スー族

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スー族(-ぞく、Sioux)はアメリカ合衆国中西部の北部に住むインディアンの部族ラコタ族およびナコタ族ダコタ族の別称。ラコタはラコタ語で「友人、仲間」の意。アメリカ大平原に住んだ7氏族からなる部族連合の一部をなした。この部族連合では3つの方言が話されたが、それぞれをラコタ語、ダコタ語、ナコタ語という。19世紀末までは定住せず、ティピーに住んで獲物を追い狩猟生活を営む、北部平原で最も勢力を誇った、典型的な平原部族だった。因みにティピーとはラコタ語で円錐形のテントの意味である。

アルゴンキン語族に属し、紀元前4000年頃にてオハイオ州オハイオ川流域でラコタ語を話すスー族が結成された。そして西に移動し北東部ウィスコンシン州そしてミネソタ州の森林地帯に居住した。しかし、17~18世紀にかけ、オジブワ族との対立及び白人の侵入によって徐々に西方の平原地帯へと追いやられ、平原部族へと変わった(ミネソタ州ミルラック湖リーチ湖の森林地帯などから移動したとされる)。彼らの神話では、そのときに「コーンを無くした」と表現され、農業不可能な平原でコーン(トウモロコシ)栽培の生活を捨て、完全な狩猟民族に変わらざるを得なかった歴史を伝えている。

19世紀も末になると、他のインディアン部族と同様に、白人による保留地政策によって、遊牧生活は禁止され、居留地内での定住生活を強制される。こうして狩猟民族としての文化の数々が破壊された。(つまりは二度、白人によって文化を破壊されたことになる)

現在、ラコタ族は大平原ノースダコタ州サウスダコタ州に住み、ダコタ族はミネソタ州ネブラスカ州にも住む。もっとも人口が少ないナコタ族はサウスダコタ州ヤンクトン居留地に住む。

伝統的に高度な個人主義文化を持つ。男女同権であり、結婚も離婚も男女自由である。これは現在のスーの人々にも根強い。白人はしばしば誤解するが、「スー族全体を統率する大酋長」といったものは、過去にも現在にもラコタを始めスー族には存在しない。戦士になるのも戦に参加するのも、すべて個人の自由だった。

ラコタ族の人口は19世紀半ばには2万人であったが、現在は約7万人に達する。そのうち4分の1が現在も祖先と同じ言葉を解すると考えられている。

スー族の名はフランス人によって付けられたもので、アルゴンキン語の合成語 Nadouessioux (nadowe(蛇)+ siu (小さい))に由来する。元来は蔑称だったが、今日はアメリカ連邦政府による公式の部族名として使われる。

登録されたスー族のうち約半分が、居留地外に住む。

アメリカの州名のうち、ノースダコタ州、サウスダコタ州、ミネソタ州、ネブラスカ州がラコタ語に由来する。ミネソタは「済んだ水」、ネブラスカは「平らな水」の意味で、プラット川(フランス語の platte (平ら)に由来する)を意味する。他に、カンザス州アイオワ州ミズーリ州が、それぞれ、ラコタ族と近い部族、カンサ族アイオワ族ミズーリ族の名に由来する。またネブラスカ州最大の都市であるオマハ市の名はラコタ語の地名であり、ラコタ支族にかつて属していたオマハ族に因んでいる。このような広範囲に渡るラコタ語由来の地名は、アメリカ中西部におけるラコタ族の地理的広がりをよく表している。

目次

[編集] スー族とヨーロッパ人の関わり

[編集] フランス人毛皮商人との同盟

17世紀末、ダコタはフランス人商人と同盟を結んだ。フランス人商人は北米の毛皮貿易でイギリスに対して利点を獲得しようとしており、イギリスは最近ハドソンズベイ会社を設立したばかりであった。ダコタはこうしてヨーロッパの経済システムと先住民間の激しい戦いに誘い出された。

[編集] 1862年ダコタ戦争

前年の不作と冬の飢餓のすぐ後の1862年、連邦の支給は遅れていた。地元の商人はダコタにそれ以上の貸し付けをするつもりはなく、その結果、数名のダコタの男性が白人の農家と彼の家族のほとんどを殺害した1862年8月17日をきっかけに、ミネソタ川沿いの白人の入植地に向けて攻撃を仕掛け、ダコタ戦争が始まった。

