RCサクセション

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
RCサクセション
基本情報
出身地 日本の旗 日本東京都
ジャンル ロック[1]
フォークロック[1]
ポップ・ロック[1]
ブルースロック
エクスペリメンタルロック
グラムロック
R&B
パンクロック
活動期間 1969年 - 1991年
レーベル 東芝音楽工業
ポリドール
キティレーベル
ロンドンレコード
東芝EMI
事務所 ホリプロダクション
りぼん
うむ
メンバー
忌野清志郎ボーカルギター
小林和生ベース
仲井戸麗市(ギター、ボーカル)
破廉ケンチ(ギター)
新井田耕造(ドラムス)
春日博文(ギター、ドラムス)
小川銀次(ギター)
Gee2woキーボード
厚見玲衣(キーボード)

RCサクセション(アールシーサクセション、RC SUCCESSION)は、日本のロックバンド

忌野清志郎をリーダーとし、「King of Rock」「King of Live」の異名をとるなど「日本語ロック」の成立や、現在日本で普通に見られるロックコンサート、ライブパフォーマンスのスタイルの確立に大きな影響を及ぼした。実際、RCサクセション (以下、特段の理由がない限り「RC」と略す) に影響を受けたと公言するミュージシャンは非常に多い。バンド名の「RC」とは、清志郎自身が「ある日(RC)バンドを作成(サクセション)しよう」からだとジョークで言ったこともあったが、実際は「The Remainders of Clover (リメインダーズ・オブ・クローバー)」の略である。

彼らが発信するファッションや言動などは音楽業界にとどまらず若者の間でサブカルチャー的存在とまでなり、1980年代を中心にまさに時代を席捲した。

その後、1991年より無期限の活動休止状態に入ったまま復活することはなく、2009年5月2日に清志郎が癌性リンパ管症のため死去。事実上、バンドは解散となった[1]

概要[編集]

メンバー[編集]

忌野清志郎公式HP「地味変」より[2]
  • 忌野清志郎 : ボーカル、ギター / 1968年〜1991年
  • 小林和生(林小和生、リンコ・ワッショー等ともクレジット): ベース、コーラス / 1968年〜1991年
  • 破廉ケンチ:ギター、コーラス / 1968年〜1977年
  • 仲井戸”CHABO”麗市 : ギター、ボーカル、コーラス / 1978年〜1991年
  • 新井田耕造 : ドラム / 1978年〜1990年
  • 小川銀次 : ギター / 1979年〜1980年
  • Gee2wo(ゴンタ2号、G2、柴田義也ともクレジット): キーボード、コーラス / 1980年〜1990年(正式メンバーとなる前に数年サポートメンバーを務めている。)
  • 春日博文 : ギター、ドラム / 1978年および1990年〜1991年
  • 厚見玲衣 : キーボード / 1990年〜1991年

サポートメンバー[編集]

プロデューサー・編曲家[編集]

その他のメンバー[編集]

エレキ化以降のレコーディング、コンサートでは、ホーンセクションとして梅津和時片山広明ら(時期によって他のメンバーが入ることもあった)が「生活向上委員会」(後に「ブルーデイ・ホーンズ」に改名)のユニット名で参加している。

楽曲[編集]

特徴[編集]

基本的には清志郎が作詞・作曲した楽曲をバンドでアレンジして演奏、レコーディングする。自作・自演し、アレンジまでするというスタイルは今でこそ珍しくないが、1970年代初期ではまだ異例だった。清志郎1人による制作曲のほか、時期によっては仲井戸や小林、Gee2woらとそれぞれ共作もしている。

音楽性、歌詞の世界観などは「忌野清志郎」の頁を参照。

また、アルバム『BLUE』以降は、仲井戸が作詞・作曲しボーカルをとった曲が1枚のアルバムに1曲以上収録されている。

来歴[編集]

1966年、中学の同級生だった清志郎、小林、破廉の3人でバンド「ザ・クローバー(The Clover)」を結成する。

1967年、高校進学によりザ・クローバー解散。清志郎と小林は、上級生の武田清一(のちに「日暮し」でデビュー)を迎えて「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー (The Remainders of the Clover(「クローバーの残党」の意))」を結成。初めてギャラをもらう仕事をする。

1968年、「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー」が自然消滅した後、破廉がバンドに戻りバンド名を「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー・サクセション (The Remainders of the Clover succession(「クローバー〜からの継続」の意)」の省略形から「RCサクセション」と命名する[3][4]。RCサクセション誕生。

1969年、テレビ番組「ヤング720」(TBS系)のオーディションに合格。続いて8月29日東芝主催の「カレッジ・ポップス・コンサート」オーディションで第3位に。この模様を収録したオムニバス盤が初めての公式音源となる。収録曲は「泥だらけの海」。

1970年、「宝くじは買わない」で東芝音工(現EMIミュージック・ジャパン)よりシングルデビュー。

1971年、RCが活動拠点の一つとしていた渋谷のライブハウス「青い森」で当時フォークグループ古井戸として活動していた仲井戸麗市と出会う。

1972年、ラジオ番組「ハロー・パーティ」「バイタリス・フォーク・ビレッジ (後に、『ライオン・フォーク・ビレッジ』に改題)」 などへの出演を始める。3rdシングル「ぼくの好きな先生」がヒット。1stアルバム「初期のRCサクセション」をリリース。

