デペッシュ・モード

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デペッシュ・モード
基本情報
出身地 イングランドエセックス
バジルドン
ジャンル シンセポップ
ニュー・ウェイヴ
ポストパンク
オルタナティブ・ダンス
エレクトロニカ
活動期間 1980年 – 現在
レーベル ミュート・レコード
サイア・レコード
リプリーズ・レコード
公式サイト http://www.depechemode.com
メンバー
デヴィッド・ガーン
マーティン・リー・ゴア
アンドリュー・フレッチャー
旧メンバー
ヴィンス・クラーク(1980–1981)
アラン・ワイルダー(1982–1995)
  

デペッシュ・モード(Depeche Mode)はイギリスバンドイングランドバジルドン (Basildon) 出身。

1980年結成。欧米ではスタジアム級の人気を誇る大物バンド。

目次

[編集] 概要

デビュー当初はニュー・ウェイヴ色が強かったが、初期メンバーのヴィンス・クラークが脱退してマーティン・L・ゴアが楽曲製作の中心になると、サウンド & アレンジ担当のアラン・ワイルダーがインダストリアルな音を取り入れ始め、徐々にオルタナティブ路線を強めていった。

メンバーの薬物中毒、サウンドの要だったアラン・ワイルダーの脱退、デヴィッド・ガーンの薬物過剰摂取による自殺未遂などの苦境を乗り越えながらも、20年以上に渡るキャリアと世界で約9,100万枚のシングル・アルバムを売り上げた記録を持つ、ニュー・ウェイヴのロング・ランナーであり、最大級の成功者である。

その功績・業績に比して日本での知名度は低いものの、2006年MTVヨーロッパ・ミュージック・アワードの最優秀グループ賞を得るなど、欧米での評価と人気は健在である。

デヴィッド・ガーンの妖艶なバリトンの歌声とエネルギッシュなライヴパフォーマンス、マーティン・L・ゴアによる哲学的、神秘主義的かつ官能的な歌詞と哀愁を帯びた美しくダークなメロディ、そして壮大で重厚な音空間を感じさせるアラン・ワイルダーのサウンド & アレンジが最大の魅力だった。アラン・ワイルダーは1993年発表のアルバム『ソングス・オブ・フェイス・アンド・デヴォーション』を完成させた後、バンドの曲作りへの彼の貢献が正しく評価されていないことを理由に1995年に脱退した。もう一人のメンバー、アンドリュー・フレッチャーは「世界的に有名な一本指奏者」と自称しており、主にキーポードとプロデュースを担当している。

彼らの独特の美意識は、主にドイツや北欧、ロシアを中心としたダーク・エレクトロ勢に受け継がれている。

また、ときに性的指向が曖昧な歌詞や、1980年代に(特にマーティンが)好んで身に付けたボンデージ風ファッションによって形づくられたバンド・イメージから、ゴスゲイの間でも人気のあるアーティストである。

[編集] メンバー

[編集] 現在のメンバー

[編集] 過去のメンバー

[編集] 来歴

[編集] 結成以前~デビュー

1977年、学生だったフレッチとヴィンスが結成した "No Romance In China" が彼らのバンド活動の始まりである。結成当初フレッチはベース、ヴィンスはヴォーカルとギターを担当していたが、友人のロバート・マーロウ(Robert Marlow)がボーカルとして加入した。その頃マーティンはアコースティック・デュオでギターを弾いていた。
1979年、ヴィンスとマーティン、ロバートは友人のポール・レッドモンド(Paul Redmond)を招いて "The French Look" を結成。ボーカルはロバート、マーティンがギター、ヴィンスとポールがシンセサイザーを担当し、後のデペッシュ・モードを思わせる編成となった。ロバート・マーロウとポール・レッドモンドとの活動はここで終わるが、ロバートはミュージシャンとして4年ほど活動し4枚のシングルを出した後、休業。1999年に復帰しThe Peter Pan Effectというアルバムを出している。
1980年に入りヴィンス、マーティン、フレッチにより "Composition of Sound" が結成。これがデペッシュ・モードの母体となる。結成当初はヴィンスがボーカルとギター、マーティンがキーボード、フレッチがベース担当だったが、やがてヴィンスとフレッチもキーボードに切り替える。それらの楽器は雑用や大工仕事で得た給料で買ったり、友人から借りたものであった。そしてヴィンスはデヴィッド・ボウイHeroesのジャム・セッションをしていたデイヴをバンドに招いて、「デペッシュ・モード」の結成となった。なお、バンド名の「Depeche Mode」は、フランスのファッション雑誌 "Dépêche mode" から引用したものである。

実質的なデビュー曲はサム・ビザールのコンピレーションアルバムSome Bizarreに収録されたPhotographicだった。その後のサム・ビザールと所属アーティストの間の諸問題を見た限りでは、ここでデビューまで誘いがかからなかったのは運が良かったと言えよう。なお同コンピレーションに収録したバージョンはThe Singles (81-85)に収録されている。
デビューのきっかけは、彼らのステージを見たミュート・レコードダニエル・ミラーに声をかけられたことである。この出会いが、デペッシュ・モード、そしてミュート・レコードの後の運命を変えたのは言うまでもない。彼らは1981年2月にシングルDreaming of Meを発表。全英チャートで57位を記録する。続いてシングルNew Lifeを発表、これが全英チャート11位を記録するスマッシュヒットとなり、3ヵ月後に出したJust Can't Get Enoughでは全英チャート最高8位と着実に成果を出していく。そして満を持して発表したアルバム『ニュー・ライフ』は全英チャート10位を記録し、評論家や雑誌から好意的な評価を得た。時代はニュー・ウェイヴの最盛期であり、その時流に乗った形となる幸先のよい船出であった。

[編集] ヴィンス脱退、アラン加入

しかし、ここで最初の不協和音と困難がバンドを襲う。かねてからプロモーションとツアー活動に不満を漏らしていたヴィンスが1981年に脱退してしまう。作詞作曲を手がけていたヴィンスの脱退はバンドにとりダメージとなったが、『ニューライフ』でTora! Tora! Tora!Big Muffの2曲を作ったマーティンが代わりに作詞作曲を手がけることでバンドを存続させ、この件がマーティンの才能を開花させるきっかけとなる。なお脱退したヴィンスはアリソン・モイエとのデュオ「ヤズー」などを経て、アンディ・ベルとのデュオ「イレイジャー」を結成。デペッシュ・モードに並ぶミュート・レコードの看板アーティストとなる。
ヴィンス脱退後の初のシングルとなったSee Youは過去最高の全英チャート6位を記録。続いて2枚のシングルを出した後『ア・ブロークン・フレーム』を発表。マーティンはヴィンスの持っていたポップセンスと陰りのある作風を引き継ぎ、さらに独自のものへと昇華していった。

やがてバンドは4番目のメンバーを求め、オーディションの結果、当時22歳のアラン・ワイルダーをメンバーとして選んだ。実はこの時、アランは年齢を詐称しているが問題にはならなかった。1983年に4人編成に戻ってから初のシングルとなるGet the Balance Right!を発表。これは後のベスト盤までアルバムには収録されなかった。
続いてアルバム『コンストラクション・タイム・アゲイン』を発表。このアルバムでアランはバンドの音楽性に今までにない要素、金属の打撃音や摩擦音といったインダストリアル・ミュージックの要素を持ち込んだ。実はこのアルバムの何曲かは、インダストリアル・シーンの最先端に位置していたドイツのアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンの作品からのサンプリングを用いており、実際にノイバウテンのブリクサ・バーゲルトらから名指しで指摘をうけている。ただしノイバウテン側からは正式なクレームはついておらず、逆に元となった音源のリズムと同じリズムでサンプリングを使用している点に興味を示した。後に同じミュート・レコードの所属になったのは何かの運命であろう。
『コンストラクション・タイム・アゲイン』からはバンドの代表曲となるEverything Countsがシングルカットされている。この頃から、マーティンの詞には社会の矛盾に対する鋭い批判や意味深げなニュアンスが込められるようになってくる。
『コンストラクション・タイム・アゲイン』発表後、初来日を果たしている。

