西太后

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西太后
慈禧太后
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慈禧太后 晚年の真影
続柄 満州鑲藍旗人葉赫那拉氏恵徴の娘
称号 聖母皇太后
老仏爺
全名 孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后
身位 皇太后
敬称 陛下
Her Imperial Majesty
出生 道光十五年十月十日(1835年11月29日
出生地不明
死去 光緒三十四年十月二十二日(1908年11月15日)享年72歲
China Qing Dynasty Flag 1889.svg 清国北京中南海儀鸞殿
埋葬 1908年[要出典]
China Qing Dynasty Flag 1889.svg 清国直隷省直隷州普陀峪定東陵
配偶者 咸豊帝
子女 同治帝
父親 恵徴
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西太后(せいたいこう・せいたいごう、道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は、咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉(エホナラ、イェヘ=ナラ)氏の出身。慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺(ラオフオイエ) 。

中国語では「慈禧太后(Cixi Taihou ツーシー・タイホウ)」ないし「那拉皇太后」、「西太后(Xi Taihou シータイホウ)」。英語では「Empress Dowager(皇太后)」という呼称がよく使われる。幼名は蘭児。

紫禁城内における2人の皇太后の住む場所によって東太后(皇后・鈕祜禄(ニウフル)氏。慈安皇太后、母后皇太后)、西太后(第2夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。徽号と合わせた諡号孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后

目次

[編集] 生涯

[編集] 后への選抜と皇子出産

西太后の出生地は不明で、安徽省蕪湖説、内モンゴルフフホト説、山西省長治説など諸説があるが、近年の学界では北京出生説が有力とされる。西太后の父親だった恵徴は、清朝の中堅官僚で、最終官職は安徽寧池太広道の「道員」だった。恵徴は1853年、安徽省の赴任先で太平天国の乱に巻き込まれ、その心労により同年六月三日(7月8日)に鎮江で病死した。

1852年、数え17歳のとき、3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格。翌年の五月九日(6月26日)、18歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となった。後に「蘭」から「懿」に徽号を変えており、貴人から懿嬪に進んだ。ちなみに皇后は、咸豊帝の皇子時代から仕えていた鈕祜禄氏(のちの東太后)であった。1856年、咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の男子)を生み、その功績により、懿貴妃に昇進した[1]

[編集] 政権掌握

アロー戦争により熱河に逃れた咸豊帝は1861年に崩御した。咸豊帝死後の政治の実権をめぐり、載淳の生母である懿貴妃と咸豊帝の遺命を受け載淳の後見となった8人の「顧命大臣」載垣端華粛順らは激しく争った。

懿貴妃は皇后鈕祜禄氏と咸豊帝の弟で当時北京で外国との折衝に当たっていた恭親王奕訢を味方に引き入れた。そして咸豊帝の棺を熱河から北京へ運ぶ途上でクーデターを発動し載垣、端華、粛順らを処刑(辛酉政変:1861年)し権力を掌握した。

北京帰還後載淳は同治帝として即位し、皇后鈕祜禄氏は慈安皇太后、懿貴妃は慈禧皇太后となったが、慈安太后は紫禁城の東の宮殿に住んだため東太后、慈禧太后は西の宮殿に住んだため西太后と呼ばれた。当初は東太后と西太后が同治帝の後見として垂簾聴政を行い、恭親王が議政王大臣として政治を補佐するという三頭政治であったが、東太后は政治に関心がなく、実質的には西太后と恭親王の二頭政治であった。

1874年同治帝は大婚[2]を機に親政を行おうとしたが若くして崩御した。この時代にも、西太后はそりの合わない皇后(嘉順皇后、後に幽閉され死亡した)と皇帝を無理矢理離間する等、依然として権力を握っていた。

同治帝の死因は天然痘梅毒のいずれか解明されていないが、一説に同治帝は天橋の売春宿へ通うようになり、そこで感染したという説がある。現代中国では天然痘か梅毒か、学者の間でも意見が分かれているが、日本では天然痘によるものであるとされている。

同治帝は子供を残さずに死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。この場合名前に「載」の字がある世代は、皇帝候補者とはなり得ない。しかし、自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り、他の皇帝候補者よりも血縁の近い妹の子(父は醇親王奕譞)載湉(さいてん)を光緒帝として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。

1881年、45歳の東太后が突然死去した。公式発表は病死であった。民間はもとより清朝高官にも公然と懐疑を表した者は多いが、脳卒中と考えられている。また1884年、清仏戦争敗北の事後処理に際し、開戦に危惧を表明していた宗室の実力者恭親王奕訢へ責任を被せ、失脚させた。

東太后の死去と恭親王の失脚により、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。1887年光緒帝の成年に伴い、3年間の「訓政」という形で政治の後見を行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。1888年には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙している。

[編集] 日清戦争以後

光緒帝の即位以降、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては洋務運動を推進する曽国藩李鴻章左宗棠張之洞ら洋務派官僚を登用した。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期間は同治中興と呼ばれる。

しかし洋務運動は1895年日清戦争により挫折する。清朝の敗北は北洋艦隊の予算を西太后肝いりの頤和園再建へ流用していたためであるという説が古くから伝わっているが、証拠はなく真偽のほどは不明である。1890年代前半の北洋艦隊の予算の不足については、満洲周辺におけるロシアの脅威に備えるために陸軍に経費を充当したという可能性や、多くの海軍費を広東水師(海軍)の増強の方に充てたという点も指摘されている。[3]

日清戦争の敗北により、技術的な改革にすぎない洋務運動ではなく、体制的な改革を主張する変法運動がまきおこった。変法派に共感する光緒帝は明治維新にならって政治制度も変革すべきと主張した変法派の康有為梁啓超を登用して、1898年に体制の抜本改革を宣言した。これを戊戌の変法(別名戊戌維新、変法自強運動、百日維新)という。西太后は当初は改革の推移を見守っていたが、改革に好意的と見られていた袁世凱が変法派を裏切り、変法派が進めていた西太后幽閉計画を密告したことにより、西太后はこれに先んじてクーデターを仕掛けることを決意。変法派の主要メンバーを処刑し、さらに光緒帝を拘束して中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した(戊戌の政変)。この結果、康有為や梁啓超といったリーダー格は日本へ亡命したが、康有為の弟や譚嗣同を含む6人が処刑された。彼らを「戊戌六君子」という。わずか3か月あまりで西太后は権力の座に返り咲いたことになる。

[編集] 戊戌の政変の新説

台湾雷家聖教授の研究[4]によれば、戊戌変法の間、日本の前首相・伊藤博文が中国を訪問していた。当時、在華宣教師・李提摩太(ティモシー・リチャード Timothy Richard)は、伊藤を清の顧問にして権限を与えるように変法派リーダーの康有為にアドバイスしていた。[5]そこで、伊藤が到着後、変法派の官吏は彼を重用するよう次から次へと要望を上奏した。そのため、保守派官吏の警戒を招き、楊崇伊は「日本の前首相伊藤博文は権限を恣にする者であり、もし彼を重用するようになったら、祖先より受け継いでいる天下は拱手の礼をして人に譲るようなものだ」と西太后に進言した。[6]このような烈しい主張は、西太后をして9月19日(旧暦八月四日)に頤和園から紫禁城に入らせ、光緒帝が伊藤をどう思っているかを問い質そうとした。

ところが、伊藤は李提摩太と共に「中、米、英、日の“合邦”」を康有為に提案した。それを受けて、変法派官吏の楊深秀は9月20日(八月五日)に光緒皇帝に上奏し、「臣は請う:我が皇帝が早く大計を決め、英米日の三ヵ国と固く結びつき、“合邦”という名の醜状を嫌う勿かれ」。[7]もう一人の変法派官吏の宋伯魯も9月21日(八月六日)に次のように上奏した。「李提摩太が来訪の目的は、中、日、米および英と連合し“合邦”することにあり。時代の情勢を良く知り、各国の歴史に詳しい人材を百人ずつ選び、四カ国の軍政税務およびすべての外交関係などを司らせる。また、兵を訓練し、外国の侵犯に抵抗する。……皇帝に速やかに外務に通じ著名な重臣を選抜するよう請う。例えば、大学士・李鴻章をして李提摩太と伊藤博文に面会させ、方法を相談し講じさす」。[8]あたかも中国の軍事、税務、外交の国家権限を外国人に渡そうとしているかのようである。西太后は9月19日(八月四日)に紫禁城に戻った後、20-21日この話を知り、事態の重大さを悟ったため、即断しクーデターを起こして自ら政権の座に戻り、変法自強運動に終止符をつけた。

この新たな研究は、これまでの戊戌変法の解釈・評価を、さらに関与した人物への肯定的/否定的評価をも逆転させ、さらなる研究の必要性を求めることとなった。なお、この新説に対しては伝統的な立場の学者からは批判も出されているが、戊戌変法をめぐる西太后の評価については現在論争中である。

西太后は権力の座に返り咲くと、光緒帝を廃立すべく、端郡王載漪(さいい)の子溥儁(ふしゅん)を大阿哥に擁立した(己亥の建儲)[9]。ただ光緒帝の廃立は諸外国の反対により実行できず、西太后の意のままにはならなかった。清朝内部においては並ぶものなき権力者でありながらも、西欧列強には譲歩せねばならないことが多く、彼女は憤懣を蓄積させていった。これが後の義和団支持へとつながっていくことになる。

[編集] 義和団の乱

1900年義和団の乱が発生。義和団は「扶清滅洋」を標語に掲げ、当初国内にいる外国人やキリスト教徒を次々と襲った。清朝内には義和団を支持し、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする主戦派と、義和団を暴徒と見做し、外国との衝突を避ける為討伐すべきという和平派が激しく対立した。義和団は勢力が拡大するに連れ暴徒化、無差別な略奪を繰り返すようになるが、清朝内部では次第に主戦派が優勢となり野放しとなった。ついにはドイツ公使や日本公使館員が殺害されるという事態になり、諸外国は居留民保護のため連合軍を派遣。当初義和団を優勢と見た西太后は主戦派の意見に賛同し、諸外国に対して「宣戦布告」した。西太后はこのとき「中国の積弱はすでに極まり。恃むところはただ人心のみ」と述べたという[10]。しかし、八ヶ国連合軍が北京へ迫ると、西太后は側近を伴い北京を脱出、西安まで落ち延びた。この際、光緒帝の側室珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てるよう命じた。

義和団の乱の処理を命じられた李鴻章と慶親王奕劻は、諸外国に多額の賠償金と北京への外国軍隊駐留を認める代わりに、清朝の責任は事件の直接首謀者のみの処罰ですませ、西太后の責任が追及されないようにした。そのため西太后は1902年に北京に帰還し、これまで通り政治の実権を握り続けることができた。

義和団の乱終結以後、遅まきながら民衆・知識人の間に起こる政治改革機運の高まりを察知した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌変法を基本に、諸所の配慮(中央に於ける立法権の未付与、責任内閣制の阻止)を加えた、いわゆる「光緒新政」を開始した。1905年には5人の大臣を日本と欧米に派遣し政治制度を視察させたが、李鴻章ら五大臣の奏摺した「中央の上級官吏を政務にも参与させ議院の基礎とする旨、また地方の名望家を政務に参与させ地方自治の基礎とする旨、責任内閣制の準備及び冗官整理を含めた新官制、併せて立憲の準備とする旨」の奏摺を保留、1906年に官制の変更(冗官の廃止統合と地方官制の追認)と9年後の立憲制への移行を宣言する「預備立憲」上諭を下した。

1908年光緒帝が崩御した翌日、西太后も72歳で崩御した。西太后は死の前に溥儀を宣統帝として擁立し、溥儀の父醇親王を摂政王に任命して政治の実権を委ねた。しかし、西太后の死からわずか3年あまりで清朝は辛亥革命によって倒されてしまう。