1974年、当時のマネージャー奥田義行が事務所 (ホリプロダクション)に造反、独立してプロダクション「りぼん」を設立。RCはその騒ぎに巻き込まれ、ホリプロ内で仕事を干される。

1976年、ホリプロダクションから「りぼん」へ移籍。前年にすでに制作済みだった3rdアルバム「シングル・マン」がようやくリリースされるも、1年後に廃盤となってしまう。破廉は精神状態が不安定になり、ギターが弾けなくなる。

1977年、破廉が正式脱退。

1978年、春日がメンバーとして参加し、フォーク形態からロック / R&B形態へとバージョンアップされる (当時は、その衝撃の大きさからマスコミでは「パンク・ロック」と評されることが多かった)。さらに、新井田、仲井戸が正式に加入し、RCの黄金期を形成するバンドの基礎が完成する。清志郎は髪を短く切って逆立て、派手な衣裳にどぎついメイクをしてステージに出るようになる。

1979年、春日に替わって小川が加入。RCはそのライブパフォーマンスが評判となり、マスコミでたびたび取り上げられるようになる。ジョニー・ルイス&チャーの前座として初めて日本武道館のステージに立つ。

音楽評論家の吉見佑子らが3rdアルバム「シングル・マン」の再発売を懇願するため「シングルマン再発実行委員会」を発足、ポリドールとの折衝が繰り返された結果、自主制作というかたちで300枚限定で異例の再発売が決定する。当初は国立の「レコード・プラント」、青山の「パイドパイパー・ハウス」の2店のみでの販売だった。

1980年、「雨あがりの夜空に」発売記念として渋谷のライブハウス「屋根裏」で4日連続のコンサートを開催。のべ800人の観客を動員し、同ライブハウスの動員記録を打ち立てる。渋谷公会堂でのシーナ&ロケッツバウワウとのジョイントコンサートも約2000人の観客動員を達成、RC人気に火がつく。「シングル・マン」が正式に再発売される。

エレキ化後のデビュー盤となる “RHAPSODY” をリリース、半年以上のロングランヒットとなる。このアルバムは、1980年6月、東京・久保講堂におけるコンサートの実況録音盤である。同アルバムリリースと前後し、小川が脱退。替わって、それまでサポートメンバーとして参加していたGee2woが正式メンバーとなる。

1981年、初の日本武道館単独公演。この年を始めとしてその後10年間連続で武道館クリスマスコンサートを行う。この年はその他にも年間100本近いコンサートを行う。[5]

1982年、清志郎が坂本龍一(当時イエロー・マジック・オーケストラ)と組んで発表したシングル「い・け・な・いルージュマジック」が資生堂82春のキャンペーンソングとしてヒット。PVでは、どぎつい化粧をして男同士でキスをするなど過激なパフォーマンスを展開、時代を席巻する。 RCとしては同年、サム・ムーアチャック・ベリーらとのジョイントコンサートを開催(アルバム『THE DAY OF R&B』収録)。ロンドン・レコードに移籍。自身のレーベル「BARCA」を設立。

1985年、事務所「りぼん」から独立。自分たちの事務所「うむ」を設立。西武劇場(現PARCO劇場)で独立記念コンサート「スーパーエイプリルフール」を開催(泉谷しげる、坂本龍一、矢野顕子、三浦友和らがゲスト参加)。

1988年、東芝EMIより発売予定だったシングル「ラブ・ミー・テンダー」とアルバム『COVERS(カバーズ)』が、収録曲の歌詞の問題で発売中止となる。同シングルとアルバムは結局古巣キティレコード(現ユニバーサルミュージック)から発売され、RCとして初のチャート1位を獲得する。

1989年、HARD TIMES LIVE ツアーはリリースされていない新曲中心という異例の構成で行われる。また、レコード会社に対する不満からステージ上で「録音自由化」を宣言。

1990年、Gee2wo、新井田が相次いで脱退。現段階でのラストオリジナルアルバム『Baby a Go Go』をリリース。続くツアーは札幌、仙台、福岡、名古屋、大阪および日本武道館のみ行い、以降(翌年)のツアーはすべてキャンセルされる。

1991年1月、無期限活動休止に入る。

詳細・エピソード[編集]

結成 〜 デビュー「宝くじは買わない」(バンド黎明期)[編集]

  • 使用楽器、バンド編成はアコースティック (フォーク) ながら、ヘヴィゲージの弦を張ったギターを叩くようにかき鳴らして発せられる楽曲は、コード進行やハーモニー、スリリングなギターソロなどすでにR&B、ロックに近いものだった。
  • 活動拠点としていた「青い森」「渋谷ジァン・ジァン」などのライヴハウスで、古井戸、泉谷しげるらと親交を深める。泉谷は当時のRCのことを「RCは凄まじかったね。アコースティックギターのリズム隊でありながらロックだったわけよ。ウッドベースなんかスリリングでさ、すんげえソウルフルなんだよ」と評している。[6]
  • すでにこのころのセットリストには、「ファンからの贈り物」「ダーリンミシン」「うわの空」「マリコ」「君が僕を知っている」等、後年レコーディングされた曲のタイトルが見られる。
  • デビューシングル「宝くじは買わない」は、当時のマネージャーであった金田が連れてきた伊勢田トリオというグループをバックに演奏したが、最終的にレコードになったときにはスタジオミュージシャンのテイクが使われた。[7]

『初期のRCサクセション』 〜 『楽しい夕に』 (アコースティック期)[編集]

  • 1stアルバム『初期のRCサクセション』は、レコードの音源に自分たちの意図しない勝手なアレンジがほどこされていたために不満を感じる。そのため2ndからは自分たちの演奏を主体としたレコード作りを始め、後年まで外部プロデューサーの介入を避けるようになる。
  • 1970年代初期の未発表ライブ音源が『ロック画報2002年第10号』の付録CDに収録されている。曲は、「つまらない仕事」「ぼくとあの娘」「忙しすぎたから」「内気な性格」「もっと何とかならないの?」「ぼくの自転車のうしろに乗りなよ」の6曲。選曲は清志郎自身が行い、マスタリングには清志郎と破廉が立ち会った。[8]
  • 清志郎の高校の同級生である俳優の三浦友和は、『初期のRCサクセション』に収録の「言論の自由」にボンゴで参加している。三浦はステージにもよく加わることがあり、また一時期破廉と同居するなどかなりRCと親交が深かった。
  • 清志郎が作詞・作曲した「指輪をはめたい」を元にして、井上陽水と「帰れない二人」を共作。もう1曲「待ちぼうけ」を共作し、この2曲が収録された陽水のアルバム『氷の世界』 (1973年) が日本音楽史上初のミリオンセラーLPとなる。
  • 1974年、ホリプロダクションの奥田義行プロデューサーが、当時大ブレーク中だった陽水を連れてホリプロを離れ、独立事務所「りぼん」を設立。この造反行為に激怒したホリプロは、奥田の子飼いだったRCの「りぼん」移籍を阻止。RCはスタッフも仕事も与えられず飼い殺し状態となる。
  • この頃、3枚目のアルバム『シングル・マン』を録音するも、事務所の移籍トラブルによりお蔵入りになってしまう。

『シングルマン』 〜 「わかってもらえるさ」(暗黒期)[編集]

  • 1975年、仕事がほとんどなくなり、活動休止状態になる。
  • 1976年、ホリプロとの契約が切れ、正式に「りぼん」に移籍。
  • レコード会社を東芝音工からポリドールに移し、3年1ヵ月ぶりのシングル「スローバラード」、3年4ヵ月ぶりの3rdアルバム『シングル・マン』をリリース、さらにキティレーベル(後のキティレコード)に移籍してシングル「わかってもらえるさ」を発売するも、すぐにそれらのレコードは廃盤となる。

またアルバムには「このレコードは世界的ミュージシャンが豊富に使用されておりますので安心してご利用ください」と書いてある。

  • アルバム『シングル・マン』のジャケットに使われているイラストは幼児児童絵画統覚検査図版(金子出版)のもの。元本は清志郎自身が探してきた。なお、当アルバムのジャケットに使われているRCサクセションのロゴも清志郎がデザインしている。
  • 5万円で買った清志郎の愛車日産・サニークーペが廃車となる。井上陽水のアルバム「氷の世界」に提供した二曲の印税で買ったと言われる。この車をモデルとしてこの頃「雨あがりの夜空に」の歌詞が書かれた。[10]その後も清志郎は2台続けて中古のサニークーペを購入したが、これは当時一番安い中古車だったからである。
  • 当時唯一の活動と言ってもよかったのが他のミュージシャン(矢沢永吉井上陽水等)の前座であったが、メインアクト目当てで来ている観客からは「クソッタレ」「早く消えろ」等の罵声を浴びせられることが少なくなかった。矢沢永吉の前座で出演した際にはRCが登場するやいなや観客から「帰れ」コールが浴びせられたため、忌野が客をからかって「矢沢B吉でーす。永ちゃんはいま楽屋でクソしてるんで僕らがやりまーす」と発言。客席は大混乱となり、演奏中絶えず「死ね」など怒号のような野次を喰らう。[11]
  • 破廉ケンチ、脱退(実際は破廉の鬱症状があまりにも酷く、それが原因でエレキギターが弾けない事を見かねた清志郎がクビにした)その後は阿部昇や春日博文がサポートメンバーとして参加した。

「ステップ!」 〜 『BLUE』(復活・ブレイク期)[編集]

