関西棋院

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関西棋院(かんさいきいん)は囲碁棋士を統括し、棋戦を行っていくための組織(財団法人)。現在120人ほどの棋士、女流棋士が所属しており、その他に一般事務員などが勤めている。

現在、関西棋院所属の棋士が日本棋院の棋戦に参加する場合は、院内予選を行い、その勝者が日本棋院の予選に参加するという形を取っている。また関西棋院独自の棋戦として、関西棋院第一位決定戦などがある[1]

目次

[編集] 歴史

[編集] 独立までの動き

日本棋院設立から昭和初期までの関西囲碁界は、主な棋士は日本棋院に参加し、関西支部(後に関西本部)が設立されていた。中心にいたのは久保松勝喜代光原伊太郎などで、独自の大手合も行っていたが、五段以上の昇段は東京でなければ認められず、若手の高川格田中不二男をはじめ、有力な棋士は東京の大手合にも参加していた。

終戦後は、戦時中に宝塚に疎開していた橋本宇太郎を中心にまとまり、関西在住の棋士達の待遇面(主に昇段制度、交通関係)での地位向上を目指した。1947年(昭和22年)には、空襲で焼けた日本棋院会館の復興のために全棋士による募金活動が行われ、関西支部には計50万円の目標が課せられたが、関西でも資金が必要であることから、募金の半分を東京に送ることにして募金を行った。その結果100万円が集まったが、全額を関西で使おうという意見が棋士や後援者で強まり、関西の会館の建物を買い、財団法人関西棋院として財務上は独立した組織となった。

[編集] 東西対立から独立

関西棋院が法人としての独立した後も、日本棋院との関係はそれまでとは変わりなかった。1950年(昭和25年)には日本棋院と関西棋院の12人ずつの選手による東西対抗戦、及び東西対抗勝ち抜き戦が行われ人気を博す。同年第5期本因坊戦で橋本宇太郎が本因坊位を獲得するが、その就位式席上で日本棋院津島寿一総裁が、これまで2年で1期だった本因坊戦を1年1期に改めると述べた。本因坊当人に相談もなく決められたことで、関西棋院の内部は独立派が生まれて、協調派と分かれ、多数となった独立派により同年9月に免状発行権を持った組織として独立が宣言される。協調派の棋士は、日本棋院関西総本部を設立した。

翌年の第6期本因坊戦では、日本棋院新鋭の期待株坂田栄男が挑戦権を得た。この七番勝負で橋本は坂田に1勝3敗に追い込まれたが、そこから3連勝して本因坊を防衛。もしこの勝負に橋本が敗れていたら関西棋院は発足直後に解散に追い込まれていただろうとも言われている。

[編集] 発展と現状

この後、橋本宇太郎と橋本昌二の「両橋本」(両者に血縁関係はない)が関西棋院の二枚看板となり、十段王座のタイトルを奪うなど活躍した。1962年には名人戦リーグに10名中4名、本因坊リーグにも8名中3名の関西棋院所属棋士が参加(半田道玄が本因坊挑戦権獲得)、第1期・第2期の十段の座を橋本宇太郎と半田道玄の関西勢同士が争うなど、大いに気勢を上げた。橋本昌二は「組織存続のため、日本棋院との戦いは死活問題だった」と語る[2]

しかし、独立によって日本棋院所属棋士との対局の機会が減ったことや、日本棋院との緊張関係の緩和などから戦績は伸び悩み、1981年の橋本昌二(王座)を最後に七大タイトル保持者は出ていない(次項参照)。また三大(棋聖・名人・本因坊)リーグへの参加も近年は若干名に留まり、特に本因坊リーグへは2001年(結城聡)以降参加がない[3]

日本棋院との再統合も何度か話題には上っているが、両院の段位の調整、(主に日本棋院側の)財政問題などがネックとなり、未だ実現していない。

[編集] 近年の関西棋院棋士のタイトル戦

現行七大タイトル戦が発足した、1976年以降の成績を示す。太字は関西棋院所属棋士。

[編集] 主な棋士

[編集] 役員(2009年現在)

[編集] 脚注

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  1. ^ かつては関西棋院選手権戦(神戸新聞社主催)もあったが、天元戦に統合された。
  2. ^ 関西の若手 台頭の兆し 「西高東低」の囲碁会に旋風神戸新聞2005年4月5日付、題字ママ)。
  3. ^ これと相前後して、本因坊戦最終予選の参加枠が4人(日本棋院の7分の1)に減らされるなどあり、リーグ入りは一層厳しくなっている。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク