本因坊

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第一世本因坊算砂旧跡、京都市左京区仁王門通東大路西入南側寂光寺前
囲碁本因坊発祥の地、京都市中京区寺町通夷川上る東側

本因坊(ほんいんぼう)

  1. 江戸時代安井家井上家林家と並ぶ囲碁家元四家のうちの一つ(→下記項目「本因坊家」に詳述)。
  2. 昭和になって作成された、囲碁棋戦の一つである本因坊戦に優勝した棋士に贈られるタイトル(→下記項目「本因坊戦」に詳述)。

本因坊家[編集]

織田信長豊臣秀吉徳川家康三英傑に仕えた(とされる[1])日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺塔頭の一つに由来する。「本因坊」はもとは連声して「ほんにんぼう」と読んだが、囲碁の普及に伴って「ほんいんぼう」と読まれるようになった。

以降5人の名人を含め多くの名棋士を輩出し、江戸期を通じて囲碁四家元、将棋方三家の中で絶えず筆頭の地位にあった。道策丈和秀和秀策秀栄などは、中でも高名である。明治以後にもその権威は受け継がれるが、昭和13年二十一世本因坊秀哉が引退、その名跡を日本棋院に譲渡、家元制から実力制に移行することとなった。 昭和16年第一期本因坊戦が開催され現在まで続いている。

本因坊家の外家としては、水谷家(水谷琢元、水谷琢順、跡目琢廉、跡目順策、四谷)がある。

※歴代の世襲制本因坊については、下記項目「歴代本因坊」の世襲本因坊に記載あり。

本因坊戦[編集]

創設[編集]

1939年(昭和14年)創設。毎日新聞社主催。最後の世襲本因坊二十一世本因坊秀哉名人は、本因坊の名は棋界随一の実力者が名乗るべきものであるという思いから、日本棋院に本因坊の名跡を譲り渡し、選手権制による本因坊戦「本因坊名跡争奪・全日本専門棋士選手権大手合」が行われることになった。囲碁におけるタイトル制度はこれが始まりであり、以後に始まる多くの棋戦のモデルとなった。

なお、女流戦にも女流本因坊戦がある。

実施方式[編集]

  • 第1-5期までは、2年で1期の開催。第6期から1年1期となる。この変更が、本因坊就位直後の橋本宇太郎率いる関西棋院独立の一因にもなった。
  • 現在では、前年度の本因坊七番勝負敗退者と前年度のリーグ戦二位から四位までの4人に加え、予選トーナメントによって4人を選出し、計8名によるリーグ戦を行って挑戦者を決定する。リーグ戦の五位以下は陥落となり、翌年度は再び予選トーナメントからの参加になる。このため、入りやすいが陥落もしやすいという特徴があり、勝ち越しながら陥落した例が、第64期(2008-2009年)までの間に16回もある[2]。本因坊リーグは棋聖名人リーグとともに三大リーグと呼ばれ、ここに参加することが一流棋士の証とされる。
  • 六段以下の棋士が本因坊リーグ入りを果たした場合、七段に昇段する。またリーグに優勝して挑戦権獲得が決まったら八段に、さらに本因坊位を奪取した場合九段へ昇段する。
  • リーグ戦の一位者はタイトル保持者と七番勝負を行い、優勝者を決める。七番勝負は全国の有名旅館・ホテルを舞台に、持ち時間各8時間、封じ手制による2日制で戦われる。

雅号[編集]

