縁起
縁起(えんぎ)
- 仏教の縁起。下記で詳述。
- 一般には、良いこと、悪いことの起こるきざし・前兆の意味で用いられ、「縁起を担ぐ」、「縁起が良い」、「縁起が悪い」などと言う。このような意味から、「縁起直し」、「縁起物」などという風俗や習慣がうかがわれる。
- 寺社縁起。故事来歴の意味に用いて、神社仏閣の沿革(由緒)や、そこに現れる功徳利益などの伝説を指す。
仏教における縁起(えんぎ、サンスクリット:pratiitya-samutpaada、パーリ語:paTicca-samuppaada)は、仏教の根幹をなす思想の一つで、世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指す。縁起の語は「因縁生起」(いんねんしょうき)の略で、「因」は結果を生じさせる直接の原因、「縁」はそれを助ける外的な条件のことである。
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概要 [編集]
まず直感的に分かりやすい有為(現象・事物)的なオーソドックスな縁起観で以て、一般的かつ無難な縁起(因縁生起)の説明を試みるならば、ある結果が生じる時には、直接の原因(近因)だけではなく、直接の原因を生じさせた原因やそれ以外の様々な間接的な原因(遠因)も含めて、あらゆる存在が互いに関係しあうことで、それら全ての関係性の結果として、ある結果が生じるという考え方だと言える。
なお、その時の原因に関しては、数々の原因の中でも直接的に作用していると考えられる原因のみを「因」と考え、それ以外の原因は「縁」と考えるのが一般的である。
ただし、下述していくように、仏教においては、十二支などの連関(十二支縁起)や、惑業苦・輪廻の連関(業感縁起)といった、「衆生」(有情、生物)にまつわる因果のありように限定された説明から、より一般的な「有為」(現象・事物)全般の説明、更には「無為」(常住実体)をひっくるめたレベルに至るまで、それを構成する「法」(五位)を分析・分類してその連関を探っていく流れもあるなど、様々な範囲・領域に縁起の概念が適用され、また龍樹の説く「相依性」のような、認識的・概念的・論理的な面を扱った一風変わった縁起観もあり、更には、そうした認識的・概念的・論理的な問題の発端・根源を探りつつ、再び「衆生」(有情、生物)の内部(すなわち、「仏性・如来蔵」「阿頼耶識・種子」の類)へと回帰していく縁起観の流れもあるので、上記のような単純な説明がそのまま当てはまるケースはそれほど多くはない。
仏教の縁起に関しては、むしろ下述するように、釈迦が説いたとされる
「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」
という命題を、あらゆる仏教の縁起に共通して当てはまる「絶対の公式」として押さえておいた方が確実だと言える。なぜならこの発想の下で、考え得る限りの様々な解釈を積み重ねてきたのが、仏教の教学の歴史といっても過言ではないので、ここから外れた仏教の縁起観はひとつも無いからである。
歴史的変遷 [編集]
初期仏教 [編集]
経典によれば、釈迦は縁起について、
私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。
— 『南伝大蔵経』12巻、234頁
と述べた。またこの縁起の法は、
わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり
と述べ、縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけであるという。
縁起を表現する有名な詩句として、『自説経』では、
此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す
— 小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)
と説かれる。これは「彼」の存在が「此」によって規定されていることを示す。
縁起は、「此があれば彼があり、」「此がなければ彼がない。」という二つの定理によって、簡潔に述べられうる。このような有と無と二つの文句が並べられるのは、修辞学的な装飾や、文学的な表現ではなく、この二つは論理的に結び付けられており、「此があれば彼がある」ということの証明が、「此がなければ彼がない。」ということなのである。具体的な例としては、「生がある時、老いと死がある」「生がない時、老いと死がない」の二つがあげられる。なぜなら、生まれることがなければ、老いることも死ぬこともないからである。このように後者の「此がなければ彼がない。」は、前者の「此があれば彼がある」ことを証明し、補完する、必要不可欠なものである。
まず縁起は、釈迦によって、人間の生存についての、「十二支縁起」(十二縁起、十二因縁)等[1]として説かれた。
部派仏教 [編集]
部派仏教の時代になり、部派ごとにそれぞれのアビダルマ(論書)が書かれるようになるに伴い、釈迦が説いたとされる「十二支縁起」に対して、様々な解釈が考えられ、付与されていくようになった。それらは概ね、衆生(有情、生物)の「惑縁(煩悩)・業因→苦果」すなわち「惑業苦」(わくごうく)の因果関係と絡めて説かれるので、総じて「業感縁起」(ごうかんえんぎ)と呼ばれる。
