高田渡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高田渡(たかだ わたる、1949年1月1日 - 2005年4月16日)は、1960年代から1990年代にかけて活躍したフォークシンガー。 父親は、詩人・活動家・元共産党員の高田豊。 スティールギタリストの高田漣は息子。

[編集] 人物

岐阜県出身、東京都で育つ。少年時代の一時期、佐賀県鹿島市で育てられた。1960年代半ば、遠藤賢司南正人らと東京でアマチュアシンガーとして活動。京都でフォークキャンプに参加。

1960年代末、京都に拠点を移す。高石ともや岡林信康中川五郎早川義夫加川良岩井宏らと関西フォーク・ムーブメントの中心的存在となる。

大正から昭和中期の添田唖蝉坊添田知道親子の壮士演歌の流れを汲み時事の話題を辛辣に滑稽に取り上げ、皮肉たっぷりの作風は大いに客を惹きつけた。

金子光晴草野心平山之口貘らの現代詩にフォークのスタンダードを組み合わせ全く別物をつくり上げる作業を得意としている。

岡林らとの「三億円強奪事件の唄」「自衛隊に入ろう」、「転回」「しらみの旅」「生活の柄」「長屋の路地に」「鉱夫の祈り」など数多くのアメリカ民謡に詞を乗せた名曲を生み出している(上記の曲、全て原曲はアメリカ楽曲)。

1969年URCレコードから五つの赤い風船とのカップリングアルバムでデビュー。また後に、京都ひがしのひとし古川豪らと親交を深める。全日本フォークジャンボリーには第1回から参加。また第2回ではURC関連の出版社にいた加川良をステージ上に引っぱり出し、フォークシンガーとしてデビューさせる (後にステージ上に引っぱり出したのは演出であり、フォークジャンボリーで加川をデビューさせるのは予定されていたことだと加川によって明かされる)。

弾き語りと対話形式の『汽車が田舎を通るそのとき』をリリース。キングから、大瀧を除くはっぴいえんど細野晴臣鈴木茂松本隆)を従えた『ごあいさつ』をリリース。

1970年代初頭、東京に拠点を移し、シバ友部正人いとうたかおなぎら健壱佐藤GWAN博林ヒロシ林亭佐久間順平大江田信)らを率い、「吉祥寺フォーク」の第一人者的存在に。

1971年の第3回全日本フォークジャンボリーでジャグ・バンド武蔵野タンポポ団を編成。吉祥寺派に加えて中川イサト山本コウタローが参加。また、シバいとうたかおが武蔵野タンポポ団により人気者に。そのときの模様は、『武蔵野タンポポ団の伝説』『もうひとつの伝説』としてベルウッドからリリース。

系図』では、タンポポ団を従えてレコーディング。いとうたかおの唄う「あしたはきっと」が収録され、それが好評で、いとうのアルバムデビューの布石となる。 1970年代半ば、カントリーブルーグラス色をより深める。

1973年薗田憲一薗田憲一とディキシーキングス)、柳田ヒロを従えた『』をリリース。

1976年細野晴臣中川イサトヴァン・ダイク・パークスらをバックに、『FISHIN' ON SUNDAY』をリリース。春一番コンサート、ホーボーズコンサートなどに参加。

1977年、佐久間順平らとヒルトップ・ストリングスバンド結成。フォーライフ・レコードから『バーボンストリート・ブルース』を発表。

1983年、『ねこのねごと』リリース。

1993年、『』リリース。

1999年、ライヴアルバム『ベストライブ』発表。

2001年、『日本に来た外国詩…。』リリース。

2004年、彼の日常のドキュメント映画『タカダワタル的』が発表され注目を集める。

2005年4月3日北海道白糠町でのライブの後に倒れて入院4月16日午前1時22分、入院先の北海道釧路市病院心不全により死去。56歳没。死の直前に病院でカトリックの洗礼を受け(洗礼名パウロ)、葬儀ミサはカトリック吉祥寺教会で執り行われた。

2008年、『タカダワタル的』に続くドキュメント映画『タカダワタル的ゼロ』が公開。

[編集] 作品

高田渡のレコード・CDはURC音源の販売権の移動により、同一の作品が時期により違ったレコード会社から発売されている(詳細はアングラレコードクラブを参照)。

[編集] 外部リンク