  • 本因坊位獲得者は、本因坊名跡を継承する主旨で本因坊○○と名乗る慣例がある。当初は日本棋院から号を贈られていたが、本因坊薫和(岩本薫)以降、個人的に雅号を決める慣例ができた。雅号は多くの場合本名から一字を取り、もう一字と組み合わせる。もう一字としては、本因坊秀格(高川格)、本因坊秀芳(石田芳夫)のように本因坊家ゆかりの「秀」の字を用いるのが主流とされる。ただ中韓出身の林海峰趙治勲は、実名を号としている。
  • 近年は号を名乗らない例が多くなっている。高尾紳路は当初、周囲から雅号を勧められても時期尚早として固辞しつづけ、3連覇を機にようやく「本因坊秀紳」を名乗った。また羽根直樹は本因坊奪取直後のテレビ出演で、実力や実績が伴っていないとして雅号を名乗らない考えを示している。
  • なお、武宮正樹は初めての本因坊就位の際には「本因坊秀樹(しゅうじゅ)」を名乗ったが、本名と勘違いされたことから、二度目以降は「本因坊正樹(せいじゅ)」と号を変更している。
号を名乗った棋士
読み 実名 号の由来
本因坊利仙 りせん 関山利一 日本棋院から号を贈られる。
本因坊昭宇 しょうう 橋本宇太郎 日本棋院から号を贈られる。
本因坊薫和 くんわ 岩本薫
本因坊秀格 しゅうかく 高川格 本因坊秀栄に因む。
本因坊栄寿 えいじゅ 坂田栄男 本因坊秀哉の本名の「田村保寿」に因む。
本因坊海峯 かいほう 林海峰 実名から。
本因坊秀芳 しゅうほう 石田芳夫 親交のあった書家・佐々木泰南の命名。
本因坊秀樹・正樹 しゅうじゅ・せいじゅ 武宮正樹 二期目以降は実名から。
本因坊劔正 けんせい 加藤正夫 同郷の有力後援者であった劔木亨弘の名から。
本因坊治勲 ちくん 趙治勲 実名から。
本因坊秀紳 しゅうしん 高尾紳路 師匠藤沢秀行の命名。
本因坊道吾 どうわ 山下敬吾 本因坊道策と出身地・北海道に因む。

名誉称号[編集]

本因坊戦を5連覇以上、あるいは通算10期以上獲得した棋士は、引退後または現役で60歳に達した際に○○世本因坊を名乗る権利を得る。もとは名誉本因坊と称し、他のタイトルの名誉称号はこれに倣ったものである。1998年「名誉本因坊有資格者永世称号」が制定され、現在の称号となった。有資格者は後述の4人で、家元制最後の21世本因坊秀哉の後に続き、それぞれ22世~25世を名乗る。

ただし趙治勲のみ10連覇の偉業を称え、60歳を待たずして「25世本因坊治勲」を名乗ることを許されている。また9連覇を達成した高川格は、日本棋院創立40周年を記念して、1964年から「名誉本因坊・高川秀格」を名乗ることを許された。

歴史[編集]

創設[編集]

1934年、21世本因坊秀哉は引退にあたり、その名跡を全棋士に開放して実力制本因坊戦を開始することを決意した。この背景には、秀哉が後継者として期待していた小岸壮二が夭折していたこと、将棋界で13世関根金次郎名人の引退と共に名人戦が始まっていたことがあるといわれる。なお本因坊戦の設営に当たったのは、当時毎日新聞学芸部副部長で、後に作家に転じた井上靖であった。

1939年、準備が完了して、本因坊戦が開始された(方式など、詳しくは第1期本因坊戦の項を参照)。当時の高段者が参加して4度のトーナメント戦が行われ、その合計ポイントの上位2名による決戦によって争われた。本命と見られていた呉清源は4度のトーナメントのうち2回優勝したが、規定によりポイント不足で涙を飲んでいる。1位となった関山利一と2位の加藤信の間で六番勝負が行われて3勝3敗となり、1941年7月、規定により予選1位の関山が初代実力制本因坊の座に就いた。

1943年の第2期には橋本宇太郎が挑戦者として登場したが、関山は神経性の胃痛と嘔吐に襲われ、第1局の途中で棄権。橋本が第2期本因坊となった(方式など、詳しくは第2期本因坊戦の項を参照)。倒れた関山に代わり、弟子の梶原武雄が打ち継ぐという話も出たが、これは当然実現しなかった。

