イエロー・マジック・オーケストラ
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| イエロー・マジック・オーケストラ | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 別名 | YMO |
| 出身地 | |
| ジャンル | テクノポップ ニューウェーブ |
| 活動期間 | 1978年 - 1983年 1993年 2007年 |
| レーベル | アルファレコード (1978年 - 1983年) 東芝EMI/イーストワールド (1993年) エイベックス/commmons (2007年) |
| 共同作業者 | 松武秀樹、矢野顕子 |
| 公式サイト | ymo.org |
| メンバー | |
| 細野晴臣 (ボーカル、ベース) 高橋幸宏 (ボーカル、ドラムス) 坂本龍一 (ボーカル、キーボード) |
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イエロー・マジック・オーケストラ(Yellow Magic Orchestra)は、1978年に結成された日本の音楽グループ。略して「YMO」(ワイ・エム・オー)と称する。
YMOはテクノの歴史の中でも初期のグループであり(当時は具体的に「テクノ」というジャンルはなく、それは後に定着したものである)、また彼らの音楽にはロックの要素もあったことから、現代のようなテクノにカテゴライズできるとは簡単には言い切れない。しかしここでは、日本のテクノ最初期のグループとして紹介する。
目次 |
[編集] メンバー
- 細野晴臣(ベース)
- エイプリル・フール、はっぴいえんど、ティン・パン・アレーを経て、YMOを結成。YMOのリーダー・プロデューサーであり、シンセサイザーとコンピュータを用いるYMOの音楽スタイルを打ち出した。宗教や民俗学など神秘主義的な趣味があり、それらもYMOに影響を与えている。ライブではほぼベーシストに徹し、特筆すべきはシンセサイザーをベース代わりに演奏していたことである(ただし、曲によってはエレクトリックベースを使用している部分もある)。YMO散開後は特にアンビエント、エレクトロニカ等のジャンルを取り入れている。
- 高橋幸宏(ドラム・ヴォーカル)
- サディスティック・ミカ・バンド、サディスティックスを経てYMOに参加。YMOをきっかけに機械のビートと同期してドラムを演奏した最初期のドラマーである。また、ライヴではドラムを叩きながら自らヴォーカルをとるという異色なスタイルで演奏していた。ファッションデザインの技能を生かしてYMOではステージ衣装のデザインを手掛けた。YMO散開後はソロ活動とともに、様々なミュージシャンとのコラボレーションやプロデュース業を展開している。
- 坂本龍一(キーボード)
- YMOで唯一、音大出身のミュージシャン。スタジオミュージシャンとして活動した後、YMOに参加。YMOでは松武秀樹とともにレコーディングにおいて楽曲を構築する重要な役割を果たし、またライヴでは楽曲のアレンジを一手に引き受けた。YMO散開後は映画音楽で成功するなどソロ活動を展開している。
担当パートについては主に演奏されるものであり、一部のレコーディングやライブ、TV番組では上記以外のパートを担当することもあった。 YMOは元々はコンセプトバンドとして構想されたものであり、細野はメンバーの人員構成は流動的にする考えを持っていたが、ライブなどでサポートメンバーを迎えることはあってもYMOのメンバー自体は最初から最後までこの三人であった。
[編集] 概要
イエロー・マジック・オーケストラという名称は、細野が70年代後半あたりに提唱していたコンセプトである「イエローマジック」から来ている。これは白魔術(善や白人などの象徴。特に白人音楽)でも黒魔術(悪や黒人などの象徴。主に黒人音楽)のどちらでもない黄色人種独自の音楽を作り上げるとして、魔術の色を人種の色にかけて提唱したのが「黄色魔術」(イエローマジック)である。細野がYMO以外で「イエローマジック」の名前を使用しているものとしてはティン・パン・アレーの曲「イエローマジックカーニヴァル」、細野のアルバム『はらいそ』の作成者名義「ハリー細野とイエローマジックバンド」が挙げられる。また坂本のアルバム『千のナイフ』のライナーノーツの細野の寄稿文でも、イエローマジックについての記述がある。
1980年代初頭に巻き起こったテクノ/ニューウェーブのムーブメントの中心にいたグループの一つであり、シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新な音楽で、1978年に結成されてから1983年に「散開」(解散)するまでの5年間で日本を席巻した。活動期間中には米国等でのレコードリリース、及びコンサートツアーも行っている。英語圏で著名な日本人ミュージシャンでもある。1993年に一時的に「再生」(再結成)しており、また2007年にも再び再結成している。
当時、シンセサイザーやコンピュータを駆使した音楽としては既にドイツのクラフトワークが有名であったが、それらの技術を用いた音楽はまだ珍しい時代であった。そんな中で現れたYMOの音楽は、日本において当時の若い世代を中心に熱狂的に受け入れられた。そのため、YMO結成とクラフトワークの「The Man Machine」(邦題:「人間解体」)発売、同じくシンセサイザーを多用したディーヴォの「Q: Are We Not Men? A: We Are Devo!」(邦題:「頽廃的美学論」)が発売された1978年を「テクノ元年」と呼ぶ者も存在する。また英米・英語圏の音楽界に対しても少なからぬ音楽的影響力を残しており、例えば「U・T」(アルバム『BGM』収録)はトランス・テクノ、「ライオット・イン・ラゴス」(厳密には坂本のソロ『B-2ユニット』の曲だが、'80年のYMOのライブで好んで演奏された)はヒップホップのそれぞれ始祖であると、後に英米で評されている。
YMOはそのファッションも特徴的であった。特に、初期のアルバムジャケットやライブでメンバーが着用していた「赤い人民服」(高橋のデザインによる、明治時代のスキー服をイメージした衣装であったが、その容貌が中華人民共和国の人民服と似ていたために、一般的に「赤い人民服」と呼ばれるようになった。メンバーが人民帽を着用していたのも一因かと思われる)、そして、すっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす、当時の若者の間でも流行した「テクノカット」と呼ばれる髪型(特に、初期では刈りあげ+もみあげ無し)の2つは、YMOのビジュアルイメージとして一般に広く認知されており、彼らのトレードマークであったと言える。
1990年代以降に活躍する日本人ミュージシャンの中に、YMOの音楽に影響を受けたと自称するミュージシャンが数多く現れた。彼らは「YMOチルドレン」と呼ばれることがある。その代表的アーティストは槇原敬之、宮沢和史(THE BOOM)、高野寛、テイ・トウワ、電気グルーヴ(石野卓球)など。
[編集] 来歴
[編集] 結成~ワールド・ツアー
1978年初頭、自身の新たなグループの構想を温めていた細野晴臣であったが、2月19日に行われた細野のソロアルバム『はらいそ』に収録される「ファム・ファタール」のレコーディングの際に、以前からそれぞれ交流のあった坂本龍一、高橋幸宏の2人と、初めて3人で顔を合わせることとなった。その日細野は2人を自宅に招き、新たなグループのコンセプトを彼らに伝えると2人は賛同、YMOが結成される。このとき細野は2人に「マーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売る」という自身のメモが書かれたノートを見せている。
後にプログラマーとして、結成前から坂本と組んでいたシンセサイザーのエキスパート松武秀樹がサポートメンバーとして迎え入れられた。YMOの特徴であるシンセサイザーの自動演奏は、松武が一手に引き受けることとなる。
1978年11月25日、デビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』をアルファレコードより発売。アルファレコードは同年秋にアメリカのA&Mレコードと業務提携しており、12月10日に紀伊國屋ホールで行われたライブが来日していた副社長のトミー・リピューマの目に留まったことで、全米でデビューが決定する(長年このように語られてきたが、後に、全米デビューはそれより前に決まっていたと明かされている)。
1979年5月30日、デビュー・アルバムをアメリカのマーケット向けにリミックスしたアルバム『Yellow Magic Orchestra』(米国盤)をA&Mレコード傘下のトミーの自己レーベル、ホライゾン・レコードから発売。リミックスされた理由はトミーの意向により、エンジニアのアル・シュミットにより施された。この米国盤は7月25日に日本でも発売された(日本ではオリコン・チャート最高20位)。1979年8月2日~8月4日には、ロサンゼルスのグリークシアターでチューブスの前座を行い(海外での初公演)、前座でありながらも観客が総立ちでアンコールを求めるなど、絶賛を浴びた。8月6日にはマダム・ウォンにて単独ライヴも行い、この頃から徐々にその存在が注目されはじめる。
9月に発売された2枚目のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』はオリコン・チャートの最高9位にランクインし、セールスはトータルで100万枚を越え、その名を老若男女に広く浸透させることとなった。同アルバム収録の「ライディーン」は、YMOの代名詞的な曲となる。10月には初のワールド・ツアー「トランス・アトランティック・ツアー」をイギリス、ロンドンのヴェニュー公演からスタート。ツアー中はテレビ、ラジオでも数多くのライヴ特番が組まれ、聴衆に対して媚を売る事なく黙々と楽器と向かい合う奇抜な演奏や真っ赤な人民服風のコスチュームなど、その独特なスタイルが注目を集めた。ついに帰国する頃には日本でYMOブームが起こっており、海外で火がついたYMOの人気が日本に「逆輸入」された形となった。
この第1回ワールド・ツアーの模様は、翌年2月発売の3枚目のアルバム『パブリック・プレッシャー』に収録された。このアルバムにおいてサポート・ギタリストの渡辺香津美のギター・チャンネルは、渡辺が所属していた日本コロムビアの意向で全編がカットされてしまい、その代わりに、坂本のシンセサイザーが後から録音された(後にこれは『フェイカー・ホリック』などいくつかのライヴ盤で復活する)。しかし、ギターがカットされたことでフュージョン臭さが抜けたため、よりテクノっぽくなったという皮肉な結果となっている。
YMOの日本国内での人気は圧倒的なものとなり、その人気は流行に敏感な若者はおろか、当時の小学生にまで広がっていた。若者がテクノカットをまね、竹の子族が「ライディーン」で踊るなど、YMOの影響は社会現象にまでなった。1980年3月からは初の国内ツアー「TECHNOPOLIS 2000-20」が行われる。4月には、小学館の雑誌「写楽」の創刊イベント「写楽祭」にシーナ&ザ・ロケッツやスネークマンショーらとともに出演。6月には、スネークマンショーのコントを織り交ぜて制作された4枚目のアルバム『増殖』を発表。これは当初10万枚の限定盤として売り出される予定であったが、20万枚以上の予約が入ったため、通常盤としてリリースされた。同アルバムはオリコン・チャート初登場1位を記録。10月には第2回ワールド・ツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」がイギリス、オックスフォードのニュー・シアターから始まる。同ツアーは7か国15会場で行われ、アメリカ、ロサンゼルスのチャップリン・メモリアル・スタジオ公演は日本への衛星中継が行われた。ツアー中にアメリカのテレビ番組「ソウル・トレイン」に、日本人ミュージシャンとして初めての出演を果たしている。ツアーは12月の日本武道館での4連続公演で締めくくられた。
[編集] 『BGM』~『テクノデリック』
1981年はYMOの大きな転換期であった。3月、アルバム『BGM』を発表。このアルバムは非常に実験的なアルバムであり、それまでのポップ指向のスタイルから一転、暗く重いヨーロッパ志向のエレクトリックミュージックを展開した。歌詞もそれまでのクリス・モスデルによる散文詩から、メンバー自身による作詞(英訳詞はピーター・バラカンとの共同作業)が行われるようになった。同アルバム収録の「CUE」はこれ以降のYMOの音楽性を示した曲であるとメンバーは語っており、また「U・T」が後に英国の『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌から「ハードコア・テクノの元祖」と称されるなど、YMO自身のみならず世界にも影響を与えたアルバムである。それまでとは音楽性があまりにも違いすぎる『BGM』の発表は、ポップなサウンドを期待していた多くのファンを引き離す結果をも生んだ。
続く11月には、『BGM』とはまた趣向の違う実験的アルバム『テクノデリック』を発表。これはサンプリングの技術を大々的に導入した世界初の(諸説あり)アルバムと言われている。少なくともエンディングを飾った「前奏(Prologue)」と「後奏(Epilogue)」はいわゆるインダストリアル・ロックであり、本作品発表当時に作曲者である坂本が「インダストリアル」という当時まだ未開であったジャンルを意識しての作曲であり、新ジャンルへの可能性追求からのアルバム挿入であったのは当時のインタビューからも明白である。これは後のアメリカにおけるデス・ロックやインダストリアル系アーティストの8年も前を行く斬新なアプローチであり、実際に数多くのインダストリアル系クリエーターに大きな影響を与えている。
音楽とテクノロジーの新たな可能性を追求したこれら2枚のアルバムは、いずれも評論家やコアなファンから非常に高い評価を獲得している。
それらのアルバムの発表に続いて、2度目の国内ツアー「ウィンター・ライヴ1981」が11月24日の宮城県民会館公演から始まる。『BGM』『テクノデリック』からの楽曲を中心に演奏されたこのツアーでは、楽曲の再現性に問題があったため、YMOのステージとしては初めてテープが使用された。数々の実験的な試みとともに暗く重いサウンドを展開したこの時期は、YMOが「影」の側面を見せた時代であった。またこの時期から、メンバーはソロ活動や他アーティストとの活動を盛んに行うようになっていった。「ウィンター・ライヴ」を最後に、翌年にはYMOとしての音楽活動はいったん休止状態となる。
また、グループ名を略して「イエローマジック」や「イエロー」といった呼ばれ方をされていたYMOであったが、この頃には「YMO」(ワイ・エム・オー)という略称が一般に定着した。
雑誌のインタビューで「ある意味で、僕が細野晴臣というミュージシャンを仮想の敵としている以上に、細野さんは僕を敵としてとらえて、自らとYMOをパワーアップしている」[1]と坂本が語ったように、坂本と細野の間で路線対立じみた緊張感が発生するなどしていたメンバー間では、1981年末でYMOとしての活動にピリオドを打つという考えがあったようである。しかしながら、ビジネス面での要求から解散は先延ばしにされた。
[編集] 『君に、胸キュン。』~「散開」へ
翌1982年、メンバーはソロ活動と同時に、歌謡界への曲提供に力を入れることとなる。細野晴臣は「はっぴいえんど」での盟友松本隆と共に松田聖子への曲提供を行い、また高橋と共に「¥EN」レーベルを設立、ソロアルバム『フィルハーモニー』を発表する。坂本は郷ひろみや前川清などのプロデュースを行い、また、忌野清志郎と共にシングル「い・け・な・いルージュマジック」をリリース、そして映画『戦場のメリークリスマス』の撮影に参加する。高橋は「高橋幸宏TOUR1982」を6月から行う。YMOとしては「オレたちひょうきん族」に出演したり、当時ブームだった漫才番組の「THE MANZAI」に「トリオ・ザ・テクノ」の名で出演して漫才を披露しているものの、この年はグループとしての音楽活動はほとんど無い状態であった。
しかし1983年3月、カネボウ化粧品のCMタイアップ曲となったシングル「君に、胸キュン。」でYMOとしての音楽活動を本格的に再開する。この曲以降、今度は自らに歌謡曲というレッテルを貼り、ポピュラー志向の日本語ロックを展開した。この曲でオリコン・チャート1位を狙うと宣言するも、皮肉にも細野の作曲/編曲による松田聖子の「天国のキッス」に阻まれ、2位に終わる(しかしYMOのシングルとしては最大の売上枚数を記録した)。引き続いて5月には、同曲を収録したアルバム『浮気なぼくら』を発表。またしてもそのイメージを大きく転換させた歌謡曲アルバムであるが、楽曲そのものは緻密なサウンドで構成された優れた作品であった。7月には『浮気なぼくら』の楽曲のボーカル部分をシンセのメロディに置き換えたリミックス盤『浮気なぼくら (インストゥルメンタル)』が発表され、このアルバムに収録された「以心電信」は、世界コミュニケーション年のテーマ曲として採用された。この時期、TV番組やイベント等に出演する際に3人は「オジサンアイドル」を演じ、曲の演奏にもアイドルさながらに振り付けが施されるなどの徹底ぶりであった。
『浮気なぼくら』をラストアルバムしてYMOは解散する予定であったが、当時高橋幸宏が担当する「オールナイトニッポン」に劇団スーパー・エキセントリック・シアター(S.E.T.)がレギュラー出演していたことから、かつての『増殖』のようにS.E.T.のコントを交えたアルバムを制作する案が高橋から持ちかけられ、解散記念としてアルバム『サーヴィス』が制作されることとなった(ラストアルバムである『サーヴィス』を含む後期の作品は、細野曰く「オマケ」であり、彼は『浮気なぼくら』が実質的なラストアルバムであるとしている)。10月には「オールナイトニッポン」に3人が出演し、「散開」(解散)が表明された。
11月3日、最後のツアーである「1983 YMOジャパンツアー」が札幌公演から始まる。『サーヴィス』はツアー中の12月14日に発売された。12月22日の日本武道館での本ツアー最終公演をもって、YMOは「散開」した。散開コンサートの模様は2枚組アルバム「アフター・サーヴィス」に収録され、翌1984年2月21日に発売された。また4月には、散開コンサートを素材として制作された映画『プロパガンダ』が公開された。
彼らの活動期間はわずか5年間であったが、その音楽性や彼らが開拓したテクノロジーが国内外の音楽界に及ぼした影響は絶大であった。
[編集] 散開後
散開後も幾度となく再結成の噂がささやかれ、実際に周囲からのオファーもあったものの、それらは細野がすべて断っていた。しかし、散開からおよそ10年を経た1993年2月、YMO「再生」(再結成)が発表され、4月1日にはメンバー3人揃っての記者会見において、新しいアルバムの発表と東京ドームでのコンサートの実施が公表された(この時点で「YMO」という名称は商標登録されており、使用できなかったため、再生時のグループ名は「YMO」の3文字の上に「×」を描いたものが採用された。読みは「ノットYMO」。2007年に活動した際にも「YMO」の略称は使用されていない)。YMO再生は、新聞が社会面で、NHK及び民放がニュースでそれぞれ報道するなど、社会的にも大きく取り上げられた。
5月26日、アルバム『テクノドン』を発表。以前の作品群とは大きく様相が異なり、アンビエント色の強い作品であった。先行シングルはエルヴィス・プレスリーのカバー曲「ポケットが虹でいっぱい」。6月10、11日には、東京ドームにて再生公演が行われた。このライブでは過去の曲も数曲、斬新なアレンジが施されて演奏されたものの、再結成バンドにありがちな、昔のヒットパレードに終始することは全くなく、あくまで『テクノドン』からの曲を中心に構成された。8月25日、東京ドームでの公演を収録したCD『テクノドン・ライヴ』が東芝EMIから発売。このとき3人によるパーマネントな活動を期待していたファンも多かったが、以降、解散などのアナウンスもないまま、YMOは再び活動を停止する。当初の計画ではワールド・ツアーの実施や、もう1枚オリジナルアルバムを製作するなどの予定があったが、結局YMOとしてそれらの活動が行われることはなかった(後年インタビューにて、「再生」は本意ではなかったと3人とも口を揃えて語っている)。
しかし、細野・高橋・坂本の3人はソロ活動の傍ら、レコーディングやTV番組の企画、イベント等において音楽的コラボレートを続けてきた。
2001年1月23日、NHK-BS2で放送された細野晴臣デビュー30周年記念特番「細野晴臣 イエローマジックショー」にて3人が競演。3人が老人に扮して浴衣を着て演奏するというユーモアぶりで、打ち込みなし、シンセサイザー・エレキベース・生ドラムのみの簡素な「ライディーン」を演奏してファンの間で話題になった。
同年 4月25日、TBSによる地雷撲滅キャンペーン「地雷ZERO」の一環として、坂本を中心としたスペシャルグループ「N.M.L. (NO MORE LANDMINE)」によるチャリティソング「ZERO LANDMINE」が発売された。N.M.L.は坂本の呼びかけで集まった国内外のミュージシャンで構成され、デヴィッド・シルヴィアンやクラフトワークなど、YMO時代から坂本と親交のあるミュージシャンも参加した上、細野がベース、高橋がドラムで参加している。4月30日には、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」が放送され、番組内でN.M.L.による「ZERO LANDMINE」の生演奏が行われた(細野と高橋も参加)。
翌2002年、細野と高橋がエレクトロニカユニット「スケッチ・ショウ」を結成。アルバムには坂本も参加したほか、ライブ「Wild Sketch Show」にて、ゲストミュージシャンとして坂本がステージに立ち、ライブでは新たなアレンジとなった「キュー」や「中国女」、細野と高橋のみで演奏した「ジャム」と、YMOのナンバーも数曲が演奏された(スケッチ・ショウ初披露の際にも細野・高橋・坂本の3人でメディアへの露出があった)。
スケッチ・ショウ以降、3人での音楽活動が活発化する。2004年6月18日、次世代ミュージックとマルチメディア・アートの国際フェスティバル「Sonar Festival 2004」がスペインのバルセロナにて開催され、3人はYMOではなく「Human Audio Sponge(HAS)」(「Sketch Show + 坂本龍一」という位置づけ)を名乗り、1993年の再生ライブ以来11年ぶりにユニット(バンド)としてステージに立った。この「Sonar」の衛星イベントとして、10月9日と10月10日、「sonarsound tokyo 2004」が恵比寿ガーデンプレイスにて開催され、再びHASとしてライブを行った。いずれも演奏スタイルはYMOのそれとは違い、それぞれのブースにMacを配置したクールなエレクトロニカのスタイルであった。演奏された曲目もスケッチ・ショウのレパートリーが中心で、「ジャム」と「ライオット・イン・ラゴス」が演奏された以外は、YMO時代の曲は演奏されなかった。
1993年の「再生」以降、3人は長い間、もう一度YMOとして音楽活動をすることに対し、一貫して否定的な姿勢を取ってきた。HASとして活動する際も、それはあくまでYMOとは別のものであるとしてきた。しかしながら、2007年2月3日、キリンラガービールのテレビCM企画において、ついにYMOが復活する。CMには3人が揃って出演し、さらに、CMのために「ライディーン」を新たなアレンジで録音した「RYDEEN 79/07」が使用された。同曲はCM公開とともにインターネット配信が開始され、iTunes Storeをはじめとする数々の配信サイトにおいて、ダウンロード数1位を記録した(ネット配信時の名義は「YMO」の略称ではなくカタカナ表記の「イエロー・マジック・オーケストラ」)。3月21日にはベストアルバム『YMO GO HOME!』とライブアルバム『ONE MORE YMO』がSMEより再発売。同時に、オリジナルアルバム10作品とベストアルバム『UC YMO』の初回盤が復刻発売された。
その後5月19日、「Smile Together Project」の一環としてHAS名義でのライヴをパシフィコ横浜国立大ホールにて行った。このライブでは「RYDEEN 79/07」をはじめ、「以心電信」、「音楽」、「CUE」といったYMOのナンバーも演奏され、さらに映画『EX MACHINA』のテーマ曲となる3人の新曲「RESCUE」も披露された。このライブは、チケット売り上げが全額「財団法人がんの子どもを守る会」の活動資金となるチャリティライブであった。
そして7月7日、世界8カ国9都市で同日開催されたコンサート「ライブ・アース」には、ついに「Yellow Magic Orchestra」の名義(略称は使用されていない)で出演。会場は京都市の東寺の特設ステージで、出演5組のトリを飾る形となった。演奏されたのは「以心電信」「RESCUE」「War & Peace」「RYDEEN 79/07」の4曲。8月22日には新曲「RESCUE」と「RYDEEN~」を収録したシングルCDをエイベックスから発売。名義は「RESCUE」が「Human Audio Sponge」の頭文字にYMOを付けた「HASYMO(ハシモ)」、「RYDEEN~」が「Yellow Magic Orchestra」。YMO名義のCD発売は1993年の「テクノドン・ライヴ」以来となる。
10月20日に公開となった映画『EX MACHINA』のサウンドトラックには、HASYMO名義で先述のテーマ曲の他、「METHOD」と「WEATHER」の2曲を提供している。
08/3/31からリニューアル・スタートするTBSの「News23」のテーマ曲『the city of light』を手掛ける。又、今年は晩夏公開予定の日韓独仏4カ国の合作映画「TOKYO」のエンディングテーマを手がける。 その曲はインストルメンタルで「Tokyo Town Pages」。08/06発売の映画サウンドトラック&ナビゲートDVDに収録。CDシングルとしても上記の「The City of Light」との両A面で同日発売される。
[編集] 「YMO」というジャンル
その音楽をカテゴライズするのは非常に困難ではあるが、YMOは一般に「テクノ」のグループとして認識されている。しかしライヴなどを見てみると、現代のテクノとは大きく違い、YMOの演奏はギター・ベース・ドラム・キーボードのロックバンド形式である(特に初期のライヴでは、機械による自動演奏を取り入れつつも、機材的な問題から生演奏に頼る部分が大きかった)。YMOは結成当時、レコード会社側がフュージョンバンドとして売り出す予定であったが、初期の生演奏を多用したスタイルはそれが一因なのかもしれない。
当時のテクノ/ニューウェーブのムーブメントを振り返る際、YMOはクラフトワーク、ディーヴォとともに重要なグループとして語られることが多い。比較してみると、クラフトワークの音楽はドイツ古典クラシック音楽の流れの上に乗りつつ音数を極限まで減らした鋭いサウンドである。一方のディーヴォはシンセサイザーのサウンドを取り入れたロックバンドである。
そしてYMOは、その時期によってその音楽スタイルは大きく異なり、一言で説明することは難しい。初期はフュージョン、ダンスミュージック等様々な要素がみられるが、基本的なスタイルとしてはロック色が強い。中期には反復演奏やサンプリング等、音楽性やテクノロジーの可能性を追求した。後期はこれらのノウハウをポップスへと昇華させている。
また、伝統的な音楽理論を用いなくとも成立する現代のテクノとYMOの音楽が違う点は、ロックバンド出身の細野と高橋、クラシックの英才教育を受けた坂本と、楽器の演奏や音楽理論に精通したメンバーが楽曲を作り上げていたことだ。現代のテクノにも通ずる実験的な試みをしつつも、楽曲の多くはメロディーやコードワークが重視されている。
こうして振り返ってみると、YMOの音楽は一般にテクノと認識され、現代のテクノのミュージシャン達に多大な影響を与えたという事実があるものの、その演奏形態や音楽性は現代のテクノとは大きく異なっている。YMOがテクノの歴史において初期のグループであり、シンセサイザーのサウンドや機械演奏の可能性が未開拓の状態にあったからであるとも言えるだろう。
1980年代初頭の、シンセサイザーやコンピュータを用いた音楽ジャンルを表す言葉として「テクノポップ」という造語があるが、YMOの音楽もテクノポップに括られることがある。バグルスは1979年に"Techno Pop"、そしてクラフトワークも1986年に"Techno Pop"という別の曲をリリースしておりこれらは言わば”公認”のテクノポップである。また細野は1986年に発表した曲"WORLD FAMOUS TECHNO POP"にて「Y.M.O. TAUGHT REAL T.P.(TECHNO POPの略)」と説き、曲中にクラフトワーク、OMD、DAFらの名を挙げる等しており、YMOは世に真のテクノポップを知らしめた…と元リーダー自ら認めている事になる。
YMO=テクノポップ、と言い切るのはいささか安直だが、一般的に言われる代表曲"RYDEEN"、"TECHNOPOLIS"等は明らかに所謂テクノポップの特徴を兼ね備えていると言える。
「テクノ」、「テクノポップ」についての詳細はそれぞれの項目を参照のこと
[編集] 技術面から見るYMO
[編集] 積極的な電子技術の採用
- YMOはシンセサイザーのサウンド、そして電子機器による自動演奏を大々的に音楽に取り入れた先駆者的グループである。また、それまでミュージシャンの手弾きによる生演奏が常識だったライヴにおいて自動演奏を取り入れた点でも革新的だった。
- YMO結成当時、クリック音に合わせて演奏できるミュージシャンは数少ない時代だった。細野、坂本、高橋はクリックとの同期に違和感を持たない演奏家であったうえに、音楽・音色に対する探求心も強く、新たな技術を積極的に受け入れる傾向が強かった。そのためローランドから、当時まだ試作段階であったにもかかわらず、ヴォコーダ「VP-330」を使ってほしいと依頼されたことがあった。
- シンセサイザーと自動演奏は切っても切れない関係にあり、これらはプログラマの松武秀樹の存在が大きい。レコーディングやライヴでの音楽データのシーケンサへの打ち込み、自動演奏は松武が一手に引き受けていた。また、日本初のサンプラーの開発では松武が発注元であり、松武による功績が非常に大きい。
[編集] シンセサイザー
YMOが使っていたシンセサイザーで代表的なものを挙げる。 極初期にはメンバーの私物のシンセサイザーも使用したが、ほとんどは松武秀樹の会社である有限会社MACからのリース品であった。
[編集] 初期
- MOOG III-c(松武秀樹が使用していた大型モジュラシンセサイザー、通称「タンス」)
- PolyMoog(R.A.Moog社)
- VP-330(ローランドのヴォコーダ)
- ARP Odyssey(アープ社。ベースやリードで多用。坂本はYMO前はARP Odysseyの名手として知られ、「東風」PVでは坂本の個人所有物(名前入り)の機も見られる)
- KORG PS-3100 (細野、坂本の個人所有物)
- プロフェット5(シーケンシャル・サーキット社)
- KORG VC-10 ヴォコーダ(1st album yellow magic orchestraで使用)
- Pollard Syndrum Model 477(シンセドラム、高橋が効果音的に使用)