  • 1979年7月21日、2年8ヵ月ぶりのシングル「ステップ!」を発売し、再デビューする。しかしこのシングルも、まだメンバーの演奏力を信用しきれていなかった制作担当者によりスタジオミュージシャンのテイクが採用されている。8月、NTV「紅白歌のベストテン」に出演。音楽評論家の吉見佑子が音頭を取って「シングルマン」再発実行委員会が発足する。深夜ラジオでの放送が増える。この年積極的にステージを求め、各地の大学祭に多数出演している。
  • 1979年11月16日、久保講堂で行われた古井戸の解散コンサートで仲井戸麗市の加入が発表される。
  • 1980年1月21日「雨あがりの夜空に」発売。1月『「雨あがりの夜空に」発売記念コンサート』を渋谷屋根裏で開催、4日間連日満員で屋根裏の観客動員記録を塗り替え話題となる。4月久保講堂で「RHAPSODY」録音。5月シングル「ボスしけてるぜ」、6月アルバム「RHAPSODY」、10月シングル「トランジスタ・ラジオ」、12月アルバム「PLEASE」と、立て続けにレコードを発売した。パンク・ロック的なスピード感とR&Bに影響を受けた楽曲、グラムロックミック・ジャガーを彷彿させるドギツいメイクでのステージが話題になる。清志郎がオーティス・レディングの言葉を日本語にしてステージ上で観客へ呼びかけた「愛しあってるかい?」というフレーズは一世を風靡。
  • 「清志郎ルック」の髪型やメイク、ファッションを身にまとった若者が出現するに至って、音楽誌のみならず『アサヒグラフ』や『anan』、『宝島』、各新聞などでも取り上げられ、サブカルチャー的存在として社会現象とまでなる。1980年7月20日付の朝日新聞の社説では、「RCのコンサートへ行けば、今日のわが国のあらゆるタイプの若者像を瞬時にして知ることができる」とまで評される。
  • アルバム『RHAPSODY』リリース後、バンド名を変えようという話もあったが、「いちおうこれだけ続いたバンド名なんだから」という理由で却下される。
  • レコードを連発、コンサートも満員の人気バンドでありながら、清志郎は杉並区の風呂無しアパートに住んでいた。81年に引っ越した後に入居したのが三宅伸治である。

『BEAT POPS』 〜 『King of Live』(絶頂期)[編集]

  • 関川誠編集長のもと、パンク、ニュー・ウェーブ系の音楽雑誌となっていた雑誌『宝島』で、日本のロック・バンドのシンボル的存在として何度も取り上げられる。特に清志郎は「ロック少年・ロック少女たちのカリスマ的存在」となり、漫画等にも清志郎をモデルとしたと思われるキャラクターが描かれるようになる。
  • 1982年、レコード会社をロンドン・レコードに移籍。
  • 1982年、シングル「サマーツアー」がヒット。TBS系テレビ「ザ・ベストテン」に8位で一回のみランクインし、出演。(8月5日)
  • 1982年6月14日、フジテレビ系生放送番組「夜のヒットスタジオ」に出演しサマーツアーを演奏した際、清志郎が曲の最中画面狭しと暴れまわったり、司会者とのトーク時より噛み続けていたガムをテレビカメラに向かって吐きかけるなどの悪ふざけをし、さらにそのことで視聴者へ謝罪する司会者の後ろで舌を出したり顔をしかめるなどしたことから、テレビ局に「ふざけるな」など抗議の電話が殺到。その数は500本近くに上ったと言われている。
  • アルバム『OK』は、RC初の海外(ハワイ)録音。飛行機嫌い、海外嫌いだった仲井戸が初めて海外に行った。感想は「けっこういいとこだったよ。外には出なかったけど」。
  • アルバム『OK』制作時頃より、清志郎の体調が最悪の状態になる。喫煙、ジャンクフード、ドラッグ漬けの生活といった長年の不摂生、ライブとレコーディングに追われる過密スケジュール、風呂なし極貧アパートでの不衛生な生活という低待遇など無理が重なったためと思われ、検査の結果、医者に「君の肝臓は一生治らない」と宣告される。

『FEEL SO BAD』 〜 『Tears of a Clown』(激動期・その1)[編集]

  • 1984年、ロンドン・レコードの日本法人が成績不振のために解散し、ロンドン・レコードはポリドールレコードに吸収される。RCは古巣の東芝EMIに移籍。
  • 事務所が勝手にRCの原盤をNEWSレコードへ提供しベスト盤『EPLP2』とオムニバス盤『MIX&MIXER』を発売。だが、それらの発売に関しミュージシャン当人たちに事前に許可が取られていなかったこと、RCが嫌悪していたNEWSレコードから発売されたことに対してメンバーは激怒。当時NEWSレコードの幹部だった山本コータロー松山千春をステージ上で猛烈に批判し、ファンに「(NEWSレコードから出た)“アーティスト非公認盤”を買わないように」と発言する。また、以前から燻ぶっていた事務所「りぼん」の営利第一主義的な経営姿勢に対する不信感、RCへの低待遇の不満に加えて、これらずさんな原盤管理に怒りが爆発。アルバム『FEEL SO BAD』の曲中で所属事務所とその社長を公然と批判し一時訴訟沙汰となる。
  • 1985年、トラブルの末、「りぼん」から独立。自分たちの事務所「うむ」を設立。
  • 清志郎の肝臓が奇跡的に回復、心身ともに充実するようになる。
  • 仲井戸麗市が初ソロアルバム『THE仲井戸麗市BOOK』をリリース。

各ソロ活動等(停滞期)[編集]

  • 1987年、イギリスのパブ・ロック界の中心人物、イアン・デューリー率いるブロックヘッズのメンバーを中心に迎えた清志郎の初ソロアルバム『RAZOR SHARP』がリリースされる。清志郎は同メンバーを従え全国ツアーも行う。それに伴いRCの活動は一時休止状態となる。(当初、RCとしてイギリスでレコーディングする話が持ち上がっていたが、清志郎以外のメンバーが海外録音を拒否したためとも言われる。[12]

