宮崎滔天

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宮崎滔天
Miyazaki Toten.jpg
宮崎滔天
生年: 1871年1月23日
生地: 日本の旗 日本肥後国玉名郡荒尾村
没年: 1922年12月6日
没地: 日本の旗 日本東京府

宮崎 滔天(みやざき とうてん、明治3年12月3日1871年1月23日) - 大正11年(1922年12月6日)は、日本孫文達を支援して、辛亥革命を支えた革命家、および浪曲師である。欧州に侵略されているアジアを救うには、アジア文明の中心である中国の独立と中国民衆の自由が先決であり、それが世界平和に繋がるという信念のもと[1]大陸浪人として活躍した。本名は寅蔵(もしくは虎蔵)。白浪庵滔天と号した。浪曲師としての名前は桃中軒 牛右衛門(とうちゅうけん うしえもん)。桃中軒雲右衛門の浪曲台本も書いた[2]

略歴[編集]

肥後国玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)に郷士宮崎政賢・佐喜夫妻の末子として生まれる。兄に社会運動家の宮崎八郎宮崎民蔵宮崎彌蔵がいた。父には山東家伝二天一流を兄たちとともに習っている。熊本で徳富蘇峰が主宰していた私塾「大江義塾」でキリスト教自由主義思想を学び、閉鎖まで義塾で就学した。民権家には演説が付きものだが、このころの滔天は人前で話すのが苦手だったという[3]。1886年に上京し、東京専門学校(後の早稲田大学)に入ったが、大江義塾との学風の違いからすぐに中退した。教会に通い、牧師の妻から英語を習った[3]。その後自由民権運動を識り、またキリスト教に帰依(ほどなく棄教)、その後アジア革命(アジア主義運動)に関心を深めた。1889年長崎のミッションスクール「加伯里(カプリ)英和学校」在学中、スウェーデン人無政府主義者、イサク・アブラハムと知り合い、彼の学校を作ろうと資金援助を頼みに行った前田下学(前田案山子の長男)のところで、下学の妹・を知り、婚約(学校計画はイサクがアメリカに強制送還されたため頓挫)[3]

明治24年(1891年)、初めて上海に渡航した。翌年、槌と結婚し、長男の龍介誕生。おりしも東学党の乱があり、日本と清国との交渉はついに切迫し、岩本千綱とともに暹羅植民開拓事業に着手したが、志を得ることなく帰国し、外務省の命によって中国秘密結社の実情観察におもむき、中国革命党員との往復があった。

明治30年(1897年)に孫文(孫逸仙)と知り合い、以後中国大陸における革命運動を援助、池袋で亡命してきた孫文や蒋介石を援助した。明治31年(1898年)、戊戌の政変においては香港に逃れた康有為をともなって帰朝し、朝野の間に斡旋し、同32年(1899年)の米比戦争においては参画するところがあった。

哥老会・三合会・興中会の3派の大同団結がなり、明治33年1900年(明治33年)恵州義軍が革命の反旗をひるがえすと、新嘉坡(現在のシンガポール)にいた康有為を動かして孫文と提携させようと謀った。しかし刺客と疑われて追放命令を受け、香港に向かったもののそこでもまた追放令を受け、船中において孫逸仙と密議をこらしたが、日本国内における計画はことごとく破れ、資金も逼迫し、政治的画策は絵に描いた餅になってしまった。この時期に半生記『三十三年の夢』を著述し、明治35年(1902年)に『狂人譚』と共に、國光書房より出版した。この『三十三年の夢』が『孫逸仙』という題で中国で抄訳として紹介された事で、「革命家孫逸仙」(孫文)の名が一般に知られるようになり、革命を志す者が孫文の元に集まるようになる。

中国同盟会、前列右端が孫文、後列中央が宮崎滔天(1890年)

一旦はアジア主義運動に挫折し、自分を見つめ直す意図で桃中軒雲右衛門に弟子入りし、桃中軒牛右衛門の名で浪曲師となる(なお東京・浅草の日本浪曲協会大広間には孫文筆になる「桃中軒雲右衛門君へ」という額が飾られている)。しかし革命の志を捨てたわけではなく、明治38年(1905年)には孫文らと東京で革命運動団体「中国同盟会」を結成した。なお滔天は辛亥革命の孫文のみならず朝鮮開化党の志士・金玉均の亡命も支援しているが、その金玉均が上海で暗殺された後に、遺髪と衣服の一部を持ち込み日本人有志で浅草本願寺で葬儀を営むという義理人情に溢れた人物であった。

明治40年(1907年)頃より『革命評論』を編集発行。明治45年(1912年)1月に、口述筆記『支那革命軍談 附.革命事情』(高瀬魁介編、明治出版社)を出版し、辛亥革命の宣伝につとめた。亡くなる前年まで大陸本土に度々渡航した。