- ULT-SOUND DS-4 (シンセドラム)
[編集] 中期
- プロフェット5(シーケンシャル・サーキット社)
- TR-808(ローランド社 リズムマシン 当時の細野のお気に入りの機材であった)
[編集] 後期
- 技術の発展に伴い、デジタルシンセサイザーも使用された。
後期はシンセサイザーのリース元が松武秀樹の会社から別の会社に変更された。
[編集] サンプリング
- YMOはサンプリングの技術をいち早く音楽に取り入れた。中期のアルバム『テクノデリック』は、オリジナルのサンプラー「LMD-649」を用い、サンプリング技術を大々的に用いた世界初のアルバムといわれている。
- ただし、ほぼ同時期にスティーリー・ダンのエンジニアであったロジャー・ニコルズがサンプラー(名称:WENDEL)を開発しており、アルバム『GAUCHO』で使われていた。同アルバムの発売が1980年であるので、1981年リリースのアルバム『テクノデリック』よりも早いことになる。ただし、WENDELの使用はドラムの細かい補正に限られており、またLMD-649に比べ原始的な機材で楽器と呼べるか不明確な点(インターフェイスもなく、変更するときにはわざわざそのたびにプログラム・コードを書かねばならなかった)であることから考えると、サンプリング技術を全面に押し出し、音楽のあり方という点では『テクノデリック』のほうが重要だと言える。
- サンプリングに関する詳細はアルバム『テクノデリック』でも論じているのでこちらも参照してほしい。
[編集] 自動演奏
- 電子機器による自動演奏というイメージがあるYMOだが、初めからすべて自動演奏だったわけではない。むしろ、機械的に聞こえる音を作るためにメンバーの高度な演奏力を生かしていたと言える。特に坂本は、コンピュータのような正確な演奏ができる技術を持っており、例えば、自動演奏に聞こえる「テクノポリス」のシーケンスパターンのトラックのメモには「根性のブリッジ」と書かれている[2]。また「ライディーン」のメロディも坂本による手弾きである。
- コンピュータを使っている面を強調したのは、細野のプロデューサーとしての戦略だったと考えられる。
- 初期の頃は、シーケンサーMC-8を松武秀樹がコントロールしていた。コンピュータに入力するためには、演奏を一旦楽譜に直す必要があり、その作業を坂本が行ったが、その際に坂本はある程度自由にアレンジを行うことになった。そのためロック、ポップスの土台にクラシックの流れを汲む複雑で作りこまれた編曲が行われた。これは細野らメンバー自身がデータ入力ができるシーケンサーMC-4が登場する『BGM』の直前まで続いた。その手法を変えて、ミュージシャンがコンピュータを直接操作して曲を作るという、細野が思い描いていた手法を初めて実現したのが『BGM』だったと言われている。
- アルバム『浮気なぼくら』からは、YMOメンバー自らがシーケンサーを利用することとなり、それまで全面的に協力していた松武秀樹が制作から外れている。
[編集] ドラム
- YMO結成当時、ドラムの録音はスネア・バスドラム・ハイハットなどをすべて同時に録音するのが一般的であったが、YMOでは各パートを別々のトラックに録音していた。そのため、当時のエンジニアや関係者によるとYMOの録音は時間がかかって仕方がないという印象を持っていた。
- 初期のアルバムでは生ドラムの音色をそのまま使用していた。当時のアルファのスタジオの壁には石が埋め込まれており、特殊な残響による硬質なドラムの音色が特徴である。
- アルバム『BGM』以降では、ノイズゲート機材「Kepex」を使ったゲートエコーを利用している。具体的には、ドラム音にロングエコー(鉄板エコー・リバーブ)をかけ、余韻の部分を強制的に切ることで、人工的な効果を出すというもの。アルバム『テクノデリック』、高橋のソロアルバム『音楽殺人』でも随所に見られる。
- アルバム『テクノデリック』以降では、手作りのサンプラー「LMD-649」や当時発売されたばかりのサンプラー「Emulator」を使い、サンプリング音源によるドラムを実現している。サンプリングの音源はドラム缶やドアのノブを叩いた音、工事現場の音、人の声などを採用している。直後のウィンターライブではLMD-649をエレクトロニック・ドラムに接続し、叩くのではなくトリガーで使用した。しかし高橋も回想しているように、振動に弱いためにちょっとした振動で音が出てしまうという難点も抱えていた。
- アルバム『浮気なぼくら』では一転して「LinnDrum」を使うなど、技術の発展に同期した音作りをしている。1983年の散開ライブでは、シモンズのエレクトロニック・ドラムをトリガーにしてLinnDrumを鳴らすなど、高度なテクニックを駆使していた。
- ドラムの自動演奏が実現できる環境になったとしても、人間特有の「ノリ」を完全に実現できないため、あえて高橋が叩くドラムを利用していたこともある。
- 解散ライブにはC-C-Bが頻繁に使用したSIMMONSの電子ドラムが幸宏用ととデイビット・パーマ用の二つが用意されている。madmanでドラムが交代する時にはっきりと判る。
[編集] ライブ
- アルバムでは自動演奏を多用していたYMOではあるが、初期のライヴでは、メンバー+ギター+サポートキーボードの形式による生演奏が主体であった。当時のシーケンサ(ローランド社の「MC-8」)の出力の関係、熱に弱く動作が不安定だったことや、データの読み込みに時間がかかるなどの機材的な問題によるところが大きい。この形式は1980年の第2回ワールド・ツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」まで続いた。このツアーからMC-8もステージ演奏に適応するため、CPU関係にファンが追加される改良が加えられて安定性が良くなっている(加えて演奏中には扇風機を使用していた)。
- 1981年に行われた「ウィンター・ライヴ1981」では、メンバー+松武秀樹のスタイルとなった。このライヴではシーケンサに「MC-4」が使われ、各メンバーが「Emulator」を多用したサンプリング主体のものに変わり、構成が簡素になったことで機材数が減った。また、一部の演奏ではMTRが使用されることもあった。ただし、音楽的に初期の「フュージョン」「ニューウェーブ」テイストの曲を取り払い、エレキギターなど人力で行わなければいけないパートが減ったためという考えもできる。なお、このライヴでは坂本がギターを演奏したこともあった。
