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(しき、サンスクリット語: विज्ञान, Vijñāna,ヴィジュニャーナ;パーリ語: विञ्ञाण, viññāṇa;विज्ञप्ति,vijJapti;परिज्ञान,parijJaana)とは、 「了別」の意味の仏教用語である。認識対象を区別して知覚する精神作用を言う。

この語は、vi(分析・分割)+√jJaa(知)の合成語であって、対象を分析し分類して認識する作用のことである。釈迦在世当時から、この認識作用に関する研究が行われ、さまざまな論証や考え方が広まっており、それぞれの考え方は互いに批判し合いながら、より煩瑣な体系を作り上げた。

しかし、大乗仏教全般で言うならば、分析的に認識する「識」ではなく、観法によるより直接的な認識である般若(はんにゃ、プラジュニャー(prajJnaa)、パンニャ(paJJna))が得られることで成仏するのだと考えられるようになって重要視された[1]

識薀 (vijJaana skandha)[編集]

人間の構成要素を五薀(ごうん)と分析する際には、識薀(しきうん)としてその一つに数えられる。この識は、色・受・想・行の四つの構成要素の作用を統一する意識作用をいう。事物を了知・識別する人間の意識に属する。

また古い経典には、識住(vijJaanasthiti)と言われて、「色受想行」の四識住が識の働くよりどころであるとする。この場合、分別意識が、色にかかわり、受にかかわり、想にかかわり、行にかかわりながら、分別的煩悩の生活を人間は展開しているとする。

しかしながらいずれも、人間は「五薀仮和合」といわれるように、物質的肉体的なものと精神的なものが、仮に和合し結合して形成されたものだと考えられており、固定的に人間という存在がある、とは考えられていない。

十二因縁の識[編集]

十二因縁では、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死とあるので、行(saMskaara)に条件付けられた識である。

アビダルマでの識[編集]

おおよそ、我々が心という意味とほぼ同義である。心(citta)、意(mano)、識と区分して呼ばれたとしても、それぞれ働きとしては別であっても、総括的には心と呼んで差し支えない。心意識として別々の働きがあるが、心の作用の区別に過ぎないと考える。

アビダルマ(阿毘達磨、abhidharma)では、五位の中で(しん、心として働く主体)と心所(しんじょ、心の働く作用)と区分するときには、識は心(心王)にあたる。

識には、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つあり、別のものであるようだが、識としての物柄(体)は一つであるとする。六識はそれぞれ色・声・香・味・触・法と別の対象をとるから、別々の認識であり、境(きょう、外界の対象)を写し取るようなものと考える。

唯識での識 (vijJapti)[編集]

瑜伽行唯識学派では、心は阿頼耶識(あらやしき、aalaya-vijJaana)、意は未那識(まなしき、mano-vijJaana)、識は眼耳鼻舌身意の六識を表す。説一切有部とは異なり、唯識派では識の認識する対象は自識の中にあると考える。したがって、識には、認識するものと認識されるものの二つが内在しているとする。しかも、この八識は識体が別であり、同時に働くことが出来るとする。

ことに、「識」とされる前六識は、事物に対して、もしくは存在として認識される対象として、認識するものとされるものとの関係において、認識作用を行うというのである。

密教の識[編集]

密教の場合は、すべてのものの存在に遍在しているものとして、純粋意識のように捉えられた。

脚注[編集]

  1. ^ 鈴木大拙は『禅と精神分析』(創元社、1960、p103)において、識は直観と解した方が良いよ述べている。

関連項目[編集]