またこの時には「挑戦者決定リーグの第2位の者が、6ヶ月以内に本因坊に挑戦できる」という規定があった。このルールにより木谷實が挑戦を行うと表明したが、橋本は対局料として3万円を要求し、これを木谷が工面できず挑戦を諦めるという場面もあった。

1945年第3期の本因坊戦には岩本薫が挑戦者に名乗りを挙げる。物資の不足する中で勝負は行われるが、広島市郊外で行われた第2局が原子爆弾の被害に見舞われる(原爆下の対局)。こうした中でも本因坊戦は打ち継がれ、3-3の五分になった後、1946年7月の高野山の決戦によって岩本が新本因坊に就いた。岩本は第4期にも木谷の挑戦を退け、防衛を果たす。

東西対決[編集]

1948年の第5期には関西在住の橋本宇太郎が挑戦者として登場し、4-0のストレートで本因坊を奪取する。しかしこの時期関西地区の棋士は関東への反発が高まっており、さらにこの年から「本因坊戦を一期一年とする」という発表がなされた。この発表は橋本の就位に合わせ、しかも橋本に何の断りもなくなされたことから、ついに関西棋士の反感が爆発した。この結果、1950年に橋本を総帥として関西棋院は独立を宣言することとなった。

橋本から本因坊を剥奪せよとの声もあった中、日本棋院は新鋭・坂田栄男を挑戦者として送り込んだ。満天下の注目の中、坂田は3-1と橋本を追い込むが「首を洗ってきました」と開き直った橋本は残りを3連勝し、逆転で防衛を果たした。このきっかけとなった第5局の対局が山梨県昇仙峡でなされたことから「昇仙峡の逆転劇」と呼ばれる。この時橋本が敗れていれば、関西棋院は崩壊していたと見る者も多い。

高川9連覇[編集]

翌1952年には、高川格が挑戦権を獲得する。当時高川はまだ実績がなく、期待する者はほとんどなかったといわれる。第1局で高川は歴史的見損じを演じて日本棋院側を落胆させるが、本人はこれで冷静になり、第2局以降を4連勝して予想外の奪取劇を演じた。

平明な棋風だが非力と見られていた高川は、本因坊になってもその力は正しく評価されていなかった。しかし高川は木谷・杉内雅男島村利博藤沢朋斎といった実力者の挑戦を次々に退け、連覇を重ねた。特に木谷は毎年好成績を挙げ、計3度本因坊に挑戦しながら奪取は成らず、悲運の大棋士と呼ばれた。

1960年の第15期には藤沢秀行が挑戦。2-1とリードする。第4局も藤沢優勢であったが、ここで高川は無コウ(無効なコウダテ)を使い、藤沢がうっかりそれに受けてしまうというハプニングが起きた。藤沢はこれに気づいて精神的に動揺し、ミスを重ねて敗局。高川はその後も連勝で押し切り、見事9連覇を達成した。

この9連覇において、高川は奪取を果たした第7期は4-1、島村利博を挑戦者として迎えた第10期を4-0で勝った以外は、全て4-2で勝利を収めている。高川はいち早くコミ碁に対応し、七番勝負の闘い方を心得た新時代の勝負師と呼ばれた。

坂田時代[編集]

1961年、10年前に橋本に逆転負けを喫して以来挑戦権に縁のなかった坂田栄男がついに登場する。41歳の坂田は積年の鬱憤を晴らすように4-1で本因坊を奪取、ここに坂田時代が幕を開けた。1963年には名人も奪取、秀哉以来の「本因坊名人」が誕生した。この時期坂田は圧倒的強さを発揮し、高川の2度のリターンマッチも粉砕、山部俊郎・藤沢秀行もストレートで降している。1963年から67年にかけては挑戦手合17連勝という大記録を達成し、満天下にその実力を見せつけた。

7連覇を果たした坂田のタイトルを奪ったのは、新鋭林海峰だった。すでに坂田から名人位を奪っていた林は、2度目の挑戦となった1968年の第23期、フルセットの激闘の末坂田から本因坊を奪い取る。林はここに本因坊名人となり、覇者は交代した。