有力部派であった説一切有部においては、「十二支縁起」に対して、『識身足論』で 「同時的な系列」と見なす解釈と共に「時間的継起関係」と見なす解釈も表れ始め、『発智論』では十二支を「過去・現在・未来」に分割して割り振ることで輪廻のありようを示そうとするといった(後述する「三世両重(の)因果」の原型となる)解釈も示されるようになるなど、徐々に様々な解釈が醸成されていった。そして、『婆沙論』(及び『倶舎論』『順正理論』等)では、
- 「刹那縁起」(せつなえんぎ)--- 刹那(瞬間)に十二支全てが備わる
- 「連縛縁起」(れんばくえんぎ)--- 十二支が順に連続して、無媒介に因果を成していく
- 「分位縁起」(ぶんいえんぎ)--- 五蘊のその時々の位相が十二支として表される
- 「遠続縁起」(えんばくえんぎ)--- 遠い時間を隔てての因果の成立
といった4種の解釈が示されるようになったが、結局3つ目の「分位縁起」(ぶんいえんぎ)が他の解釈を駆逐するに至った。説一切有部では、この「分位縁起」に立脚しつつ、十二支を「過去・現在・未来」の3つ(正確には、「過去因・現在果・現在因・未来果」の4つ)に割り振って対応させ、「過去→現在」(過去因→現在果)と「現在→未来」(現在因→未来果)という2つの因果が、「過去・現在・未来」の3世に渡って対応的に2重(両重)になって存在しているとする、輪廻のありようを説く胎生学的な「三世両重(の)因果」が唱えられた。
(なお、この説一切有部の「三世両重(の)因果」と類似した考え方は、現存する唯一の部派仏教である南伝の上座部仏教、すなわちスリランカ仏教大寺派においても、同様に共有・継承されていることが知られている[2]。)
| 過去因→現在果 | 現在因→未来果 | ||
|---|---|---|---|
| 因 | 惑 | 無明 | 愛・取 |
| 業 | 行 | 有 | |
| 果 | 苦 | 識 | 生 |
| 名色・六処・触・受 | 老死 | ||
また、説一切有部では、こうした衆生(有情、生物)のありように限定された「業感縁起」だけではなく、『品類足論』に始まる、「一切有為」(現象(被造物)全般、万物、森羅万象)のありようを表すもの、すなわち「一切有為法」としての縁起の考え方も存在し、一定の力を持っていた(参考 : 五位七十五法)。
大乗仏教 [編集]
大乗仏教においても、部派仏教で唱えられた様々な縁起説が批判的に継承されながら、様々な縁起説が成立した。
ナーガールジュナ(龍樹)は、『般若経』に影響を受けつつ、『中論』等で、説一切有部などの「法有」(五位七十五法)説に批判を加える形で、「有為」(現象、被造物)も「無為」(非被造物、常住実体)もひっくるめた、徹底した「相依性」(そうえしょう、相互依存性)としての縁起、いわゆる「相依性縁起」(そうえしょうえんぎ)を説き、中観派、及び大乗仏教全般に多大な影響を与えた。
(特に、『華厳経』で説かれ、中国の華厳宗で発達した、「一即一切、一切即一」の相即相入を唱える「法界縁起」(ほっかいえんぎ)との近似性・連関性は、度々指摘される[3]。)
大乗仏教では、概ねこうした、「有為」(現象、被造物)も「無為」(非被造物、常住実体)もひっくるめた、壮大かつ徹底的な縁起観を念頭に置いた縁起説が 、醸成されていくことになるが、こうした縁起観やそれによって得られる「無分別」の境地、そして、それと対照を成す「分別」等に関しては、いずれもそうした認識の出発点としての「心」「識」なるものが、隣り合わせの一体的な問題・関心事としてついてまわることになるので、(上記の部派仏教(説一切有部)的な「業感縁起」等とは、また違った形で)そうした「心」「識」的なものや、衆生(有情、生物)のありようとの関連で、縁起説が唱えられる面がある。(大乗仏教中期から特に顕著になってくる、仏性・如来蔵の思想や、唯識なども、こうした縁起観と関連している。)
主なものとしては、
- 「唯心縁起」(ゆいしんえんぎ)--- 『華厳経』十地品で説かれる、三界(欲界・色界・無色界)の縁起を一心(唯心)の顕現として唱える説(三界一心、三界唯心)。
- 「頼耶縁起」(らやえんぎ)--- 瑜伽行唯識派・法相宗で説かれる、阿頼耶識(あらやしき)からの縁起を唱える説。
- 「真如縁起」(しんにょえんぎ)・「如来蔵縁起」(にょらいぞうえんぎ)---「一切有為」(現象(被造物)全般、万物、森羅万象)は、真如(仏性・如来蔵)からの縁によって生起するという説。
などがある。
また、 真言宗・修験道などでは、インドの六大説に則り、万物の本体であり、大日如来の象徴でもある、地・水・火・風・空・識の「六大」によって縁起を説く「六大縁起」(ろくだいえんぎ)などもある。
その他 [編集]
機縁説起 [編集]
縁起は、「機縁説起」として、衆生の機縁に応じて説を起こす、と解釈されることもある。
たとえば華厳教学で「縁起因分」という。これは、さとりは、言語や思惟をこえて不可説のものであるが、衆生の機縁に応じるため、この説けないさとりを説き起すことをさす。
脚注 [編集]
- ^ 初期の経典によれば、釈迦は常に「十二」という数でばかり説いたわけではなく、縁起支の数については、二支・六支・九支・十支などと数は不定である。
- ^ 三世両重因果の成立 - 上座部大寺派の縁起支定義 馬場紀寿
- ^ 『龍樹』 中村元 講談社学術文庫 pp194-196