大正11年(1922年)12月6日、腎臓病による尿毒合併症により東京で病没した。享年51。

上海でも孫文ら主催で追悼会が催された。東京文京区の白山神社境内には孫文が亡命中に滔天とともに座った石段が孫文を顕彰する碑とともに保存されている。日本人として、山田良政山田純三郎兄弟とともに辛亥革命支援者として名を残す。

中国の南京中国近代史遺址博物館の中庭に孫文と並んで銅像が建つ。

家族について[編集]

妻の槌子は貧乏に耐えて滔天の活動を支え続けた。長男の龍介は、滔天最晩年の1921年大正10年)に、白蓮事件で世を騒がせた。皮肉なことに滔天が浪曲師として博多講演をしていた時に、ご祝儀をくれたのが、白蓮の元夫の伊藤伝右衛門であった。子供達に対して放任主義であった滔天は事件まで何も知らされておらず、新聞に掲載された絶縁状を見て龍介に「いいのか、お前、こんなことをして……」と言って驚いたという。白蓮に対しては事件前から同情を寄せており、家族として暖かく迎え入れている。

他に子供は次男・震作(1894年 - 1936年)、長女・節(1897年 - 1952年)がある。また数えの33歳の時に長崎で同棲した愛人に女児(リツ)を産ませている。リツは後に宮崎家の二女として認知され、節と同じ東洋女学校に通い、槌子をお母さんと呼んで慕ったという。龍介の長男・香織は、学徒出陣し、1945年(昭和20年)に戦死している。婿を迎えて宮崎家を継いだ龍介の長女・蕗苳(華道家)は、白蓮が始めた短歌結社「ことたま会」と、日中友好のため滔天の事績を伝える民間団体「滔天会」を主宰している。1914年(大正3年)に黄興の支援で建てられた高田村(現豊島区西池袋)の家は滔天の終の棲家となり、現在も子孫が住む。

1929年昭和4年)、南京で行われた孫文の奉安大典に、槌・龍介・震作の滔天遺族が国賓として招待された。1931年(昭和6年)にも龍介・燁子夫妻が国賓として招待されている。戦後の1956年(昭和31年)の孫文誕生九十年の祝典に龍介夫妻が招待され、毛沢東主席・周恩来首相と共に臨席した。その後も宮崎家と中国の交流は続き、現在も東京の中国大使館に新たに大使が着任した際には自宅に訪問があり、孫文の友人「井戸を掘った人」として5年に一度、国賓として中国に招待されている。

著作(近年刊行)[編集]

  1. 三十三年之夢・幽囚録ほか
  2. 東京より・亡友録・革命問答ほか
  3. 独酌放言・狂人譚・明治国姓翁・炬燵の中より・出鱈目日記ほか
  4. 桃中軒の近状・巡業雑録・支那留学生に就て・米国の今昔ほか
  5. 支那だより・支那革命のぞ記・書簡集ほか
三十三年之夢、侠客と江戸ッ児と浪花節、浪人界の快男児 宮崎滔天君夢物語、朝鮮のぞ記。
  • 『宮崎滔天 アジア革命奇譚集』 書肆心水、2006年
 明治国姓爺、狂人譚。
  • 『滔天文選 近代日本の狂と夢』 書肆心水、2006年。渡辺京二解説
 独酌放言、乾坤鎔廬日抄、銷夏漫録ほか4篇。
  • アジア主義者たちの声 中巻 革命評論社、あるいは中国革命への関与と蹉跌』
萱野長知北一輝の著作を併収)、書肆心水、2008年
金玉均先生を懐う、支那革命と列国、革命問答、支那留学生に就いて、孫逸仙は一代の大人物、黄興将軍と刺客高君、南北妥協問題に就いて、シャムにおける支那人。

伝記[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 大陸浪人とアジア主義―宮崎滔天を例としてGrégoire SASTRE, 大学院教育改革支援プログラム「日本文化研究の国際的情報伝達スキルの育成」活動報告書、2009-03-31
  2. ^ 『現代政界の黒幕を語る』伊佐秀雄 [著] (今日の問題社, 1938)
  3. ^ a b c 文学と革命と恋愛と哲学と : 一冊の本の源流を尋ねて藤田美実、立正大学文学部論叢 80,1984

参考文献[編集]

  • 横田順彌 『明治おもしろ博覧会』、西日本新聞社、1998年、155-158頁
  • 鹿野政直 『近代国家を構想した思想家たち』、岩波書店、2005年、112-117頁
  • 宮崎蕗苳 『娘が語る白蓮』山本晃一編、河出書房新社、2014年8月。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]