『MARVY』 〜 『コブラの悩み』(激動期・その2)[編集]

  • 1988年、反戦・反核をテーマにしたカバーアルバム『COVERS(カバーズ)』とシングル「ラブ・ミー・テンダー」を制作するも、発売元の 東芝EMIの親会社・東芝が原子力関連企業でもあったため、歌詞が問題視され急遽発売中止になる。東芝EMIは全国紙 (毎日新聞朝日新聞読売新聞) で「素晴らしすぎて発売できません」との広告を打つ(これは清志郎が東芝から「企業の倫理とかいうのがあってどうも…、素晴らしすぎて出せない」と発売の中止を告げられたことを受け、「素晴らしすぎて出せないっていうんだったら、それを新聞に出してくれ」と言ったことによる。[13])。急遽レコード会社を古巣キティレコードに変えて発売されたこのアルバムは、話題性もありRC初のチャート1位を獲得する。この事件に関しては、『COVERS』の頁に詳細を記述。[14]
  • アルバム『COVERS』の発売中止から、2ヵ月後の8月15日にライブを行い、この模様を収録したライブアルバム『コブラの悩み』をその年の12月にリリース。演奏曲目はほとんどが怒りをストレートに表現したもので、「発売中止騒動の時のマスコミの対応」や「東芝」を痛烈に批判した(ただし、このアルバム自体は東芝EMIからリリースされている)。
  • ライブアルバム『コブラの悩み』には、スタジオ録音である「君は Love Me Tender を聴いたか?」がアルバムラストに曲の冒頭部分のみ収録されている。この曲は、発禁問題を引き起こした「Love Me Tender」に対するセルフ・アンサーソングであるが、核心部分を語ろうとする「あの歌は、反…」という歌詞のところで音声が途切れ終わっている。なお、1988年のクリスマス武道館ライブではこの曲がフルバージョンで披露された。内容は、「反原発ロック」などというレッテルを貼られた曲に対するシンパシーや、たかが一曲の歌ごときにレコード会社やマスコミなどの大企業が政治力まで使い圧力をかけてくることやことほどさように大騒ぎすることの愚かさ、日本の社会の未熟さを皮肉った内容となっている。結局フルバージョンはCD化されていない。

『Baby A Go Go』(終焉期)[編集]

  • 1990年、メンバー間での話し合いの末、Gee2woが脱退(趣味に夢中になり過ぎ練習をすっぽかすことが度々あったこと、小林らとの音楽的な志向性の違いがあったことなどが主要因と言われている)[15]。以降、キーボードにはVOW WOWの厚見玲衣がサポートで参加することになる。
  • 『Baby a Go Go』の制作中、ミキサー(ヘンリー・ハーシュデイヴィッド・ドマーニッチ)と清志郎が、曲によってドラマーを春日博文や外部のドラマーに変えたいという方針を打ち出したことに新井田が反発、RCを脱退する[16]。結果、RCは清志郎、仲井戸、小林の3人編成となる。
  • 清志郎、仲井戸、小林の3人で現時点でのラストオリジナルアルバム『Baby a Go Go』をリリース。ヘンリー・ハーシュら外国人プロデューサーを迎えアナログ制作にこだわって作られたこのアルバムは高い評価を得る。
  • 1990年12月25日の日本武道館でのコンサートを最後にRCとしての活動を休止。

その後 〜 現在[編集]

  • 活動休止以来RC名義の活動はないものの、清志郎と仲井戸はライブでたびたびRC時代の楽曲を共演している。また、清志郎のソロアルバムに仲井戸がゲスト参加したり、楽曲を共作したりしている。
  • 2007年12月8日、日本武道館での『Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ』に、清志郎、仲井戸、新井田、厚見によるベースレスという変則的な形態で出演(名義は「忌野清志郎+仲井戸麗市」)。RCゆかりのメンバーのみで再集結し、圧倒的な演奏力で健在ぶりを見せ付けた。
  • 2008年2月のライブ『忌野清志郎 完全復活祭 日本武道館』にて清志郎、仲井戸、新井田、厚見、梅津、片山らの共演が実現。メンバー紹介で清志郎が新井田耕造の名前を告げると日本武道館がひときわ大きな歓声に包まれた。[17]

その他のエピソード[編集]