1862年11月5日のミネソタの軍事法廷で、303名のダコタ・スーが、数百名の白人とヨーロッパ人の農家をレイプして殺害したことで有罪を宣告され、絞首刑の判決を下された。被告を守る弁護士や目撃者は許されず、5分未満の裁判で多くが断罪された。リンカーン大統領は284名の戦士の死刑宣告を返送し、1862年12月26日のミネソタ州マンケイトにおける、38名のダコタの男性の絞首刑の実行の時に署名をし、その後4年間ダコタへの年金の支給を中断して、代わりに白人の遺族にそれを与えた。その後、リンカーン大統領によって赦された男性をアイオワの刑務所に送り、そこで半分以上が投獄されている間に死亡した。

[編集] ダコタ戦争の余波

反乱中と反乱の後、多くのダコタとその親類はミネソタとダコタ東部からカナダへ逃れたか、ミズーリ川東岸のクロウクリーク居留地へと移動させられる前の少しの間にジェームス川流域に定住した。数名の者はヤンクトナイと結びついて、合衆国軍と戦い続けていたラコタの一団に加わるためにはるか西へと移動した。

他の者はミネソタとその東の、21世紀まで残るノース/サウスダコタ州の小さな居留地に残ることができた。ある者はネブラスカへ向かい、そこはミズーリ川東岸の今日のダコタ・スー部族の居留地となっている。カナダに逃れた者の子孫は、8つの小さなダコタ部族居留地として残っている。

[編集] レッド・クラウドの戦争

「ボズマン街道の戦争」と「パウダー川での戦い」とは、1866年から1868年までのワイオミング準州モンタナ準州で行われたスー族およびシャイアン族と合衆国の間の武力紛争のことで、「レッドクラウド戦争」とも呼ばれる。ワイオミング北中部のパウダー川流域の占有権を巡って行われた戦いで、そこにはモンタナの金鉱山への第一のアクセスルートであった「ボズマン街道」が通っていた。

戦争は白人にとって著名なスー族部族員であるレッド・クラウドにちなんで名付けられた。戦争は1968年の「ララミー砦条約」で和解がもたれ、白人は「砦を閉じ、ミズーリ以西のダコタ地方、ブラックヒルズ、プラット川とビッグホーン山脈間の土地を、永久に彼らに与える」と条約で約束した。

ちなみに、レッド・クラウド自身はこの戦いになんら関与しておらず、またこの時代のスー族の大権限を持った長老たちは「ビッグ・ベリー(大きな腹)」と呼ばれていたが、レッド・クラウドはこの「ビッグ・ベリー」のなかにも属していない。スー族とシャイアン族にとっては、「パウダー川の戦い」は彼らの戦争であって、「レッド・クラウド戦争」は、単に白人側がそう呼んでいるだけのことである。

[編集] ブラックヒルズ戦争

1876年から1877年、ブラックヒルズ戦争が起こった。ラコタと彼らの同盟が合衆国軍と一連の紛争をした。最初の戦いはパウダー川の戦いに始まり、最後の戦いはウルフ山で行われた。

[編集] ウンデット・ニーの虐殺

ウンデット・ニーの虐殺の後、死亡したラコタを埋める合衆国軍

ウンデット・ニー・クリークでの虐殺は、合衆国とラコタの間の19世紀最後の大きな虐殺事件だった。

1890年12月29日、合衆国第7騎馬隊の500名の部隊は、ラコタ族の一派、ミネコンジュー族のシハ・タンカ・バンドの一団をネブラスカ州オマハへと強制移動させる任務の途上で、彼らを無差別銃撃で虐殺した。ミネコンジューは混乱の中逃げ惑い、女と子供を含む150名以上のミネコンジュー族が死亡した。

徹底的な無差別銃撃であり、死んだ白人兵士25名は味方からの誤射によるものだった。シハ・タンカ・バンドの多くがゴーストダンス教を信奉していたことが虐殺の要因となった。

[編集] 強制移住

19世紀の終わり頃、ダコタとラコタは、彼らの残りの土地と牛と穀物と引き換えに、バッファローを望む白人が指定した居留地に移動させられ、条約によって年金の支給が保証された。(その保証された年金が約束どおり支払われたことは一度もなかった。)

[編集] スー族の著名人

ウィキメディア・コモンズ