- 散開ライヴでは、シーケンサは使われず、ほとんどのトラックがMTRで演奏されている。ただし、先述のように「シモンズ」のドラム音と「LinnDrum」の音を混ぜるなど斬新な試みも引き続き行われた。
- 1993年の再生ライヴでは、細部にわたるまでシーケンサとアナログシンセを使って演奏された。1998年の高橋幸宏のインタビュー[3]では「東京ドームのグラウンド下には大きな発電機があり、マッキントッシュ(シーケンサとして使用)が止まってしまう恐れがあった。その為、事前に録音したシーケンサの音を予備で(シーケンサが止まっていいように、つまりは前述の散開ライヴと同じ事ができるように)同期して再生していた」と語っており、MTRの安定した演奏に大きな信頼をしていたと思われる。なお、「ポケットが虹でいっぱい」のみはテープ演奏であったが、ステージ上にオープンリールMTRを上げて、再生ボタンを押す前に手でテープを動かすことで音を出し、カラオケ演奏であることをわざわざ強調する演出を行った。このようなユーモアのセンスもYMOの持ち味であった。
[編集] 同期演奏とそのためのヘッドフォン
[編集] 同期演奏とクリック音
- YMOはライヴでヘッドフォンを装着して演奏するという、当時としては画期的な方法をとっていた。これは、自動演奏とメンバーの演奏を同期するためのガイドとなるクリック音を聞くためであった(これは松武がYMOのレコーディングに持ち込んだ手法だが、方法自体は松武が冨田勲に師事した際に学んだとされている)。
- クリック音は、松武がコントロールするシンセサイザーのフィルター発振音で、レゾナンスを上げていったときの自己発振音を使っている。具体的には「キッコッコッコッカッコッコッコッ」や「ピッポッポッポッパッポッポッポ」という音である。アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ (US版)』に収録されている「東風」イントロ部分を注意深く聞いていると「キッコ、キッコ」という音がかすかに聞こえるのがわかる。また、1980年11月のロサンゼルスA&Mスタジオ公演の「ALL YOU NEED IS LOVE」~「Technopolis」での曲の合間を注意深く聞くと「キッコッコッコッカッコッコッコッ」が聞くことができる。同公演のTV放送では同部分と「東風」が始まる前とでかなりの音量で聞こえていた。
[編集] ヘッドフォン
- ヘッドフォンを装着すると、通常のライヴでは聞こえてくる各メンバーの演奏の音が聞こえない。そのため、メンバーの出している音をPAから送り返す場合に、モニタースピーカーへ送らずキューボックスという簡易ミキサーへ送り、クリック音と混ぜて聞いていた。このキューボックスはグリークシアター公演の直前に数日間徹夜して作られ、当時としては最新の回路やパーツを使っていたため、一般のものにくらべてとても高音質であった。1台10万円程度かかっていたといわれる。
- ヘッドフォンはビクターのHP-550がよく使われ、シュアーのSM-10Aヘッドセットマイクとのコンビネーションはトレードマークになる。また初期のライヴで矢野顕子が使用していたのはゼンハイザーのHD414である(これは他のメンバーが使用している場合もあり、また、東風のPVでもメンバー3人が使用しているのが確認できる)。
- アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』に収められている「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」ではヘッドフォンをマイク代わりに使用している部分がある。
[編集] ライヴでの同期演奏
- YMOの初期のライヴでは、実際にクリック音を聞きながら演奏していた曲は半分くらいであった。第1次~2次ワールド・ツアー時の「コズミック・サーフィン」や「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」、「ラジオ・ジャンク」、「デイ・トリッパー」、「中国女」、「千のナイフ」等は、後の高橋幸宏のコメントなどから、普通のバンドのようにドラムに合わせて演奏していたと推察される。しかし高橋はラジオ番組でのインタビューで「演奏曲の始まりでMC-8からのクリック音を待っていたが、トラブルがおきてなかなか聞こえて来ないので、シーケンサーを使わず演奏したケースもあった」と答えている。ライブにおいてどの曲目がシーケーンサーを最初から使用しなかったのかは、明らかになっていない。
- シーケンサーに1曲のデータをロードするのに1曲分の時間がかかっていた。当初シーケンサーを使う曲の次にはクリック音を使わない曲を配置し、シーケンサー未使用曲を演奏している間に次の曲のデータをロードする工夫をしていた。
- 第2回ワールドツアーからは、モーグ・III-CのほかE-μのモジュラーシステムも登場し、2台のMC-8を導入して、シーケンサーを使用した演奏を続けて行うことできるようになった。この当時ソニーのカセットデンスケをデータ・ストア(記憶装置)として利用していた。[4]
- 初期のシーケンサーMC-8は熱に弱く、ライブ演奏中にデータがすべて失われたりするなどのトラブルが多かった。そういうケースに遭遇した場合、曲順を変更したり、当時のギター担当であった渡辺香津美がその場でカッティング演奏を行い、メンバーもそれに合わせて演奏して臨機応変に対応していた。(復旧するまでに時間を要することもあり、そのため海外では「曲が長い」という評価もあった)こういう状況であわてふためくことがないのはYMOメンバーとサポートメンバーに高度な演奏技術があったことを示している。しかしメンバーへの精神的負担は大きく、細野は年月が経ってからもステージに立っても演奏できないという夢を見るほどだったという。
- 初の衛星中継となった1980年11月のロサンゼルスでのライヴでは、最初の「ライオット・イン・ラゴス」でクリック音がMC-8の演奏と16部音符1個分ずれて送出されてしまい、ドラムの高橋が後方の松武に向かって首を横に振るシーンが見られる。それでもプレイヤーとして能力が高い為、坂本氏のメロディーが入る頃には通常の演奏に戻っている。裏ではきちんとシーケンスパターンも流れ、曲終わりも自然に終わっている。