  • アルバム『EPLP』は、EP(シングル)盤で発売した曲を集めた編集盤。EPの曲を集めて作ったLP(アルバム)だから『EPLP』。これに関連し清志郎は、音楽メディアがレコードからCDに切り替わった当時、「そのうちに『ABCD』っていうCDを誰か出すんじゃないか」と言っていたが、後年自身でミニアルバム『abcd』を出している。
  • アルバム『COVERS』以前からも清志郎が書く歌詞は再三物議をかもしている。
    • シングル「ボスしけてるぜ」は、ボス(経営者)に給料を上げてくれないとやる気が起こらないと平社員の青年が懇願する内容。この歌詞に関する中小企業の経営者たちからの苦情により銀座地区など歓楽街で流される有線放送で放送禁止になる。
    • アルバム『BLUE』に収録の「あの娘のレター」は曲中「ポリ公」という歌詞がレコ倫に引っかかったためその部分の音声にノイズが被せてある。歌詞カードでも伏字にしてあるが、「ライブでは勝手に歌わせていただきます」という旨の注釈がついている。
    • お墓」は、フォーク時代からの重要なレパートリー曲でありアルバム『シングル・マン』に収録予定だったが、タイトルが忌み嫌われ収録を見送られた。結局正式にレコード化されたのは、その7年後にリリースされたアルバム『OK』においてである。なお、歌詞の内容は、自分の元を去った恋人への失望からその恋人との思い出のある街には二度と行くことはない、そこは自分の心が死んだところであり心のお墓が立っている、というものである。
    • ライブアルバム『the TEARS of a CLOWN』に収録された「君はそのうち死ぬだろう」は、ノイローゼ気味となった友人を逆説的に励ますための曲だったが、内容的にまずいということで歌詞カードには載せられなかった。
  • 曲に歌われた多摩蘭坂(実際の坂の名前は「たまらん坂」)は、東京都国立市国分寺市の境にある実在する。RCファン、清志郎ファンの聖地となっている。近くの大学生が通学時に上るときに「坂がきつくてたまらん!」と言ったことが地名の由来。以前は坂の途中の石垣にRCファンによって「清志郎」などの落書きがあったが、現在は取り壊されマンションが建っている。忌野清志郎の実家がある国分寺市富士本は位置的にはJR中央線国立駅の北側にあたり、「たまらん坂」はJR中央線を挟んで反対側の西国分寺駅国立駅間南側に位置する。
  • 『PLEASE』収録の「あきれてものも言えない」は、RCの暗黒期に事務所のスタッフにハッパをかけようとして泉谷しげるが言った「清志郎はもうだめだよ、立ち直れねえよ」という言葉を人づてに歪曲して聞いた清志郎が激怒して作った曲。歌詞の「どっかの山師が 俺が死んでるって言ったってさ」の部分を、ライブでは足の不自由な泉谷のことをあからさまに侮蔑する歌詞に替えて歌っていた。[18]
  • 1990年、RC20周年記念で出版された『遊びじゃないんだっ!(マガジンハウス)』の表紙および帯には、「RCサクセションの40年・上巻」「下巻は2010年の発売です」と書かれていたが、ジョークだったのか下巻は2014年現在も発売されていない。
  • 清志郎のソロアルバム『夢助』に収録された「激しい雨」は、清志郎と仲井戸が共作した楽曲。歌詞の中で「RCサクセションが 聴こえる RCサクセションが 流れてる」と歌っている。仲井戸本人によると、ニール・ヤング がかつて在籍していたバンド バッファロー・スプリングフィールド について歌う「バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン」という曲に感銘を受け、ラジオから『RCサクセションが 聴こえる』という歌詞が、一発で清志郎と分かる声で聞こえたら面白いのではないか、というきっかけで歌詞が作られたという。[19]
  • BOØWY氷室京介は、1980年7月5日のRC野音ライブを観て、バンド結成を思い立ったとインタビューで語っている。
  • その他の詳細エピソードについては、忌野清志郎の頁を参照。

ディスコグラフィー[編集]

シングル[編集]

  1. 宝くじは買わない / どろだらけの海 (1970年3月5日) - 両面共編集盤のみに収録。
  2. 涙でいっぱい / イエスタディをうたって (1970年12月5日) - 両面共編集盤のみに収録。
  3. ぼくの好きな先生 / 国立市中区3-1(返事をおくれよ) (1972年2月5日)
  4. キミかわいいね / あの歌が想い出せない (1972年7月5日) - 両面共編集盤のみに収録。
  5. 三番目に大事なもの / けむり (1972年12月20日) - 両面共編集盤のみに収録。但し、タイトル曲は別バージョン。
  6. スローバラード/やさしさ (1976年1月21日) - 両面共、アルバム「シングルマン」には未収録のバージョンだが、後年編集盤に収録された。
  7. わかってもらえるさ / よごれた顔でこんにちは (1976年10月11日)
  8. ステップ! / 上を向いて歩こう (1979年7月21日)
  9. 雨あがりの夜空に / 君が僕を知っている (1980年1月21日)
  10. ボスしけてるぜ / キモちE (1980年5月21日)
  11. トランジスタ・ラジオ / たとえばこんなラブソング (1980年10月28日)- タイトル曲はシングル・ミックス・バージョン。
  12. サマーツアー / ノイローゼ・ダンシング(CHABOは不眠症) (1982年6月23日) - 両面共、アルバム未収録/バージョン。
  13. つ・き・あ・い・た・い / 窓の外は雪 (1982年12月15日) - カップリング曲はアルバム未収録。
  14. Oh! Baby / ダンスパーティー (1983年6月1日) - 両面共、アルバム未収録バージョン。カップリング曲はライブアルバムのみに収録。
  15. ベイビー!逃げるんだ。 / おはようダーリン (1983年11月7日) - 両曲ともアルバム未収録。
  16. 不思議 / 甘いシル (1984年7月21日) - タイトル曲はシングル・バージョン。カップリング曲はアルバム未収録。
  17. すべてはALRIGHT(YA BABY) / 春うらら (1985年4月21日) - 「すべては〜」は、CD版『HEART ACE』に収録。カップリング曲はアルバム未収録(未CD化)。
  18. スカイ・パイロット / LONELY NIGHT(NEVER NEVER) (1985年11月21日) - 両面共、アルバム未収録バージョン
  19. NAUGHTY BOY / DIGITAL REVERB CHILD (1988年3月25日) - タイトル曲はアルバム未収録バージョン
  20. ラブ・ミー・テンダー / サマータイム・ブルース (1988年8月15日)
  21. I LIKE YOU / 忠実な犬(1990年9月5日) - カップリング曲はアルバム未収録バージョン
  22. スローバラード (RE-MIXED VERSION) /空がまた暗くなる (1991年2月6日) - タイトル曲はアルバム未収録バージョン