[編集] 挑戦と挑発、更なる実験

1984年に発表された『サム・グレート・リウォード』は、挑発的な楽曲が込められた作品であり、売り上げも過去最高のものとなる。先行シングルとなったPeople Are Peopleは全英チャート4位、全米チャート13位など欧米でヒット。バンドのイメージを一新する、人種差別暴力をテーマにしたこの曲は今でもファンの間で親しまれ、様々なアーティストがカバーした。アメリカではサイア・レコードから同名のミニアルバムが発売されている。
またシングルカットされたMaster and Servantは、詞の内容や鞭の打撃音、鎖の音など当時は公にできなかったSMプレイを想起させる内容となり、アメリカのラジオ局では多くの放送局が曲を流すのを自粛した。またBBCでも一時放送禁止が取り沙汰されたとの話もある。メンバーが黒い皮やエナメルを用いた服装に身を纏い、マーティンが女装をしだしたのも、ちょうどこの時期である。
そしてBlasphemous Rumoursでは「自殺を図った少女が命を取り留めるも、キリスト教に目覚めた途端事故で死ぬ」という皮肉に満ちた運命を背景に、神に毒づくという歌詞が問題となり、再びアメリカのいくつかのラジオ局で放送自粛の処置がとられたが、BBCではテレビ番組で歌うことができた。ちなみにカップリング曲であるSomebodyはマーティンのボーカルによるバラードで、ライブでも人気のある曲である。

1985年、初のベスト盤となる『ザ・シングルス'81-'85』を発表。ただしアメリカでは同時期にCatching Up with Depeche Modeという収録曲が一部異なるベスト盤も発売されている。

1986年に発表されたシングルStrippedは、実験作として発表された特異な楽曲であり、続いて発表された『ブラック・セレブレーション』で効果的に使われ、次第に彼らの特色となる立体的な音響効果の片鱗を伺わせる作品となった。『ブラック・セレブレーション』はその名の如く歌詞も死や闇といったものからの影響が色濃く出ている作品であり、それが最も顕著になっているのが、Fly on the Windscreen - Finalである。ゴス傾向のあるファンからは、『ブラック・セレブレーション』を最高傑作とする声もある。
A Question of Timeミュージック・ビデオは、これまでU2マドンナなど数多くのアーティストの写真を撮り続けてきたアントン・コービンが担当することになった。その後、コービンはデペッシュ・モードのミュージック・フィルムのみならず様々な写真、ステージの演出など多岐に渡りバンドのビジュアル面に関わることになる。

[編集] 大衆向けではない「大衆向け音楽」と「101番目の公演」

1987年に発表された『ミュージック・フォー・ザ・マスィズ』は、皮肉を込めたタイトルである。自らの音楽が、大衆向けではなく、本来の自分達のような内向的な人間に受け入れられていることを知った上で、世間に対する挑発をしてみせたのである。その挑発はさらに皮肉を招き、『サム・グレート・リウォード』に匹敵する売り上げとなって現れる。そしてシングルカットされたStrangeloveNever Let Me Down AgainそしてBehind the Wheelもヒットし、欧米を中心に人気は確固たるものとなった。作品自体はマーティンの孤独感や人間関係のすれ違いを表現した歌詞と、アランのオーケストレーションを効果的に使ったシンセサイザーが印象に残るものであった。ちなみにこのアルバムでは初めてデジタル録音を取り入れた。
そして101公演に渡る世界ツアーが始まり、その終わりとなった101回目のライブの地、カリフォルニア州パサデナローズボウルに6万6千人以上の観客を集めた。この模様はライブアルバム『101』に収録され、同名のドキュメントフィルムがドキュメンタリー映画作家D・A・ペネベイカーの手によって撮られた。

[編集] キャリアの頂点、そしてバンド崩壊の予兆

1989年、シングルPersonal Jesusを発表。カントリー・ミュージックブルースを思わせるギターフレーズとメロディが注目を浴びる。翌年1990年にはEnjoy the Silenceを発表。全英6位、全米8位という過去最高の記録を残す。そして アルバム『ヴァイオレーター』はバンド史上最大のヒット作として記録され、アメリカだけでも350万枚も売り上げている。バンドの楽曲もクオリティを増し、10年間で築き上げてきたデペッシュ・モードの集大成的な作品となった。
World Violationツアーの日本公演では、ファンの熱望により欧米の現役バンドとしては極めて珍しい金沢での公演が実現した。街中のミスタードーナツに入るマーティンの姿を目撃したファンもいたとか。
ツアー終了後、1991年ヴィム・ヴェンダースの映画夢の涯てまでもDeath's Doorを提供した以外は目立った活動はなかった。