- 散開ライヴでは坂本が曲の始まる2小節前から体をリズムに合わせ始めるシーンが見られ、クリック音に演奏を同期させる様子がわかる。(この時はすべてMTR)
[編集] YMO商法(アルファ商法)と呼ばれるCDリリース方法
YMOはすでに20年以上前のバンドであり、オリジナル版アルバムはすでに廃盤になっている。以降レコードからCDに変わり、数年ごとにアルバムが再リリースされ、ベストアルバムが発売されている。
YMOの原盤権を持つアルファレコードは、1993年のYMO「再生」の前後に、大量の未発表ライヴ音源やリミックスCDを発売した。以降、定期的なベストアルバムのリリースなどを続けていったが、1990年代後半にレコード会社としては消滅し、YMO他元所属アーティストの原盤所持のみの会社(アルファミュージック)となった。
なおオリジナル版アルバムのCDは1998年に東芝EMIより再発売された(この際、細野監修によるリマスタリングがなされる)。その後2003年にはソニーミュージックから再発売されている(こちらは坂本が監修したが、彼は前述の細野リマスタリング版を尊重して、同時期に発表したベストアルバム以外はそのまま使用している)。
以降、節目ごとにベストアルバムがリリースされているが、すでにYMOのベストアルバムは飽和状態にあり、基本的には「ほぼ同じ曲目+秘蔵音源1~2曲」というスタイルが続いている。この秘蔵音源を聞くためだけにベストアルバムを購入しなければならないため、一部のリスナーからは不満の声が上がっている[要出所明記]。
また、なぜか国内ツアー「テクノポリス2000-20」の音源は商品化されていない。
これらのCDのリリース方法が、ファンの間で俗に「YMO商法(アルファ商法)」と呼ばれており、荒井由実やTM NETWORKなど、他のアーティストでも同じ手法での「売り方」は見受けられる。
このことに対して2005年3月、細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一3人の連名で「リスナーの皆様へ」という異例の発表がなされた(上記のサイトは、現時点では唯一の「YMO公式サイト」とも言えよう)。
[編集] エピソード
- YMOは「世界に通用する(した)ジャパニーズ・バンド」と位置づけられることが多いが、当のメンバー達はむしろ「世界に出かかってやめちゃったバンド」と考えているらしい('93年の「再生」時の高橋の発言より)。興味深いことに、YMOと活動時期を同じくした人気バンド・ゴダイゴのミッキー吉野もまた、「YMOの欧米進出と言っても実態は日本国内向けのパブリシティ狙い。海外でのレコード売上ならうちのほうが上」と後に発言している[要出典](実売数は確実にYMOは記録があるがゴダイゴは海外でのメジャー流通の経験がない為、記録がないので真偽不明、知名度もYMOとは比較にならない)。またワールドツアーによるメンバーの精神的負担や高橋幸宏の飛行機嫌いも世界進出しきれなかった要因と考えられる。
1982年当時、ロンドンの中古レコード屋の在庫にYMOのアルバム(1st & 2nd.)が相当数あったと言う[要出所明記]。またアメリカの主要都市の中古レコード屋では「Tighten Up(1980)」のシングル版を1990年くらいまで多く目撃する事ができた[要出所明記]。このシングルの流通には米テレビ番組「ソウル・トレイン」出演の影響が強いと思われる。それらからも1980年の2度目のワールドツアー時にはそれなりのレコード売り上げがあったのは事実である。
- YMO結成以前、細野は、ドラマーの林立夫、シンガーのマナと共に自身の「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカバーするというユニットを構想していた。だがこれは実現せず(その後マナは、ソロで「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカバーしている)、続いて細野は林と佐藤博のユニットでマーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」をカバーすることを構想するが、これも佐藤が渡米したことにより実現しなかった。高橋と坂本というメンバーにたどり着いたのはこうした末のことである。
- 細野の『はらいそ』のレコーディング時に初めて細野・高橋・坂本の3人で顔を合わせているが、それまでにも坂本と細野は1975年、大滝詠一の「福生ストラット Part I」の録音時に顔合わせをしており、1976年には細野がティン・パン・アレーのツアーでサポートメンバーとして坂本を起用するという関係だった。一方、高橋と細野は学生時代から旧知の仲であったが、ミュージシャンとしての交流はサディスティック・ミカ・バンドが1975年の「ジャパン・ロック・フェスティバル」に出演した際、小原礼の代役で細野が演奏した事が一度あっただけだった[5]。
- 細野が自宅において高橋と坂本にグループの構想を伝えた際、3人はこたつを囲んだ状態で、焼きおにぎりを食べながら(おかかおにぎりやみかんという説もある)話し合いが行われた。
- メンバーが決まった後も、結成当初は横尾忠則をYMOのメンバーに加える構想があった。しかし実際、細野は横尾に対し記者会見にくるよう伝えていたが、横尾はその日なぜか「行きたくなかった」とキャンセル。最初期YMOのトレードマークであるタキシードも4着用意されていたが、結局横尾がメンバーに加わることはなかった。
- サポートメンバーの松武秀樹は、YMOの音楽活動において非常に重要な存在であったことから、しばしば「4人目のYMO」と称される。
- 1978年の紀伊国屋ホールでのライブの際、米A&M副社長のトミー・リピューマの目に留まったことでYMOの海外デビューが決定した、とされてきたが、後に発売された「ライヴ・アット・紀伊国屋ホール1978」のライナーノーツの中で、このエピソードは実は後付けであったことが明かされている。実際には既に決定されていたとのこと。
- アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は、アメリカではリリース前にホライゾン・レーベルが倒産したため、オリジナルの形では発売されなかった。
- 1983年の散開ツアーにおいて、ドラムを叩きながら