関東

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関東(かんとう)とは、日本の地方を指す言葉である。

概要[編集]

古代[編集]

日本では、律令制が構築された飛鳥時代後期または奈良時代に関東という地域概念が発生した。この時期、畿内を防御するために東海道鈴鹿関東山道不破関北陸道愛発関三関が置かれたが、これら三関から東を関東と呼んだのである。この当時、関東は東国とほぼ同義であった。

三関以東を指して関東と呼ぶ慣習は、奈良時代から平安時代にかけて長らく続き、平安中期に愛発関に代わって逢坂関が三関に加えられたが、関東の指し示す地域範囲に大きな異同はなかった。

中世[編集]

こうした状況に変化が生じたのは、平安末期に源頼朝が朝廷から自立した政権を樹立してからである。頼朝は自らの政権を「畿内近国・西国方」に相対する「関東方」と自称し、ほどなくして「関東」の語は頼朝政権=鎌倉幕府の公式な呼称として定着した。鎌倉幕府成立後の「関東」が示す地域範囲は、律令以来の三関以東ではなく、遠江国(一説には三河国)・信濃国越後国以東となったが、これはすなわち、鎌倉幕府の支持基盤であり、かつ鎌倉幕府が朝廷から公認された直接統治範囲に他ならない[1]。「関東」は、鎌倉幕府そのもの及び鎌倉幕府が直接に統治権を及ぼす地域の2つを表す語へと変化していったのである。

14世紀中期に室町幕府が成立し、鎌倉に鎌倉公方鎌倉府)が置かれると、鎌倉公方の管轄する諸国、すなわち奈良時代以来、坂東と呼ばれてきた相模国武蔵国安房国上総国下総国常陸国上野国下野国の8か国に、伊豆国甲斐国を加えた10か国が「関東」と認識されるようになった。14世紀末に陸奥国出羽国が鎌倉公方の管轄下となった後は、奥羽も「関東」とされる場合もあった。

14世紀成立の『吾妻鏡』の記述には、「関西38カ国、関東28カ国」と言う記述があり、今で言う「東日本」全体を指す意味でも用いられている事が分かる。

近世[編集]

徳川家康による江戸幕府の創始によって、三度「関東」概念に変化が生じることとなった。幕府が置かれた江戸を防御する箱根関小仏関碓氷関より東の板東8か国が、「関東」と呼ばれるようになった。幕府の公式見解によれば奥羽も「関東」に含むとしていたが、「関八州」と呼ばれたように一般的には旧来の板東8か国のみが「関東」と認識されていた。

近代・現代[編集]

江戸時代の「関東」の概念はそのまま明治以降も継承され、現代の関東地方茨城県栃木県群馬県埼玉県千葉県東京都神奈川県)へと至っている。

「関東」を冠する企業・学校[編集]

茨城県の(第一)地方銀行である筑波銀行は、関東銀行関東つくば銀行つくば銀行第二地方銀行)を合併時)が、茨城銀行(第二地方銀行)と合併して発足した。

その他[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ この「関東」が指す範囲は、律令法において防人を拠出する義務を負った東国諸国とも重なっている(異説でのみ含まれる三河国を除く)。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 網野善彦、『「日本」とは何か』 日本の歴史00、講談社、2000、ISBN 4062689006