1992年からバンドは次のアルバムに向け活動を再開、録音はスペインで行われたが、街から遠く離れた別荘で行われたため、事実上の監禁状態にあったらしい。そうした中で生まれたシングルI Feel Youグランジ・ロックオルタナティヴ・ロックの影響を色濃く受けたロックナンバーであり、バンドのイメージをさらに一新させるものとなった。加えてデイヴの風貌はかつてのオールバックから長髪に髭を蓄えたものへと変化し、賛否両論を呼んだ。そしてアルバム『ソングス・オブ・フェイス・アンド・デヴォーション』が発表されるとさらに論議は深まることとなる。歌詞は宗教的な要素を多く含んでおり、従来のマーティンには見られなかった表現に一部のファンは困惑と批判の声を上げた。しかし、売り上げという点で言えばI Feel Youはアメリカのモダン・ロック・チャートで5週連続1位を記録し、『ソングス・オブ・フェイス・アンド・デヴォーション』は売り上げこそ前作『ヴァイオレーター』に及ばなかったものの、イギリス、アメリカ、ドイツなどで1位を記録した。
関連して、『ソングス・オブ・フェイス・アンド・デヴォーション』が出た当初、同世代のバンドでありながら全く接点のなかったU2と比較される論評が数多く出た。宗教的なアプローチをみせた「エレクトロバンド」デペッシュ・モードと、エレクトロサウンドに傾倒した「クリスチャンロックバンド」U2との距離が近くなったというのが主な理由であろう。同時期にプロデューサーとしてフラッドを起用していたのも共通している。
続けて行われたDevotionalツアーではいくつかのトラブルに見舞われた。デイヴの周辺には素性の怪しい人間が集まるようになる(のちにドラッグの売人やドラッグを目当てにした取り巻きであることがわかる)。南アフリカ公演の際、アフリカ系住民の居住区を視察に行ったところ住民の感情を逆撫でしてしまい、襲撃を受ける羽目になってしまう。そして南米公演にはフレッチが参加することを拒否している。理由は諸説あるが、後日、一時期情緒不安定になったことを明らかにしている。これがデペッシュ・モード崩壊の予兆になるとは、多くのファンは知る由もなかった。

[編集] 続けざまのトラブルと、デイヴの自殺未遂

1995年6月、アランがバンドからの脱退を表明する。その理由として、「バンドでの音楽面の貢献に対する自分への敬意が払われていない」と主張したが、実際のところはマーティンとの間に確執があったと言われている他、ポップミュージックを作ることへの意欲を失ったともされている。事実、以降アランとバンドそのものとの間に交流はなく、唯一バンド内の理解者であったデイヴとの交流が続いているのみである。またリコイルの作品の発表ペースが長くなっていることも、アランの音楽に対する意識の表れと言える。
同じ年の8月、今度はデイヴが自殺未遂をする。この時点でデイヴは長年の薬物使用による重度の薬物中毒に陥っており、また2番目の妻とも離婚を余儀なくされるなど、治療を要する状態になっていた。薬物治療を経て回復した矢先の1996年5月28日、親族から電話で懲りずに繰り返すと言われたことに逆上し、ロサンゼルスのホテルの一室でヘロインコカインの混合物を大量に注射し、手首を切って自殺を図った。偶然、友人がデイヴの滞在していた部屋を尋ね、意識を失ったデイヴを発見し通報、病院へと搬送された。その途中、デイヴの心臓が2分間止まっている。一命は取り留めたものの、2日後に警察に逮捕され、裁判の結果9ヶ月のリハビリを命じられ、これを達成する。以来、長年使用していた薬物と縁を切り、住んでいたロサンゼルスを離れニューヨークへと移った。
さらにマーティンもアルコール依存症に苦しんでいたことが後に雑誌「Q」でのインタビューで判明した。同時に、Devotionalツアー南米公演におけるフレッチの参加拒否の理由が、メンバーがそれぞれ抱えていた問題に対処しきれず悩んだ末に心を病んだことが原因のひとつだったことも判明した。

[編集] 再出発と、実験が起こした混乱

次回作の準備は、実は一連のトラブルの最中に行われていた。プロデューサーにボム・ザ・ベースティム・シメノンを招き、作曲も進んでいた。しかしデイヴの自殺未遂とその後のリハビリの影響により、スケジュールは大幅に伸びてしまった。1996年末に完成した3人組での再出発アルバム『ウルトラ』は翌1997年4月に発表される。先行シングルのBarrel of a Gunはデイヴの過酷な状況を表現したかのような重い歌詞とメロディのロックナンバーで、かつてのメンバーのヴィンスが雑誌「Q」のインタビューの中で当惑する有様であった。しかし熱心なファンはバンドの復活を歓迎し、英国チャート4位を記録。アルバムも英国チャート1位を記録した。
『ウルトラ』の内容自体は、『ヴァイオレーター』の路線を継承するというコンセプトを取ったのと、ティム・シメノンがアランのかつての仕事を思わせるようなアレンジに徹したことから、厳しく言えば変化に乏しいアルバムとなった。『ウルトラ』からはIt's No GoodHomeなどがシングルカットされ、特にHomeはライブでの新たな定番曲としてファンに親しまれている。

1998年、2枚目のベストアルバム『ザ・シングルス '86-'98』を発表。これに合わせシングルOnly When I Lose Myselfも発表している。また最初のベストアルバム『ザ・シングルス '81-'85』も曲を追加して再発され、過去の曲を積極的に選曲したツアーも行われた。

『ウルトラ』が新鮮味のない作品になってしまったことを受け、2001年の『エキサイター』では、かつてのLFOの中心メンバーで、ビョークらとの仕事で実績のあるマーク・ベルをプロデューサーに迎える。IDMなど先進的なテクノハウスの要素を盛り込み、従来のアルバムとは毛色の違うものとなったが、評価は二分され、NMEローリング・ストーンといった雑誌は好意的に受け取ったが、多くのメディアが否定的な見解を見せた。またファンの間でも賛否両論が分かれ、これを反映するかのように売り上げも近年では低い部類になってしまった。

[編集] 軌道修正

2003年、デイヴ、マーティンはそれぞれソロ作品を発表する。特にデイヴは自ら作詞作曲にチャレンジしたことから、一部からはバンド解散が危惧された。一方フレッチは自らのレーベル「トースト・ハワイ」を立ち上げ、女性エレクトロデュオの「クライアント」(Client)をプロデュースした(なおクライアントは2006年にレーベルを離れ、トースト・ハワイは休眠状態になっている)。
2004年、シングルのカップリングに収録されていたリミックスを集めた『リミックス81-04』を発表。ただし全てのリミックスを網羅していない。

デイヴのソロで生じた一部の懸念を吹き払うかのように、2005年に入りバンドが新作『プレイング・ジ・エンジェル』の製作に取り掛かったことが公表される。プロデューサーはブラーThink Tankなどを手がけたベン・ヒリアー。ヒリアーは特にデペッシュ・モードに思い入れがなく、単なるいちバンドのプロデュースに徹したが、これが功を奏し、『エキサイター』で混乱したバンドの音楽性を修正すると共に、かつての色を取り戻すことができ、なおかつデイヴの作曲能力も優れていると評価する声は多いが、逆に『エキサイター』を評価したローリング・ストーンなどのメディアやライターは批判的に見ている。売り上げは全米では『エキサイター』を僅かに下回ったが、全世界的に見ると360万枚に達するなど一定の成果を見せた(ダウンロードによるものを含めるとさらに増加する模様。ちなみに『エキサイター』は340万枚)。続いて行われた"Touring The Angel"ツアーは欧米をめぐり、約250万人の動員を記録した。

2006年からは過去のアルバムのリマスターSA-CD(ハイブリッド)とDVDのセットで逐次発売され、2007年3月で『プレイング・ジ・エンジェル』を含む全てのオリジナル・アルバムがリマスター化された。なおこれらのリマスターにはシングルのB面曲がボーナストラックとして追加されている。また3枚目のベストアルバム『ザ・ベスト・オブ・デペッシュ・モード VOL1』が発表され、これに収録された新曲Martyrもシングルカットされている。一方でマーティンはDJとして各地を回っている。
2006年には輝かしい記録を作っている。音楽配信サイト7digital.comの2006年度年間売り上げのトップアーティストとしてデペッシュ・モードがランクインされた(なおシングル・アルバムの上位10位にはノミネートされておらず、個々の作品のダウンロード数が積み重ねられた結果と思われる。)他、MTVヨーロッパ・ミュージック・アワードにおいて最優秀グループ賞を獲得した。ちなみにMTVでの受賞のスピーチはフレッチが行った。

2007年はデイヴの2作目のソロ作品が発表された。マーティンに続き、フレッチもDJとして世界各地に足を運んでいる。

[編集] 宇宙のサウンド

2008年、バンドが次作の収録の為スタジオ入りしたことが公式ホームページなどで報じられる。プロデューサーは前作と同じくベン・ヒリアー。2009年には春からのツアーの予定が発表され、続いてアルバム名『サウンズ・オブ・ザ・ユニバース』とトラックリストが明らかになり4月20日にリリースされることが決まった。

2月9日に収録曲の一つであるFragile Tensionのリークがあり、デイヴは後のインタビューでリークされたのはまだ最終バージョンではない未完成版と語った。だが3月26日にはフルアルバムがリークするという事態になってしまった。

[編集] エピソード

  • 公式サイトでは2004年からエイプリル・フールニュースが配信されるようになった。2007年はデイヴがレストランを開業すると報じられ(後述の、フレッチがかつて経営していたレストランの話にひっかけたもの)、2006年はザ・キュアーロバート・スミスが『プレイング・ジ・エンジェル』のジャケットのデザインが自分のシルエットに似ているとアントン・コービンを訴えた…など、気をつけないとうっかり信じかねないニュースばかりが毎年出される。しかも性質が悪いことに4月1日ではなく前日に記述され、2004年のFCC(連邦通信委員会)クラッキングされた云々、というネタについてはラジオ局まで協力した。
  • デイヴ以外の二人はサッカーファンである。マーティンはアーセナルFC、フレッチはチェルシーFCサポーター2002年アーセン・ベンゲル率いるアーセナルにプレミアリーグ制覇とFAカップ優勝の二冠達成の可能性が出てきた時、一切関心のないデイヴは呆れ半分で「もし二冠達成したら髪切って髭も剃ってやるよ」と約束した。結果、アーセナルは二冠を達成したため、公約通りデイヴは十年来伸ばしていた髪を切り髭を剃った。
  • マーティンといえば巻き毛の金髪がトレードマークだが、UselessのPVでは丸刈りになった姿を披露しファンの度肝を抜いた。
  • フレッチは自他共に認めるマーティンの最大の理解者である。マーティンの機嫌をとり、またやる気を出させるのがフレッチの最大の役目である。また、バンドにはとりあえずマネージャーはいるが、実質的にバンドのマネージングを行っているのはフレッチであるとする見方は強い。バンドにおいてフレッチにしかできないことは多い。
  • フレッチは一時期ガスコーニュ(Gascognes)というレストランを経営していた。
  • デペッシュ・モードの数あるパロディソングの中に、Somebodyをもじって「Some Valium for Fletch(ヴァリウムを少々、フレッチに)」というのがある。Valiumとは抗不安薬ヴァリウム(ジアゼパム)のことで、1994年の南米公演を欠席したフレッチの件に関するネタである。
  • 日本のアーティストとの交流はあまり聞かれないが、BOØWYとの写真が残っている。あとは屋敷豪太Uselessのドラムパートの一部を担当したくらいである。
  • 『コンストラクション・タイム・アゲイン』のジャケットでハンマーを振りかざしているのはダニエル・ミラー
  • PIGを率いるイギリス人ミュージシャンのレイモンド・ワッツも数多くのデペッシュ・モード支持者のひとり。あるバーでデイヴとマーティンに偶然出会い、ありったけの賛辞を述べたが、当時のデイヴはドラッグ中毒真っ只中、マーティンもアル中と言った具合で、軽くあしらわれてしまったという。
  • 『プレイング・ジ・エンジェル』製作以前までは、デイヴは自らを「マーティンの操り人形」と自虐的に言うほど、自らの立場を「ただのヴォーカリスト」程度にしか見ていなかったようだが、自分のソロ作品Paper Monstersで作詞作曲を手がけた事により、マーティン、そして自らの立場に対する認識を改めたと述べている。
  • デイヴは2回の離婚歴を経て、今は3人目の妻がいる。子供は3人。うち1人は最初の妻との間に生まれた息子ジャックで、もう1人の息子は今の妻の連れ子。今の妻との間にも娘が生まれ、溺愛していると公言している。最初の息子ジャックの名前は、デイヴが10歳の頃亡くなった育ての父ジャックからとった。
  • マーティンは結婚していたが、『プレイング・ジ・エンジェル』発表の際、離婚調停に入っていることが明らかになり、2006年に正式に離婚した。子供が3人おり、長女ヴィヴァ・リーはマーティンのソロコンサートで父娘競演を果たし観客の喝采を浴びた。Preciousは子供達に向けたメッセージソングである。
  • フレッチに関してはプライベートの話題はほとんど伝わってこないが、結婚しており、娘と息子がいる。

[編集] アルバム

[編集] オリジナルアルバム

[編集] リミックス、ベストアルバム

[編集] ライブアルバム

[編集] 日本公演

9月11日,12日 日本武道館

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