井上剣花坊

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井上剣花坊(1930年撮影)

井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう、明治3年6月3日1870年7月1日) - 昭和9年(1934年9月11日)は、日本の川柳作家。幼名は七郎、のちに幸一[1]

生涯[編集]

明治3年(1870年)6月3日、山口県に生まれた。家系は毛利家に仕えていたが、廃藩後に没落、父栄祐は1891年に、不遇のうちに亡くなった[1]

独学で小学校代用教員となり、のちに山口県の新聞社『鳳陽新報』(のち『長周日報』、その後防長新聞に併合されて消滅)に就職して新聞記者となった[2]。同じ頃山県トメと結婚し、3人の子供を授かるも、トメは3人目出産後の予後が悪く、1898年に他界。なお井上はその3年後の1901年に岡ノブと再婚、2人の子供をもうけた[2]。同じ1901年には『越後日報』に就職、主筆となった[2]

1903年7月、『越後日報』を退社し新聞「日本」に入社。ここで剣花坊の筆名で新川柳の選者を務めた。なお筆名は、山口県で「争気がある人」を「喧嘩ぼう」といったことから、自らをそれになぞらえて「剣花坊」の漢字を当てたものである[3]。その後退社したものの、客員として同誌の選者を務めた。また他に『國民新聞』や『読売新聞』でも選者を務め、新興川柳の普及に努めた[4]1905年結成の柳樽寺派の先達としても活躍し、「大正川柳」(のちに「川柳人」に改題)を創刊、新興川柳派を支援した。しかし同誌に掲載された鶴彬の句が治安維持法違反とされたため、同誌は廃刊に追い込まれた。

1928年、代表作『江戸時代の川柳』を出版。1929年からは『福岡日日新聞』『主婦之友』『中国民報』でも選者を務めた[5]

だが1933年頃から体調不良を自覚し、翌年の1934年には軽い脳溢血を起こして右半身が不自由となった[6]1934年9月8日脳溢血で倒れ、9月11日、仮寓の神奈川県鎌倉建長寺で死去した。没後は妻の信子が後継となり、川柳誌を発行し続け、また川柳作家の鶴彬を支援した。

主な川柳作品[編集]

  • 何よりも母の乳房は甘かりし - 生誕地の句碑に刻まれている。
  • 咳一つ聞えぬ中を天皇旗
  • 米の値の知らぬやからの桜狩り
  • 活眼をひらくとゴミが眼にはいり

著書[編集]

単著[編集]

  • 『赤裸々の大石良雄』(1913年、敬文堂書店)
  • 『新川柳六千句』(1916年、南北社)
  • 『川柳を作る人に』(1918年、南北社)
  • 『川柳1922年集』(1922年、柳樽寺新星会)
  • 『古川柳真髄』(1925年、柳樽寺川柳会)
  • 『江戸時代の川柳』(1928年、近世日本文化史研究會)
  • 『新川柳自選句百三十三人集』(1932年、柳樽寺川柳会)

共編著[編集]

  • 井上剣花坊選、近藤浩一路絵『川柳漫画』(1930年、川柳漫画刊行会)
  • 井上剣花坊編『三笠しづ子 (丸山貞子) 句集』(1932年、柳樽寺川柳会)

作品集[編集]

  • 白石維想楼編『習作の二十年 : 井上剣花坊句集』(1922年、柳樽寺川柳会)
  • 井上信子編『井上剣花坊句集』(1935年、叢文閣)
  • 井上鳳吉編『井上剣花坊句集』(1966年、市ケ谷出版社)

評伝[編集]

参考文献[編集]

  • 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書 第37巻』(1973年)

脚注[編集]

  1. ^ a b 昭和女子大学(1973)p.228
  2. ^ a b c 昭和女子大学(1973)p.229
  3. ^ 昭和女子大学(1973)p.230
  4. ^ 昭和女子大学(1973)pp.231-232
  5. ^ 昭和女子大学(1973)p.234
  6. ^ 昭和女子大学(1973)p.235