情話(1934年公開)、石松夢道中(1940年公開)、虎造を出演させた次郎長三国志シリーズ(東宝版。1952年~公開)、浪曲子守唄(1966年公開)などがある。役者としても達者であった虎造は、浪曲の枠をも超えた最大級のスターだったのである。浪曲映画はこれ以外にも数多く制作され、寿々木米若伊丹秀子などが複数の映画に出演している[57]

色物演芸の世界では、浪曲の物まね(特に節まねと呼ぶ)の、古くは浮世亭雲心坊(うきよてい うんしんぼう)、戦後期まで活躍した隅田梅若(すみだ ばいじゃく)、前田勝之助(まえだ かつのすけ)(ちなみにどちらもラジオ浪曲天狗道場の指南役を務めたことでも有名)、ボーイズでは、先駆として川田晴久、「歌謡浪曲カルテット」とうたっていた玉川カルテット、既に名を成していた四代目宮川左近の結成した宮川左近ショウ浪曲漫才として(砂川捨丸等の音曲万才の系譜を色濃く受け継ぐ形で)転出した若き浪曲師は多数いる。

浪曲の代表的な演目(ネタ)[編集]

庶民的な義理人情や情愛など人間的な物語を演じることが多い事から、転じて「浪花節にでもでてきそうな」という意味で、義理に流された話を「浪花節的な」あるいは単に「浪花節」と比喩することも多い。実際の演目は武芸物、出世物、任侠物(三尺物ともいう)、悲恋物、ケレン物(お笑い)など多種多様である。特に赤穂義士伝忠臣蔵)ものは派生する人気演目も多く、一ジャンルを成している。大別すると、武士道を鼓舞するような内容の金襖物(きんぶすまもの)と、(広義の)世話物(せわもの)に分かれる[58]

講談(特に影響が大きい)、落語文芸作品、歌舞伎や浄瑠璃、ニュース[59][60]、歌謡曲など多くのジャンルから題材を採り、物語が作られる。三遊亭歌奴(今の三遊亭圓歌)の「浪曲社長」のように、逆に浪曲から他の演芸に影響を与えた演目もある[61]

自作自演も多く、野口甫堂(東家楽浦の筆名)、鈴木啓之(三門博の筆名)、池上勇(広沢菊春の筆名)、広沢瓢右衛門の作・脚色のように他の浪曲師がネタを引き継ぐ場合もあるが、雲右衛門の頃[62]から、落語や講談という他の演芸同様に分業制が進み、原作として長谷川伸行友李風尾崎士郎子母沢寛など。正岡容や、小菅一夫水野春三(水野草庵子)、秩父重剛中川明徳室町京之介房前智光木村学司、現在の大西信行稲田和浩のように、浪曲台本を手がける作家もいる。また、演目の東西交流は早くから進んでおり、関西の浪曲師が関東が舞台の演題を、またその逆も珍しいことではない。

※以下は浪曲で代表的とされる演目である。右の名はその作品で代表的な演者(または現在聞きやすい演者)。
任侠物
世話物(悲恋・スキャンダル)
出世物
お家騒動物
赤穂義士伝
戦争物
親子物
歌舞伎物
浄瑠璃物
武芸物
ケレン(お笑い)

浪曲師[編集]

大きな名前については、その名にあやかるため、芸を継承するために襲名する事(名跡化)がある。浪曲の名跡一覧も参照のこと。逆に、独自性を出すために本名(または本名の一部)を使用することもあった。師弟関係は他の芸能ほど固定化されておらず、師匠を遍歴する者や、師匠無しの独立独歩の者もいた。[63] 小、坊については修行中を表す意味が強く、その名を持つ浪曲師だけを集めた大会もしばしば開かれた[64]

明治期より大相撲を真似た「浪曲師番付」が多数発行され配布された。当時の位付けの一端は覗うことができる。 東西交流が多く、東・名・阪・九州の間で拠点を移す者は、他の演芸に比べても、(浪曲師・曲師ともに)古くから多い。

現役浪曲師については日本浪曲協会浪曲親友協会の浪曲師一覧、または浪曲師一覧も参照のこと。


※五十音順

関東の浪曲師[編集]

関西の浪曲師[編集]

中京の浪曲師[編集]

浪曲師の所属団体[編集]

現存するのは以下の二つである。

関東と関西を代表する上記2団体のほか、過去には中京浪曲協会、(興浪会→)西日本浪曲会がそれぞれ名古屋と福岡にあった。また、戦時総動員体制の中、統合される形の団体「日本浪曲会」が敗戦までの一年だけ存在した。

