婉容
| 婉容 | |
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| プロフィール | |
| 出生: | 1906年11月13日 |
| 死去: | 1946年6月20日 |
| 出身地: | |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 婉容 |
| 簡体字: | 婉容 |
| ピン音: | Wang Rong |
| 注音符号: | ㄨㄢˇ ㄖㄨㄥˊ |
| 和名表記: | えんよう |
| 発音転記: | ワンロン |
| 英語名: | Elizabeth |
婉容皇后(えんよう-こうごう、1906年11月13日 - 1946年6月20日)は清朝及び満州国の皇后。実家の姓から郭布爾皇后とも呼ばれる。
目次 |
[編集] 生涯
満洲旗人の郭布爾(郭布羅、郭博勒とも書く)栄源の娘として1906年に北京で生まれる。3世紀の詩人曹植の『洛神賦』から婉容と名づけられ、さらに同じ『洛神賦』に因み「慕鴻」の字を名乗る。
17歳の時、清朝の廃帝宣統帝(愛新覚羅溥儀)に皇后として迎えられた。しかし、夫婦仲は次第に冷めていく。原因は溥儀のインポテンツかホモセクシャルとも言われる。鬱屈した気分を晴らそうとした婉容はアヘンに手を出し、重度の中毒に陥った。
溥儀が満州国皇帝となると婉容も再び皇后となるが、アヘン中毒と日本人嫌いのため、公式の場にはほとんど姿を見せなかった。満州国時代末期に婉容の姿を見た者によると、彼女はボロ同然のすり切れた服をまとい、髪は乱れたまま、不健康な生活のため視力をほとんど失い、自力で立ち上がることすらできなかったという。ついには精神錯乱を来していたというが、溥儀は婉容に手をさしのべることもなく、むしろ離婚を考えたと言われる。
日本の敗戦後、溥儀が日本への亡命を企て逃亡した後、嵯峨浩らわずかな親族や従者と共に取り残された。中国共産党軍に逮捕され各地を転々とした後、通化では通化事件に巻き込まれる。その後、親族や従者とは引き離され、吉林省延吉の監獄内でアヘン中毒の禁断症状と栄養失調のため、孤独の内に死亡したといわれる。1995年河北省易県にある、清朝の歴代皇帝の陵墓清西陵の近くの民間墓地「華龍皇園」の経営者が墓地の知名度を上げるために、李淑賢に溥儀の墓を作ることを提案し、これに同意した李淑賢によって溥儀の遺骨は同墓地に移された。また、後に溥儀の墓のそばに、婉容と譚玉齢の墓も造られたが、婉容の遺骨は見つかっていないため縁の品のみが収められている。
婉容死去の知らせを溥儀は3年後に拘留先のソ連で受けた。その後、溥儀は自伝『我的前半生』(日本語題は『わが半生』)の中で、「私が彼女について知っているのは、吸毒(アヘン)の習慣に染まったこと、許し得ない行為があったことぐらいである」と書いている。2004年、孝恪愍皇后の称号が贈られた。
[編集] スキャンダル
婉容には満州国皇后時代に2人の愛人がおり、娘を出産したと言われる。溥儀の自伝にある彼女の「許し得ない行為」とは、このことと思われる。しかし、産まれた娘はすぐに彼女の前から消えた。婉容本人には「親族の手で育てられる」と伝えられたが、実際は溥儀の命を受けた従者が娘をボイラーに放り込んで殺害していた。
[編集] 関連項目
[編集] 演じた人物
- 毬藻えり(1991年、宝塚歌劇団・星組「紫禁城の落日」)