鄭孝胥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
郑孝胥
|
|
|---|---|
鄭孝胥
|
|
| 生年月日 | 1860年4月2日 |
| 出生地 | 清国福建省福州 |
| 没年月日 | 1938年3月28日(満77歳没) |
| 死没地 | 満州国新京 |
|
|
|
| 任期 | 1932年3月9日 - 1935年5月21日 |
| 鄭孝胥 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 鄭孝胥 |
| 簡体字: | 郑孝胥 |
| ピン音: | Zhèng Xiàoxū |
| 注音符号: | ㄓㄥˋ ㄒ︱ㄠˋㄒㄩ |
| 和名表記: | てい こうしょ |
| 発音転記: | ヂョン・シアオ・シュー |
| ラテン字: | Chêng Hsiaohsü |
| 英語名: | Zheng Xiaoxu |
鄭 孝胥(てい こうしょ)は、清末の官僚・満州国の政治家・書家。字は太夷、号は蘇戡・蘇盦等。満州国の初代国務院総理(首相)。
目次 |
[編集] プロフィール
鄭孝胥のそれまでの人生を大きく変える契機は、晩年である1924年に溥儀について総理内務府大臣に就任した時と言える。既に溥儀自身は1912年に退位宣言をしており、清朝は滅亡していたわけだが、紫禁城だけは残されていた。この時期の「総理内務府大臣」であるから、政治上は何らの実権も持たない「愛新覚羅家の家令兼溥儀の教育係」程度のものである。
しかし、鄭孝胥は溥儀の忠臣として尽くし、溥儀の紫禁城退去の際にも付き従い、日本軍の庇護下に入りつつも溥儀復権のために尽力している。一説にはこの時期、鄭孝胥の仕官を勧める口はいくらもあったが、頑なに拒んだという。
満州国建国に際して、溥儀と一緒に満州入り。初代の国務院総理として溥儀を支えたが、「我が国はいつまでも子供ではない」と実権を握る関東軍を批判する発言を行ったことから、半ば解任の形で辞任に追い込まれた。辞任後も憲兵の監視下に置かれ、建国功労金の引き出しを銀行に拒否されたり国内旅行が自由にできないなど、不遇な晩年を過ごした。
[編集] 略歴
- 清朝において、大阪総領事・総理衙門章京・京漢鉄道南段総弁・広東按察使・湖南布政使等を歴任。
- 上海商務印書館(官営の出版機構)の支配人
- 上海儲蓄銀行重役
- 1924年 総理内務府大臣に就任
- 1924年11月 紫禁城を退去。溥儀に従って日本軍の庇護下に入る
- 1932年3月9日 満州国建国に伴い、初代国務院総理(総理大臣に相当)に就任
- 1932年7月6日 文教部総長(文部大臣に相当)を兼務
- 1934年3月1日 満州国の帝政移行に伴い、国務総理大臣(総理大臣に相当)に就任。文教部大臣(文部大臣に相当)を兼務
- 1935年5月21日 国務総理大臣・文教部大臣を辞任
- 1938年3月逝去
- 1938年4月 満州国国葬
[編集] エピソード
- 中国服を着用し、洋服を着ようとしなかった。溥儀が北京脱出の折に乗船した際、記念撮影のため洋服を着たのが唯一の例である。なお、洋服一式は長男の鄭垂から借用した。
- 能筆家であり、詩にも優れていた。現在の中国の「交通銀行」の字も彼の揮毫である。
[編集] 親族
- 長男:鄭垂;満州航空社長を歴任。
- 次男:鄭禹;奉天市長、駐タイ満州国公使を歴任。1954年、漢奸として処刑される。
- 孫(鄭禹の長男):鄭広淵(1907年 - 1994年);溥儀の二番目の妹韞龢と結婚。
- 孫(鄭禹の次男):鄭子罕(1913年 - 1966年);日系アメリカ人のユキコ・ルシール・デービスと結婚。結婚した当時、日満親善結婚と新聞に報じられた。
[編集] 関連項目
|
|
