南満州鉄道

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南満州鉄道株式会社
The South Manchuria Railway Co., Ltd.
社章
南満州鉄道本社(大連)
種類 株式会社特殊会社
本社所在地 日本の旗 大日本帝国 (租借地)
満州国の旗 満州国
新京特別市(1931年以降)
本店所在地 関東州大連市東公園町30
設立 1906年11月26日
事業内容 旅客鉄道事業、貨物鉄道事業他
代表者 当項目を参照
資本金 当項目を参照
主要株主 大日本帝国政府(50%)
主要子会社 華北交通大連都市交通満州航空昭和製鋼所
関係する人物 後藤新平(初代総裁)
特記事項:1945年9月閉鎖、1957年清算結了。
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南満州鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう、旧字体: 南滿洲鐵道株式會社英語: The South Manchuria Railway Co., Ltd.)は、かつて満州国に存在した日本特殊会社である。1906年明治39年)から1945年昭和20年)まで存在した。略称は満鉄(まんてつ)。

鉄道事業を中心として広範囲にわたる事業を展開し、日本軍による満洲経営の中核となった。本社は関東州大連市であるが、のちに満州国が成立すると満州国首都の新京特別市に本部が置かれ、事実上の本社となった。また、東京市麻布区麻布狸穴町[1]に東京支社が置かれた。最盛期には80余りの関連企業を持った。

概要[編集]

撫順炭鉱の経営も満鉄が行なった。

南満州鉄道株式会社は、日露戦争中の満州軍野戦鉄道提理部を母体に、日本政府が1906年明治39年)に半官半民の特殊会社として設立した。設立は勅令により、資本金2億円のうち、1億円は日本政府によって鉄道・炭坑などの現物で出資された。

日露戦争の勝利により、1905年明治38年)のポーツマス条約の結果ロシア帝国から譲渡された東清鉄道南満州支線長春 - 大連間の鉄道施設・付属地と、日露戦争中に物資輸送のため建設された軽便鉄道安奉線(安東(現・丹東) - 奉天(現・瀋陽)間)とその付属地の経営が当初の設置目的であった。当初はアメリカの実業家のエドワード・ヘンリー・ハリマンが資本参入し、桂・ハリマン協定により日米共同経営が予定されていたが、外務大臣の小村壽太郎が反対し、日本単独資本となった。

初代総裁には台湾総督府民政長官後藤新平が就任した。後藤は、満鉄の監督官庁である関東都督府の干渉によって満鉄が自由に活動できないことを懸念し、総裁就任の条件として、満鉄総裁が関東都督府の最高顧問を兼任することで首相(当時)の西園寺公望と合意した。また、人材確保のため、官僚出身者は在官の地位のまま満鉄の役職員に就任することが認められた。

都市・炭坑・製鉄所から農地までを経営し、独占的な商事部門を有し、さらに大学以下の教育機関研究所も擁していた。日本租借地である関東州および南満州鉄道附属地の行政をたずさわるのが関東都督府(のちの関東庁)であり、その陸軍部がのちに関東軍として沿線各地に配備されるようになった。

事業展開[編集]

満鉄は単なる鉄道会社にとどまらず、日露戦争中に児玉源太郎後藤新平の影響を受けて献策した「満州経営梗概」に「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ。」とあるように、それを具現するための組織であった。

満鉄は鉄道経営に加えて炭鉱開発(撫順炭鉱など)、製鉄業(鞍山製鉄所)、港湾、電力供給、農林牧畜ホテルヤマトホテル)、航空会社などの多様な事業を行なった。後藤の発案で設けられた満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクの一つであった。

後藤は「満鉄十年計画」を策定し、ロンドンでの社債の発行によって2億円を調達、これらの事業の原資とした。

鉄道付属地行政[編集]

大連大広場。満鉄は沿線に近代的都市計画による都市建設を行なった

満鉄には、ロシア帝国から引き継いだ鉄道付属地での独占的行政権を与えられており、地方部のもとで大規模な近代的都市計画大連奉天長春のちの新京など。)を進めた。上下水道電力ガスの供給、さらには港湾学校病院図書館などのインフラストラクチャーの整備を進め、満洲経営の中心となった。