木谷門の台頭[編集]

翌1969年には、予選を這い上がってリーグ入りを果たし、見事優勝した22歳の加藤正夫五段が登場するが、林の壁に阻まれ4-2で敗退。しかし1971年には木谷門下第二の刺客・22歳の石田芳夫が挑戦権を獲得。石田は「林さんの、いったいどこが強いんですか」と公言した上で林を降し、木谷門下の時代の先鞭をつけた(ただし数年後、石田は「林さんはこれまで戦った中で最強の人だった」と評価を改めている)。石田は林の2度のリターンマッチも撃退。第30期には坂田栄男が登場し、石田を3-1でカド番に追いつめるも、第5局終盤の攻め合いでミスをし、以後連敗。石田は劇的な形で5連覇を果たし、名誉本因坊(24世本因坊)の資格を手にした。

石田が6連覇を狙った第31期には、やはり木谷門下の武宮正樹が登場。4-1で石田を降し、初の本因坊に輝いた。武宮の豪快な宇宙流布石はファンの人気を集め、アマチュアの間にも三連星がブームとなった。

しかし翌年、兄弟子の加藤正夫が挑戦者として登場。加藤は第1局で「殺し屋」の本領を発揮、武宮の大石を撲殺して先勝すると、その勢いのままに4-1で本因坊位を奪取した。加藤は3連覇を果たすが、第35期には武宮が本因坊を奪回、雪辱を果たした。

翌第36期には趙治勲が挑戦者となり、4-2で本因坊を奪取。史上4人目の「名人本因坊」となり、若き第一人者として君臨することとなった。翌年はライバル小林光一の挑戦を退ける。小林はこれを含め4度本因坊に挑んでいるが、全て趙の前に敗れ去っている。しかし第38期、林海峰が3連敗の後の4連勝という大逆転で13年ぶりの本因坊復位を果たした。林にとって3連敗4連勝は10年前に石田相手に果たして以来2度目であった。

1985年の第40期には武宮正樹が林を4-1で降した。3度の本因坊就位は史上唯一である。武宮は山城宏相手の挑戦手合で「上大ゲイマガカリ」の奇手を披露するなど、独創的なスタイルで4連覇を果たした。

趙治勲10連覇[編集]

しかし第44期には武宮の天敵・趙治勲が登場し、4-0のストレートで本因坊を奪取した。翌年からは小林光一が3年連続で挑戦権を握るが、趙はそれぞれ1-3、0-2、0-3からの大逆転勝利で防衛を果たし、小林の大三冠達成を寸前で阻止した。この3年連続決戦は長く続いた両雄の角逐の頂点、さらには現代囲碁史のハイライトともいわれている。

趙はその後も山城宏、片岡聡柳時熏、さらに加藤正夫の二度の挑戦を退け、連覇を重ねた。高川の記録を破る10期目には王立誠を挑戦者に迎えるが、趙は珍しく「絶対に今回は勝つ」と宣言した上で王を撃破、前人未踏の10連覇を達成した。これは囲碁のあらゆるタイトルの最長連覇記録として、今も破られていない。

平成四天王の台頭[編集]

1999年の第54期、趙善津がタイトル初挑戦ながら4-2で本因坊を奪取。趙治勲の長期連覇時代は終わりを迎えた。さらに2000年の第55期には王銘エンが奪取する。2001年の第56期には「平成四天王」で初めて張栩が挑戦者となるが、フルセットの末、王が防衛を果たした。

その翌期の本因坊リーグは、若手4人、木谷門下4人の新旧対決の場となり、木谷門下の加藤正夫が挑戦権を得る。2002年の王との第57期七番勝負で、加藤は2連敗後の4連勝という劇的な逆転で、23年ぶり、史上最年長55歳3か月で本因坊に復位した。加藤以後、木谷門下からは本因坊位獲得者も挑戦者も出ていない。

