新歌舞伎座 (大阪)

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新歌舞伎座(2代目)
Shin Kabukiza
新歌舞伎座が入る上本町YUFURA
情報
正式名称 新歌舞伎座
完成 2010年
開館 2010年9月3日
開館公演 松竹花形歌舞伎二十一世紀歌舞伎組
収容人員 1,453人
用途 演劇
運営 株式会社新歌舞伎座
所在地 543-0001
大阪府大阪市天王寺区上本町6丁目5番13号 上本町YUFURA6階
位置
アクセス 近鉄大阪上本町駅直結
公式サイト http://www.shinkabukiza.co.jp/
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新歌舞伎座(初代)
Shin Kabukiza
新歌舞伎座。東側正面から見る
情報
開館 1958年
閉館 2009年6月30日
最終公演 五木ひろしコロッケらによる歌謡ショー
収容人員 1,638人
用途 演劇
運営 株式会社新歌舞伎座
所在地 (旧) 大阪市中央区難波四丁目3番25号
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南東より

大阪新歌舞伎座(おおさかしんかぶきざ)は、大阪府大阪市天王寺区上本町6丁目にある劇場。大阪市南区(後の中央区)難波に1958年昭和33年)10月開場、2009年平成21年)6月閉館。現劇場は2010年(平成22年)9月に、上本町YUFURAに移転再開場した。

所有・運営会社[編集]

1958年(昭和33年)、千土地興行株式会社が千日前にあった大阪歌舞伎座(旧・大阪楽天地 → 大阪歌舞伎座 → 千日デパート → プランタンなんば → カテプリなんば → エスカールなんば(ビックカメラなんば店))の後継劇場として難波に建設し、経営した。1963年(昭和38年)、千土地興行は株式会社ドリームランドと合併し、新社名は日本ドリーム観光株式会社となるが、1966年(昭和41年)に日本ドリーム観光は事業子会社である株式会社新歌舞伎座を設立し、以後この会社に大阪新歌舞伎座の経営を行わせることとした。1988年(昭和63年)、日本ドリーム観光はダイエーの傘下に入り、1993年(平成5年)にはダイエーに吸収合併されたため、株式会社新歌舞伎座はダイエー直属の子会社となった。2005年(平成17年)ダイエーは株式会社新歌舞伎座を株式会社リサ・パートナーズのSPCである有限会社新宿オーフォーに譲渡した。したがって、現在、株式会社新歌舞伎座はリサ・パートナーズ・グループに属する。

移転[編集]

建設から約50年が経過し、老朽化が進んだことから、2007年(平成19年)4月に、現在地の難波から大阪上本町駅南側の、近鉄劇場跡地(劇場は2004年に閉鎖済)の地上13階建ての再開発ビルに、新歌舞伎座を移転させる事になった[1]。近鉄は、2010年(平成22年)1月15日に上本町の再開発ビルの名称を「上本町YUFURA(ユフラ)」に正式決定したと発表し、同年8月26日に新劇場と共に上本町YUFURAがグランドオープンした。YUFURAはB1F - 5Fの商業施設、6Fの新劇場、7F - 13Fのオフィスで構成されている。YUFURAという名前は、大阪市内在住の女性のアイデアより、「ゆらりふらり」と気軽に立ち寄れる場所をイメージして名づけられた。また、新劇場の定紋は、先代と同じ鳳凰2羽が向き合うデザインとなっている。

2代目[編集]

2010年(平成22年)9月、上本町YUFURAの現劇場が開場した。間口約28.1m、奥行約22.4mの横長で奥行きの浅い、3層構造の客席である。席数は1453席(公式ホームページ)。柿葺落公演は二十一世紀歌舞伎組による『太閤三番叟』『義経千本桜 吉野山』。GACKTによる『眠狂四郎無頼控』など。

初代[編集]

歌舞伎を上演しない新歌舞伎座[編集]

この劇場は「新歌舞伎座」という名称であるにも関わらず、滅多に歌舞伎を上演しなかった(1995年2月の「二月大歌舞伎 市川猿之助特別公演」を最後に、初代劇場では1ヶ月単位の歌舞伎公演は行なわれなかった)が、その原因はこの劇場の創設当時の事情が関係している。

1954年(昭和29年)、松尾國三大谷竹次郎に請われて千土地興行の経営を引き受けたが、その同じ年から大阪歌舞伎座を本拠としていた関西歌舞伎はいわゆる「役もめ」から内部崩壊を開始し、観客動員も急速に低下、もはや「3000人劇場」の維持は無理と判断した松尾は「歌舞伎座の縮小・移転、歌舞伎座ビルの有効利用」の方向を決めた。1958年(昭和33年)4月の新国劇公演を最後に大阪歌舞伎座を閉鎖、歌舞伎座ビル内部を改造して12月に商業ビル「千日デパート」として開業した。一方、御堂筋西側の「なんば大映」跡地に建設されていた新劇場は「大阪新歌舞伎座」と命名されて10月31日に開場した(当時の収容人員は1835名)。こけら落とし興行には尾上菊五郎劇団を迎え、関西からは市川壽海中村富十郎(4世)のみの参加にとどめ、関西歌舞伎の本拠にはしない事を当初から明示していた。

松尾は「歌舞伎座」の名の手前、開場の翌1959年(昭和34年)のみは年6回の歌舞伎興行を行ったが、1960年(昭和35年)以降は歌舞伎・新国劇・新派をしだいに取り止め、より収益のあがる新しい興行形態の開拓に積極的に乗り出した。千土地が経営していた大阪劇場(大劇)の興行をヒントにして、人気のある映画スターや歌手を中心に据えた「座長芝居」「歌手芝居」を月替わりで公演する方式を編み出し、大成功を収めた。東京・大阪・名古屋のほとんどの商業劇場がこれに追随したから、松尾は現代の商業劇場の興行形態の創始者の栄光を担っているといえよう。

杉良太郎が座長公演を、1974年(昭和49年)から2005年(平成17年)にかけ50回に渡り興行したことは著名である。2009年(平成21年)6月に最終興行となり、杉良太郎・山田純大親子での舞台公演「拝領妻始末」と、最終3日間は五木ひろしコロッケなどの歌謡ショーで締め括った。

2012年にはDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれた。

跡地は2012年3月に冠婚葬祭大手のベルコが買収しており、結婚式場とホテルなどの複合施設の建設を計画しているとのことだが[2]2014年(平成26年)2月現在、建物は工事用のフェンスに覆われた状態でそのまま残っている。

構造その他[編集]

客席は三層、収容人員は1638名。「観光劇場」と銘を打ち、桃山風の人目を引くデザインは村野・森建築事務所(村野藤吾)の手によるもので、内装も豪華な造りとなっていた。ただし、歌舞伎興行に不可欠の回り舞台は敷地の関係から設置を断念したため、スライディングステージで代用していた。

かつてダイエーグループだった名残で、閉館まで1階にローソン新歌舞伎座店が併設されていた。

注釈[編集]

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  1. ^ 上本町ターミナル(近鉄劇場跡地)整備の全体計画について
  2. ^ 毎日新聞大阪本社版2012年5月22日付夕刊

外部リンク[編集]