[編集] 光緒帝毒殺説

西太后と光緒帝の死亡時期が近いため、自分の最期を悟った西太后が光緒帝を自分よりも長生きさせないために毒薬投与により暗殺したという説がある。2008年11月の報道によると、光緒帝の遺体の科学鑑定が行われ、同時代の光緒帝の皇后隆裕太后の遺体と比較した結果、光緒帝の遺体からは高濃度の砒素が検出され、毒殺説の可能性が高まった。しかし、誰が犯人かを示す証拠は何も発見されていない。

光緒帝殺害の犯人としては古くから多くの説が唱えられている[11]が、真相は不明である。詳細は光緒帝を参照。

[編集] 西太后に関する俗説

西太后については、民間に多くの逸話が伝えられている。たとえば、

  • 西太后は、下級官吏の貧しい家に生まれ育った。
  • 最初、円明園の宮女となったが、たまたま通りかかった咸豊帝に声と容姿が美しいことからみそめられ妃に昇格した。
  • いわゆる『葉赫那拉の呪い』の伝説のせいで皇后になれなかった。
  • ライバルの麗妃の手足を切断して甕の中で飼った。

などが有名である。しかし現在では上に挙げたどれもが根拠のない流説であると判明している。(加藤徹『西太后』中公新書2005年などを参照のこと)

ライバルの麗妃の手足を切断したというエピソードは映画『火焼円明園』(邦題『西太后』)でも描かれているが、これは完全なフィクションで、呂后則天武后のイメージと混同されているにすぎない。実際の麗妃は咸豊帝の唯一の娘栄安固倫公主を生み、咸豊帝の没後も後宮で静かな余生を送っている。同治光緒朝には麗皇貴妃、麗皇貴太妃に加封され、1890年に54歳で死去した。荘静皇貴妃と諡号され、東陵にある咸豊帝の定陵の妃園寝(側室達の墓)に葬られている。なお栄安固倫公主は咸豊帝の唯一の娘として東太后と西太后にかわいがられ、妃の娘であるが皇后の娘に与えられる固倫公主を授けられている。また、東太后と西太后は恭親王奕訢の娘を養女として宮中で育て栄寿固倫公主とした。西太后は嫉妬深いというイメージとは反対に、咸豊帝の他の妃たちにも加封しており、元のライバル達は咸豊帝の死後も宮廷で生活し続け、別段危害を加えられなかったのみならず、折々の祭典などでは加封や下賜品をたまわっていた。西太后は粛順や珍妃など自分と敵対する者に対しては徹底的に排除する一方、敵対しない者に対しては寛大でむしろ気前が良いという一面もあった。

なお、近年の研究で西太后に対する再評価がされ、満漢全席による中国料理の基礎の確立や列強諸国に支配されていれば失っていたかもしれなかった京劇の庇護など中国の文化や建築物を守っただけでは無く、時に強権的になってまで人臣を掌握し、中国の国力を他国に知らしめる手腕を発揮した事が判明。「悪女」どころか本当は「優れた統治者」であったという評価も成され始めている。また、側近を務めた事がある女性が晩年に著した手記には、西太后がどれだけ孤独で悲壮な立場に立たされていたか、を克明に記した文節がある[要出典]

[編集] 西太后の本名について

近年西太后の弟桂祥の曾孫を名乗る那根正が『我所知道的慈禧皇太后』(中国書店、2007年)で西太后の本名は杏貞、隆裕太后の本名は静芬であるという説を提唱してから広まったが、那根正の語る話には矛盾が多く、信憑性には疑問が残る。