2003年の第58期、張栩が再び挑戦者となり、4-2で本因坊を奪取。これ以後、平成四天王たちが本因坊位を奪取・連覇するようになる。張栩は翌2004年の第59期、依田紀基の挑戦を退け連覇。さらに同年、依田から名人位を奪取し、史上5人目にして最年少の名人本因坊となった。

2005年の第60期、四天王の中ではタイトル争いでやや遅れをとっていた高尾紳路が、リーグ初参加にして挑戦権を得る。七番勝負では張栩を4-1で下し、本因坊を奪取。以後、2006年の第61期で山田規三生、2007年の第62期で依田紀基の挑戦を退け、3連覇する。その間、2006年には張栩から名人位を奪取、史上6人目の名人本因坊となった。

3連覇を機に雅号「秀紳」を名乗った高尾に、2008年の第63期七番勝負で挑戦したのは、当時四天王の中で唯一無冠だった羽根直樹であった。羽根は本因坊戦史上3例目の3連敗4連勝の大逆転を果たし、本因坊を奪取。さらに翌2009年の第64期も、高尾のリターンマッチを制して連覇した。

2010年の第65期は、これまで本因坊位に縁のなかった山下敬吾が挑戦者として登場。4-1で山下が羽根を押しきり、初の本因坊奪取を果たした。これにより、平成四天王全員が本因坊に就位した。翌2011年の第66期も、山下は羽根のリターンマッチを土俵際で退け防衛。さらに同年、名人位を獲得し、史上7人目の名人本因坊となった。

2012年の第67期には、挑戦者として天元・十段のタイトルを引っさげた井山裕太が初登場。フルセットの末に山下を降して3連覇を阻むと同時に、史上最年少の三冠王に輝いた(23歳1ヶ月)。

歴代本因坊[編集]

世襲本因坊[編集]

タイトル五連覇による本因坊[編集]

歴代本因坊戦優勝者[編集]