アルバム[編集]

  1. 初期のRCサクセション(1972年2月) - 1st
  2. 楽しい夕に(1972年12月) - 2nd
  3. シングル・マン(1976年4月、再発売1980年8月) - 3rd
  4. PLEASE(1980年12月) - 4th
  5. BLUE(1981年11月) -5th
  6. BEAT POPS(1982年10月) - 6th
  7. OK(1983年7月) - 7th
  8. FEEL SO BAD(1984年11月) - 8th
  9. HEART ACE(1985年11月) - 9th
  10. NAUGHTY BOY (1986年4月) - ミニアルバム
    • 新曲2曲とリミックス曲2曲を収録したミニアルバム。未CD化。
  11. MARVY(1988年2月) - 10th
    • オリジナルアルバムとしては初の2枚組アルバム。
  12. COVERS(1988年8月) - カバーアルバム
  13. Baby a Go Go(1990年9月) - 11th

ライブアルバム[編集]

  1. ラプソディー(1980年6月)
    • 久保講堂でのライブにスタジオ作業を加え完成されたエレキ化後の初アルバム。後にフルバージョンが発売。
  2. Yeahhhhhh...at武道館(1982年4月)
    • カセットテープのみの発売。未CD化。
  3. THE DAY OF R&B(1982年12月)
    • サム・ムーア、チャック・ベリーとの共演盤
  4. THE KING OF LIVE(1983年)
  5. the TEARS OF a CLOWN(1986年10月)
  6. コブラの悩み(1988年12月)
  7. RHAPSODY NAKED(2005年10月)
    • 1980年4月、久保講堂でのライブをほぼそのまま収録した完全版。
  8. 悲しいことばっかり(オフィシャル・ブートレグ)(2013年5月)
    • アコースティック3人編成時代(1972〜1973年)の、渋谷ジァン・ジァン、渋谷青い森時代のライブ音源集。

主な編集盤[編集]

  1. EPLP1981年6月
  2. ハードフォーク・サクセション1982年3月) - 「どろだらけの海」「イエスタディをうたって」「キミかわいいね」「あの歌が想い出せない」「三番目に大事なもの(未発表バージョン)」「けむり」収録
  3. EPLP-21984年7月廃盤
  4. BEST OF RC SUCCESSION 1970-19801990年11月) - 「宝くじは買わない」収録。
  5. BEST OF RC SUCCESSION 1981-1990(1990年11月) - 「甘いシル」収録。
  6. ソウルメイツ1995年9月) - 未発表の「トランジスタ・ラジオ(Long Size)」、「スローバラード(シングル・バージョン)」「やさしさ(シングル・バージョン)」収録。
  7. SUPER BEST1998年12月
  8. ゴールデン☆ベストユニバーサル編)(2002年6月) - 「サマーツアー」「ベイビー!逃げるんだ。」収録。
  9. Wonderful Days 1970-802005年6月) - 「涙でいっぱい」収録。
  10. Greatful Days 1981-90(2005年6月) - 「ノイローゼ・ダンシング(CHABOは不眠症)」「マリコ」収録。

ビデオ・DVD[編集]

  1. RC SUCCESSION AT BUDOHKAN (1982年3月) - 1981年に行われた初の武道館公演の映像。
  2. THE KING OF LIVE (1984年4月) - 1983年のクリスマス武道館公演。
  3. SPADE ACE (1985年12月) - 『FEEL SO BAD』と『HEART ACE』からのビデオクリップ集。企画、演出は川崎徹。なお「横浜ベイ」に泉谷しげるが出演している。
  4. the TEARS OF a CLOWN (1986年11月) - 1986年、恒例の夏の日比谷野音ライブの模様を収録。4DAYSの映像を巧みに組み合わせまとめてある。
  5. コブラの悩み (1989年1月) - 1988年8月の日比谷野音ライブの映像。『COVERS』騒動の直後のライブであり、会場全体が異様な熱気に包まれている模様が収められている。
  6. ミラクル 20th Anniversary (1990年11月) - 1990年8月の日比谷野音ライブの映像。RC20周年記念にふさわしい選曲となっている。なお、新井田、Gee2wo脱退後であるためドラムとキーボードはそれぞれ春日と厚見が務めている。
  7. RHAPSODY 〜the video〜 (1994年6月) - レコード会社の倉庫に眠っていたアルバム『RHAPSODY』の映像版。
  8. THE ROCK'N' ROLL SHOW 80/83 (1998年7月) - 1984年発売の『THE KING OF LIVE』と1994年発売の『RHAPSODY 〜the video〜』をリマスター、2in1にしてDVD化したもの。
  9. ライブ帝国 RCサクセション (2003年10月) - 1980年代後半、テレビ神奈川で放送されたTVライブの模様を収録。
  10. ライブ帝国 RCサクセション 80's (2003年11月) - テレビ神奈川で放送されていた『ファイティング80's』で放映された1980年〜1981年のライブ映像。
  11. ライブ帝国 RCサクセション 70's (2003年12月) - テレビ神奈川で放送されていた『ヤングインパルス』の1972年4月〜9月のパフォーマンスを収録。

