関口製造所

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関口製造所(せきぐちせいぞうしょ)は、江戸幕府幕末に設置した兵器製造工場である。「関口大砲製造所」とも呼称された。明治政府に官収され、その設備は東京砲兵工廠へ引き継がれた。本項では、「湯島大小砲鋳立場」に始まる江戸幕府の洋式兵器製造の歴史を含めて記述する。

沿革[編集]

前史[編集]

江戸幕府は黒船来航により、急遽江戸湾防備の対策に取り組み、嘉永6年(1853年)8月下旬から品川台場の建設を開始した。そこに設置する大砲を製造するため、湯島(現在の東京医科歯科大学所在地)に幕府直営の「湯島馬場大筒鋳立場」が設けられた。安政2年(1855年)の組織改革により小銃製造も行われ「湯島大小砲鋳立場」と改称した。江川英龍の指導で鉄砲鍛冶が大砲の鋳造を行っていたが、従来からの製法による青銅砲であったため品質が低く、そのため欧州の先進技術を導入した新工場が計画された。

関口製造所[編集]

文久2年(1862年)2月、関口水道町で新工場の建設が開始され、12月には小栗忠順が銃砲製造の責任者に任ぜられると、製造所頭取には武田斐三郎が任命され、同時に友平栄などを製造技術者として登用した[1]。この場所が選ばれたのは、砲身に咆腔を錐であける錐鑚機の動力として水車を用いるため、水利の便が良かったからである。その外の設備として鋳造所が建設され、咆腔に螺旋状の溝を切る施条機などの機械類はオランダフランスから輸入された。文久3年(1863年)に操業を開始し、元治元年(1864年)には小栗より幕府大砲製造事業の合理化が図られ、湯島大小砲鋳立場を廃止して関口製造所に統合された。

滝野川反射炉[編集]

関口製造所で製造された大砲は青銅製であったが、当時の欧州では鉄製大砲の時代を迎えていた。そのため、元治元年(1864年)、関口に反射炉を建設することが計画されたが、低湿地のため反射炉を置くには不適であった。他に適地を求めたところ滝野川村(現在の酒類総合研究所東京事務所所在地)に建設を決定し、武田斐三郎が責任者となり工事が進められた。耐火煉瓦伊豆梨本から運び、器材は韮山反射炉で使用していたものを移転させ、慶応2年(1866年)には完成した。

明治政府時代[編集]

明治元年(1868年)、新政府は関口製造所、滝野川反射炉を接収し軍務官の管轄下に置き、兵器の製造修理を行った。1870年3月3日明治3年 2月2日)、兵部省に造兵司が新設され関口製造所と滝野川反射炉を管轄とし、同年10月(旧暦)、一部の設備を吹上上覧所跡に移転した。1871年、造兵司は関口製造所・滝野川反射炉の設備を元に、近代兵器生産の拠点工場として東京工場を小石川の旧水戸藩邸跡(元後楽園遊園地)に建設し、火工所(小銃実包の製造)が操業、翌年には銃工所(小銃改造・修理)、大砲修理所の作業が開始された。これが東京砲兵工廠の始まりとなった。

製造兵器[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 大松 69-82頁
  2. ^ 市指定第49号 幕末の洋式小銃”. 西東京市. 2016年1月7日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]