○●は本因坊から見た勝敗、網掛けの対局者が勝者。

開催年 予選一位 勝敗 予選二位
1 1941 関山利一 ○●○●○●[注 1] 加藤信
開催年 本因坊 勝敗 挑戦者
2 1943 橋本宇太郎 [注 2] 関山利一
3 1945 橋本宇太郎 ○●○●[注 3]
(再決戦:●●)
岩本薫
4 1947 岩本薫 ●○○●○ 木谷実
5 1949 岩本薫 ●●●● 橋本宇太郎
6 1951 橋本宇太郎 ●○●●○○○ 坂田栄男
7 1952 橋本宇太郎 ○●●●● 高川格
8 1953 高川格 ●○○○●○ 木谷実
9 1954 高川格 ○●○●○○ 杉内雅男
10 1955 高川格 ○○○○ 島村利博
11 1956 高川格 ○●●○○○ 島村利博
12 1957 高川格 ●○○○●○ 藤沢朋斎
13 1958 高川格 ○○●●○○ 杉内雅男
14 1959 高川格 ●○○●○○ 木谷実
15 1960 高川格 4-2 藤沢秀行
16 1961 高川格 ●●●○● 坂田栄男
17 1962 坂田栄男 ○○●○○ 半田道玄
18 1963 坂田栄男 4-2 高川格
19 1964 坂田栄男 ○○○○ 高川格
20 1965 坂田栄男 ○○○○ 山部俊郎
21 1966 坂田栄男 ○○○○ 藤沢秀行
22 1967 坂田栄男 ○○○●○ 林海峰
23 1968 坂田栄男 3-4 林海峰
24 1969 林海峰 ○●○○●○ 加藤正夫
25 1970 林海峰 ○○○○ 坂田栄男
26 1971 林海峰 2-4 石田芳夫
27 1972 石田芳夫 4-3 林海峰
28 1973 石田芳夫 ○○○○ 林海峰
29 1974 石田芳夫 4-3 武宮正樹
30 1975 石田芳夫 4-3 坂田栄男
31 1976 石田芳夫 1-4 武宮正樹
32 1977 武宮正樹 1-4 加藤正夫
33 1978 加藤正夫 4-3 石田芳夫
34 1979 加藤正夫 4-1 林海峰
35 1980 加藤正夫 1-4 武宮正樹
36 1981 武宮正樹 2-4 趙治勲
37 1982 趙治勲 ●○●○○○ 小林光一
38 1983 趙治勲 ○○○●●●● 林海峰
39 1984 林海峰 4-1 淡路修三
40 1985 林海峰 1-4 武宮正樹
  1. ^ 規定により予選一位の関山が本因坊に
  2. ^ 関山病気棄権
  3. ^ 第2局が原爆下の対局
開催年 本因坊 勝敗 挑戦者
41 1986 武宮正樹 ○●○○○ 山城宏
42 1987 武宮正樹 ○○○○ 山城宏
43 1988 武宮正樹 4-3 大竹英雄
44 1989 武宮正樹 ●●●● 趙治勲
45 1990 趙治勲 ○●●●○○○ 小林光一
46 1991 趙治勲 ●●○○○○ 小林光一
47 1992 趙治勲 ●●●○○○○ 小林光一
48 1993 趙治勲 ○●○○○ 山城宏
49 1994 趙治勲 4-3 片岡聡
50 1995 趙治勲 ○●○○○ 加藤正夫
51 1996 趙治勲 4-2 柳時熏
52 1997 趙治勲 ○○○○ 加藤正夫
53 1998 趙治勲 ○○●○●○ 王立誠
54 1999 趙治勲 ○●○●●● 趙善津 
55 2000 趙善津 ○●●○●● 王銘琬
56 2001 王銘琬 ●○●○●○○ 張栩
57 2002 王銘琬 ○○●●●● 加藤正夫
58 2003 加藤正夫 ○●○●●● 張栩 
59 2004 張栩 ○○●○●○ 依田紀基
60 2005 張栩 ●●●○● 高尾紳路
61 2006 高尾紳路 ○●○○●○ 山田規三生
62 2007 高尾紳路 ○●○○○ 依田紀基
63 2008 高尾紳路 ○○○●●●● 羽根直樹
64 2009 羽根直樹 ○●○○●○ 高尾紳路
65 2010 羽根直樹 ○●●●● 山下敬吾
66 2011 山下敬吾 ○○○●●●○ 羽根直樹
67 2012 山下敬吾 ●●○○●○● 井山裕太
68 2013 井山裕太 ○●●○○●○ 高尾紳路
69 2014 井山裕太 ○○○●○ 伊田篤史

本因坊リーグ経験者[編集]

趙治勲、柳時熏、加藤正夫、楊嘉源、片岡聡、林海峯、彦坂直人、小松英樹、趙善津、小林覚、王立誠、王銘エン、山田規三生、石田章、大竹英雄、結城聡、大矢浩一、羽根直樹張栩、宮沢吾朗、小林光一、山下敬吾、依田紀基、三村智保、高尾紳路、蘇耀国、潘善琪、溝上知親、中小野田智己、武宮正樹井山裕太、瀬戸大樹、河野臨、黄翊祖、今村俊也 ※52期以降

参考文献[編集]

  • 根岸鎮衛 『耳嚢』全3冊 長谷川強校注、岩波書店岩波文庫〉、1991年。 - 江戸時代の随筆。本因坊についての逸話を収録。
  • 村松梢風『本因坊物語―近世名勝負物語』新潮社 1954年
  • 『本因坊戦全集』(全7冊+別巻+呉清源特別棋戦2冊)毎日新聞社 1969-71年
  • 井口昭夫『本因坊名勝負物語』三一書房 1995年

脚注[編集]

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  1. ^ 増川宏一『碁』(法政大学出版会)では「信長・秀吉に仕えたこと」は否定されている。
  2. ^ 張栩、蘇耀国、本因坊リーグ勝ち越しでも・・・

関連項目[編集]

外部リンク[編集]