未発表曲[編集]

初期(アコースティック時代)

  • ぼくの家の前の道を今朝も小学生が通います
    後年、清志郎のソロとしても歌われているが元々はRCの曲。
  • やせこけた女
    学生時代、痩せた女につきまとわれた清志郎の実体験を元にした曲。
  • オキナワ・ライン
    結成当初に作られた。ベンチャーズを意識したインスト曲。当時、破廉のお気に入りの曲だった。
  • 貧乏絵描き
  • もうすぐ帰る
  • 金曜日の大雪
  • 仕事なので
    ボーカルは破廉ケンチ。
  • 昆虫採集
  • 黄色いお月様
  • 一日

中期(暗黒期)

  • 山を降りて出かける日
  • ぼくの記憶では
  • パーティーをひらこう
  • 君は素敵
  • 女はきみの邪魔をする
  • 一五〇パーセント・オレンジジュース
  • 別れたあとで
  • ダーリン・カセット
  • こたつバラード
  • 重労働
  • 洗たくの自由
  • ぼくはラジオが大好き
  • ベルおいで
  • アルバイト
    忌野の著作「十年ゴム消し」に登場する曲。
  • うかれたクリスマス
  • レディー・レイ
    作詞は三浦友和が担当している。
  • はじめまして よろしく
  • ぼくの眠るところ
  • ゆうべいい事

後期(復活・ブレイク期〜終焉期)

出演[編集]

RCサクセションとしての出演番組を記載。個人としての出演も多かった清志郎に関しては、別項忌野清志郎#出演を参照。

テレビ番組[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d キューブミュージック
  2. ^ 忌野清志郎の公式HP「地味変」のUNIT紹介の項目には、(1)清志郎、林小、破廉(1968〜1977) (2)忌野、林小、仲井戸、新井田、小川(1977〜1979) (3)忌野、小林、仲井戸、新井田、Gee2wo(1980〜1989) (4)忌野、仲井戸、小林、春日、厚見(1989〜1990) 以上4つの形態が「RCサクセション」として紹介されている。
  3. ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』中、清志郎談
  4. ^ エレキ化後のブレイク期に「ある日(バンドを)作成しよう」をもじった言葉遊びという説が広く流布したが、現在ではこれはテレビ番組で清志郎が冗談で発言したものがそのままメディアで取り上げられたことによる誤解であるとされている。その他、商業的成功者を揶揄する「ラジオコントロールされたサクセス(成功者)」の意味(ただし「success」は成功の意味だが、「succession」は連続や継承という意味になる)など、その奇妙なバンド名ゆえに名前の由来に関しては諸説多数が流れている。
  5. ^ 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評 忌野清志郎のブルースを捜して
  6. ^ 泉谷しげる自伝『わが奔走』(ロッキングオン)
  7. ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』中、忌野談
  8. ^ ロック画報・2002年10号「特集 RCサクセションに捧ぐ」
  9. ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』中、清志郎談
  10. ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』
  11. ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』
  12. ^ 生卵(河出書房新社)
  13. ^ 月刊カドカワ・1992年3月号「総力特集 清志郎の遺言」
  14. ^ 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評 忌野清志郎のブルースを捜して
  15. ^ 日々の泡立ち 真説RCサクセション
  16. ^ 日々の泡立ち 真説RCサクセション
  17. ^ 「メンバー紹介の時のお客さんからの反応、ドラマー冥利につきました。自分自身としてはちょっと意外な感じでしたが、嬉しい驚きでした。 応援してくれた皆さん、ありがとうございました。」新井田耕造オフィシャルHPより。
  18. ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』中、清志郎談
  19. ^ 『忌野清志郎 This Time』(2006年放送フジテレビ721のドキュメンタリー) 内、仲井戸談

参考文献[編集]

  • 愛しあってるかい(JICC出版局 1981年)
  • 十年ゴム消し(忌野清志郎による私小説風エッセイ、六興出版 1987年・河出文庫 2000年)
  • GOTTA!忌野清志郎(忌野清志郎伝、角川文庫、1988年)
  • 遊びじゃないんだっ(RCサクセション20周年記念、マガジンハウス、1990年)
  • 日々の泡立ち 真説RCサクセション(インタビュー集、ロッキング・オン、1991年)
  • 月刊カドカワ・1992年3月号「総力特集 清志郎の遺言」(角川書店、1992年)
  • 生卵(忌野清志郎デビュー25周年記念 河出書房新社、1995年)
  • 瀕死の双六問屋(忌野によるエッセイ集、光進社、2000年)
  • ロック画報・2002年10号「特集 RCサクセションに捧ぐ」(ブルース・インターアクションズ、2002年)
  • 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評 忌野清志郎のブルースを捜して(宝島社、2006年)

ほか

外部リンク[編集]