しかし、満洲全土が日本の勢力下に入ると、鉄道付属地は必要なくなり、1937年昭和12年)に満洲国に返還された。これに伴い、地方部の行なっていた付属地行政(土木・衛生・教育)は満洲国政府に移管され、満鉄地方部は廃止された。大量の満鉄職員(その多くは教員)が満鉄から満州国へ移籍した。

資本金[編集]

  • 設立時 - 2億円。うち1億円は政府の現物(鉄道施設とその付属物)出資。
  • 1920年大正9年) - 4億4千万円(第1次増資)
  • 1933年昭和8年) - 8億円(第2次増資)
  • 1940年昭和15年) - 14億円(第3次増資)

南満州鉄道株式会社歴代総裁[編集]

氏名 在任期間 出身地 出身校 前職・備考など
1 Shimpei Gotō.jpg 後藤新平 1906年11月13日 - 1908年7月14日 陸奥国 須賀川医学校 台湾総督府
2 Nakamura Yoshikoto.jpg 中村是公 1908年12月19日 - 1913年12月18日 安芸国 東京帝国大学 台湾総督府
3 Ryutaro Nomura.jpg 野村龍太郎 1913年12月19日 - 1914年7月15日 美濃国 東京大学理学部 鉄道院副総裁
4 Yujiro Nakamura (Baron).jpg 中村雄次郎 1914年7月15日 - 1917年7月31日 伊勢国 陸軍兵学寮 貴族院勅選議員
5 Shinbee Kunisawa.jpg 国沢新兵衛 1917年7月31日 - 1919年4月12日 江戸 東京帝国大学工科大学 鉄道省
6 Ryutaro Nomura.jpg 野村龍太郎 1919年4月12日 - 1921年5月31日(再任) 同上 同上 同上
7 Hayakawa Senkichiro.jpg 早川千吉郎 1921年5月31日 - 1922年10月14日 加賀国 東京帝国大学法科大学 三井合名会社副理事長
8 Takeji kawamura.jpg 川村竹治 1922年10月24日 - 1924年6月22日 羽後国 東京帝国大学法科大学 貴族院勅選議員
9 Yasuhiro Ban'ichirō.jpg 安広伴一郎 1924年6月22日 - 1927年7月19日 筑前国 慶應義塾
香港中央書院
枢密顧問官
10 Jyotaro yamamoto.jpg 山本条太郎 1927年7月19日 - 1929年8月14日 越前国 共立学校 立憲政友会幹事長
11 Sengoku Mitsugi.jpg 仙石貢 1927年5月10日 - 1928年6月12日(不) 土佐国 東京帝国大学理学部 九州鉄道社長
12 Kosai Uchida.jpg 内田康哉 1931年6月13日 - 1932年7月6日 肥後国 東京帝国大学 外務大臣
13 Hirotaro Hayashi.jpg 林博太郎 1932年7月26日 - 1935年8月2日 東京都 東京帝国大学文科大学 貴族院伯爵議員
14 Yohsuke matsuoka1932.jpg 松岡洋右 1935年8月2日 - 1939年3月24日 山口県 オレゴン大学 中華民国総領事
15 Omura Takuichi.jpg 大村卓一 1939年3月24日 - 1943年7月14日 福井県 札幌農学校 関東軍交通監督部長
16 KobiyamaNaoto.jpg 小日山直登 1943年7月14日 - 1945年4月11日 福島県 東京帝国大学 南満州鉄道株式会社
17 Replace this image JA.svg 山崎元幹 1945年5月5日 - 1945年9月30日 福岡県 東京帝国大学法科大学 満州電業副社長

歴史[編集]

機関車工場

設立直後[編集]

満鉄の初代総裁・後藤新平は「午前八時の男でやろう」というスローガンを掲げ、台湾総督府時代の腹心で40歳そこそこの中村是公を副総裁に抜擢し、中村とともに30代、40代の優秀な人材を理事はじめ要職にスカウトし、その内の1人である三井物産元門司支店長の犬塚信太郎は32歳であった。

