藩閥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

藩閥(はんばつ)は、明治大正年間に、日本の政府の要職を占めた、西南諸藩(薩摩藩長州藩土佐藩肥前藩のいわゆる薩長土肥)出身者のグループに対する批判的呼称である。西洋では、明治寡頭制(英:Meiji oligarchy)という言い方をする。

概要[編集]

藩閥の構成員が閣僚の多数を占める内閣を、藩閥政府あるいは藩閥内閣という。薩長土肥とはいうものの、土佐・肥前出身者は少数にとどまり、薩摩・長州両藩出身者が群を抜いて大規模な閥族(薩長閥)を形成した。

1871年(明治4年)の廃藩置県後に整った新しい官制で、薩長土肥の出身者が参議や各省のの大部分を独占したため、藩閥政府が形成された。やがて西郷隆盛の下野と西南戦争での死、紀尾井坂の変での大久保利通の暗殺によって薩摩閥は勢いを失い、特に最高指導者層は、伊藤博文山縣有朋ら長州閥の一人勝ちとなった。薩摩閥は、特に中堅層ではこれに対抗するだけの勢力は維持したものの、幕末期をほぼ無傷で乗り切って(長州はこの間に多くの人材を失っている)維新を迎えたころの優位は失われ、やや劣勢に立たされる形となった。1885年(明治18年)に内閣制度ができたあとも、薩長出身者の多くが内閣総理大臣国務大臣元老となった。

藩閥は議会政治に対する抵抗勢力であり、民本主義もしくは一君万民論的な理想論とは相容れない情実的システムであるため、当時から批判的に取り扱われてきた。自由民権運動においては批判の対象とされ、大正デモクラシーでは「打破閥族・擁護憲政」が合言葉とされた。

一方で政府と軍の各部署の間の「有機的な連係」が藩閥によって形成されていたという側面があったと指摘し、藩閥の消滅による緊張感の低下が政党の腐敗を招き、官僚や軍部に迎合するようになったと見る説(山本七平など)もある。この立場からは大正時代以降試験や育成機関から採用された官僚や軍人が部署の実権を掌握すると、縦割り行政の弊害が甚だしくなり国家の方針が定まらず迷走することになったという指摘がある。

藩閥の内閣総理大臣[編集]

閣僚経験者[編集]

明治期の内閣(第1次伊藤内閣から第2次西園寺内閣まで)の閣僚経験者は延べ79名であるが、内、出身藩別に見ると、薩摩藩(14名)、長州藩(14名)、土佐藩(9名)、佐賀藩(5名)となっている。その他の出身で同一藩の出身者は、2名までは尾張藩豊岡藩等数例あるが、3名となると徳島藩蜂須賀茂韶を含めて漸く到達する程度となっている。また、その他の出身者であっても伊東巳代治金子堅太郎など、明らかに藩閥政治家の側近である者も多い。

陸海軍における藩閥[編集]

一般に「薩の海軍、長の陸軍」というように海軍では山本権兵衛東郷平八郎西郷従道に代表される薩摩閥が、陸軍では乃木希典児玉源太郎山縣有朋桂太郎に代表される長州閥が勢力を握っていたとされる。しかし、決して単純に分類できるわけではない。これらの軍隊内の藩閥勢力は、要職者に陸軍大学校海軍兵学校卒業者が就任するようになると学校時代の成績が重要視されるようになったため、徐々に減少していった。

後に陸軍では山縣有朋の影響力が増大し、寺内正毅田中義一らが山縣閥を形成し、陸軍内の主流派となった。しかし、大正時代後期に山縣の影響力は低下し、やがて陸軍内の派閥は統制派皇道派に別れていくことになる。

海軍では出身地閥より閨閥が重視される傾向が生まれ、海外留学経験・海軍兵学校での席次とともに、夫人の血縁が出世の要件と言われた。後に海軍内での派閥には条約派艦隊派が生まれていった。

昭和期に入ると藩閥出身者が高官を独占する事はなくなり、陸軍三長官を務めた長州出身者は寺内寿一(寺内正毅の子)一人であり、海軍三長官を務めた薩摩出身者も財部彪(山本権兵衛の女婿)、山本英輔(山本権兵衛の甥)、野村直邦のみであった。

警察における藩閥[編集]

日本の警察の要職は薩摩閥が握っていた。後に陸軍憲兵制度を創設した一因は警視庁の薩摩閥勢力を牽制するためであったといわれる。

  1. 川路利良(薩摩藩)
  2. 大山巌(薩摩藩)
  3. 樺山資紀(薩摩藩)
  4. 大迫貞清(薩摩藩)
  5. 三島通庸(薩摩藩)
  6. 折田平内(薩摩藩)
  7. 田中光顕(土佐藩)
  8. 園田安賢(薩摩藩)
  9. 山田為暄(薩摩藩)
  10. 園田安賢(薩摩藩)
  11. 西山志澄(土佐藩)
  12. 大浦兼武(薩摩藩)
  13. 安楽兼道(薩摩藩)
  14. 大浦兼武(薩摩藩)
  15. 安立綱之(薩摩藩)
  16. 関清英(佐賀藩)
  17. 安楽兼道(薩摩藩)
  18. 亀井英三郎(熊本藩)
  19. 安楽兼道(薩摩藩)

関連項目[編集]