  • 那根正は自分の祖父を桂祥の息子増錫(原名徳錫)であるとしているが、桂祥の息子で確認されているのは徳恒、徳祺の2人で、徳錫という人物は確認できない。[12]
  • 那根正は『我所知道的末代皇后隆裕』(中国書店、2008年)で桂祥の没年について1928年としているが(63頁)、実際には桂祥は娘の隆裕太后が死去した同年の1913年12月に死去しており、史実と一致しない。『宣統年交旨档』(全国図書館文献縮微複製中心、2004年)宣統五年十一月十八日(1913年12月15日)諭旨によると、(419頁)、死去した桂祥のために清室から五千両が下賜され、長子徳恒を頭等侍衛、乾清門行走とし、次子徳祺を侍衛として用いたとある。

[編集]

  1. ^ 当時習慣性流産に苦しんでいた西太后は、不妊治療の効果が高いとされた生薬阿膠の服用を薬師に勧められ、その結果載淳(のちの同治帝)を身籠ることができた。以降、重度の更年期障害に悩んでいた際にも服用を続けている。
  2. ^ 皇帝や天皇の結婚を意味する。
  3. ^ 川島真『近代国家への模索1894-1925』7頁、シリーズ中国近代史②、岩波新書、2010年。
  4. ^ 雷家聖の学術的な研究成果は、「戊戌変法時期的借才、合邦之議:戊戌政変原因新探」(『歴史月刊』181期,台北:歴史月刊社,2003)、『力挽狂瀾:戊戌政変新探』(台北:萬卷楼,2004)、「書評:茅海建戊戌変法史事考」(『漢学研究』23卷2期,台北:国家図書館漢学研究センター,2005)、「失落的真相:晚清戊戌変法時期的合邦論與戊戌政変的関係」(『中国史研究』61,大韓民国:中国史学会,2009)などがある
  5. ^ Timothy Richard ,Forty-five years in China, Chapter 12
  6. ^ 楊崇伊「掌廣西道監察御史楊崇伊摺」,『戊戌変法檔案史料』,北京中華書局,1959,p.461.
  7. ^ 楊深秀「山東道監察御史楊深秀摺」,『戊戌変法檔案史料』,北京中華書局,1959,p.15.「臣尤伏願我皇上早定大計,固結英、美、日本三國,勿嫌『合邦』之名之不美。」
  8. ^ 宋伯魯「掌山東道監察御史宋伯魯摺」,『戊戌変法檔案史料』,北京中華書局,1959,p.170.「渠(李提摩太)之來也,擬聯合中國、日本、美國及英國為合邦,共選通達時務、曉暢各國掌故者百人,專理四國兵政稅則及一切外交等事,別練兵若干營,以資禦侮。…今擬請皇上速簡通達外務、名震地球之重臣,如大學士李鴻章者,往見該教士李提摩太及日相伊藤博文,與之商酌辦法。」
  9. ^ 大阿哥とは、この場合皇嗣子を指す。
  10. ^ 島崎(2010)pp.294-295
  11. ^ 中國新聞網2008年11月4日記事(中国語)
  12. ^ http://oldbeijing.org/dispbbs_11_47857_59938_skin1.html

[編集] 西太后を題材にした諸作品

[編集] 参考文献

  • 濱久雄『西太后』 ニュートンプレス、1984、ISBN 4315403482
  • ジョン・ブランド、エドマンド・トリローニー・バックハウス共著、藤岡喜久男訳『西太后治下の中国―中国マキアベリズムの極致』光風社出版、1991、ISBN 4875190204
  • スターリング・シーグレーブ『ドラゴン・レディ』上・下、サイマル出版会、1994
  • 徳齢、井関唯史訳『西太后汽車に乗る』東方書店、1997、ISBN 4497975266
  • 徳齢、太田七郎・田中克己訳『西太后に侍して 紫禁城の二年』研文社、1997
  • 加藤徹『西太后』中公新書、2005、ISBN 4121018125
  • 島崎晋『名言でたどる世界の歴史』PHP研究所、2010年6月。ISBN 978-4-569-77939-3
  • 雷家聖『力挽狂瀾 戊戌政変新探』 萬卷樓(台湾)、2004、ISBN 957-739-507-4

[編集] 関連項目

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