政党の介入と社員の抵抗[編集]

1912年大正元年)12月、第2代総裁中村是公、副総裁国沢新兵衛が更迭される。立憲政友会出身の内務大臣原敬の差し金であった。総裁に政友会系鉄道官僚・野村龍太郎、そして副総裁には政友会の幹部だった伊藤大八が就任した。これ以来、満鉄幹部のポストは政党の利権の対象となり、社員と激しく対立することもしばしば生じた。伊藤はそれまで行なわれていた理事の合議制を廃止し、総裁の権限強化を提案したが、創立以来の理事であった犬塚が強硬に抵抗した。その結果、犬塚と野村、伊藤はいずれも株主総会で更迭された。

1918年大正7年)原敬内閣が成立すると、原は1919年大正8年)4月、理事長・国沢新兵衛を更迭し、社長に再び野村龍太郎を起用、副社長に政友会系鉄道官僚・中西清一が就任した。

中西は塔連炭坑と内田汽船を異常に高い値段で買収した。塔連炭坑は政友会の幹部・森恪が経営していた。内田汽船も政友会系の人物が経営していた。炭坑や汽船を満鉄に売りつけた代金は政友会の選挙資金に充てられた(満鉄疑獄事件)。野党・憲政会はこの問題を帝国議会で追及し、中西を背任罪告訴した。また社員の中にも職を賭して抵抗したものがいた。興業部庶務課長であった山田潤二は野村と中西に直言し、容れられないと職を辞し、検事に決定的証拠を提出した。中西は逮捕・起訴されるが、控訴審で無罪となる。

こうした度重なる政党の介入に対し、社員は団結し、1927年昭和2年)、社員会を結成した。

張作霖爆殺事件と満洲事変[編集]

1928年昭和3年)6月4日、満鉄の車両が奉天付近で爆破され、乗車していた奉天派軍閥の領袖、張作霖が死亡した(張作霖爆殺事件)。張作霖の暗殺後に後継者となった張学良は、日本嫌いになり、排日政策を行った。満州中の貨物を満鉄から奪還する目的で、満鉄包囲戦の鉄道を敷設して葫蘆島に結び、さらに海吉(海龍‐吉林)、奉海(奉天‐海龍)、京奉の三線を結んで、吉林から奉天まで直通列車を運転するようになった。

また、張学良は、日本が敷設権をもっている鉄道の建設を許可せず、奉天政府の鉄道建設のために満鉄が与えた一億円の借款に対しては、元利ともその支払いを拒否した。このこともあり、1930年(昭和5年)の満鉄は利益が前年の3分の1に減少したため、2000人の従業員を解雇した。

1931年昭和6年)9月、柳条湖事件を発端に満州事変が起こり、関東軍が軍事的に勝利して満洲全土を支配下に置いた。

当時の満鉄総裁であった内田康哉以下の満鉄首脳は事変の不拡大を望んでいたが、理事の中でただ一人事変拡大派であった十河信二の周旋で内田が関東軍司令官・本庄繁と面談すると、急進的な事変拡大派に転向し、満鉄は上から下まで事変に協力することになる。この満洲事変、および満州国の成立によって満鉄の性格は大きく変わった。満鉄の監督官庁は満洲国建国以後、日本の在満洲国特命全権大使となったが、この職は関東軍司令官が兼任していた。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入った。

満鉄改組[編集]

南満州鉄道株式会社の腕章、中国工業博物館蔵。

満洲事変以来、満洲の経営の中心は満鉄から関東軍に移り、満洲国政府にも日本から高級官僚が送られてきて力を持つようになった。こうした勢力は、満州国の経済における満鉄の独占的地位をよしとしなかった。1938年3月、満鉄は鞍山製鉄所をはじめとする重工業部門を満州重工業開発(満業)に譲渡し、鉄道と炭鉱部門および調査部門に特化することになった。

こうしたなか、総裁松岡洋右は大調査部構想を掲げ、調査部門を強化するが、1942年昭和17年)、1943年昭和18年)の二度に亙る「満鉄調査部事件」(満鉄調査部の研究者が左翼的であるとして大量に検挙された)により、調査部門も活力を失った。