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 浪曲家とも
  2. ^ 国本武春『待ってました名調子!』P.43-44
  3. ^ 『ドキュメント また又日本の放浪芸 節談説教』小沢昭一より
  4. ^ 独習で上達する浪曲の習い方 広沢竜蔵編
  5. ^ 合三味線とも
  6. ^ 春野恵子の説明では「浪曲師と曲師が舞台で繰り広げるやりとりは、『ジャズのセッションのよう』とも言われ、そのライブ感が浪曲の魅力」である。出典:日本が誇るエンターテイメント「浪曲」を世界へ! 浪曲師・春野恵子がNY公演にチャレンジ!-世界を変えるクラウドファンディングサービスCOUNTDOWN
  7. ^ 浪曲師と曲師がどう呼吸を合わせて演奏しているかは国本武春「待ってました名調子!」に詳しい
  8. ^ 日本浪曲協会の説明ページ
  9. ^ 出典:「上方伝統芸能あんない」浪曲の章(P.89~102)。「日本浪曲史」南北社版(1968年刊)P.373(中川明徳による補章)には、天龍三郎がギター奏者をつけ始めたことを批判的に書いており、その頃から始まり、一手法として京山幸枝若など関西に定着した様子が伺える
  10. ^ 福岡から佐賀、長崎出身の浪曲師は桃中軒雲右衛門の登場以来数多い。『浪曲事典』安斎竹夫著1975年刊にも九州が本拠地の浪曲師の掲載がある
  11. ^ 大阪・国立文楽劇場「浪曲錬声会」も定期的に開かれている
  12. ^ この特徴的な声について、各界共通する決まった用語が存在しない
  13. ^ 正確には、よく言われるような浪曲師の声としてのシオカラ声・しわがれ声・ダミ声は誤り。
  14. ^ これはただただ怒鳴る。そうしてカラカラに声を枯らしてしまう。そこをいよいよふた調子も三調子も張り上げて、血を吐く思いで歌いつづける。すると枯れがれに枯れつくした底の底のまた底の方から滾滾と美しい声の泉が噴き上げて来る。即ちそれが、自分の研がれ、磨かれ、鍛え上げられたほんとうの「声」なのだ。 -正岡容「日本浪曲史」南北社版 P.357-358
  15. ^ ジャンルは違うが、以下一例。「すると先生は「まず声の訓練をせよ」とおっしゃいました。ごうごうと落ちる滝、ざあざあと流れる川、どうどうと打ち寄せる波、そういうものに向かって、それらの音に敗けない声でお経をせよ。三日か四日で声はつぶれるが、それでも出ない声でやる。そのうちのどから血が出る。それでもまだやる。そうして三十日か四十日たったころに何日も何日もしゃべっても決して枯れない声になる。本格的な布教師になるならば、それに耐える努力をしなければならないがどうか、というわけです。」-「節談説教七十年」祖父江省念 P.69
  16. ^ 出典:『歌藝の天地』
  17. ^ 正岡『日本浪曲史』南北社版P.342-343 もそれを裏書きする
  18. ^ 虎造節については、時の試練を越えて、保存会が結成・活発な活動がなされている
  19. ^ 「解題付け(げだいづけ)」や「表題付け(ひょうだいづけ)」とも
  20. ^ もちろん例外もあり、雲右衛門は入道姿で舞台をこなした例、同様に東武蔵や玉川勝太郎が袈裟姿で高座をこなした。国本武春がイベントでサングラス姿やクマのプー太郎に扮した例さえもある
  21. ^ 芝居における引幕、落語における後幕、相撲の化粧回しと同じくファンが浪曲師に送る物であり、寄贈者名が記してある事が多い。
  22. ^ 関西では一風亭初月がひんぱんに、関東でも沢村豊子が時おり出弾きを披露する
  23. ^ 曲師を隠すのは、明治時代活躍した桃中軒雲右衛門が、曲師をしていた美しい妻を観客が狙わないように隠したことに由来するという俗説があるが、実際には直前の時期に浪花亭愛造が始めたものである
  24. ^ 三味線を持つ曲師は、ついたて無しに右隣に座る
  25. ^ 「浪花節繁昌記」大西信行著
  26. ^ ヒラキが立ち並ぶさまは江戸東京博物館のジオラマ展示で見ることができる
  27. ^ のちに浪曲の定席「京山亭」
  28. ^ 日本音楽大事典「浪曲」の項、実録浪曲史 巻末年表より。
  29. ^ 1892年(明治25年)には、有楽館で落語と浪花節が衝突し、落語連が最終的に折れ、神田錦輝館で和解の合同演芸会が開かれる。出典:実録浪曲史 巻末年表
  30. ^ 万朝報1900年10月13日付 出典:兵藤『<声>の国民国家・日本』
  31. ^ 来日したグラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグによる。以下はその復刻版。『日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ・レコーディングス』TOCF 59051
  32. ^ 具体的には、平成に入っての頃まで
  33. ^ 秩父久方によれば、「当時の壮士演説会のようすを模倣し、芸能的にショーアップしたものであろう」出典:『日本大百科全書』18巻P.531
  34. ^ 寄席の入場料が十銭の時代に、一等一円の料金を取り、最初の5日間で費用を回収、それ以降は入場料がそのまま利益という近代興行界最大の快挙であった。出典:日本音楽大事典 浪曲の項
  35. ^ 大阪で張り合って、同じ日に同じ演目をぶつけたという逸話が残っている
  36. ^ 派手な宣伝は相当なもので、東京市中に「日本一の奈良丸」とビラ等で告知、関東の浪花節語りは一斉に反発しビラを叩き落として回ったという逸話が残る
  37. ^ 「実録 浪曲史」P8 表2によれば
  38. ^ その様は、梅中軒鴬童『浪曲旅芸人』などに詳しい
  39. ^ これは創立間もない講談社が速記から創作(今に至る路線である)に転じる重要なきっかけとなる
  40. ^ 背景には、浪花節がその社会的地位を一足飛びに上げていく中で、そのネタ元として、講釈師の高座やその速記本を大いに利用していたこともある
  41. ^ 一部で定説化している「大正6年12月20日付の「都新聞」紙上で初めて使用された」という事実は無いが、直後の年明け1月3日付には同紙上で記述を発見できる。関西にでも大正9年8月18日の大阪毎日にある。ただし、その頃既に、浪曲の世界を「浪界」と呼ぶ記述は見られる。「浪界」の初出は明治41年6月15日福岡日日新聞よりは前。以上は芝清之『新聞にみる浪花節変遷史』の明治編、大正編より
  42. ^ 大阪朝日 1920年(大正9年)8月21日付、都新聞 同年8月23日付など
  43. ^ 奈良丸の渡米は1917年(大正6年)。出典:実録浪曲史 巻末年表。他に『浪曲の神髄』が行程について詳しく書いている
  44. ^ 「ちょんまげの浪右衛門」としてアメリカで有名になった桃中軒浪右衛門(とうちゅうけん なみえもん)は、無声映画を浪花節で説明する連鎖劇弁士として活躍し、アメリカ市民権を取得し活動していた。映画「カポネ大いに泣く」の主人公は彼がモデルである。
  45. ^ 5月15日、試験放送中の大阪放送局に宮川松安の浪花節 実録 浪曲史P.49
  46. ^ 兵藤裕己. “オーラル・ナラティブの近代 (PDF)”. 2014年3月13日閲覧。成城大学
  47. ^ CCDから禁止演目など具体的な指示通達を受けたことがわかっている 出典:唯P.155~156
  48. ^ 「銭形平次」(ラジオ東京文化放送)は異例の長期間にわたる番組であった。脚本は全て国友の自作
  49. ^ 上記の「浪曲天狗道場」は断トツの聴取率23.8%であった。昭和32年度NHK調べ 在京民放3局高聴取率番組 出典『実録浪曲史』唯二郎
  50. ^ 『声の国民国家・日本』P.12
  51. ^ 戦前から低落期にかけての、浪曲、映画、ラジオ、劇場の関連事情は「実録 浪曲史」唯二郎著が非常に詳しい
  52. ^ 「実録 浪曲史」P.33 明治・大正女流列伝
  53. ^ 多くの一門芸脈の消滅に悪影響は現れている
  54. ^ また関東においても、三門博玉川福太郎などがレコードを出している
  55. ^ 関西では、現在でも時折見られるようである。出典:「上方伝統芸能あんない」浪曲の章(P.89~102)
  56. ^ 戦中である1943年(昭和18年)末に発表された大日本興行協会の全国統計によると、浪曲専門の一座は255座、浪曲・漫才の座は49、浪曲及び舞踏は4、浪曲劇専門は41、時代劇と浪曲劇を併演するものは12。出典:実録浪曲史P.118
  57. ^ 出典:実録浪曲史、ムービーウォーカー
  58. ^ 一応ジャンル分けはされているが、(例えば、出征して戦死し、靖国神社に祀られた息子への心情をうたった「親子物」で「戦争物」である「九段の母」をどう分けるか、など)同じ演目でもジャンル分けが違うこともままあり、その点は注意が必要である
  59. ^ 際物浪曲
  60. ^ 五寸釘の寅吉のような有名な犯罪者が、懺悔と称して当人の語る実録浪曲として舞台に立つ事は、明治・大正期にはしばしば見られた。ざんげ芝居については倉田喜弘『芝居小屋と寄席の近代』を参照
  61. ^ 甚五郎物のネタは、講談から題材を採った二代目広沢菊春の滑稽浪曲から、落語の三代目桂三木助のネタになった。
  62. ^ 正確には少し前
  63. ^ 浅草・イサミ堂のページには浪曲演者一覧があり、より深く浪曲を知りたい人には便利である。
  64. ^ 『実録浪曲史』P.90

関連項目[編集]

外部リンク[編集]