子会社の東亜勧業は満蒙開拓団の入植地確保のため、関東軍の指示で用地買収を行なった。代替地を用意せず、補償金を払って先住中国人を立ち退かせた。

消滅とその後[編集]

旧満鉄本社(2007年10月)
大連市内にある満鉄旧址の石碑
大連市内に現存する満鉄の社紋(「M」とレール断面の意匠)入りのマンホールの蓋。満鉄は上下水道や電力・ガスなど都市インフラに関わる事業も行なっていた。

1945年昭和20年)の日本の降伏の直前に満洲に侵攻したソ連軍に接収され、その施設は同年8月27日に発表された中ソ友好同盟条約により、中華民国政府とソビエト連邦政府の合弁による中国長春鉄路に移管された。

一方、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によりポツダム宣言受諾にともなう閉鎖機関令が公布され、満鉄は同年9月30日に遡って閉鎖されたものとされた。ただし敗戦後も、満鉄東京支社の財産などが残っていたため、清算は1957年(昭和32年)までかかった。

満鉄は消滅したものの、現地の鉄道輸送の人員や技術者は不足しており、旧満鉄社員の多くは中華民国政府の依頼によって現地に留められ、鉄道運行などの業務に従事(留用)させられ、1948年まで続いた。彼らの留用による成果として、宝鶏 - 蘭州間の天蘭線開通が挙げられる。また、大村卓一は満鉄総裁を務めた罪で、中国共産党軍に逮捕され、獄死した。

満鉄が満洲に残した各種インフラは、日本が撤退し、その後勃発した国共内戦の結果として中華民国から中華人民共和国へ政体が変わった後も、東北部を経営する際に役立っており、1980年代に改革・開放政策が始まるまで、付近で発見された大慶油田と共に、国内が不安定であった中華人民共和国の経済を支えた。

長春(旧・新京)や大連瀋陽(旧称・奉天)といった主要都市では現在でも日本統治時代の建築物を多数目にすることが出来る。満鉄関連の建物は多くが修復されながら現在も使われており、満鉄大連本社は現在でも大連鉄道有限責任公司の事務所としてその建物を使用しているほか、大連などにある旧ヤマトホテルは現在も大連賓館や遼寧賓館などとして営業を続けている。

満鉄各線で運行されていた車両の一部は、ジハ1型など現在も現地で稼働しているが、老朽化などの理由で、徐々に廃車、静態保存などが進んでいる。

かつて満鉄に勤務した田中季雄は太平洋戦争後に次のように語っている[2]

戦後になって日本の大陸への進出を侵略としてとかく悪く言われるが、清国の衰退で国家の形をしていなかった現在の中国東北地域に新しい国をつくった満州国の場合は、五族(支那満州蒙古日本朝鮮)の民族協和による王道楽土の建設を目指し、満鉄はその新国家の動脈として産業発展と民生向上に大きく貢献していたと思う。満鉄が同地域に残した有形無形のものは極めて大きく、戦後の新中国の発展にも大きく役に立っているはずだ。

田中季雄 、「第17章 満鉄の興亡」『日本の鉄道史セミナー』(p131)

満鉄会[編集]

1946年(昭和21年)、元社員の就職斡旋や未帰還者の早期帰国などを目的として、「満鉄会」が設立された[3]1954年(昭和29年)11月25日には、財団法人「満鉄会」となった。旧満鉄社員及び満洲関係引揚者の援護厚生などを行った。

会員は多い時で約15,000人いたが、その後は会員の高齢化に伴って減少した。2012年(平成24年)10月19日に最後の大会を開催し、翌2013年(平成25年)3月末をもって解散した。なお、2013年4月から3年間は情報発信のみをおこなう「満鉄会情報センター」として運営されている[3]

鉄道事業[編集]

大連駅

標準軌への改軌[編集]

満鉄新京駅自動車発着スケジュール、中国工業博物館蔵。

レールの間隔の変更(改軌)は、初期満鉄の大きな問題だった。もともとロシアの敷いた軌間は5フィート(1524mm)の広軌であり、日露戦争中、野戦鉄道提理部が日本から持ち込んだ内地用の車両が走行可能なように3フィート6インチ(1067mm)の狭軌に改築していた。これを、政府の命令書により中国や朝鮮などに合わせて4フィート8.5インチ(1435mm)の国際標準軌間に改築しなければならなかった。1908年明治41年)には大連 - 長春の本線の改築が終わった。不要になった狭軌の機関車は日本に還送されることになり、周水子駅で異例の機関車の送別会が行なわれた。また、日露戦争中に軽便鉄道として敷設された安奉線も標準軌に改築された。

代表的な列車[編集]

満鉄のシンボル、特急「あじあ」

特急「あじあ」[編集]

1934年昭和9年)11月、大連 - 新京間に満鉄最初の特急あじあが設定された。最高速度は130km/h、表定速度は82.5km/hで、日本国鉄の特急「つばめ」の平均速度66.8km/hを上回った。流線型の外被をつけて空気抵抗を少なくした大出力蒸気機関車「パシ型」がこれを牽引した。1935年昭和10年)には運転区間は哈爾濱(ハルビン)まで延長された。

経営路線[編集]

満州国の鉄道路線図(赤-社線、緑-北鮮線、青-国線)

鉄道は満鉄本来の路線(社線)つまり新京(現・長春) - 大連旅順間の満鉄本線安奉線のほかに、満洲国が1935年昭和10年)にソビエト連邦から買収した新京以北の北満鉄路(旧称・中東鉄道)をはじめとする満州国有鉄道国線)や北部朝鮮の一部の鉄道の運営および新線建設を受託し、営業キロ数は格段と伸びた。これに対応するため、満鉄は1936年昭和11年)、奉天に鉄道総局を設置、さらに1942年に本社を大連から満洲国の首都新京に移転した。

以下は、1945年昭和20年)8月時点での満鉄経営路線の一覧(委託経営路線を含む)[4]

凡例 : [貨] 貨物線

社線[編集]

路線名 区間 キロ程 旧路線名・備考
連京線 大連 - 新京 701.4 本線 (開業 - 1921年7月20日)
満洲本線 ( - 1925年3月31日)
連長線 ( - 1932年10月31日)
大連埠頭 - 沙河口 [貨] 6.9 通称「埠頭線」
大連 - 吾妻 [貨] 2.9 通称「吾妻線」
安奉線 安東 - 蘇家屯 260.2
入船線 [貨] 沙河口 - 入船埠頭 5.8
旅順線 周水子 - 旅順 50.8
柳樹屯線 大房身 - 柳樹屯 5.8 休止線
甘井子線 [貨] 南関嶺 - 大連甘井子埠頭 11.9
金城線 金州 - 城子 102.1
営口線 大石橋 - 営口 22.4
煙台炭礦線 煙台 - 煙台炭礦 15.6 非営業線
撫順線 蘇家屯 - 撫順 52.9
渾楡連絡線 [貨] 渾河 - 楡樹台 4.1

北鮮線[編集]

路線名 区間 キロ程 旧路線名・備考
北鮮西部線 上三峰 - 南陽 36.0 図們線(朝鮮総督府鉄道
北鮮東部線 図們 - 雄基 147.3 図們線(朝鮮総督府鉄道)
雄羅線 雄基 - 羅津埠頭 18.2
南羅津線 [貨] 羅津 - 南羅津 3.0

国線[編集]

満州国国有鉄道委託経営線(1933年3月1日~)

路線名 区間 キロ程 旧路線名・備考
奉山線(現瀋山線 奉天 - 山海関 419.6 奉山鉄路
奉裕連絡線 [貨] 奉天 - 裕国 17.5
于洪連絡線 [貨] 于洪信号場 - 大成信号場 4.6
皇姑屯連絡線 [貨] 皇姑屯 - 北奉天 2.8
高新線 高台山 - 新立屯 60.6
大鄭線 大虎山 - 鄭家屯 366.2 奉山鉄路(大虎山-通遼)
鉄路(通遼-鄭家屯)
新義線 新立屯 - 義県 131.5
河北線 子 - 河北 91.1 奉山鉄路
錦古線 錦県 - 古北口 542.3 奉山鉄路(錦県-口北営子)
北票線 金嶺寺 - 北票 17.9 奉山鉄路
葉峰線 葉柏寿 - 赤峰 146.9
壺蘆島線 錦西 - 壺蘆島埠頭 12.1 奉山鉄路
奉吉線 奉天 - 吉林 447.4 瀋海鉄路(奉天-朝陽鎮)
吉海鉄路(朝陽鎮-吉林)
瀋陽連絡線 [貨] 奉天 - 瀋陽 10.7
将軍堡連絡線 [貨] 撫順 - 将軍堡信号場 3.6
撫順城連絡線 [貨] 撫順 - 撫順城 4.5
梅輯線 梅河口 - 満浦 255.5
新通化線 通化 - 新通化 4.2
大栗子線 鴨園 - 大栗子 112.3
平梅線 四平 - 蓮河 149.2 瀋海鉄路(西安-蓮河)
京図線 新京 - 図們 528.0 吉長吉敦鉄路(新京-敦化)
敦図鉄路(敦化-哈爾巴嶺)
龍豊線 龍潭山 - 大豊満 22.4
金珠線 江北 - 金珠 18.8 吉林鉄道(新吉林-金珠)
小新連絡線 [貨] 小姑家 - 新站 9.1
朝開線 朝陽川 - 上三峰 60.6
和龍線 龍井 - 和龍 61.1
合水連絡線 [貨] 萱穂信号場 - 合水信号場
図佳線 図們 - 佳木斯 580.2
佳木斯埠頭線 [貨] 佳木斯 - 佳木斯埠頭 3.6
興寧線 新興 - 城子溝 216.1
汪清連絡線 [貨] 汪清 - 小汪清 9.0
虎林線 林口 - 虎頭 335.7
恒山線 寧 - 恒山 12.4
拉浜線 樹 - 拉法 265.5
煤窰線 舒蘭 - 煤窰 30.4 吉林鉄道
京浜線 新京 - 哈爾浜 242.0 北満鉄路
浜洲線 哈爾浜 - 満洲里 934.8 北満鉄路
浜綏線 哈爾浜 - 綏芬河 546.4 北満鉄路
開道廻線 亜布洛尼 - 横道河子 59.2
香坊連絡線 [貨] 香坊 - 東門信号場 5.1
東門連絡線 東門信号場 - 新香坊 6.2
下城子 - 西 103.4 穆稜鉄路(下城子-梨樹鎮)
綏寧線 河西 - 東寧 91.1
浜江線 哈爾浜 - 三 8.8 北満鉄路(哈爾浜-浜江)
樹埠頭線 [貨] 浜江 - 三 4.0
哈爾浜埠頭線 哈爾浜 - 哈爾浜埠頭 2.9 北満鉄路(哈爾浜-八区)
江南連絡線 [貨] 太平橋 - 江南信号場 2.2
浜北線 樹 - 北安 326.1 呼海鉄路(新松浦-海倫)
海克鉄路(海倫-北安)
綏佳線 綏化 - 佳木斯 381.8
鶴岡線 蓮江口 - 鶴岡 54.3
蓮江口埠頭線 [貨] 蓮江口 - 蓮江口埠頭 3.5
北黒線 北安 - 黒河 302.9
黒河埠頭線 [貨] 黒河 - 黒河埠頭 4.2
斉北線 斉斉哈爾 - 北安 231.5 斉克鉄路(斉斉哈爾-泰安)
泰克鉄路(泰安-克山)
海克鉄路(克山-北安)
寧霍線 寧年 - 霍龍門 284.0 斉克鉄路(寧年-拉哈)
平斉線 四平 - 斉斉哈爾 571.4 鉄路(四平-南)
昂鉄路(南-三間房)
斉克鉄路(三間房-斉斉哈爾)
京白線 新京 - 白城子 332.6
白杜線 白城子 - 杜魯爾 376.5 索鉄路(白城子-家仮站)
楡樹線 楡樹屯 - 昂昂渓 6.4 斉克鉄路
宮原 - 田師付 86.0

新線[編集]

安南線 - 渾三線 - 遼宮線 - 鳳灌線 - 霍黒線 - 双源線 - 東当線(1944年4月1日廃止)

社内専用線[編集]

湯旺森林線

廃止線[編集]

社線
霊山線[貨] 首山 - 霊山操車場(1941年6月1日廃止)
西寛城子線 孟家屯 - 寛城子(1909年2月3日廃止)
国線
馬船口線 (松浦 - 馬船口、旧呼海鉄路、1936年7月1日廃止)
子山線[貨] (蛟河 - 子山、旧吉長吉敦鉄路、1936年9月1日廃止)
松浦線(新松浦 - 松浦、旧呼海鉄路、1938年6月1日廃止)
道裡線[貨] (哈爾浜 - 道裡、旧北満鉄路、1941年12月1日廃止)
新線
東当線(1944年4月1日廃止)

満鉄の車両[編集]

南満州鉄道が製作した日本刀[編集]

満鉄刀(興亜一心刀)[編集]

満鉄刀 中心 銘 興亜一心満鉄作之

満鉄は独自に開発した鋼を使用し、新工法による量産可能で高性能な刀剣を製作した。江戸時代日本刀製法である刀工自ら槌で折り返し鍛錬をすると心金と呼ばれる刀身真ん中の柔らかい鉄が均等にならないが、満鉄刀は心金を均等に真ん中にしている。切れ味も優れている。

主な満鉄出身者[編集]

役員[編集]

社員[編集]

社員の子息・孫[編集]

関連企業・団体[編集]

関連図書[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 現在の麻布台2丁目1番2号、跡地には東京アメリカンクラブが造られた。
  2. ^ 日本の鉄道史セミナー』(p131)
  3. ^ a b “「満鉄会」最後の大会、高齢化で来年3月に解散”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2012年10月19日). http://sankei.jp.msn.com/life/news/121019/trd12101922370018-n1.htm 2012年11月10日閲覧。 
  4. ^ 満鉄会 (2007) (高山拡志「満鉄全線全駅一覧」)

参考文献[編集]

  • 原田勝正 『満鉄』 岩波新書黄版
  • 原田勝正 『満鉄』 日本経済評論社、増補版も出された
  • 天野博之 『満鉄を知るための十二章』 吉川弘文館
  • 加藤聖文 『満鉄全史』 講談社選書メチエ
  • 草柳大蔵 『実録満鉄調査部』 上下、朝日新聞社、のち朝日文庫
  • 小林英夫編 『近代日本と満鉄』 吉川弘文館
  • 小林英夫 『満鉄調査部』 平凡社新書
  • 小林英夫 『満鉄調査部の軌跡』 藤原書店
  • 小林英夫 『満鉄 「知の集団」の誕生と死』 吉川弘文館
  • 『「別冊環」12号 満鉄とは何だったのか』  藤原書店-満鉄創立百周年記念出版
  • 『図説 満鉄 「満洲」の巨人』 西澤泰彦編・解説、<とんぼの本>河出書房新社
  • 満鉄会 『満鉄四十年史』 吉川弘文館2007年11月6日ISBN 4642037810
  • 『南満洲鉄道株式会社十年史』、大正8年刊の複製:原書房
  • 『南満洲鉄道株式会社第二次十年史』、上下巻.昭和3年刊の複製:原書房
  • 『南満洲鉄道株式会社第三次十年史』、4冊組.昭和13年刊の複製:龍渓書舎
  • 『南満洲鉄道株式会社第四次十年史』 満鉄会編、龍渓書舎
  • 山崎元幹・田村羊三 『忘れえぬ満鉄』 満鉄会叢書1:龍渓書舎
  • 渡辺諒 『満鉄史余話』 満鉄会叢書2:龍溪書舎
  • 松岡洋右 『満鉄を語る』 慧文社 復刊
  • 菊池寛 『満鉄外史』 原書房 復刊

関連項目[編集]

外部リンク[編集]